2007年07月18日

My father is my mother.を訳しなさい。

 同僚から、次の文を訳しなさいという課題が出た。

   My father is my mother.

 何じゃ、この文は?と思ったけれど、考えてみた。

 10分くらい考えたけれどわからなかったので、ヒントをもらった。

 mother は「ママ」と訳しなさいというのである。

 でも私にはわからなかった。

 さて皆さんはおわかりになるだろうか?
続きを読む
posted by mrgoodnews at 23:44| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月08日

「日本中にたくさんの夢がある」citiの全面広告

 前の朝日新聞7月2日の全面広告の裏はこんな全面広告でした。これは一体なにを言いたいのか? この会社は何を売っているのだ?と疑問に思いました。

 日本中にたくさんの夢がある。
 日本にはかなえる方法が少なすぎた。

 理想の家を手に入れる。
 大好きなことでビジネスをはじめる。
 人生のゆとりを心置きなくたのしむ。
 いちばん大切な人をしあわせにする。

 誰もが素敵な夢を持っているはずなのに
 それをかなえる人が
 一握りしかいなかったのはなぜでしょう。

 よろしかったら、一度、
 私たちシティと、
 あなたの夢についてお話ししませんか。
 
 私たちが世界中で培ってきたノウハウはいま、
 日本のあなたの夢をかなえるためにあるのですから。

 citi ののぞみをカタチに

 今日こそあなたが、
 その方法を見つける日かもしれません。




citi 「citi のぞみをカタチに」としか書いていないこの広告は一体何を売ろうとしているのだ?
 私の夢について語りたいとしても連絡先もないし、その夢をかなえる方法にしても何も明らかでない、この広告はいったい何なのだ。
 欲求不満になりそうな広告である。
posted by mrgoodnews at 23:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「もうひとつ、地球をつくるとしたら。」IHI の全面広告

 7月2日の朝日新聞の全面広告にこんなコピーが掲載されていました。

もうひとつ、地球をつくるとしたら。

「前例がない」と経験が言いました。「難しい」と常識が言いました。「不可能だ」と理性が言いました。
「面白そうだ!」と想像力が言いました。「やってみよう!」と行動力が言いました。
もうひとつ、地球をつくる、私たちは変わっていくことを選択しました。
歴史をつくってきた重工業会社は、未来をつくるクリエイティブ集団へ。
グループ32,687人のスタッフひとりひとりの力を結集し「IHI グループ」として時代のニーズに応えていきます。
世界で、宇宙で培った「想像力」と「行動力」で。世界にたった一つの「IHI グループ」へ。
石川島播磨重工業株式会社は7月1日より、社名を株式会社IHI に変更し、新たなスタートを切りました。



IHI この広告コピーの冒頭の「経験」「常識」「理性」は否定的な見解を出したのに「想像力」「行動力」は前向きに進むことを提案しているところが面白いと思いました。
 でも「もうひとつ、地球をつくる」ということとどうつながるのか? どんな地球なのか? そこをもっと説明を求めたくなります。

 こういうコピーを考え出すコピーライターに敬意を表します。私もコピーライターになりたかった。


posted by mrgoodnews at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月05日

「洒々落々」「天空海闊」という四字熟語のつづき

 まえに「自分を四字熟語の漢字で表現する」という課題を高1の生徒たちに出したらという話しを紹介しました。

 そのときに、複数の生徒から「洒々落々」「天空海闊」というあまり聞き慣れない四字熟語があがってきたということを報告しました。
 そしてきっとこれには何かコミックか歌のセリフか、テレビのクイズ番組かの「出典」がありそうだと述べましたが、これらを書いた生徒たちに聞いてみましたところ、意外な事実が浮かび上がりました。

 「出典」は「電子辞書」だったのです。電子辞書で「性格を表す四字熟語」というのが検索できるそうで、その中に書かれていたものなのだそうです。あの課題が出て、すぐに「電子辞書」をとりだして、調べてみて、その中から気に入ったものを書いたということなのです。
 そういえば、最近授業中に「電子辞書」を開いている高校生が多くなりました。授業中に黒板に書いた字にたいして「先生それ字が違っています」といって「電子辞書」を見せてくれる生徒がときどきいます。

 私の授業では、これを持ち込むことを禁じていません。むしろ字や意味がわからないときは「誰か辞書をもっていないか、調べてほしい」などと生徒に聞きます。すると何人かが「電子辞書」を開いて調べてくれます。
 私はこれは悪くないし、むしろ積極的に活用すべきだと思っています。結構面白いことが発見されるのですね。
 今回もそういう意味では、新しい四字熟語を教えてもらったカタチになります。

 
posted by mrgoodnews at 01:17| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月11日

「日本語のカタチとココロ」金田一秀穂著を読み、「日本語の不思議」を知る。

 「日本語のカタチとココロ」金田一秀穂著 NHK「知るを楽しむ この人この世界「月」NHK出版

 この本は「日本語を外国人に教えているとき、それまでに気づかずにいた日本語の不思議」について書かれた本である。
 日本人には何気なく理解できることでも、外国人にはとてもわかりにくい日本語の使い方について書かれているところはとても興味深い。

 「たとえば」と冒頭に出ている例を紹介しよう。

「雨が降ったら地面が濡れる」
「雨が降ると地面が濡れる」
「雨が降れば地面が濡れる」
「雨が降るなら地面が濡れる」
「雨が降ったとき地面が濡れる」
これらはどう違うのかとたずねられたとき、皆さんならどう答えるでしょうか。
 これは非常に難問です。日本語を母語とする人たちは、学校で習う漢字や文法以外にも、いつのまにか言葉の細かいニュアンスまで使い分けられるようになります。でも外国人にとっては日本語は外国語ですから、一からその違いを説明しなければなりません。さてどう説明すればいいのか……………。ふだん何気なく使っている日本語なのに説明できないものが数多くある。その事実に気づかされたのである。


 著者の祖父は金田一京介、父が金田一春彦、著名な日本語研究者である。私も中学生のころ金田一京助の三省堂国語辞典を使った覚えがある。
 それぞれ異なったアプローチから日本語を研究してきたというところもおもしろい。

 また、この次に続いてこの本を読んで知った「日本語の不思議」について、改めて書いていこうと思う。
 

posted by mrgoodnews at 01:28| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月02日

左前ということ

 前の話しのつづきから。
 話しは「左前」の話しになった。

 広辞苑には「左前」のことを、「衣服の右の衽(おくみ)を左の衽の上に重ねて着ること。普通の着方と反対で、死者の装束に用いる」とあります。
 左前は着装上の失敗としてだけでなく、死者の装束に用いる着方であることから、「不吉」、「縁起が悪い」など、精神面の拒否反応も強いようです。
 和服の場合には左前は良くないとされているのですが、ただし洋服の場合は男女が別になっていて、男が右前、女が左前になっています。これはいつ頃からなぜこうなったのかはよくわかりません。

「左前になる」というのは「経済的に苦しくなること」を意味しているのは、やはり死に装束からきていることのようです。

 物知り生物氏の話では、紙で包装をするときにもこの「左前」は良くないそうで、以前三越が包装紙のデザインの関係からか左前に包装していたのだそうな。そのためか三越は一時経営的に「左前」になってしまって、あわてて包装のしかたを右前に改めたとかいう話しです。

 さらにかれは言いました。
 窓や戸棚の扉を見てみてみるとみな右前になっています。これは右利きが多いということと関係あるのかどうか。左前を嫌っているのかもしれません。
 ただし日本の和室の襖や障子は中央に向かっている方が前になっています。

 まだまだ左前を嫌っているものがあるはずです。探してみましょう。

posted by mrgoodnews at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「親の死に目に会えない」というたぐいの話

 最近の昼食時の話しから。相手はいつもの物知り生物氏である。

何の話しからこういう問いかけが生まれたかは憶えていない。
「『親の死に目に会えない』というのは何をするときにいうことばだったっけ?」
「たしか『夜爪を切ると』というのではなかったっけ? これは灯火の時代に夜暗くなって爪を切ると深爪をしたりして衛生上良くないからこういうのであって、それなりに合理的な根拠をもっていて『迷信』ではない」
「『夜口笛を吹くと』というのはどうなるんだ?」
「それはたぶん『泥棒を呼ぶから』というのではないかな」
「こうやってあるマナーを教えていたんだろうね。でも金成の部分はもう死語になっているような感じだよね。ほかになかったか?」
「『食事をしてすぐ横になると牛になる』というのがあったね。これは行儀が悪いのをたしなめていう言葉だったかな」
「『箸で食べ物をわたすのはよくない』というのは火葬場でお骨を拾うときに二人で箸を持ってつまむところから来ているのだろう」
「おなじように『ごはんを持った茶碗に箸を立てるのも縁起でもない』というわけだ」
「『病院にいる人に花の鉢を持っていってはいけない』というのは病院に根付くという語呂合わせから来ている」
「『出かけるときに針をもつこともよくない』これは『でばり』というのだそうである」
「霊柩車を見るときは親指を隠せ」というのもあった。これはなぜこういうのだろうか?」
「あれは『救急車』という説もあるらしい」

 まだまだ、あるだろう。気づいたら教えてほしいところだ。昔の人はこうやってマナーや礼儀を教えていたというわけである。「迷信」くさいのもあるけれど、いずれもそれなりに合理性を持っていた。
posted by mrgoodnews at 22:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月02日

「お通夜」に参列して初めて「通夜」の意味を知った

 親戚の方がなくなったので、お通夜にいった。
 曹洞宗のお坊さんが司式されて回向された。回向が終わったときに、そのお坊さんは会衆に向かって、解説をされた。真宗のお坊さんが法事の読経のあとに、お経の解説をされたことを聞いたことはあったが、お通夜の時に曹洞宗のお坊さんがこのような解説をされることは珍しい。
 そのお坊さんはまず、故人の戒名について解説をされた。そしてそのあとに「お通夜」の意味について話されたことも興味深かった。

 その解説によると「お通夜」とは「夜を通す」という意味で本来は「徹夜」をするということらしい。「徹夜」して何をするのかというと「亡くなった人の魂を守る」のであり、「何から守るのか」というと「夜になって徘徊する『もののけ』とか『悪霊』『おばけ』『魔物』などの魑魅魍魎(ちみもうりょう)から守る」ことである。古代の人にとって暗い夜はこのような魑魅魍魎の支配する世界であったらしい。

 ちなみに「魑魅魍魎」を辞書で引いてみた。「魑魅」が「山林の異気から生ずるという怪物。山の精。すだま」であり、「魍魎」とは「山水、木石の精」とある。
 現代のように夜になっても電気がこうこうと照らすようになると、魑魅魍魎も「影ひそめ」てしまうらしい。

 そういえば「魑魅魍魎も影ひそめ」で思い出すのは「一高寮歌」の「ああ、玉杯に花受けて」である。その5番に次のような歌詞があった。

   行途(ゆくて)を阻むものあらば 斬りて捨つるに何かある
   破邪の剣を抜き持ちて 舳に立ちて我よべば
   魑魅魍魎も影ひそめ 金波銀波の海静か

 私の世代は「一高」や「三高」「北大予科」の寮歌を最後まで暗記して歌えた最後の世代ではなかったかと思う。今でもけっこう歌えると思うが……………。
 話しが「お通夜」から関係ない方に発展してしまった……………。

posted by mrgoodnews at 23:50| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月28日

「捏造」と「でっちあげ」

 私が1965年に大学に入ったときに知った言葉に次のような言葉があった。
「破廉恥」
「顰蹙」
「欺瞞的」
「捏造(でっちあげ)」
「自己批判」
「誹謗中傷」
 折りしも学生運動の華やかなりし時であった時代を反映していたというか。それにしても人を非難するときに使われた言葉であった。
「ハレンチ」「ヒンシュク」「ギマンテキ」「デッチアゲ」「ヒボーチューショー」とカタカナで書いた方がいい言葉が結構ある。言葉の響きが面白いという言葉であるかもしれない。今でも漢字で書くより、カタカナで書かれたほうが、その雰囲気を伝える言葉ではある。

 さてこのうちの、「捏造」とは「ありもしないことをまことしやかに作りあげる様」を言う。「捏」という時を漢和辞典で引くと、「デツ」というのが本来の意味であると書かれてある。「ねつ」でも「でつ」でも他に使われないなじみの薄い文字である。
 手偏の右側の「日」の下に「土」がある形が「でつ」の音を示し、土器をつくるためにロクロをまわして土をこねる様を示している。何もないところから土をこねて自分の思うがままの形を作り出すところからこの言葉がうまれたというわけである。
「デッチアゲ」の「でっち」が「捏」という言葉からきているということが調べてみるとわかってくる。

 これらはいずれも、言葉のおもしろさを示す言葉であろう。
posted by mrgoodnews at 02:11| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月06日

「めちゃくちゃ」「うやむや」「めりはり」という言葉

 今日の昼食時の話し。相手は漢文の先生。いつもの生物氏と社会科氏はいない。

 「『めちゃくちゃ』『むちゃくちゃ』『はちゃめちゃ』という言葉があるけれど、あれは「お茶」が関係あるのかな?」
 何を突然言い出すのだと怪訝な表情をしながらもすぐに「新明解」を取りに行って引き出した。昼食の部屋のすぐ近くにの本棚には辞書がある。これは便利だ。
「むちゃ」=「言動が常識や論理を逸脱していてまともとはかんがえられないこと」「無茶」は借字。「くちゃ」は上の「むちゃ」に添えた語とあった。つまりもとは擬態語で「無茶」はあてじだというわけだ。
「めちゃ」=擬態語、筋道がたたないようす。不合理。「目茶」「滅茶」は借字。「くちゃ」は「めちゃ」にそえて語調を整え留為の語。

「なるほど、こういう「語調を整えるために添える言葉」が面白い。ほかにあるだろうか?」
「『むりやり』というのはどうだろうか? 漢字で書くと『無理矢理』とかくのかな?」

 で、さっそく「新明解」
「むりやり」=相手が嫌がることを知りながら何が何でも思ったとおりのことを強行すること「無理に遣る」というところからくる。漢字は「無理遣り」と書く。「無理矢理」は借字。
 「やり」は「語調を整えるために添えた語」ではなさそうである。

「『うやむや』というのはどうだろうか? あれって「ありやなしや」と書くのではなかったっけ?」
「『新明解』では『有耶無耶』は借字とある。」

「じゃ、つぎは『めりはり』というのはどうかな?」
実はこの言葉が一番面白かったのだ。そこには発見があった。
「これはおもしろい。辞書にはほんとは『めりかり』というと書いてある。その漢字が『乙甲』なのだ。『笙や尺八などの和楽器の音の高低・抑揚』とある。和楽器の音の高低は「甲乙丙丁」で表現していたのだな。それがいつの間にか『めりはり』となった。漢字では『乙張り』と書くらしい。これは借字ではない。知らなかった。これは発見だ。おもしろい。」
とその漢文氏はひたすら感激していた。

 まだほかにないかな。
posted by mrgoodnews at 18:03| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月22日

ことわざの意味が変わっていく

 前に「情けは人のためならず」ということわざの意味が変貌しているということを書いた。

 この他にも意味が変わっていったことわざがいくつかある。本来の意味の使い方が変わってついに辞書にまで書かれるようになったということわざには次のようなものがある。

 「犬も歩けば棒に当たる」
 これは「でしゃばるとロクなことはない」というネガティブな意味であったのだが、最近は「出歩くと思いがけない幸運にめぐり会うこともある」に反転した。この誤りがおさえきれないほどに勢いをつけ、ついには辞書も承認するようになった例である。

 「転がる石はこけが生えない」
 これはもともとイギリスのことわざで、あまり住まいや職業を変えてはならないという意味であるらしい。これがアメリカに渡ると、こけが生えないのはサビがつかないこととなる。
 イギリスの出身の世界的ロックバンドの「ローリングストーンズ」は「転がる石」という意味であるが、このどちらを意識してつけられた名前なのであろうか?
posted by mrgoodnews at 02:04| Comment(3) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月02日

Z旗を揚げる

 昨年に続き、正月休みには、私たち家族が小学校時代を過ごした横須賀追浜を訪ねました。87歳の母を車いすに乗せて、鷹取山にいったり、追浜南町のかつて住んでいた家の周辺をおとずれ、すっかり物覚えが悪くなった母の記憶を呼び戻そうとしたのですが、残念ながら思い出せなかったようです。
 さらに今年は横須賀の三笠公園も訪ねました。戦艦三笠があるこの公園は横須賀時代にもよく訪れたところでした。そしてここは実は私の勤務校が、現在の地大船に移転する1964年まであったところでもあります。

 12月17日に横須賀学院でソフトボールの講習会があったときに、三笠公園のまえで「戦艦三笠を知っている?」と高1の生徒に聞いたのですが、彼女たちは東郷平八郎も戦艦三笠も知りませんでした。う〜む。
 「戦艦三笠は日露戦争の時の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破した時の指令艦で司令長官東郷平八郎が乗っていた戦艦だった。『天気晴朗なれでも波高し。皇国の興廃この一戦にあり。各員いっそう奮励努力せよ』という司令長官の号令でこの海戦が始まった」と生徒に説明しました。この説明には「どこかで聞いたことがあるような」と反応をしてはいましたが……………。


ZebraHB.jpg その三笠公園で今回は「戦艦三笠」に載ってみました。平和主義者のつもりの私には複雑な思いを呼び起こしましたが、なかにこういう掲示が目にとまりました。
 「Z旗を揚げる」という言葉はこの日本海海戦の時に掲げられた旗からきているということを知りました。この旗が「Z」のかたちをしているところからこの名前が生まれたのです。
 それから、なにか重大な局面にあたって必勝を期す時に「Z旗を揚げる」という言葉が使われるようになりました。
 
posted by mrgoodnews at 22:15| Comment(1) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月22日

Mitleben という言葉

 ドイツ語の Mitleben という言葉がいい。日本語に訳すと「ともに生きること」「共生」ということになろうか。

 倉田百三は、青春の書簡集である「青春の息の痕」という書でこの言葉を次のように使っている。

 私はどうも周囲の出来事に心を乱されずに生活することができません。そして周囲が幸福でなくては私も幸福にはなれません。私はしみじみとミットレーバンということを感じます。そして私の天稟(てんぴん)の中に何等かのよきものがありますなら、それを他人に与えるような生活がしたいと思います。

 この「周囲」をどの範囲で考えるのか? 「共にする人」は誰なのか? 家族? 愛する人、好きな人? 自分と関わりのある人? それとも世界中の人?
 宮沢賢治という人は「共にする」「周囲」の人を最も広い範囲で考えた人ではないかと思う。確か「農民芸術論」で「世界中が幸福にならなければ自分の幸福はない」というようなことを述べていた。
 でもそうだとすると、自分が幸福であることは全くなくなってしまうように思えるのだが……………。
 このことは改めて調べることにしよう。 
posted by mrgoodnews at 23:41| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月20日

「おはこ」と「十八番」とエースナンバー

 松坂が、レッドソックスへの入団交渉がまとまり、彼の背番号はエースナンバーの「18」があたえられたという発表があった。

 その翌日の毎日新聞の「余録」で、エースナンバーの「18」は「おはこ=十八番」と関係があるという記事があった。それは「日本でのエースナンバーの「18」を大リーグでも通用させるようにしてほしい」という文で結んであった。

 そもそも「十八番」とは何か? これはどうも「歌舞伎」の世界の言葉から始まったようだ。
 七代目市川団十郎が、市川家に伝える歌舞伎の種類をまとめたら、全部で「十八番」になった所から、この言葉が生まれた。
 
 その「十八番」を「おはこ」と呼ぶようになったのは、「十八番」を保存する木の箱のことをいうという説と、この箱のなかみものがホンモノであるかどうかを鑑定する「箱書き」に由来するものという節がある。

 
posted by mrgoodnews at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月11日

「スタディアム」の語源は「スタディオン」

 またまた、今日の昼食時の話しです。昨日書いた「惑星と遊星」の話しをしていたら、ベテランの理科の教員がこんな話しをしてくれました。

「スタディアムの語源を知っていますか? あれはスタディオンから来ています。スタディオンは太陽がのぼりかけて水平線から頭を出した時から、水平線を離れるまでに歩いた距離を示します。その幅が取れるところがスタディアムというわけです。だから語源はギリシャか古代メソポタミアというわけです。」
「そうなんですか。そういえば聖書にもスタディオンは長さの単位として使われていたような気がする。」

 さっそく家に帰って、「スタディアム」「語源」で google したら見つかりました。

 スタディオンの起源は、バビロニアのようです。その長さの定義の仕方がなかなかユニークなんです。
 朝の太陽が地平線にほんのすこし見えたとき、歩き始めます。そして、完全に太陽が見えるようになるまでにあるいた距離――それが、「1スダディオン」なのです。
 これは、なかなか実用的です。太陽に向かって歩いていけば、時間を計る必要もありません。太陽の視直径は約32分の角度(1分は1度の60分の1の角度)なので、太陽がその角度だけ移動するには、約2分かかります。ま、簡単に言えば、2分間に歩く距離が1スタディオンということです。これは、約180mになります。」
「古代オリンピックでは、1スタディオンの直線コースを持つ競技場を使用していました。したがって、1スタディオンが最短の競争距離でした、それ以上の距離になる競走は、走路を往復して行われました。
 スタートラインとゴールラインが石で作られていたおかげで、今でも、その距離を測ることができる場所があります。

  デルフォイ………178.35m
  アテナイ…………184.96m
  オリュンピア……191.27m

など、その長さはかなり異なっていることが分かります。
 やがて、「スタディオン」は、競争そのものを指す言葉として使用されます。そして、今では、競技用のスペースと観覧席が備わっている建造物を指すようになったわけです。

 そして聖書を探してみました。そして見つけました。「イエスが湖の上を歩く」所(マタイ14章24節)にあります。
「ところが、舟はすでに陸から何スタディオンか離れてあり……」とあります。
 またヨハネ11章18節には
「ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。」
とあります。
 まだまだその他にもあるでしょう。 

posted by mrgoodnews at 22:19| Comment(0) | TrackBack(1) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月10日

遊星と惑星 planet

 英語の planet を日本語では「惑星」とする訳と「遊星」とする訳がある。これはなぜか? 調べてみた。

 planet の語源はギリシャ語で「さまよえる人」を意味する。普通の星と違った動きをしていることが昔の人には「さまよえる」ようにうつったらしい。
 星空を「さまよえる星」を「惑った星」とするか「遊んでいる星」とするかでは見方が大きく異なってくる。
 東大系の天文学者が命名したのが「惑星」で、京大系が「遊星」としたとか。大学の学風が表れているのかどうかは知らない。
 もっとも「遊星」のほうが古くから使われていて、使用例は江戸時代にまでさかのぼるとか、しかし江戸時代には「游星」と書かれていたらしい。
posted by mrgoodnews at 23:16| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

世の中は澄むと濁るでおおちがい

 こういう歌があります。たぶんどこかで聞いたことがあるでしょう。出典は井上ひさし『巷談辞典』(文藝春秋、1981)。
 
 世の中は澄むと濁るで大違い
    福に徳あり ふぐに毒あり
    人は茶を飲み、蛇は人をのむ
    刷毛に毛があり はげに毛がなし
    墓はおまいり バカはおまえだ

 杉枯れて竹たぐひなき朝かな 
   → 杉枯れで 武田くびなき 朝かな
 これは武田方から上杉方へ贈ったうたとその返歌だったとか
 
 今日も元気だ、たばこがうまい 
   → 今日も元気だ、たばこ買うまい
 専売公社のCMのパロディだったとか

 のどかなる かすみぞのべのにほひかな 
   → のどかなる 粕味噌の屁のにほひかな
 これは十返舎一九の『続膝栗毛』にある歌とか。


 以下は「澄むと濁るで」ではないけれど、区切り方によって「おおちがい」の例です。これらは「かな漢字変換」の誤変換の事例でもあります。

 カネオクレタノム → カネオクレ タノム
          → カネオ クレタ ノム

 テキヘイシサツマタハコオフクスルモノオオシ
   → テキヘイ ジサツ マタハ コウフクスルモノオオシ
   → テキヘイシ、サツマタバコオ フクスルモノオオシ

 ゴフドウサマノシヲイタミ ツツシンデオクヤミモウシアゲマス
   → ゴフドウサマノシヲイタミツツ シンデオクヤミモウシアゲマス

 シンダイシャテハイタノム → 寝台車 手配タノム
              → 死んだ 医者手配タノム

 ゴゼンチュウハヤメニシテ → 午前中は 止めにして
              → 午前中 早めにして



 戦時中の標語を一字加えたり削除したりして意味が「おおちがい」になった例です。これは有名ですね。

 足らぬ足らぬは工夫が足らぬ → 足らぬ足らぬは夫が足らぬ

 ゼイタクは敵だ  → ゼイタクは素敵だ

 まだ似たような例があったら教えてください。


 
posted by mrgoodnews at 22:21| Comment(1) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月09日

「白河夜船」今日の昼食時の話題から

 昨日の昼食時の教員同士の話題から。会話の参加者は国語、生物、社会の若い教員、そして私。
 話題は、「日本語のリズムは4拍子だ」という最近私がこのブログに書いたことであった。「地口」の話題も出た。
 国語の先生はすぐに「広辞苑」を持ってきて調べていた。昼食を取る部屋に「広辞苑」などがすぐ手元にあるところがうちの学校のいいところだと思う。
 途中から話題に加わった生物氏が「これはおもしろい話だ。こういう話しは好きだ」と加わってきた。

 かれは「白河夜船という言葉を知っていますか」と聞いてきた。
 社会科の若い教員は知らなかった。もう死語になっているのか?とおもった。
 わたしは「ぐっすり眠っていて何も知らないことではないか」と答えたら「正解」といわれて嬉しくなった。
 ところでこの生物氏いわく
「この言葉には二つの意味がある。ひとつは京都に行ったことのない人が地名の白河について聞かれて川の名と思い込み、夜船で通って眠っていて知らないと答え、嘘がばれた話からくる。転じて眠り込んでいて、その間のことを知らないこと。」
 
 いろいろな分野の教員たちが、それぞれの蘊蓄を披瀝し合う昼食時の会話は格調が高く、興味深い。なかでも生物氏の自分の分野を越境した博学ぶりにはいつもながら舌を巻いてしまう。
 彼は、高校時代に憶えたという日本語の七五調の名文をいくつか披露してくれた。方丈記の「ゆく川の流れはたえずしてしかももとの水にあらず……………。」とか万葉の長歌とか、平家物語の冒頭とか、いくつかの名文をけっこう長くすらすらと唱えてくれた。

 「この前、生物の授業のときに方丈記のくだりを生徒に披露しても生徒はぽかんとしてなんのこっちゃと無反応のなのですよね」と嘆いておられた。「せめてほーっとかへーっとかいって驚いてくれなくては」と言う。
「生物の時間に突然方丈記が出てきても、生徒はぽかんとするのも無理はないよね」とは国語氏の生徒を弁護するの弁。

 このブログを読んでいる生徒諸君がいたら(あまりいないはずだが)これらの教員が誰かはわかるはずだから、この生物氏が、こういう暗記している古典の名文を披露した時には、最大限の敬意を表して「もっと、もっと」と強くリクエストすること、そうするとたぶんその授業はこの名文披露の授業となってしまうであろうことは必定であろう。
 
posted by mrgoodnews at 09:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月07日

「今もいつも世々に至るまで」

 カトリック教会のミサのときに
 
キリストによってキリストとともにキリストのうちに
 聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、
 すべての誉れと栄光は、世々に至るまで

という言葉が唱えられる。

 また栄光唱という祈りがある。これのちょっと前まで唱えられていた文語版の祈りは次のようなものであった。
 
願わくは、聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊に栄えあらんことを
 はじめにありしごとく今もいつも世々に至るまで


 この祈りが唱えられる時に、私はいつも気恥ずかしくなる。それは私の名前が「至(いたる)」だからである。
 「すべての誉れと栄光は永遠に私のためにあるように」と聞こえてしまうのである。そんな「誉れや栄光」なんて、私にはいらない。過分な祈りである。
 まずいことにこの話を聞いてしまった人は、ミサの時にこの祈りを唱えるたびに私のことを思い出してつい祈ってしまうらしい。中にはこの祈りを唱えるたびに、私のほうを見てにやっと笑う人がいるからよけいに困ってしまう。

 聞くところによると、近いうちにミサの典礼文が大幅に改訂されるらしい。そうしたらこの言葉はなくなることを願っているのだが、実際にはそうも行かないらしい。まことにこまったものである。


posted by mrgoodnews at 00:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月06日

「お釈迦になる」という言葉の語源

 品物をつくるときに、使い物にならないものを作ってしまったことを「お釈迦になる」というが、この言葉になぜお釈迦様が出てくるのかをインターネットで調べていくとなかなか面白い語源にぶち当たる。

 一説によると、阿弥陀の像を鋳るはずのものが、釈迦の像を鋳てしまったという話から、鋳物、製鉄関係者の間で用いられ始めた言葉という説がある。<国語大辞典(小)> 

 もうひとつがまた面白い。「ヒ」と「シ」の区別が付かない江戸っ子の言葉からきたという説である。「火が強かった」を「シが強かった」と喋り、4月8日(シがつようか)の花祭り(釈迦の誕生日)→お釈迦様と洒落たもの、ともいう。

 博打などで無一文になることも「お釈迦になる」と言うが、この場合の「お釈迦」は、花祭りに水をかけられるお釈迦様のように、裸にされるということから出た言葉で、作り損なった製品や、使い物にならなくなった意味の「お釈迦」の語源とは関係ないと思われる。

 ついでに、似たような意味の言葉に「おじゃんになる」ということばがある。これは物事が途中で駄目になること。不成功に終わること。「じゃん」は近世、火事が鎮火すると半鐘をジャンジャンと二打したところから。原義は終了の意という<国語大辞典(小)>

 言葉の語源を訪ねていくとなかなか面白いことを発見する。

posted by mrgoodnews at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | ことば | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする