2006年06月22日

箱根の山は天下の険

 昨日の昼休みの食事時の話題は「箱根八里」でした。

 私の学校では理科の野外実習で高校1年生は箱根に行きます。このときに理科の先生はバスの中で「箱根八里」の歌を講釈するのが慣例となっています。
 あの滝廉太郎の曲で、作詞は鳥居忱(まこと)という人だそうです。そういえば私たちはあの歌をほとんど意味も分からずに歌っていました。話しに参加していた教員たちは、みなでその歌の詩を思い出します。国語の先生が解釈してくれました。

箱根の山は天下の険
函谷関も  ものならず
万丈の山  千仭の谷
前に聳え  後方に支う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼なお暗き  杉の並木
羊腸の小径は  苔なめらか
一夫 関にあたるや 万夫も開くなし
天下に旅する 剛毅のもののふ
大刀腰に  足駄がけ  
八里の岩根  ふみならす
かくこそありしか  往時のもののふ

箱根の山は天下の岨
蜀の桟道  数ならず
万丈の山  千仭の谷
前に聳え  後方に支う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼なお暗き  杉の並木
羊腸の小径は  苔なめらか
一夫 関にあたるや 万夫も開くなし
山野に狩する 剛毅のますらお
猟銃肩に  草鞋がけ  
八里の岩根  ふみやぶる
かくこそあるなれ  往時のますらお


 みんなで記憶をたぐり寄せて、やっと2番まで思い出すことができました。
 こうやって文章にすれば、ああそういう意味なのかと分かるところもあるのですが、ほとんどは意味も分からずに歌っていました。
 ただ問題は、この歌を知っている生徒が、年々とても少なくなっているとのことです。
 国語の先生は、「かくこそありしか」「かくこそあるなれ」という文句から「こその係り結び」を教えるのですが、知っている生徒が少なくなってこれも通じなくなっているとか。
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2006年05月25日

四字熟語で自己紹介

高1の生徒に「四字熟語」で自己紹介をしてみなさいと書いてもらった。以下のような傑作がありました。

七転六起 起きる方が少ない
自分不知 自分でも自分がよくわからない
絶対短命 生命線が短い
即興即飽 すぐに興味を持ってすぐに飽きる
多種面相 冷静さがあったり、騒いだりいろいろな面を持っている
断崖絶壁 常に崖っぷちの日々を送っている
三日少女 三日坊主の女です。
笑始笑終 笑って始まって笑って終わる人生がいいな
我裏表有 人によって態度を変えたりいっていることと正反対のことを思っていたりする
帰宅即寝 最近疲れていて帰ったらすぐ寝ます
世間金丈 金さえ有れば世の中やっていける
晴読雨走 晴れの日に本を読み、雨の日に運動をする。
誕生白日    ホワイトデーが誕生日
読時東風 馬耳東風より本を読んでいると人に話しかけられても気づかない
馬鹿丸出 そのままです

まだまだありますが、このくらいで……………。
ちなみに私は

歩続廿年    学校と駅の間を歩き続けて二〇年です。

というのを書きました。
意外とよくその人となりが現れるのですね。
おもしろかったです。

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2006年05月24日

昼休みの話し その2 うちの図書館

 今日の昼休みの話し。

 今日、学校で塾の先生対象の「学校見学会」があった。
 私は、広報担当なので、その先生方に校内を案内した。授業中の教室の廊下の窓をそってあけて、「どうぞ授業の中味をご覧ください」と案内する。
 先生たちは、それがあることを知っているので、別に驚かないのだが、生徒たちはいきなり窓がすっと開くので、みんなびっくりする。なかには突っ伏して寝ていたのが、がばっと顔を上げるものもいる。生徒たちには予告をしていない。
 もっとも先生の中には、余談中であったのが、急に話が変わったりする例もあるのだそうだ。

 図書館を案内したときには、司書の先生に図書館について説明をしてもらった。「生徒たちの活字離れ・本離れを食い止めるためにどういう工夫をされていますか」ということをこちらから質問して、説明してもらうように促した。
 ひとりの司書の先生はこう説明された。
「本好きの図書館常連の生徒たちにオススメ本を紹介してもらうコーナーをよく設けます。推薦する生徒の推薦理由をつけて。それから『本との運命の出会い箱』というのがあって、そこからくじみたいに一枚の紙をひくと、そこに本の名前が書いてあって読まなければいけないようになっています」
 もうひとりの司書の先生はこう言われた。
「本好きの生徒が、あまり本を読まない生徒を図書館に誘ってくるようにけしかけます。こんな面白い本があるよ、てなぐあいに。」

 なるほど、生徒に生徒を誘うようにし向けているわけである。なかなか賢い。こういう説明をできるところが、やはりうちの学校の自慢である。塾の先生たちも感心して聞いておられたようである。

 昼休みの食事中にこの話が出てきたので、「この話しを今日のブログネタにしよう。」といったら、社会科の若い教員が「それはダメです。企業秘密です」と言下に否定されてしまった。
 でも、今こうして書いているので、「企業秘密」をばらしている私である。
  
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昼休みの話し その1 周公旦

 うちの学校の昼休みは、先生たちがある部屋に集まって昼食を取る。これは、なかなかいい習慣だと思っている。
 でもなぜか、男子と女子は席が別れてしまい、なかなか一緒にはならない。生徒もこれを不思議がる。
 女子校なので、せめて飯どきくらいは男同士で食べたいという男子教員の望みからこうなっているのか? 

 ところで、ここで結構面白い話が出る。
 昨日はこんな話が出た。

 理科のある男子教員は、よく食事中に生徒から呼び出される。だからお弁当が食べかけのことが多い。時々、食事中であることを忘れて、お弁当がそのままで授業になってしまうこともあり、放課後になって「あ、食事がまだ途中だった」と食い改めている。
 私にもそのケがあるが……………。

 国語の漢文の教員がそれを評してこんなことを言った。
 中国の周の時代の名宰相であった周公旦は、やはりしばしば食事中に呼び出されたのだそうである。周公旦は「今食事中だから」と家来を待たせることがなかったのだそうである。さながらその理科の教員は「うちの学校の周公旦ですね」と。
 ちなみに周公旦は、孔子が理想の宰相として敬愛してやまなかった人物である。

 なかなか格調の高い話しをしていると感心するのである。
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2006年05月16日

購買部のカラーペンの試し書きの用紙

 私が、最初のホームページに公開した学級日誌の中に、けっこう写真が入っています。
 これは当時最初のデジタルカメラとして発売されたカシオの QV10 で撮影したものです。この時以降、デジタルカメラをカバンの中に持ち歩く習慣が身に付きました。
 今のデジタルカメラは4代目です。
 初代は CASIO の QV10(これは写真のフォーマットをjpg にするのとパソコンに取り込むのが面倒でした。36万画素です)
 2代目は VICTOR の GC-S1(これは10倍ズームでした。でもすぐに電池の消耗が激しくなって使うのをやめてしまいました。36万画素)
 3代目は SONY の Cybershot DSC-P3 これは現在でも使っています。もう5年近くなるのではないかな。280万画素です。
 4代目は Nikon の Coolpix2100 200万画素です。これは接写に比較的強いので使っています。


rakugaki ところで「クラス日誌」のあるページに左のような写真を貼り付けておきました。これなんだか分かりますか。
 これを見た友人から、あの写真はクラス日誌一の傑作であるとおほめの言葉をいただきました。こんなものが載っていると発見したときは嬉しかったということだそうです。

 これは実は購買部にあったカラーペンの試し書き用の紙です。けっこうカラフルでなかなか面白いのですね。落書きふうの文字が入っていたり、こういうペンの試し書きの時になにを書きますか?


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2006年05月14日

「インターネット100校プロジェクト」に応募した頃

 前にも書いたが、私の学校では1993年に Macintosh の LC520 というパソコンが導入されてコンピューター教室ができ、情報教育が始まった。Mac ユーザーが誰もいなかったにもかかわらず、Mac を導入するという「無謀なる決断」を行ったが、結果的にそれはあやまりではなかったと思う。
 それに引き続き、「無謀なる決断」の第2弾がある。


100pro それは、1994年8月25日の新聞記事から始まった。その新聞記事は「インターネットで教室から世界へ」と題した「インターネット100校プロジェクト」のプロジェクト校募集の記事であった。この記事を読んで胸のときめきを感じたのである。
 さっそくこの記事を切り抜き、夏休みの明けるのを待った。このときほど早く学期が始まらないかと待ちこがれたことはない。夏休みがあけた9月1日に同僚の教員たちに「これに応募してみないか」と持ちかけてみた。するとその同僚は「私もそれを考えていたところだ」と意気投合したのである。
 その同僚とは、その時の研究部長と前研究部長であった。ただちに情報教育委員会が招集され、検討された。委員会では「そんな大それたことは、うちの技術ではとうていできないのではないか。もし引き受けてなにもできなかったらどうするんだ。インターネットのなんたるかを誰も知らないではないか」という意見も出されたが、「やってみよう」ということになり、募集要項を取り寄せて応募することとなった。
 無鉄砲というか大胆というか、無謀というか……………。

 しかし、まったく幸運なことに応募した1000校以上の中から「100校」に選ばれたのである。どうして選ばれたのかは未だもってなぞである。

 こうして1995年には回戦がひかれ、機器が設置され、インターネットに繋がり、夏には学校ホームページが開設された。
 当初の不安と危惧は、NTTの技術者とボランティアの大学生・大学院生のサポートによって解消された。この方たちのサポートがなかったらとうていできなかったことである。
 インターネットが教育現場に入り込んでいく草創の時代を生徒とともに経験できたということは、私の二十余年の教員生活の中でももっとも胸のときめきを感じた面白い時であり、時代の最先端をいっているんだという自負をもった時であった。

 知識も技術も能力も全くなかった私たちが、それでもいちおうホームページの開設までこぎ着けたことは、旺盛なる好奇心とインターネットがこれからきりひらく未知の世界への冒険心の産物であったといえよう。
 今ふり返っても、よくぞここまでできたものだと感心するのである。こういう経験はこの時代に生きたものでなければ経験できなかったものであった。今思い出してもあの時の胸のときめきがよみがえってくるのである。

 その「100校プロジェクト」でなにを行ったのか、また改めて書くことにしようと思う。

 
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2006年05月02日

文化祭の大デコレーション

この28日と29日に私の学校で文化祭がありました。
今年の統一テーマ(スローガン)は「The United Colors」でした。
「調和の取れた色」という意味なのでしょうか。
いろいろと紹介するものがたくさんあるのですが、私がいつも楽しみにしているのは「装飾(大デコレーション)」です。


風車今年はスローガンを大書した大垂れ幕がなかったのは残念でしたが、かわりに写真のような「大風車」がありました。
中庭の端から端まで50センチ位の風車が1本に50機くらい取り付けられていて、それが全部で3本もありました。

風が吹いて回り出すとなかなか壮大な感じです。
実行委員の装飾担当を中心にみなで造り上げたものです。
こういうようにみなで力を合わせて造り上げていくというところが文化祭の醍醐味ですね。
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2006年04月01日

中3「論文」傑作集 その2

 私たちは「推薦論文」を決めるときに「中学3年生らしさ」というのを大事にする。中学生だからできること、思いつくこと、中学生にしかできないことというのがけっこうあるのである。
 そんな中から、いくつかを紹介しよう。

 「つちふまずの研究」というのがあった。この「論文」は足の裏に墨を付けてつくった足形がたくさん紹介されていた。「歩けば歩くほどつちふまずが現れる」というのを実際に自分の足で検証してみた結果である。夏休み中に、まったく歩かないときの足形、1キロ歩いた後の足形、5キロ歩いた後の足形をとり、それを夏休み中定期的に行ったというのである。その結果「つちふまず」が表れるという仮説が証明されたのである。
 自分の足に墨を付けてその足形をとっているところを想像してみるとおかしい。大人にはこういうことはしないし、できないだろうと思われるのである。

 「捨てられた空き缶の研究」というのがあった。鎌倉の「段葛」など市内のいくつかのポイントを決め、そこに捨てられた空き缶を拾いながら、空き缶の個数や、空き缶に記載されている製造年月日や種類、メーカーなどを調べて、どういうところにどのくらいの空き缶が捨てられているかを統計を取る。
 そのデータを持って役所を訪れ、そのポイントの空き缶の回収がどのくらいの頻度で行われているかを調べる。
 驚いたのは役所の人たち、そんなことをしらべていることにとても感心し、ついにはその研究結果は役所のホールで発表されたりもした。

 「睡眠と夢の研究」は定番もののテーマである。自分の「夢日記」をつけたり、「見たい夢を見るにはどうしたらいいか」を実際にいろいろな方法を試しながら、ついには見ることができたという報告もあった。
 その中でも傑作は、一晩中ビデオで自分の寝姿を映し、寝返りをいつ何回したとか寝言をいついったとか、いうことを記録し、自分の睡眠のパターンを研究したものである。こんなことをしちたらとても寝付けないのではないかと思ったりするのだが……………。それをやってのけるのが中学3年生である。

 朝顔の研究は、自由研究の中でもよく行われる定番中の定番であるのだが、この生徒は鉢に植えた朝顔を15分おきにデジタルカメラに撮影した。朝顔は巻き付くところを探すために首振り回転をしているが、それが90分で一周するというのを発見している。
 さらに彼女は、その朝顔の鉢をろくろの上に置き、鉢を回転させたらそれでも支柱に巻き付くのかを試してみた。朝顔にとってはいい迷惑であったに違いない。

 学校の生徒達の氏名を同窓会名簿や在校生名簿からパソコンに登録し、苗字や名前と学年のデータベースを作成した。それでなにが判るのか、女の子の名前の移り変わりである。
 10年前に行った研究では「ゆうこ」が一番多く、ついで「ゆきこ」「ともこ」などが続いた。また「子」で終わる名前の割合が年々減少していることもわかった。
 今はかなり変わってきているに違いない。
 これなどはまったくデータベースの発想である。

 まだまだあげていけばきりがないが、ひとまず今日はここまでにしておこう。
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2006年03月31日

中3「論文」という課題 その1


論文展示 私の学校では中学3年生に「論文」という課題がある。ほぼ1年かけての「自由研究」である。生徒達はめいめい思い思いのテーマを見つけ、それに指導の教員をつけて、「論文」を作成する。

 私がこの学校にきたときにはすでに行われていたから、20年以上の蓄積がある。学校の最初のホームページにはその「題目一覧」が掲載されていたし、また何年かは「論文要旨集」をデータベースにして登録し、ホームページから閲覧できたのだが、今はそれがないのがとても残念である。

 以前は原稿用紙に手書きして手作りで製本していたが、現在は生徒達の9割以上がワープロで仕上げて、クリアファイルみたいなものに入れて仕上げてくる。いわばデジタル化されているので、これを蓄積していったら、中学3年生による「百科事典」ができたのにと思うとまたまた残念でしょうがない。

 なかにはいかにも中学生らしい、大人は決してこういうことを研究しないだろうなという内容のものがある。かとおもうと、大学の卒業論文にしても遜色ないものに仕上げてくる生徒もいる。

 現在はインターネットという強力な手段があって、それによって資料を収集する手間はずいぶん楽になったものだが、逆にホームページに記載されていたものを切り貼りしたものも多くなっている。こういうものはカラーの写真や図表を入れて見栄えはいいのだが………「知の空洞化」といわれる現象も見られる。


論文発表 4月にテーマを決めて、担当の教員をわりあてる。
 7月までに構想を決め、夏休み中に下書きをつくる。
 11月に仕上げて提出、12月に「要旨集」を作成する。
 1〜2月に、「推薦論文」を決め、3月に「論文」発表会を行う。

 専任の教員たちはひとりあたり2〜3名の生徒の「論文」指導を担当する。わたしは、この「論文」指導が好きなので、昨年は7名の生徒の「論文」を担当した。生徒達から教わることも多いし、とてもユニークなテーマに感心することも多い。

 またつぎのときに、私が過去に読んだ「論文」の中で印象に残っているものを紹介しよう。
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2006年03月27日

ゼミでやりたかったけどできなかったこと

 私の大学時代の友人が鎌倉のある病院でケースワーカーをしていました。彼は大学を卒業してずっと某大企業のサラリーマンをしていたのですが、早めに会社を退職してこの仕事を始めていました。しかも、彼は大船の柏尾川沿いに住んでいて、私が柏尾川沿いを歩いて通勤するときに毎朝のようにすれ違っていたのです。ときどき帰りがけに駅で出会うとそのまま飲みにいったこともありました。飲んでいるときにこんな話が出ました。

 その友人の病院では、長期の入院患者とその家族のために、いくつかの講座を開いているといっていました。手芸とか詩吟とかのコースとともにパソコン教室もあったのです。
 それを聴いて、私はある企画を提案しました。
 それは、高校1年生のゼミの時間として、その病院でのパソコン教室の指導を高校生たちにさせてみてはどうかという提案でした。
 つまりうちの生徒達と一緒にパソコンを学ぶという教室を病院で実施できないだろうかというものでした。高校生の女の子と一緒ならきっと患者さんたちもはりきって勉強するだろうと思ったのです。

 ただパソコンの操作を学ぶだけでなくて、患者さんたちの「自分史」をつくってそれをホームページにするというようなことを目標にやれたらいいと思いました。患者さんたちの人生を聞き書きしながら、それに写真を取り込んだり、ホームページにする技術を身につけていったら、患者さんたちと高校生たちのかなり深いレベルでのコミュニケーションが成立するし、それは患者さんにとっても高校生にとってもとても役に立つのではないかと思ったのです。今だったらもちろんブログにしたでしょう。

 この企画はなかなかいいと友人のケースワーカー氏も賛成してくれました。それで具体的にすすめようとしたら、とても悲しいことにその友人のケースワーカー氏は急死してしまったのです。今から3年ほど前のことでした。

 で、この企画提案は実現しませんでした。せめてこのブログで紹介してあらためて、その友人に哀悼の意を表したいと思います。





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2006年03月25日

高1ゼミ「コラムを書く」を担当したころ

 前にも書きましたが、私の学校のは高1に「ゼミ」という時間があります。今は「総合」の授業になっていますが、これはその前からおこなわれ、もう15年以上の歴史があります。
 私は、今は「飛行物体の研究」というゼミを担当しましたが、10年ほど前は「コラムを書く」というゼミを行っていました。
 毎回、30字×30字の原稿用紙を渡して、それに短い文章を書くことを1年間やりつづけました。生徒は多いときで10名くらい参加してきました。
 わたしはこれを読んで添削をし、コメントを書き、コピーをとって生徒に次の週に返します。いいものは読み上げるよといったのですが、これは生徒に反対されて行いませんでした。

 最初はまあすらすらと書いているのですが、そのうちに「書くネタがない」と苦しむことになります。それで1週間の間に次になにを書こうかと一生懸命に書くネタを探すのです。意図的にテーマを探さないと見つからないところがミソなのです。生活の中で何かいいテーマをみつけ、「この次はこれを書こう」と決めることをしないとその場でいくら考えても書けなくなるものです。

 私自身も、生徒と同じように書き続けました。
 1年続けると、全部で30編のコラム集ができあがります。私はこれを生徒ごとに集めて表紙をつけて製本し、ゼミが終わってから生徒に戻します。かつて製本工だった私の技術が役立つときです。

 このブログをほぼ毎日更新するというのも、このときに身につけた技術がきっと役に立っているのでしょう。
 その日のネタが見つからないと、10年前にゼミの時間に書きためたこの「コラム集」を引っ張り出してそこから書くことにしています。


 
 
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2006年03月20日

卒業生に送る詩「生徒諸君に寄せる」宮沢賢治

私が高3の担任をしていたとき、卒業生に贈った詩がある。
宮沢賢治の次のような詩である。


生徒諸君に寄せる  <宮沢賢治>

 この四ケ年が
 わたくしにはどんなに楽しかったか
 わたくしは毎日を
 鳥のように教室でうたってくらした
 誓っていうが
 わたくしはこの仕事で
 疲れをおぼえたことはない

 諸君よ紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
 諸君はそのなかに没することを欲するか
 じつに諸君はその地平における
 あらゆる形の山岳でなければならぬ

 諸君はこの颯爽(さっそう)たる
 諸君の未来圏から吹いてくる
 透明な清潔な風を感じないのか

 それは一つの送られた光線であり
 決せられた南の風である
 諸君はその時代に強いられ率いられて
 奴隷のように忍従することを欲するか
 むしろ諸君よさらにあらたな正しい世界をつくれ
 宇宙は絶えずわれらによって変化する
 潮汐や風
 あらゆる自然の力を用いつくすことから一足進んで
 諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
 新しい時代のコペルニクスよ
 あまりに重苦しい重力の法則から
 この銀河系を解き放て
 新たな時代のマルクスよ
 これらの盲目な衝動から動く世界を
 すばらしく美しい構成に変えよ

 新しい時代のダーウィンよ
 さらに東洋風静観のチャレンジャーにのって
 銀河系空間の外にも至って
 さらに透明に深く正しい地史と
 増訂された生物学をわれらに示せ
 衝動のようにさえ行なわれる
 すべての農業労働を
 冷たく透明な解析によって
 その藍いろの影といっしょに
 舞踊の範囲に高めよ

 新たな詩人よ
 雲から光から嵐から
 新たな透明なエネルギーをえて
 人と地球にとるべき形を暗示せよ


  この詩の「キャレンジャー」とは、1872年から1876年にかけて太平洋各地や大西洋の南半球部分で学術調査を行なったイギリスの海洋調査船「チャレンジャー(挑戦者)」のことである。
 ずっとのちに米国で打ち上げられたスペースシャトルもチャレンジャーと命名されたことを思い出す。

 この詩は「春と修羅」におさめられたものであるが、原作は宮沢賢治の詩作ノートのすみに書かれたものであり、未整理未完成だったものもある。

 この詩のスケールの大きさが何ともスゴイ!としか言いようがない。
 そういえば私もこの仕事で疲れを感じたことはない。

 写真は盛岡第一高等学校にある詩碑である。

生徒諸君
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「アウシュビッツと現代」という高3「倫理」の授業から

 しばらく高3は担当していないが、私が高3の「倫理」を担当したときの授業の流れを紹介してみよう。テーマは「アウシュビッツと現代」。

 第1回 ドキュメンタリー映画「夜と霧」(アラン・レネ監督作品)を見る。解放直後のアウシュビッツをたんたんと記録したドキュメンタリーフィルムである。この映画を見て気分を悪くして保健室にいく生徒が何人かいるくらいの凄惨な場面もある。このような事件が起こった歴史的背景を簡単に紹介する。

 第2回 「夜と霧」(ビクトル・フランクル著 霜山徳治訳 みすず書房刊)を読む。この本は現実の凄惨さ、原文のドイツ語の読みにくさ、翻訳の読みにくさという「三重苦」を背負った本であるが、その読みにくさを乗り越えて読んでいくと、そこにあるダイヤモンドのきらめきのような人間の尊厳を読みとることができる本である。ひとりで読むと挫折する本であるが、授業で優しくかみ砕きながら読んでいくことにしている。最近新しい訳が出てずいぶん読みやすくなったと言われているが、この所はむしろ読みにくい翻訳の方がありがたみがあるような気がする。

 第3回 「ザ・ウェーブ」を読む これは前に紹介した。アメリカの高校生がアウシュビッツのドキュメンタリーフィルムを見ての授業を扱った小説である。

 第4回 「白バラ抵抗運動」の若者たち。 ドイツの反ナチスの抵抗運動を行った若者たちを紹介し、「白バラ通信」を読む。カトリックの信仰をもった家庭に育ち、ヒトラーユーゲントの中で育った彼らがいかにして目覚めて行動に立ち上がっていくのかを読みとる。

 第5回 「抵抗した人びと」スウェーデンの外交官ワレンバーグや杉原千畝、灯台社の明石順三などを紹介する。

 第6回 「ファシズムはどうして生まれたのか」アドルノの「権威主義的性格」や日本の「大政翼賛運動」などを紹介し、現代にもファシズムが生まれやすい状況であることを説明する。

 第7回 「荒野の40年」(ヴァイツゼッカー演説から)を読む。「過去に目を閉ざすものは現在に盲目となる」「心に刻む」ということを読みとる。

 これは8年ほど前に行った授業の流れであって、今行うならば少し変える必要を感じてはいるが、なかなかよくできている授業の流れではないかと自負している。
 高校3年生には難しいのかもしれないとは思う。特にフランクルの「夜と霧」は大学生の読むものかもしれないと思いながらも、この本の価値をぜひ知ってほしくて、高校3年生の授業であえて取り上げている。
 本当は、もっと日本のファシズムに迫る必要を感じるのだが、「夜と霧」のような教材が見つからないのが残念である。

 このテーマを扱うと、どうしても戦争の悲惨さや軍国主義のひどさみたいなものを告発するだけのものになりやすい。そこはもちろん伝える必要があるのだが、それ以上にこういう状況の中でもこんな生き方をした人がいたという「人間の尊厳」を伝えたいと思うのである。
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「ザ・ウェーブ」ロス先生の歴史の授業から

「ザ・ウェーブ」モートン・ルー著 小柴一訳 
「The Wave」Morton Rhue, Dell Publishing, 1981


ロス先生 この物語は、1969年、アメリカのパロアルト州で実際に起こった事件をもとにして書かれた小説である。
 高校の歴史を教えているロス先生は、授業でアウシュビッツの強制収容所のドキュメンタリー映画を見せた。生徒達は口々にこんなことがどうして起こるのか信じられないと疑問を口にした。
 そこでロス先生はある実験授業を試みる。その実験授業は、まず歴史の授業を作りかえることからはじまった。ロス先生が提示したモットーは3つあった。
 まず第一に「規律をとおして力を」授業を規律あるものとするために、姿勢を正し、質問や答えを発言するときには、机の脇にまっすぐに立ち、「ロス先生」と呼ばせることから始めた。生徒はこれによって予習をしてくるようになり、授業への参加度も高まってきた。
 第2に「共同体をとおして力を」。共同体で目標を定め、その目標を達成するために個人を犠牲にして目標のために献身することを生徒達に求めた。
 第3に「行動を通して力を」彼はこの運動を「ザ・ウェーブ」と命名し、旗印を定め、運動員同士に敬礼することを求めた。さらに運動員証を発行し、運動員は運動員を増やす目標達成に献身しいるかどうか、規律に違反していないかどうかを相互に監視する制度を作る。
 そしてこの運動はやがて、クラスを越えて全校に広がっていくが、やがてこの運動への参加を拒否する少数派への嫌がらせと暴力をつくりだす。知らず知らずのうちにファシズム的な状況を作り出していくのである。

 個人の自由と尊厳を標榜するアメリカンデモクラシーの中でさえも、いかにたやすくファシズム的状況を作り出し、集団の暴力を生み出していくのか、この実験授業はそれを証明しているのである。
 こんな実験授業をやってしまうアメリカの教育のすごさと恐ろしさをつぶさにみてしまった感じである。

 この結末は、実際に小説を読んでいただくとして、この小説の主人公はローリーという新聞部の生徒であった。彼女ははじめはこの運動を評価するのだが、やがてどこかがおかしいと批判する記事を新聞に書き、嫌がらせを受けることになる。

 私はこの小説を抜粋したプリントを作り、高3の「倫理」の授業で生徒達と事態を予想しながら読むことをした。その授業のテーマは「アウシュビッツと現代」である。
 授業の流れとして、この新聞部の生徒のような働きをナチスの支配下のドイツで行った若者たちがいたことを続いて紹介する。「白バラ通信」の若者である。
 最近またこの「白バラ抵抗運動」の映画が作られて、上映されている。
 これについての紹介はまた改めてすることにしよう。
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2006年02月26日

もしもあと24時間のいのちであったなら

中3の「総合」の授業の「いのちのうた」シリーズの最後に「もしもあと24時間のいのちであったなら、あなたはその24時間をどう過ごしますか?」という問いかけをしました。
よくやるように生徒に一枚のカードを配り、これに匿名でその答えを書いてもらい、それを全部そのまま読み上げるというやり方です。
あなただったならばどのような答えを書きますか?

中3の生徒達は次のような答えを書いてきました。
いくつかをあげてみましょう。

●ママとパパに会いに行く。部活の友達に「ありがとう」っていう。
●家にいる。のんびりと過ごす。
●温泉に入り、今までの人生とふり返る。好きなものを食べまくる。例一切れ10万円のステーキなど。音楽を聴き、本を読む。遺言を書く。
●手紙を書く。2〜3人の友人だけに死を告げ、静かなところでひとりになる。死の直前に睡眠薬を飲む。
●テレビ局に行って死ぬ瞬間を特別に全国放送してもらって有名人になる。
●自分の好きなものを食べて好きなことをして過ごす。食べたことのない高級品も食べておきたい。
●すぐに家に帰って、家族とおtもに過ごしてお礼を言う。自分の気持ちを伝える。
●お金を借りて豪遊する、もしくは死期を早める。
●海に行く。
●この世に未練を残さないように、やりたいことはすべてやる。(できるところまで)
●24時間アニメを見続ける。
●普段通りに生活して(勉強はしないで、趣味をして)あと1〜2時間になったら寝る。
●愛し合う。金をすべて使い切る。
●友達にあって、「今までありがとう」と感謝の意を述べて、後は家族と一緒にいたい。
●自分を忘れないでいてもらいたいために一番大事な人と一緒に過ごす。
●友達と親にサヨナラって手紙を書いて、岡田准一と会って握手をしてもらったら満足。最後の1時間はバクスイして死ぬ。
●残っている財産全部を使って、くたくたになるまで遊び続ける。
●24時間おいしいものを食べ続けて、ずーっとテレビ見て過ごす。後好きなアーチストの曲を寝ながら聴きまくる。
●死ぬ準備をする。
●温泉に行ってたこ焼きを食べながら、TVを見続ける。
●告げる。
●FMと恋人になって、デートをする。
●すべての友人と会ってひとりずつ一語でもいいから言葉を交わす。
●家族に感謝を述べたあとは、自分の部屋で好きな音楽を聴きながらひとりで過ごす。
●ケーキを買い占める、やり残したことのないようにする。
●いつもと同じように過ごす。今の一日一日が楽しいから。
●最後の想い出づくりをして過ごしたい。
●大好きな作家、マンガ家の大好きな小説とマンガを心ゆくまで読んでゆっくり過ごす。
●絶対寝ないで、思い残したことをする。
●眠ります。
●買い物をする。
●最初の1時間で遺言を書く。ずっと家で過ごして心残りなことを全部やる。人に見られたら困るものを全部燃やす。
●家族と慶ちゃん、友達に「ありがとう」をいって、カラオケに行って歌ってビデオを見てMDきいて好きなことをする。
●自分にとって大切な人にお礼を言ってから自然のなかを散歩する。
●寺島さんに会いに行ってサインをもらう。メロンを食べる。買い残した本をすべて買う。Nとキャッチボールをする。100本ノックを冥土のみやげにやってみる。先輩にご挨拶。もう一度寺島さんに会う、バッチリ!
●周囲の人に気づかれないように、悲しませないように、誰にも気づかないところにいく。でも心は愛する人を思っているかもしれない。
●ひたすら何かおいしい料理を作って家族全員で食べ、話しをする。一人っきりはイヤだ。
●好きな人に好きと伝えます。今まで一緒にいた大切な人と会って、ありがとうとか、楽しかったことを話したい。
●普通通りに過ごす。いつもどおりに。あと、好きな人に会いに行きます、そして一緒にいたい。
●甘いものを吐くまで食べ続けます。
●好きなものをすべて食べ尽くしたい。もうダイエットの心配もする必要ない。
●愛する人に1ヶ月後、2ヶ月後と月に一度ずつ送ってもらう手紙を書き続ける。
●大切な人のために祈り続ける。
●ホイップクリームを死ぬほど食べる。
●中1まですんでいた地元に行き、小学校や公園などの想い出の地にいったあと、ラーメン屋に行ってお昼を食べ、そのあと家に帰って大好きなカレーを食べる。
●愛する人のそばにいる。
●結婚して子供を作るよ。あ、でもうめないかあ。
●死ぬのがイヤだから、年越しそばを長いっぱい食べて少しでも寿命を延ばす。
●一睡もせずに遊ぶ。嫌いな人を好きなだけののしって去る。そしてちょっとした悪事をはたらいてみる。あと会いたい人に会ってさよならを言っておく。
●東京ディズニーランドを借り切って思いきり遊ぶ。
●スカイダイビングで飛行機から飛び降りる、もう失敗して死んでも恐くない。
●昨日バスの中に落とした定期券を藤沢に取りに行く。
●とりあえず寝る。そして食べまくる。ひたすら食べて食べて、食べて食べて食べて、そして世界一の幸せ者になっておなかいっぱいになってしずかに眠る。
●宇宙を自分の目で見てみたい。
●運命に逆らってみずから命を絶つ。
●髪を染めたり、ピアスをしたりして、まったく違う自分になってみたい。それとおいしいものを食べたい。
●自分の存在を忘れさられないように何かを残したい。
●半日を友人や家族、大切な人と過ごして残り半日は秘密基地のある浜で泳ぐ。
●お星様に会いに行きます。
●昔の日記とかを処分してあとは普通に過ごす。
●身の回りを整理して、ノート一冊を用意して、できるだけたくさん遺書を書く。あとは好きなことをして正座して死ぬ。
●オープンカーに乗って行きたいところにすべていく。 

「かわゆい」というか「たあいもない」というか……………。彼女たちの心の奥底にあるものの一端が伺えたような気もします。

この問いかけには3つのタイプの答えが出てくると亀井勝一郎という人が述べていました。
ひとつは、悲しみと悔いの一日をパニック状態になって過ごす。
二つ目は、快楽の奴隷になる。つまり食べることなど自分の欲望をできるだけみたそうとする。
三つ目は、せめて最後の一日だけは悔いのないように過ごしたいと願い、それを実行する。

それとやはり「普段通りに過ごす」というのも結構多いようです。

この問いかけに対する答えは、「心の奥底にある深い望み」が何であるかをかいま見せてくれます。
やはり彼女たちにとっては「食べる」ことなのでしょうか。

この問が、24時間ではなく、あと1ヶ月、あるいはあと1年であったなら、そしてあと10年であったならば、どういう答えになるでしょうか?
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐が吹かぬものかは」なのですね。
人生本当は明日はないという気持ちで今日一日を生きていくのがいいのかもしれません。でもそうすると彼女たちはきっとすぐに肥満になってしまうのでしょうか。

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2006年01月31日

現代の日本の社会を表す9つのC

高2の「倫理」の授業で高2の生徒達に「現代の日本を表す言葉」を紹介してもらった。それであがってきたのは次のような言葉である。
  少子化
  高齢化
  情報化社会
  国際化
  グローバリゼーション
  資本主義
  民主主義
  大衆消費社会
  IT革命
  学歴社会
  ……………。
あらかたあがったところで、「現代の日本の社会を表す9つのC」を紹介する。これはかつて山田経三神父からおそわった。

  Consumerism 大衆消費社会
  Controlled 管理社会 監視社会 「安全というなのファシズム」
  Computerized コンピューター社会
  Competitive 競争社会
  Capitalistic 高度資本主義社会
  Commercialism 商業主義
  Capsuled 島国根性 閉鎖社会
  Campany-oriented 企業中心 会社中心主義
  Consciousness od Middle Class 中流意識

 最後の言葉はCからはじまる言葉としては少々苦しい感じがする。
 これを教わったのは25年前である。でも基本的には今も変わっていないと考えるべきであろう。これからの25年間のほうが大きな変化が生じそうである。
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2006年01月29日

比較日本人論 その3

極めつけはこれでしょう。
これは「天声人語」ではありません。

 豪華客船が暗夜に難破し、ほうり出された乗客がたったひとつの救命ボートに群がった。全員がのるとボートはしずんでしまう。それで女性とこどもだけが残り、男は海に漂うことになった。それをアメリカ人、イギリス人、ドイツ人、イタリア人、そして日本人の男たちにどう納得させるか。
 正解は、【 1 】人には、紳士なら飛び込むといえばよい。
     【 2 】人には船長の命令と。
     【 3 】人は飛び込むなといったら、逆に飛び込んだ。
     【 4 】人に、おまえたちには保険がかかっている。
 そして 【 5 】人には他の人はみんな飛び込んでいる、だとか。
(920202朝日新聞「ティータイム」霍見芳浩「日本企業の悲劇」)
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比較日本人論 その2

こういう比較はヨーロッパのひとがうまいですね。
私がキリスト教の国際会議に参加したとき、夜の余興として各国代表たちがいろいろな芸を見せてくれたときに、こういう比較をよくしていました。
「これをイギリス人がしたら」「これを日本人がすると」「アメリカ人ならこうするだろう」というのをそれぞれ演じるのです。
うまくそれができると拍手喝采です。

 青いシマ馬を見つけたものに100万ドルだそうというアメリカの金持ちがいた。
 日本人、フランス人、スペイン人、ドイツ人、イギリス人りビジネスマンがそれに応じた。
【 1 】人は図書館にかけ込んで、遺伝学の本を読みあさった。
【 2 】人はアフリカの地図を買った。
【 3 】人は、ロバに青いペンキを塗った。
【 4 】人は丹念に一本一本ロバに青い毛を植えた。
【 5 】人は、100万ドルときいただけでうれしくなって、盛大に前祝いをやったという。
                 (740916「天声人語」より)


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比較日本人論 その1

30年ほど前、つまり私が教員になる前からよく新聞の切り抜きをしていました。あのころ朝日新聞の「天声人語」は深代淳郎という人が書いていました。その「天声人語」をよく切り抜いていて改めて読み直すと今でも結構おもしろいのです。
あれを読んで、私もこういうコラムニストになりたいものだと思ってあこがれていました。毎日1000字ほどのコラムを書くために、本を読み、人と会い、あちこちに旅をする生活が夢だったのです。

あの時の切り抜きから「日本人」を他の外国人と比較したものをいくつか紹介したいと思います。
これは高2の「倫理」で日本の思想を紹介するときに、合わせて紹介します。
まずその1。これは深代淳郎の「天声人語」が出典です。

草とりの話をしよう。
同じ人数のイタリア人、ドイツ人、日本人に、時間を決めて草とりをやってもらうことになった。
【 1 】人たちは時間前に早々に切り上げて、スパゲティを食べに帰ってしまった。
【 2 】人たちは整然と隊列を組んで仕事をしたが、【 1 】の半分くらいしか仕事をできなかった。
【 3 】人はすぐ出身大学、会社ごとのグループをつくった。【 1 】よりも広く、しかもきれいに雑草をとった。
半月たった。その土地を見に行くと、【 1 】人の場所はぼうぼうとした雑草に戻っていた。【 2 】のは半分の広さだったが、根こそぎに抜いてあったので一本の雑草も見えなかった。
【 3 】人は? なんと、【 3 】人たちは休日を返上してその後も草をとりつづけ、広大な土地にサクをめぐらせてあった。
ヨーロッパ人たちにとって、【 2 】の徹底した合理主義も恐ろしいが、【 3 】人のまじめさの方がその何倍も怖い。                  
                 (740916「天声人語」より)

【 1 】【 2 】【 3 】にはいるべき国の名前を、イタリア人、ドイツ人、日本人の中から選びなさい。

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posted by mrgoodnews at 23:07| Comment(2) | TrackBack(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月26日

「たった一つのたからもの」を見て

中3の「総合」の授業で「たった一つのたからもの」というビデオを見ました。
これは昨年6月頃放映された「NHK特集」の番組を編集したもので、ダウン症の子ども秋雪くんとその両親を描いたものです。

akiyuki本にもなっています。「たったひとつのたからもの」(加藤浩美著 文藝春秋刊)です。
なかなか感動的なビデオでした。
そういえばこれは昨年ドラマ化されて、松田聖子が母親役をやっていました。これはDVDとなって発売されています。
それにこの秋雪君のことは明治生命のCMとなって放映されていました。

このビデオのなかで「ダウン症の子どもは不幸だから生まれてこないほうがいい」という考え方を批判しています。
いま出生前診断で胎児のときにダウン症の障害を持っているかどうかがわかります。もしその可能性があると、医者は「それでも産みますか?」という判断を迫り、多くの親は悲しいことに産まないことを選択してしまいます。
これは明らかに「いのちの選別」であり、ダウン症の子どもへの「差別」であるでしょう。
生徒達の意見を聞いても、ほとんどがこの考え方は「障害者への差別である」「ダウン症の子が不幸と決めつけてはいけない」「一生懸命に生きているダウン症の子どもたちに失礼ではないか」と指摘しています。

このビデオのなかでいくつかの感動的な言葉があります。それを紹介してみましょう。
「やめてくれよ。どうして私が生まれるとおめでとうと祝福しないでみんなないているの?」
「誰もが人を救う力がある」
「あなたに生きることの勇気と喜びを教えられました」
「この親とならやっていける」
「今のいのちを精一杯あなた方から教わりました」
「あなたに会えて本当によかった」
「ずっと私のそばにいてくれるという実感がある。だからこそ今日まで生きられたのである」

オススメです。
posted by mrgoodnews at 01:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 教育・学校・授業 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする