2008年02月12日

「teacher」とは

 私の同僚がこんなカードを見せてくれました。
 teacher がすることというのはこんなにいろいろあるのですね。


teacher 1.guide
 2.role model
 3.coach
 4.tutor
 5.mentor
 6.counselor
 7.instructor
 8.friend

 それぞれがどう違うのか、日本人には見分けがつきにくいところです。
 他にも、lecturer とか knowledge-giver とかありそうですね。
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2008年02月05日

かわいいゆきだるま


ゆきだるま 生徒がこんなかわいい雪だるまを作っていました。
 まだほかにもあったのですが、写真をとりはぐれました。

 こういうところで発揮される生徒の創造性が好きです。
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2008年01月13日

「学力」について

 最近の朝日新聞を読んでいたら、けっこう「学力」について書かれた記事が目についた。めぼしいものを拾ってみよう。

『「人間力」の育て方』堀田力さん 「著者に会いたい」「自分の力で生きる」を応援 朝日新聞1月6日)
「堀田さんの言う「人間力」とは「自分の頭で考え、自分で目標を実現できる力」のことだ。」
「高度成長期の社会なら、国をリードする一握りのエリートを育てる教育でよかったかもしれないが、今の日本のように少子化が進む成熟社会で、昔のような知識詰め込み教育は意味がなく、むしろ数少ない子どもたち一人一人の能力を引き出すことが教育に求められている。そのためには総合的学習の時間のような取り組みがもっと必要なのに」
「本書の巻末に掲載されている堀田さんの詩の一節を紹介したい。
 子どもたちが、自分の力で
 思いきり育っていくのを 手伝おう。
 邪魔をしないで 歪めないで
 彼らが 自分で考え 自分で感じ
 いろんな人を交わりながら
 学んでいくのを手伝おう
 私たちの未来のために
(集英社新書 714円)」


 私も同感である。「総合的な学習の時間」こそ「未来型学力の育成」に役立つ画期的な試みであると思う。

 ところでその「未来型学力」についてこんな文章があった。これも朝日の1月7日の社説である。

「日本が低迷を続ける国際学習到達度調査(PISA)は「未来型学力」のテストと呼ばれている。いま何を知っているかではなく将来何ができるかを測る―
 調査をしている経済協力開発機構(OECD)の事務総長は、日本にこんな警告を発した。「知識を再現する学習ばかり続けていると、労働市場に出たときに必要とされる力が身に付かない。」
「学力世界一といわれるフィンランド。福田誠治・都留文化大教授は、その教育の真髄を二つあげた。
 第一に、正解を先回りして教えない。
 理科の授業では、先ず実験だ。さまざまな現象を見させて、各自が仮説を立てる。自分とは違う意見にも耳を傾け、もう一度考えてみる。教師が理論を説明するのは一番最後だ。正解を先に教えるとその時点で思考が止まってしまう。
 次に他人と競わせないことだ。
 競争させると、順位に関心が向いて、考えることへの興味がそがれる。テストは各自がどこでつまずいているかを確認し、補うためのものだ。考える力がつくとともに学力格差が少ないのは、この二つの理念と実践が成果をあげているからだ。福田教授はそう指摘する。
 「競争をさせて順位をつけて、何かいいことがありますか」フィンランドセンターのヘイッキ・マキーバー所長は話す。「下の子はやる気をなくし、上の子は自分が優秀だと思いこむ。どちらの人生にとってもいい影響は与えないでしょう。」
「学力低下は、PISA調査で勉強への意欲が際だって低いことと分かちがたく結びついている。単なる知識の量で成績や入試の合否が決まってしまう、そんな貧しい教育の姿に学力危機の核心があるのではないだろうか。」
「社会に出たら、教室で習った公式では解けない問題ばかりである。正解がわからない問いと向き合う力をつけることこそが未来を拓く教育の役割であろう。」

 これもまったく同感である。作今の「学力低下論」のゆくすえと今度の学習指導要領の改訂がこの考えと逆行していることは明白である。

「教育とは学校で習ったことを全て忘れたあとに残るものをいう」アインシュタインの言葉だ。学校教育の「頼りがい」は常に問われてきた。教師は不本意だろうが、答の一つが教育産業の隆盛である。
(1月9日「天声人語」)


 この「天声人語」ではこのあと「杉並区の区立中学が、大手進学塾の講師を招いた夜間授業を計画した」というニュースに「まずはやってみなはれ」と述べ、「国の将来がかかる人づくりで、公と私とをことさら分断しても無益だ。官民の知恵を合わせ、教育現場にようやく顔を出した試行錯誤の芽である。どう伸びるか、全国がみている」と結んでいる。
 この「天声人語」が、アインシュタインを引用するところはいいのだが、その後の論旨は前の「社説」と異なった結論のような気がするのが気になるところだが……………。

 私は、学校の授業時間と学ぶ内容を増やし、教師がていねいに教えようとする「教育」が進めば進むほど、ほんとうの「学力」は低下すると思っている。堀田さんの言う「自分の頭で考える」力は、丁寧に教えれば教えるほど低下するというおおいなる逆説が成り立ってしまう。「教育」の量と「学力」は皮肉にも反比例するのである。
 教える側が懇切丁寧でわかりやすいプリントを作り、補習をし、予備校に通い、家庭教師をつけて、人から教わることが多くなればなるほど、「自分の頭で考える」学力は落ちるのが当たり前である。
 自分でノートを作り、わからないところは自分で考え自分で調べ、学習の方法を自分で考え、どうしてもわからないところだけを先生に質問する。そうであってこそ「自分の頭で考える」ことになる。
 その意味で「教育とは学校で習ったことを全て忘れたあとに残るものをいう」アインシュタインの述べていることはまったく正しい。
 ところで「学校で習ったことを全て忘れたあとに残るもの」とは何なのか? そこが問題である。その問題を据えなおして「教育の質」を考える必要がある。

 哲学者カントは「私から哲学を学ぶな。哲学することを学べ」と述べたことがその問題を解くヒントになるのではないか。教育とはまさに「学ぶことを学ぶ」助けをすることにほかならないとしたら、その「助け方」についてもっともっと考えなければならない。

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2007年11月23日

黒板消しの達人を目指して修行中

 学校での教員の仕事に掃除監督というのがある。本当は生徒たちが掃除を終わったときに、呼ばれて掃除が行き届いているかをチェックする仕事なのであるが、わたしは生徒と一緒に掃除をする。終礼がながびいて、掃除当番の生徒が来るのが遅くなると、一人で掃除を始めてしまう。時には生徒が来るころには掃除があらかた終わっていたりする。
 家ではあまり掃除をする時間がないので、掃除することは少ないのだが学校ではよく掃除をしている。掃除をするのが好きになったのである。

 中でも好きなのは、黒板拭きである。黒板拭きは学校中で一番うまいと自負している。もはや達人の域に達しているのではないかと思う。生徒からもときどきほめられる。
 わたしが担任をしていたクラスに、黒板拭きがやたら好きな生徒がいた。そしてめっぽううまかった。黒板拭きは本当はその日の日直の仕事なのだが、彼女は授業が終わると、かならず黒板をふく。そのためにその教室はいつも黒板がきれいだった。その教室に行くのが楽しみにしていた先生も多かったくらいである。彼女は黒板消しにいのちを懸けているといっていた。

 その生徒からも教わったのだが、黒板拭きのコツがいくつかある。
 まず、黒板クリーナーをきれいにして、黒板消しのチョークの粉をよく吸い取るようにしておき。こまめにクリーナーで黒板消しをきれいにしておくこと。これが第一である。
 つぎに、消すときは横一筋に消すこと。わたしの場合には右から左へ同じ方向に消す。帰りも消せば効率的でいいではないかと言われるが、なぜかそれではあまりきれいにならない。
 黒板消しは斜めにもち、辺に力を入れて消す。同方向に消していき、2回目は少し角度をたてる。これは図解して示さないとわかりにくいかもしれない。この方法だと粉が飛び散るということが少ない。

 黒板は乾燥している方が消しにくい。適度に湿気が必要である。
 一度ではきれいにならないときは、今度は上から下へ縦一筋に消していく。

 ともかくきれいな黒板はとても気持ちがいい。
 そしてそれをするほうも気持ちがいい。ちょっと工夫して丁寧にすればすぐにきれいになるので、精神衛生上もとてもよいように思える。何よりもその教室の生徒やその黒板を使う先生に喜ばれるところがとてもいい。
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2007年11月13日

「先生、おんなっぽ〜い」という生徒と先生の会話から

 今日放課後、廊下で生徒と先生の会話が聞こえてきました。

「先生、今日はおんなっぽ〜い」
「女の先生が女っぽくしていたらいけないわけ」

 どうやら、体育の女の先生と生徒とのやりとりです。体育の先生だから、いつもはジャージ姿ですし、どちらかというと男っぽいカッコしているあの先生のようです。

 壁を隔ててその会話を聞いてしまった社会科の男の先生と女の先生、それにわたしもこのやりとりを聞いていて、おもわず、その「おんなっぽい」カッコをしているその先生を見に部屋から廊下に出て行ってしまいました。
 そして、おもわず「お〜」と納得してしまいました。
 確かに生徒のいうとおり、どことなく「おんなっぽ〜い」スタイルです。それがよく似合っているんです。

 この先生と生徒のやりとりも、ここはやはり女子校だと思わせるものだし、またそれを聞いてわざわざ見に行く私たちもまた私たちなのかもしれません。

 そういえば、こんなこともありました。
 同僚の若い男の先生が、とつぜん白衣を着だしたのです。チョークの粉でスーツが汚れるからといっていますが、にあうの、にあわないのって、もう大変。授業にいくとそのことでもちきり。廊下ですれ違っても生徒たちの質問攻めにあって、ヘキエキぎみのようです。
 「すぐなれるよ」っていっていますが……………。

 まさに女子校だなって、思ってしまう毎日です。
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2007年09月19日

掃除当番をしながら考えたこと その2

 日本の学校では、一日の終わりに掃除をします。
 大掃除というのは、休みの前とか、学期の終わりとかにいたします。

 学校の始めにするのではないのですね。掃除はあくまでも、後かたづけの意味なのです。始める前に掃除をしてきれいになって学習を始めるものというのではないわけです。これって日本人のある精神性を表しているのかもしれません。

 何気ないことかもしれないけれど、これって面白い習慣だとおもうのです、でもちょっと不合理なような気さえします。
 夏休みの前にきれいに窓ふきをしても、休み中に汚れてしまうのは当然であまり意味がない無駄な行為ではないかと思うのです。それよりも夏休みがおわって新学期を始める前にする方が合理的です。

 「掃除文化」というべきものなのでしょう。
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掃除当番をしながら考えたこと その1

 日本の学校では、授業が終わると生徒と教員が一緒に教室などの掃除をします。外国の学校ではあまりこういうことを生徒にはさせないということを聞いたことがあるのですが、これは日本の学校教育システムの中ではなかなかよい習慣だと思っています。

 今日も掃除をしながらいろいろと考えていました。

 生徒は義務的におざなりにすることが多くて、生徒にまかせてしまうとなかなかきれいになりません。ちょっと監視を怠るとおざなりに形式的にするだけなのです。
 生徒が掃除をするのは、義務だから、しないと先生に怒られるから、ざっとしたらいいのだと思っているフシがあります。
 教室をきれいにしたいからするというのではないのです。そこが悲しいところです。教室や黒板をきれいにするのはとても気持ちいいことなのに、それがわかっていないというか、そんなことどうでもいいと思っているのか、彼らにとってともかくやりさえすればいいのでしょう。

 考えてみたら、勉強するのも同じことが言えるかもしれません。義務だからする、しないと親に怒られるからする、試験でいい成績を取りたいからする、いい大学に入りたいからする……………。
 なぜ勉強するのかと聞くと、学ぶことが面白いからするとか、知的好奇心からするとか、学ぶこと自体の内在的モチベーションが希薄で、外在的なモチベーションばかりが聞かれます。

 日本語で学ぶことを「勉強する」といいます。中国人にいわせると、勉強という言葉は「無理にやらせる」というニュアンスが強いようです。
 わたしは学校ではこの「勉強」ということばは使いたくない言葉です。むしろ「学び」とか「学習」という言葉をできるだけ使いたいと思っています。
 確かに日本人がこれまでしてきたことは、学習とか学びとかいいにくいですね。「勉強」としかいいようのないことだったのでしょう。
 内在的モチベーションに基づく学習は少なくなってきているようです。
 ここに「学力低下」の根本的な原因が潜んでいるような気さえします。

 教室の掃除をするのは、教室をきれいにすることが気持ちがいいことだから、教室をきれいにしたいからするのであり、学習するのは、学ぶことが面白いことだからするというそれ自身が持つ喜びにつながるような動機付けを強化していく、そういう教育のあり方をもっと追求する必要があるのではないかと思います。

 
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2007年08月21日

ラジオ体操は日本人であることのあかし

 ラジオ体操は、夏休みの思い出と切っても切れない関係にある。小学生だったころ、弟や妹を連れて近所のひろばに行って、毎朝6時半のラジオ体操の音楽に合わせてラジオ体操をした思い出が多くの人にあるだろう。
 出席のはんこうを押してもらうカードを首からぶら下げていったものだ。
 皆勤だと何かご褒美がもらえた。田舎に行ってもラジオ体操があったので、そこではんこうをもらえたが、なかなか皆勤というのは難しかった。

 藤山一郎の歌に「ラジオ体操の歌」というのがあった。確か2曲あったと思う。それを大声で歌った思い出もある。
 一曲は「新しい朝が来た、希望の朝が…………」という歌だった。
 もう一曲あったと思うが思い出せない。

 マニラでキリスト教の国際会議があったときに、日本人代表団は参加者にラジオ体操を指導した。この体操を日本人はみんな知っていると言ったらおどろかれた。
 中南米で日系人であることを証明するために、ラジオ体操をしたら、ビザが出されたという話しを聞いたこともある。
 それくらい、これは日本人であることのアイデンティティともなっているのである。

 そういえば、英語版のラジオ体操というのも私の iPod に入っている。あるときの「日曜喫茶室」で紹介されたもので、チャック・ウィルソンが英語で音頭をとっていた。これもなかなかめずらしい。
 今度また国際会議をするときには、これをつかってみようと思っている。

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2007年06月28日

「洒々落々」「天空海闊」自分を紹介する四字熟語から

 この二つの四字熟語を知っていますか?
 私は知りませんでした。

 実はこの二つの四字熟語は、高一の生徒に「自分を紹介する四字熟語を書きなさい。」という課題を出したところ、生徒が出してきた中にあったものです。しかもいずれも複数の生徒があげていたのです。

 この課題は昨年も生徒に書いてもらったので、それは以前紹介しました。 「洒々落々」はその中にもあったような気がします。

 ただし、生徒が書いてきたものは「酒酒落落」でした。

 さっそくそれを漢文氏のところに持っていって「最近漢文の授業でこの四字熟語を教えたか?」と聞いてみました。すると彼は、授業では教えていないはずだといい、「酒酒落落」はまちがえで正しくは「洒々落々」と書くといい、さらに「天空海闊」は知らない熟語だといって国語大辞典をもってきて調べ出しました。

 「洒々落々」は「物事に対して執着がなく、性質・言動などがさっぱりとしている様子。」とあります。これは漢語のようです。「洒落」の字を重ねたものですが、「お洒落」とは意味を異にするが、語源は同じところではないかと説明してくれました。生徒はなかなかなかなかしゃれた字を知っているではないかと感心していました。

 もうひとつの「天空海闊」は、辞書によると「天のように遮るものがなく、海のように広い」「気持ちがおおらかであることのたとえ」という意味のようです。国語大辞典を見ていた漢文氏はこの四字熟語は、明治期に作られたもので漢語ではないようだといいます。この言葉は夏目漱石の「我が輩は猫である」に使用例があると紹介されていました。

 この四字熟語はいずれも複数の生徒があげているところをみると、これには出典がありそうです。中高性が好んで読むコミックや小説か、あるいは歌のセリフの中にあるのではないかと推測されます。
 これを書いた生徒に聞けばすぐにわかることなので、今度聞いてみることにしようということになりました。

 
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2007年06月20日

日本ミツバチの巣を駆除してしまったことに痛恨の念

 今日の昼休み昼食時に、ものしり生物氏から教えられた話し−その1− です。どういういきさつからか1年以上前のことが話題になりました。この話を聞いて、その時には別に疑問にも思わなかった自分を少し恥じ入り、そして共感の思いを呼び覚まされました。

 昨年のいつごろだったか、学校の石垣の隙間に「日本ミツバチ」が巣を作っていました。
 そうしたら、学校放送で「石垣にハチの巣があるので、近寄らないように」という放送が入りました。
 その放送だけだったらよかったのですが、そのハチの巣には殺虫剤がまかれ、その石垣の隙間は埋められてしまいました。ハチは駆除されてしまったのです。

 その生物氏は、それを聞いてたいへん悲しかったそうです。
 石垣に巣を作ったのは日本ミツバチで、じつは近年セイヨウミツバチにおされ、絶滅危惧種にあげられているとのことです。それがせっかく、安住の地として学校の石垣に巣を作ったのに、それを殺虫剤で駆除してしまうとは。確かに人を刺すことはあるかもしれません。でも、それは人が攻撃的に悪さをするときなのです。そっとしておけば、ミツバチは人を刺すことはしないはずだというのです。


ミツバチ 生物でいのちの大切さや「種の絶滅の危機」を教えているのに、それに反することを学校がしてしまったことが悲しくてしょうがないといっていました。
 こういう生物氏のやさしさと自然愛護の気持ちが好きです。

 そういえば、私はこのハチの巣を写真に撮っていたはずだと、7700枚以上の iPhoto の中から見つけ出しました。残念ながらハチの姿はうつっていないのですが、何となく雰囲気は伝わるでしょう。
 あしたその写真をかの生物氏に見せてあげよう。少しは慰めになるでしょうか。 
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2007年06月18日

教室に冷房のない学校

 最近、中学を受験しようとする保護者達の学校見学の案内をよくする。
 これから暑くなると、見学に来た受験生の保護者のかたがたは、うちの学校の普通教室と教員の研修室に冷房がないことに気づかれておどろかれる。
 周辺の特別教室にはほとんど空調設備があるのだが、もっともよく使われる普通教室と教員研修室には冷房がないのである。

 その理由は案内をするとよくわかる。自然のいい風が入ってくるのである。しかし、風の強い日と風のない夏の暑い日は………生徒も教員も汗だくになって授業をする。
 私は汗かきだが、夏はこういうものだと思っているので、さほどつらくはない。それに冷房の効いた部屋にいると、その晩に飲むビールがおいしくない。
 しかし、冷房慣れしている生徒たちはそうはいかない。

 いまどき、このあたりの私学で教室に冷房のない学校は、うちと隣の男子校くらいらしい。
 その隣の男子校の校長先生が、学校見学に来た受験生の保護者に冷房のない理由を聞かれて、こう応えられたのだそうである。
「お子さんが将来冷房のない南の国にいったときにそこでの生活に耐えられるように育てたくはありませんか?」
 そういえば思い出した。わたしはその男子校が横須賀にあったときの卒業生だが、そのときは冬の暖房も入っていなかった。あれは寒い北の国の生活に耐えられるようにあえてそうしたのだったのか。

 この信念をどこまで貫くことができるだろうか。生徒と保護者とそして一部教員達の欲求に近いうちに押し切られそうな気配がしないでもない。

 まもなく夏を迎える。今年の夏は猛暑になりそうだという。
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2007年04月24日

「宗研」ポスターをつくりました


宗研1 私の学校では、毎週水曜日に「宗教研究」の時間があります。朝8時から8時40分の授業が始まる前に、朝礼を免除されて、この集いに出ることができます。
 おもに、聖書を読んだり、キリスト教について学ぶ機会で、もっともこの学校らしい時間ということができるでしょう。

 ところがこの集いへの参加者がこのところ減少気味で、なんとかこれに歯止めをかけなければいけないといくつかの試みをしています。

宗研2 そのひとつとして、私は宗研への参加を呼びかけるポスターをつくりました。いつも持ち歩いているデジカメで撮影した画像とメッセージを組み合わせて、ポスターにしてみました。

 ちょっとメッセージ性をもった画像と、福音的な短いコピーを添えてつくってみました。
 これを作りながら、案外自分にはコピーライターのセンスがあるのではないかと秘やかに再確認したりして………。

 全部で10枚つくりました。これを学年の掲示板や目につくところに掲示しておきました。

宗研ポスター3 それによって、参加申し込みをした人が増えたかどうかはまだわからないのですが、一定程度の反響があったようです。特に職員の先生たちから励ましのメッセージをいただきました。

 「宗研」の参加者勧誘のためだけでなく、いろいろな画像とメッセージを組み合わせてこれからもことあるごとにこういうポスターをつくっていくことにしよう。
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2007年04月20日

校庭を埋め尽くす関東タンポポ


関東タンポポ 学校のグランドが黄色に輝いている。中学1年生がこのグランドに喜々として飛び回っている光景が見られた。彼女たちは種の部分をちぎって、息を吹きかけて種をとばして遊んでいた。
 この黄色は関東タンポポの花の黄色であると生物の先生が教えてくれた。
 なんでもグランドの外側は、西洋タンポポなのであるが、フィールドの中の群落は関東タンポポであるらしい。その見分け方も教えてくれた。

 西洋タンポポのほうが生命力が旺盛のようで、関東タンポポはだんだんと姿を消してしまうのが普通なのだが、このグランドはまだ関東タンポポの世界であるという。
 関東タンポポのほうがやさしい黄色だとその生物の先生は述べていた。

 ところが学校はまもなく文化祭である。いつもだと文化祭の前に校庭の草むしりがあって、芝刈り機が関東タンポポを全部刈ってしまうことになっているが、今年はどうであろうか。
 芝刈り機できれいに刈ってしまうから、西洋タンポポがつけいる隙がないという説もあるのだが……………。
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裏門の鍵を開けるときのささやかな楽しみ


セコムボックス 私は駅から学校までを歩いて通っているが、学校に入るには裏門の鍵を開けなければならない。裏門の鍵はセコムが管理している。この裏門を通って通学している生徒たちは皆このキーを学校から与えられているのである。
 鍵を開けるには、このボックスを開けてそこにキーを差し込むことになっているのだが、最近キーを差し込むというこのささやかな行為が楽しみになっている。

 というのは誰かがこのボックスにこんな人形が置いたからである。置いたのが誰であるかはわからない。ある日、このボックスを開けたらおいてあった。
 おそらく裏門を毎日使用している生徒の誰かであろう。

 この人形があるということもさりながら、こういうことをする生徒がいるということがとてもうれしいのである。
 私も今度別な何かを置いてみることにしよう。このボックスが人形でいっぱいになるかもしれない………。

 そういえばこんな話しを思い出した。
 パリのルーブル美術館の一角に、誰かが自分の絵を人知れずに展示したという。
 ルーブル美術館の絵を盗むとそれは重大な犯罪となるが、黙って自分の作品を展示するのは犯罪になるのであろうか?
 きっとその人は、美術館に絵を見に来た人が、展示した自分の絵を鑑賞しているのを近くで見ていて、悦に入っていたのではないか。
 すぐに撤去されてしまったらしいが、これは最高の「冗談」のうちであろう。

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2007年01月25日

「シークレット・フレンド」のエクササイズ

 「シークレット・フレンドのエクササイズ」というのは学校の授業やホームルームでやってみるといいかもしれません。私も来年どこかでやってみようと思います。対象は中学生かな。

 クラス全員の出席番号が書かれたくじを用意し、ひとり1枚ずつひいてもらう。ひいた番号の人があなたの「シークレット・フレンド」というわけである。次の授業までの期間、相手に自分がそれであることを気づかれないように、その人のためにその人が喜ぶことを行い、次の授業の時に自分のシークレット・フレンドが誰であるかを明かす。「相手のことを考えて具体的な方法で」「試行錯誤しながら」「実際に行動する」ことをめざす。
 あまりにわざとらしくてすぐにばれてしまったり、結局何もできなかったということも少なくないが、けっこう友達作りのきっかけになるであろう。

 これはカトリック校の宗教教育交流誌「そよかぜ」に紹介されていた「友達作りのエクササイズ」である。
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2007年01月20日

マシュマロ・テスト

 マシュマロ・テストというのがある。
 このテストは1960年代に米スタンフォード大でアメリカの心理学者ミッシェルによって行われた。「EQ−こころの知能指数」(ダニエル・ゴールマン著、土屋京子訳、講談社)という本に紹介されている。

 子どもを個室に呼んで、実験者がマシュマロを1つみせてこう言う。 「ちょっと用事を済ませてくるまで待っててくれたらマシュマロを2つあげる。待てなかったら、今すぐ食べていい。でもこの1つだけだよ」
 こう言われた子どもたちを別室で観察している。子どもたちはちらちらとそのマシュマロを見ながら、心の中で葛藤している。我慢するか、それともすぐに食べてしまうか。歌をうたったり、そわそわしたり、独り言を言ったりして、何とかその欲望を我慢しようとするけなげさがかわいい。

 このテストがすごい所は、この結果を10年以上たった時に追跡調査をしている所である。
 マシュマロ2つのため我慢できた子どもたちは、青年になった時、高い社会性が身について対人能力に優れ、人生の難局に適切に対処できる力がついていた。 一方、誘惑に負けてしまった子どもたちは、頑固で挫折しやすい傾向があった。試験の成績も差がついた。

 マシュマロテストで子どもの未来を推測できるということだ。 「社会的な成功や失敗を予測するには知能指数(IQ)や学力テストで 測られる”能力”よりむしろ”性格”という言葉で表されるような心の性質が重要」ということである。「4つ子の魂百までも」ということか。
 このテスト結果は、自制心や我慢することの能力はずっと変わらないということを説明しているのだが、はたしてそうなのかどうか。
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2007年01月19日

人と人とはこのように情報に操作されやすい

 人間関係の好き嫌いは、簡単にぐらついてしまうというちょっとおそろしいような例である。「情報」の授業でこの話を紹介する時にはくれぐれもこのことは試さないようにと注意を促す。

 それほど親密でないむしろ冷たいそぶりをしているA子さんとB男くんに、別々にこんな情報を耳打ちする。
 まずA子さんに「B男はふだんはちょっとつれないけれど、ホントはA子のことを好きだっていっていたよ」
 次に今度はB男くんに「A子はいつもはちょっとあなたに冷たいけれど、ホントはあなたのことを好きなんだって」
 この二つの情報を別々に耳打ちされた二人は、急速に接近していってラブラブになったことはいうまでもない。

 まったく逆のことも言える。とても仲がいい二人の関係を引き裂くこともそんなに難しいことではない。
 別々に、B男くんには「A子はかげでB男のこんな悪口を言っていた」といい、A子さんには「B男はかげでA子のこんな悪口を言っていた」と言えばいい。

 いずれも、ひとりの人が言っただけでは効果が薄いとしたら、別な人が同じように耳打ちすればもっと効果てきめんである。

 こんな話もある。ある人は、ホントがとても元気なんだけれど、学校に行った時に友だちから「あなた、どこか具合が悪いんじゃない。顔色が悪いわよ」といわれる。「べつにどこもわるくないよ」というだろう。けれど、それを続けて別な人からも言われる。そうすると鏡を見に行くはずである。さらにまた別な人から言われると、最初は元気だったその人も3人目くらいから具合が悪くなり、4人目でついに保健室行きになる。

 ことほどさように人は情報に操作されやすいということを示している話しである。最初に言ったようにくれぐれもこれは実験してみようなんて思わないように、お願いしたい。

 自分で言うのも何だが、私はめったにその人のいない所でその人の悪口を言わない。人から誰かの悪口を聞いても、逆にそれを否定したり、悪口を言われている人を弁護したりすることも多い。人の悪口にはほとんど同調しないのである。特にお酒が入ると、やたらにほめ出すから始末が悪いというか。
 そういうことを繰り返していると、ひとのうわさ話が入ってこなくなる。ある人が皆からどう思われているかという情報が入ってこなくなるというのは考えものなのかもしれない。
 私の母が人の悪口を言わない人だったので、知らず知らずのうちにそういう態度が身に付いてしまったようである。
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2007年01月12日

「コラムを書く」というゼミ

 私の学校では、高1に「ゼミ」という時間がある。
 これは前にも書いたことがあるが、教員が思い思いのテーマで自由にゼミを開講して、参加する生徒をつのってもたれる授業である。今は「総合的学習の時間」となっている。もっともこのゼミは「総合的学習の時間」が設けられる前から本校では行われてきた。まもなく設置20周年を迎える。
 去年は「飛行物体の研究」というゼミを開設しようとしたのだが、生徒が5人以上集まらずに不成立であった。

 飛行物体ゼミは過去3回成立している。その前には「インターネットで情報発信」というゼミを行ったこともあるし、「パソコンをつかった創作の時間」というゼミを開設したこともある。
 それ以外に、「コラムを書く」というゼミも開設した。毎回のゼミの時間に1000字程度の作文を書くというものである。1年に30回弱のゼミがあるので、30点のコラムが出来上がる。
 最後にそれらを個人別に集めて、1冊の本に製本して生徒に返すというサービスを行った。製本工だったときに身につけた技術がやくだっている。

 
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2007年01月11日

日本は「子供の楽園」だった

 元旦の産経新聞の社説「年頭の主張」にこんなことが書かれていた。「凛とした日本人忘れまい 〜家族の絆の大切さ再認識を」という見出しのいかにも産経らしい社説であるが……………。

 日本は「子供の楽園」

 かつて日本は「子供の楽園」と表現された。最初にそう表現したのは江戸末期に来日した英国の外交官オルコックだった。以来欧米人たちはこの表現を愛用してきたと「逝きし世の面影」(渡辺京二氏著9が紹介している。
 「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない」(大森貝塚の発見者モース)
 「日本の子供はけっしておびえから嘘を言ったり、誤ちを隠したりしません。青天白日のごとく、嬉しいことも悲しいことも隠さずに父や母に話し、一緒に喜んだり癒してもらったりするのです」(英国公使婦人のフレイザー)
 決して大昔のことではないこれらの目撃談に、まさに「逝きし世」と隔世の感を覚えるほかないだろう。愛らしく、その上礼節も備えた子供たちは一体どこに消えたのだろうと問う渡辺氏は、続けてこう書いている。
「しかしこの子たちを心からかわいがり、この子たちをそのように育てた親たちがどこへ消えたのかと問うことと同じだ。………この国の家庭生活がどこへ消えたのかと問うこととひとしい。
 子供ではない。問題は親、大人たちなのである。子は親の鏡である。

 これらの欧米人たちは、日本の子供たちのどういう所をみて、こう述べたのであろうか。そこを聞いてみたくなる。
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2006年12月26日

私が東洋先生を尊敬するわけ

 私が大学時代に出会った先生のなかでもっとも尊敬している先生が東洋先生である。先生は教育学部で「学習心理学」を担当されていた。その学習心理学の講義もなかなか面白かったのだが、なぜか眠くて「学習心理学」ならもっと眠くならない講義をできないものかと思ったくらいである。
 私が東洋先生を尊敬するのは、講義の中味よりも、先生の生き方そのものであった。

 あのころ、大学は紛争の最中で、敵対する二つの党派が激しい争いをしていた。大学のなかではしばしばリンチみたいな暴力事件があり、私も何度かそれに巻き込まれた。
 そのときに、私を救ってくれたのが東洋先生であった。先生は、いずれの党派であっても、学生が集団にかこまれてリンチにあっているときは身を挺して、その学生を救い出してきた。私は2度彼に救われたが、先生に救出された学生はかなり多いはずである。

 もうひとつ、私が彼を尊敬する理由がある。
 彼が、大学の入試委員長であったときに、かれは「入試改革」を提案した。その提案はなんと「東大の入学選抜を抽籤にすべきである」という大胆なものであった。東大の大学入試委員長がした提案である。
 もちろん、この提案は、多くの反対にあい、実現できなかったことは想像するに難くない。
 しかし、このことは当時大きな波紋を呼んだ。たしか朝日新聞の天声人語にも紹介されたことを記憶している。(いつの天声人語だったか忘れた。今度調べてみようとおもっているが……………。)
 たぶんこれは私が卒業したあとのことであったと思う。

 東洋先生は、私と同じくカトリック信徒であった。先生の誠実な「生き方」と信念はまさにその信仰のもたらすものであっただろう。 
 その後、私は何度か先生と再会している。そのうちの1回は、カトリック教育学会の大会の時であった。
 いま、彼は私のつとめている学校と同じ学校法人が経営している長野の大学の学長を務められているので、お会いするチャンスが多くなった。
 これも一つの縁(=出会いの神秘)なのかもしれないと思っている。

 


 
 
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