2008年06月10日

女と男の「意地」くらべ

 6月7日の「余録」によると「意地」という言葉は、もともとは仏教語で「人間の意識のはたらきを一切のものを生み出す大地にたとえたサンスクリット語の翻訳」だったという。

 そこで「広辞苑」
い‐じ【意地】‥ヂ
1.こころ。気だて。心根。「―が悪い」
2.自分の思うことを通そうとする心。「―を張る」「―を通す」
3.物欲。食欲。「―がきたない」
4.連歌論で、作句上の心のはたらき。連理秘抄「骨こつのある人は、―によりて句がらの面白き也」

 このことば、現在では「意地悪」「意地汚い」「意地っ張り」「片意地を張る」「意地を通す」など「心の偏り」を示してあまりいい意味では使われない。昔は「意地がいい」という使われ方もしたようであるが………。

 似たような言葉に「意気地」がある。
 「人生劇場」といううたにこんなセリフがあった。
 人生劇場 - 村田英雄
作詩:佐藤惣之助 作曲:古賀政男

やると思えば どこまでやるさ
それが男の 意気地じゃないか
義理がすたれば この世は闇だ
なまじとめるな 夜の雨

あんな女に 未練はないが
なぜか涙が 流れてならぬ
男ごころは 男でなけりゃ
解るものかと あきらめた

時世時節(ときよじせつ)は 変ろとままよ
吉良の仁吉は 男じゃないか
おれも生きたや 仁吉のように
義理と人情の この世界

 この「意気地」はほとんど「意地」と同じ意味である。もっとも正式の唄のセリフは「意気地」ではなく「魂」であったかもしれない。
 「広辞苑」には
いき‐じ【意気地】‥ヂ
事を貫徹しようとする気力。他にはりあって、自分の思うことを立て通そうとする気性。いじ。いくじ。いきはり。

 ところが、この漢字を「いくじ」と読むと「意気地なし」という使われ方をする。これは「意気地」がたりないことをいう。

 私はこの「意地」という言葉が嫌いではない。
「意地でもやり通す」「(おとこの)意地にかけても」断固としてやり抜くという気迫が感じられる。
 ただ、この言葉が「男」と結びついてしまうところが問題であると書こうとしたら, 「女の意地」という唄を思い出した。西田佐知子の唄だったと思う。
女の意地(昭和40年)
作詞:鈴木道明  
作曲:鈴木道明  
 
こんなに別れが苦しいものなら
二度と恋などしたくはないわ
忘れられないあのひとだけど
別れにゃならない女の意地なの

二度と逢うまい別れた人に
逢えば未練の泪をさそう
夜風つめたくまぶたにしみて
女心ははかなく哀しい

想い出すまい別れた人を
女心は頼りないのよ
涙こらえて夜空を仰げば
またたく星がにじんでこぼれた


 そういえば「意固地(依怙地)」という言葉もあった。これも同じような意味だった。
いこ‐じ【意固地・依怙地】‥ヂ
かたくなに意地を張ること。えこじ。「年を取って―になる」「―な態度」


 「いじ」「いきじ」「いくじ」「いこじ」みな同じ意味なのに、違うのはなぜだろうか?

  


 

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2008年06月03日

「脳天気」と「Happy-Go-Lucky」

 最近よく「ノー天気」という言葉を聞きます。
 一般的には「あっけらかんとしてお気楽なさま」のことをいうようです。私は「天気がない」というか「いつも晴れている」という感じで理解していました。
 あんがい「おめでたい」というのがぴったりかもしれません。
 いまはやりの「KY」にも通じるところがあるようです。
 そこで、この言葉を調べてみました。

広辞苑では

のう‐てんき【能天気・能転気】
(「脳天気」とも書く)軽薄で向うみずなさま。なまいきなさま。また、物事を深く考えないさま。誹風柳多留62「声色で高座を叩く―」

お‐めでた・い
1.「めでたい」の丁寧な言い方。
2.おひとよしで思慮が足りない。馬鹿正直である。「―・い人だ」


新明解では
(関東中部地方方言)常識はずれで軽薄なさま。もと「能天気」「能転気」とも書いた。

とありました。

 英語では「Happy-Go-Lucky」という表現があたるようです。あるブログには次の訳が載っていました。
Forgetting what is behind,and straining what is toword,I press toword the goal to win the prize for which god has called me...
 
この英語の言葉で英和辞書を引くと、
「のんきな」「やりっぱなしの」という日本語があたり、taking things easy, easy-going, thoughtless が同意語となっていました。

 この英語の「Happy-Go-Lucky」もなかなかいい言葉だと思います。
 日本語も英語も「福音的おめでたさ」と訳したらいいかもしれません。

 何ごとも Happy-Go-Lucky でいきましょうよ。

 
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2008年05月30日

「養生」ということば

 最近「養生(ようじょう)」という言葉をよく耳にします。この言葉もおもしろいですね。
 じつは、私の家の外壁のペンキがはげてしまって、それを DIY でやってみようと、今「塗装入門」の本を集めて調べているところなのです。

 内装を変えるときなど、ペンキがよけいなものに付かないようにプラスティックのカバーを掛けて保護することという意味で使われます。

 たしかもともとは「病気から回復するように、健康に気遣う」ことという意味だったのに、こういう使われ方をすることに若干の違和感を感じます。

 そこでさっそく「広辞苑」で調べてみました。

1.生命を養うこと。健康の増進をはかること。衛生を守ること。摂生せっせい。方丈記「つねにありき、つねに働くは、―なるべし」
2.病気・病後の手当をすること。保養。太閤書簡天正14年「よくよく御―候べく候」。「―につとめる」
3.土木・建築で、モルタルや打ち終わったコンクリートが十分硬化するように保護すること。また、建築中に、材や柱の面・角に紙を張る、砥との粉を塗る、プラスチックのカバーをかけるなどの保護、広くは工事箇所の防護をすること。
4.植物の生育を助成・保護するために、支柱・敷藁しきわら・施肥などの手当をすること。

 建築では、たぶん「コンクリートが固まるように塗った部分を保護すること」というような意味だったのでしょう。コンクリートが生き物のように扱われているのですね。
 でも、それが塗装部分ではないところを保護するために使われるようになったところがおもしろい。

 こんなところにおもしろさを感じるのは、私だけかもしれませんが…………。



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2008年05月29日

ロジスティクスということば

 最近トラックの横に「ロジスティクス」という言葉が書かれてあるのをよく見る。「物流」と「輸送」を併せ持った言葉のようである。

 この言葉の意味がわかったのは「ローマ人の物語13巻」を読んでいてわかった。
「ローマ軍は兵站で勝つ」という言葉がこの話にはよく出てくる。つまり、ローマ軍は前線への武器や食糧の補充線を確保したうえで戦いに望むのがローマ軍の強さであるということを示したものである。
 この「兵站」が実はロジスティクなのである。
 ちなみに「広辞苑」では

 作戦軍のために、後方にあって連絡・交通を確保し、車両・軍需品の前送・補給・修理などに任ずる機関・任務。ロジスティックス。「―部」

とあった。つまりは軍事用語なのである。

 ここから転じて 「情報マネジメント辞典」には

 モノの機能を最大限に発揮させる“支援”に着目した概念で、供給者と需要者の間における原材料や製品・商品の調達・供給を中核としながら、製品やサービスの企画、開発、設計、製造から、運用、撤去、廃棄、設備メンテナンスに至るライフサイクル全体を対象とし、それらの効率化・最適化する無駄のない企業間取引と物流の仕組みを意味する。
 もともとは軍事用語で、兵員・兵器・弾薬・食料・衣類・医薬品など作戦に必要となる資源を作戦計画に従って必要量を計算し、計画、確保、管理、補給する活動をいう。この意味では兵站(へいたん)と訳される。ビジネスの世界で用いられる場合は、「兵站」と区別して、ビジネス・ロジスティクスともいう。


とあった。

 ただし「ローマ人の物語」によると、ローマ人はこのギリシャ語語源の言葉を使わずに「アルス als」というラテン語を使ったのだそうである。
 ラテン語の「アルス」は art (技術)の語源とも成ることばで、ローマ人は「兵站」をもっと広い意味でとらえていたことを示している。単に兵器や食糧を戦場に届けるというだけではなく、戦を「後方支援」することという感じである。

 「必要なところに必要なものを届けることによる支援」という意味なら、ミャンマーや四川大地震の被害地域に緊急の援助物資を届けるという今こそ世界的な規模で「ロジスティクス」が必要とされているということであろう。

 
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2008年05月08日

郡山半次郎「舌もじり」は楽しい言葉遊び

「詩ってなんだろう」(谷川俊太郎著 筑摩書房刊)を読んでいたら、郡山半次郎作「舌もじり」に出会った。
 こういう詩が紹介されていた。

 しかもかもしかもしかだがしかし 
 あしかはたしかにしかではない


 ばった

 ばった ねばった ふんばった
 いばった ばった がんばった

 ばった しまった はやまった
 こまった ばった あやまった

 ばった へばった くたばった
 はいつくばった しんじゃった

 ほかに探してみたら、

 くついくつつくる くついつつつくる

 このこのみのこのあまみ このこのみのこのおもみ

 はものやきものやはきものや 
 さかやにかさやにさかなやに 
 やおやややどや

 こがめもこがももこがもめもかごのなか

 この作者郡山半次郎氏は、島津家代々のお抱え絵師を曾祖父に持つかたで、言葉遊びの詩人で朗読とオブジェ作家で活躍しておられるとのことです。

 郡山健次郎氏について以前このブログでも紹介したことがあるカトリック教会の鹿児島司教さんなのですが、ひょっとするとご兄弟なのではという感じがしました。お名前といい、薩摩の方であるところといい、風貌や性格といい、よく似ているのです。
 この司教さんも肩書きに似合わずじつにさばけた愉快な方です。
 もし違っていたら、失礼!です。
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2008年05月07日

「手当て(Te-Arte)」学の提唱

 「手」という接頭語のついた言葉が日本語にはいかに多いか、辞書を引いてみるがいい。

 手切れ、手際、手ぐすね、手癖、手練手管、手口、手配り、手心、手こずる、手ごたえ、手込め、手強い、手先、手頃、手探り、手さばき、手触り、手品、手締め、手酌、手順、手錠、手燭、手職、手数、てずから、手漉きの和紙、てんてこ舞い、手すさび、手勢、手塩……………。

 いずれも、機会や装置に頼らずに心を込めて手を動かし人や物に接するときに使うことばで、日本語らしい美しい言葉がおおい。

 「手当て」もまさにそのような美しい日本語の筆頭であろう。このことばを「Te-Arte」として「もったいない」に続く国際語にしようと提唱している人たちがいる。

 3月27日の朝日新聞夕刊「ニッポン人脈記」に紹介されていた川嶋みどりさんもそのひとりである。川嶋さんはナイチンゲール賞を受けた元日赤看護大学の教授である。

(夫の)威が「胸が苦しい」というと、若い看護師は動脈血の酸素を測る機械を持ってきて、数値を読み、「大丈夫です」。川嶋はいらだった。モルヒネの量を増やしてすぐでていく看護師に「もう10分、見ていられないの?」
 いちばんショックだったのは、せっかくの緩和ケア病棟なのに機械や薬ばかりで、肝心の手で触れるケアがほとんどなかったこと「背中をさするとか、体の向きを変えるとかで、すごくやすらぐ。ナイチンゲールをも言っていますが、看護不足が患者の苦しみをつくるのです」

 カトリック教会にも「按手」という儀式がある。頭に手をかざし、その人の魂のいやしのために祈る儀式である。
 ある新宗教では、この「手かざしパワー」を布教に利用している。
 「手当て」という言葉はまさにその手の持ついやしのパワーの存在を裏付けるような言葉であろう。美しくも力強い日本語である。
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2008年04月15日

「楽天」という言葉

 「楽天的」という言葉が気になって調べてみました。

 広辞苑に

「楽天」
1.人生を楽観すること。
2.自分の境遇に安んじてあくせくしないこと。

とありました。

「楽天観」
〔哲〕(optimism)世界および人生の意義・価値に関して、悪や反価値の存在を認めながらも、現実をあり得べき最良の世界・人生と見なす立場(ライプニッツ)。

 さらに調べていくと、これは易経(繋辞上伝)の「旁行而不流、楽天知命、故不憂」(自由に生きて流されず、天を楽しみて命を知る、故に憂えず)という言葉に行き当たりました。
 つまり、周囲の状況を天のさだめと与えられたものとして楽しみながら受け入れ自分の使命として捉えることができれば、何も心配するようなことはない、という教えです。
 詩人白楽天はこの言葉を名前にしたらしい。
 キリスト教的に言えば、「神の摂理(計画)を楽しんで自分に与えられた使命を知れば、何も心配することはない」という意味となるでしょう。なかなかいい言葉です。

 ちなみに、英語の optimism という言葉ですが、opt(望む)+ mum(最高の)つまり「望まれる最高の」というラテン語からきた言葉のようです。
 option(選択)と同じ語源でしょう。optical(光学的な)とも同じ語源なのでしょうか。

 反対語の pessimism は pessimus(ラテン語 最悪の)からできた言葉で、これはイギリスの詩人 Coleridge が18世紀に造った造語とのことです。

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2008年04月06日

アビリーンのパラドックス

 毎日新聞3月19日の「余録」にこんな話が紹介されていた。
 米テキサス州中央部のアビリーン市の約80キロ南にコールマンという町がある。夏の暑い午後、そこのある家族がゲームを楽しんでいると、一人が言った。「そうだ、みんなでアビリーンへ夕食を食べに行こう」
 「それはいい」。みんなはそう言って車で出かけた。だが、道中は暑く、ほこりっぽい。夕食もひどかった。疲れ果てて家に帰ると、誰もが口々に言った。「みんなが行きたいようだったから行ったけれど、わたしはほんとうは家にいたかったんだ」
 この「アビリーンのパラドックス(逆説)」として知られる小話は集団思考の危うさを示すたとえだ。「やめよう」との一言が出ず、周囲に流されて愚行に走るのは日本人だけではない。我の強そうに見えるテキサス人も集団の空気で身を誤るらしい。

 「余録」はこのあとテキサス州出身のブッシュ大統領の、9.11同時テロ後のイラク戦争開始に話をつなげていく。
 WIKIPEDIA にはこうある。
 集団が構成員の実際の嗜好とは異なる行動をおこすという状況をあらわすパラドックスである。実際には構成員が望まないことであるにもかかわらず、構成員が反対しないがために、集団が誤った結論を導くという現象である。

 こういう状況はわたしたちの日常生活にもよくあるのではないか。みんなが気が進まないにもかかわらず、「やめよう」が言えなくて、結果が悪く出ると実は自分はやりたくなかったということがみなの口から不平となって出てくる。
 ノーを言うことはとても大事なことなのである。
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2007年12月13日

「徳、孤ならず。必ず隣有り」有隣堂と山手英学院

 横浜のローカルな書店に「有隣堂」という書店がある。最近は秋葉原にも進出したとか。今日の昼食時の話題はこの「有隣堂」であった。

 私が小学生だったころ、山手英学院という予備校に通っていた。そこの行っていた模擬試験で10位以内にランクされると「有隣堂」の図書券がもらえたとか、わたしは残念ながらそれをもらった記憶がない。生物氏はもらったことがあるという。彼は小学生の時は秀才だったんだ。
 山手英学院は京急の日ノ出町にあり、そこに行くついでに伊勢佐木町の有隣堂本店によくいって、顕微鏡や理科の実験道具のショウウィンドウをものほしげに指をくわえながら見ていたものである。
 聞くところによると、山手英学院と有隣堂の経営者は兄弟だったとか。

 山手英学院で教わった先生に香取草之助という先生がいた。理科や算数を教わった記憶があるが、この先生の授業は面白かった。google してみるとこの先生、今は東海大学の副学長をしているらしい。専攻は教育学のようだ。どうりで授業が面白かったわけだ。あのころ(もう50年近く前になる)は予備校講師をしていた。

 ところでこの「有隣堂」の語源は「徳、孤ならず。必ず隣有り」という「論語」の言葉にあるのだと漢文氏から教えられた。
 つまり、徳のあるものは孤立することはない。かならず隣に誰かいるものである」という深い意味を持つ。

 出版社や書店の名前にはこういう由来を持っているものが結構あるらしい。
 三省堂とか有斐閣とか、小学館もそうらしい。

 
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2007年11月17日

「あし(葦)」はなぜ「よし」というのか

 「人間は風にそよぐ葦である。しかも考える葦である」こういったのはパスカルでした。

 葦はイネ科の多年生草で川辺に生えるススキによく似た植物です。ところがこれは「ヨシ」ともいいます。「ヨシの随から天のぞく」は「見識が狭いこと」をいいますがあれです。
 辞書を引くと「ヨシ」は「アシ(葦)」の忌み言葉と書かれています。「あし」が「悪い」の「あし」に通ずるとしてこれを嫌いあえて正反対の言葉を使っているのです。

 こういう忌み言葉って結構ありますね。
「するめ」のことを「あたりめ」、「すりこぎ、すりばち」のことを「あたりばち、あたりこぎ」といって「する」という「忌み言葉」をさけて「あたる」をよく使います。ばくちの「する」は「損をする」ということできらっていました。
 そういえばわたしが印刷工だった時に、「紙を刷る」というのを嫌い「紙を通す」とか「紙に当たる」とか言いかえていました。

 結婚式の時に「切る」とか「分かれる」とか「終わる」という言葉を禁句としていたから、「お開きにする」とか「ケーキの入刀」とか言いかえています。

 また受験生には「落ちる」とか「滑る」とかいうことばは禁句でした。

 まだまだありそうです。気がついたら教えてください。
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2007年10月28日

英語辞典の「カラスムギ」の説明

 10月25日の毎日新聞「余録」にこんなことが書いてあった。

 史上初の英語辞典はカラスムギをこう定義する。「穀物の一種で、イングランドでは馬に与えられ、スコットランドでは人を養う」。実は独力でこの辞書をつくった文学者サミュエル・ジョンソンが、嫌いなスコットランド人をこき下ろそうと書いた解釈であった。
 これにはジョンソンの弟子のスコットランド人、J.ポズウェルがまぜかえした。「だからイングランドの馬は立派で、スコットランドは人間がすぐれている」。

 なかなかみごとな「ツッコミ」である。
 毎日の「余録」子はこういうコラムをよく書く。歴史上のトピックスを紹介して、これを現代に結びつけるたぐいのコラムである。実に多くのいろいろなトピックスが紹介され、その博学ぶりに頭が下がる。
 今回は、このトピックスから、10年ぶりの「広辞苑」の改訂が発表され、「うざい」「逆ギレ」「イケ面」などの若者言葉や「カミングアウト」「リベンジ」などのカタカナ言葉があらたにくわえられたことと結びつける。

 かつてはこういうコラムの展開は「朝日」の「天声人語」子のお家芸であったのだが、今では「余録」子にすっかりお株を奪われた感じである。

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「デンプン」と「タンパク質」の表記はカタカナにしてはならない。

 「生物氏の憤慨」シリーズのつづきである。一挙にあふれ出てきたというかんじであるが、わたしのブログにどんどん書くべきであるという漢文氏の支援に支えられて続けて書くことにする。

 生物の教科書にデンプンとかタンパク質という言葉がカタカナで表記されている。

 デンプンというのは漢字で書くと「澱粉」となる。この「澱」の字の訓は「よどむ」つまり溶けずに底に沈殿するという意味であり、「澱粉」が水に溶けにくいということを示す漢字である。澱粉が水に溶けにくいということは生物学的に意味を持っていて、だから消化酵素の働きが必要であるとか、アルファ澱粉とベータ澱粉とがあるとかの説明にすぐにつながる漢字表記なのである。
 「沈殿」という漢字も問題である。本来は「沈澱」という漢字であるべきであるのに、この「澱」の字が当用漢字にないという理由で「さんずい」が取れてしまった。これでは意味がなくなってしまう。

 タンパク質は漢字で書くと「蛋白質」となる。「蛋白」というのは「卵白」を意味する熟語であるが、この「蛋」という字も当用漢字にはないがゆえに、「たん白質」と書いたりしていた。これもひどいが「カタカナ」にするのはもっとひどいというのだ。漢字の由来が示す大事な意味が失われてしまうというわけである。

 まだまだこういう表現がたくさんあるという。漢字表記の持つ情報量はとても豊かなのに、それをわざわざ無味乾燥なカタカナ表記にするべきするべきではないと憤慨する。
 漢文氏もわたしも同意見である。


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2007年10月27日

下水道のマンホールの「おすい」と「うすい」あれはなんだ?

 生物氏の憤慨はつづく。

 下水道の入り口のマンホールに「おすい」と「うすい」と書かれている。一体あれは何だ。
 「おすい」は汚水、つまり家庭からでた排水である。台所やトイレから出た生活排水のマスを意味するようである。
 「うすい」は雨水であり、降った雨を道路が水浸しにならないようにすばやく下水道に流すためのもののようだ。東京都水道局のホームぺージにはそうでている。

 だったらなぜ漢字で「汚水」「雨水」と書かないのだ。彼が憤慨するわけはここにある。

 そういえば一昔前に新聞で「汚職」という言葉を使わずに「お職」というひらがなを使っていた時期があった。「汚職」の「汚(お)」という字の読みが当用漢字になかったせいらしいのである。
 マンホールの文字もそのせいでひらがなになっているのだろうか? だったら「うすい」は「雨水」と書けばいいものをなぜかひらがなになっている。

 google で「おすい」「うすい」で検索してみるとマンホールの写真集がけっこう出てくる。で、そこでもこの言葉が問題となっていることがおおい。

 生物氏の憤慨はまだまだ続く。

 
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2007年10月26日

豆腐と納豆

「豆腐」と「納豆」は漢字の意味から言うと、逆ではないかという説がある。つまり、「豆を腐らせたものが豆腐」であり「豆を納めたものが納豆である」はずだという説です。

 調べてみると、確かに「納豆」と「豆腐」を運んでいた船が嵐に遭い、その時に荷札が入れ違って、それが日本に輸入されたという説がありました。

 でもさらに調べてみると、「腐」という字には「凝固させる」という意味もあったとか、「昔神棚に豆を納めたら、しめ縄に付着していた納豆菌がうつって納豆になった」という説もあります。この説によると入れ違ってはいないというのが正しいようです。

 納豆も豆腐も東アジアの照葉樹林帯の文化の共通する特産物なのだそうで、豆腐は中国が原産地です。東南アジアの国々でも「とうふ」と発音するというのも聞いたことがあります。もしそうだとすると入れ違い説は日本に来る以前に入れ違っているはずですね。
 ただし納豆は中国にはないとか。

 関西の人はそのむかし、納豆を食べる習慣がなかったようで、東京に出てきて初めて食べたという人も多いようです。「あんな腐った豆なんか食えるか」と言って食べようとしない関西人もわたしの身の回りにけっこういました。いまはもうどこでも納豆をてにいれられるようになったのでそういう人は減ったでしょう。

 長州人の大村益次郎は、豆腐が大好物で酒を飲むときは必ず豆腐2丁をさかなにしていたとか。部下と飲むときもそれしか出さなかったので、部下が不平を言うと「豆腐を大事にしないものは国を滅ぼす」と言って叱ったとかいう話しもありました。「豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまえ」とは言わなかったようですが。
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2007年10月17日

フリー・マーケットと蚤の市

 今日の昼休みの話しのつづき。
 漢文氏が木の話しをひとくさりしたあと、英語氏が加わった。そこで彼が紹介してくれた話し。

 「フリー・マーケット」というと「free market」と思っている人が多いだろうが(わたしもそう思っていた)実はあれはまちがいで、本当は「flea market」なのだそうだ。flea とは蚤。「蚤の市」というのは正しい翻訳なのである。
 なぜ「のみ」なのかと聞いても英語氏は応えられなかった。ある人は蚤がたかっているようなボロの服を着た人が集まったのでいうのではと想像力を逞しく説明した。さっそく広辞苑のやっかいになった。

 Wikipedia には、ヨーロッパの大都市の各地で春から夏にかけて、教会や市庁舎前の広場などで開かれる古物市。パリの蚤の市が有名。flea marketはフランス語marché aux pucesの訳。但し、fleaは身体の血を吸うノミではなく、ここでは汚らしい、みすぼらしいといった意味で使われている。
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柏の木、楓の木、楷の木

 今日の昼休みの漢文氏の話から。

 植物の名前で、日本語で表記されているものと漢語で表記されているものが違う例があるそうです。

 その代表は「柏の木」「楓の木」。

 先ず「柏」から。
 日本では柏餅の葉として有名な柏は、中国では「コノテカシワ」の木を意味するそうです。この木は子どもが手を挙げている姿に似ているということでこの名前が付きました。葉の裏が白い所からこの漢字が来ているようです。この木はわりとよく見る木です。
 日本の「柏の木」はどちらかというと 『槲』 のほうが正しいということです。この葉を柏餅に使うのは、葉が枯れても新しい芽が出るまで落葉しないというところから、家がたえずに代々続いていくという願いをこめて餅を包むのだそうです。

 漢字の「楓の木」はフウノキという木なのだそうで、「かえで」とは別物です。こういう木です。この木はマンサク科でイチョウなどと同じく生きた化石といわれている木なのだそうです。ただ木の葉は秋になると黄色く色づくところからいつのまにか「かえで」になってしまったのでしょうか?
 ちなみに「カエデ」の由来は、葉の形が蛙の手に似ているところから「カエルデ」→「かえで」となったようです。
 「もみじ」というのは「秋になって色が黄色や赤に変化する」を意味する動詞の「もみつ」の名詞形から来ているようです。

 最後に「楷の木」。これは日本ではあまり見られないので、和名がないらしいです。ナンバンハゼとかよばれたり、ランシンボクともよばれているようです。
 ただこの木は孔子ゆかりの木で、孔子十哲と称された弟子の中で最も師を尊敬してやまなかった子貢(しこう)が、孔子の墓に楷の木を植え、この楷の木が世代を超えて受け継がれ、育った大樹は「子貢手植えの楷」として今も孔子の墓所に、強く美しい姿をとどめています。日本でも湯島聖堂にある孔子廟や岡山の閑谷学校跡や足利学校、称名寺に植えてあるとか。
 科挙(中国の隋の時代から清の時代までの官僚登用試験)の合格祈願木となり、歴代の文人が自宅に「楷の木」を植えたことから『学問の木』とも言われるようになりました。合格祈願木とされたのは、科挙の合格者に楷で作った笏(こつ)を与えて名誉を称えたからだと考えられています。
 「楷」は中国では模範の木とされており、日本においても書体の「楷書」の語源されていて、訓は「ノリ」、意味は「つよくまっすぐ」「てほん」です。
 この木も紅葉の美しい木です。
 
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2007年09月24日

信号が青、黄、赤のわけ

「交通信号が『青、黄、赤』なのはなぜだか知っているか?」
「あれは大阪が発祥地なんだってさ。」
「本当?」
「『あほ、きぃつけなか、あかんでぇ〜』なんだってさ。」
{…………?」


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2007年08月27日

「女ことばはどこへ消えたか?」を読みました。そういえばたしかに………。

 中学3年生の生徒が「論文」で、「変わりゆく日本語」について研究しているのに刺激されて、わたしも「女ことばはどこへ消えたか?」(小林千草著 光文社新書 2007.7刊)を読んだ。

 そういえば今の中学生や高校生の女の子たちは「女ことば」を使わなくなった、男性化していったというか、言葉遣い上の男女差がなくなったというべきか。
 この本は、その「女ことば」の歴史と現在について書かれている。いろいろと思い当たるところがあった。

 まず、「女ことば」として生まれたのに、今では男女差がなく使われている言葉に「おひや(冷たい水)」「おかか(削り節)」「おかず(ごはんの……。)」をあげている。これはもともとは宮中の女房たちが使っていた言葉なのだそうな。

 100年ほど前に書かれた夏目漱石の「三四郎」に出てくる女性の話し方に注目する。「ほほほ」という笑い方に注目し、さらに「女は文末に何をこめる?」として女性特有の文末表現をあげる。
「〜わ。」「〜よ。」「〜てよ。」「〜て。」「〜って。」「〜ね。」「〜の。」「〜こと。」「〜もの。」
 20年前くらいには、まだこの文末表現が「女ことば」の特徴であった。それが今、女子中高生の口からはほとんど聞かれない。それが最も大きい変化ではないか。

 さらに200年前にさかのぼり、式亭三馬の「浮世風呂」を分析する。ここで明らかになったことが「おれ」「おら」は女ことばだったということである。

 現代の女性も使う若者ことばのいくつかをあげている。
 まず文末の「〜じゃん。」
 「やっぱそうか」(やはり)
 「きもい」(きもちわるい)
 「ちげーよ。」(ちがうよ)
 「ちがくない?」(ちがっていない?)
 「………な人」といういいかた。
  (私って甘いものが好きな人なんです)
 「やべっ。まじカワイイ」
  (やばいという言葉からきているが、これは「まずい」という意味から変貌している)
 「関係ねぇーよ。」「知らねぇーよ。」「そんなことしねぇーよ。」

 この本には出てこなかったが、最近気になるのは
 「やりっぱ」「あけっぱ」ということば。
 「やりっぱなし」「あけっぱなし」の意味である。これは20代の女の先生も使っている。

 最後にこんなことも書いてあった。
「現代もっとも女らしい女ことばを使っている人たちは、おすぎやピーコ、美輪明宏、美川憲一など、いわゆるニューハーフと呼ばれる人たちではないか」
 たしかに、彼らは「美しい女ことば」を使っている。

 

 

 

 
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2007年07月28日

「ごちそうさま」という言葉

 食事のあとのことばとしてわたしたちは「ごちそうさま」という。
 「ご馳走」という漢語があてられる。なぜ「走る」なのか?

 昔、戦国時代のころの時代小説を読むと、ときどき「馳走いたす」という言葉が使われるが。これは「味方をするために駆け付ける」「馳せ参じる」という意味で使われる。
 戦の時に味方として駆け付けてくれるということは実にありがたく、心強いことである。
 それが、意味が転じておいしい料理でもてなすことを「ご馳走」というようになった。
 このつながりは今ひとつわからないが、なかなか意味の深い言葉であると思う。

 このおいしい食事を終えて、神様のもとへ「馳せ参じたい」ものである。
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2007年07月21日

テンプラの語源

 和食の中でテンプラといえば、好物だという方も多いかもしれませんが、一説によれば、その起源は四旬節と深い関係があるといわれています。江戸時代になってからテンプラは江戸で花開いた料理です。しかし、その起源を辿ってみると意外にも長崎の南蛮料理に端を発しています。フランシスコ・ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられた後、関が原の戦いまでの50年の間にキリスト教は広く日本に広まり、多くの日本人がキリスト信者になり、キリスト教の典礼も定着していました。
その頃の四旬節を表す「40日間の期間」は、ラテン語で「クワドラジェシマ・テンポラ」(Quadragesima tempora)と呼ばれていたようです。この特別な期間、つまり「テンポラ」には肉を食べないで、その代わりに油で揚げた野菜と少々の魚を食べる習慣がキリスト者の間に定着したのです。当時、日本では油で揚げる料理は少なかったそうで、キリスト者は南蛮の料理をおいしくいただいていたのではないでしょうか。本来、節制のためのテンポラであったのに。こうして四旬節の期間を示すテンプラが今は和食として定着し、健康な食事として世界の人々から受け入れられているということは実に不思議な感じがします。

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