2008年05月26日

スーフィーの瞑想文様


スーフィー もう20年以上前のことですが、本屋で立ち読みした本に「スーフィーの瞑想文様」という幾何学紋様がでていました。
 何という本かは忘れてしまったのですが、その文様を思い出して作図してみたものが、本などを整理していたら発見されました。
 そのときは、デジカメもケイタイもありませんでしたし、あったとしても本屋で撮影するのは、やはり気がとがめます。そこでそれを記憶してできるだけ正確に描いてみたのですが……………。

 その本にどのような注釈が書かれていたかも、忘れてしまったのですが、この図を見ていると、どことなく秘められたパワーが湧き出てくるような気がしませんか? ちょっと神秘的で不思議な文様です。



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2008年05月23日

シンシア・ライラント「神さまが………」を図書館で見つけた


ライラント 横浜市立鶴見図書館でこんな本を見つけました。

 「神さまが………」シンシア・ライラント著 訳・絵 ささめゆき 偕成社刊
 英語では「God Went to Beauty School」by Cynthia Rylant

「この本はシンシア・ライラントの4作目。神さまが人間世界で生活をしてみると、どんなことが起こるのでしょうか。神さまがビューティスクールに行った。神さまがお医者さんに行った。神さまが風邪をひいた。等々、ユーモアもある短編話です。」

という紹介がジュンク堂のホームページにありました。

たとえば

神さまがビューティスクールに行った

上手にパーマをかけられるといいなと
ビューティスクールに入学した神さまだが
途中でネイルアートに夢中になってしまった
それも卒業と同時にお店を出すほどの熱の入れよう
看板は
<ジムのネイルサロン>
本当は
<神さまのネイルサロン>と呼ばれたかったが、
そんなことをしたら
みだりに神の名をつかったって
いわれそうだし
神さまの店だったら
チップをおかなくてもいいんじゃないの
というお客があらわれそうだしね
それにしても
よくネイルアートにはまったもんだ
だいたいが人間の手が好きだった
自分がつくったもののなかで最高の傑作の一つが
人間の手だったから
そっとてのひらに
お客さんの手をのせて
ほっそりとした指を見ると
うっとりしてしまう
なんと関節の繊細なこと
まるで鳥の羽のよう
しばらく、じっと見とれて
すべての爪に気に入った色をぬる
そしてこういう
「なんとキレイなんだ」
神さまが言うのだから
これは本当


神さまが風邪をひいた

神さまはまるで風の子
これまで一度も風邪などひいたことはなかった
それで得意顔
ところがここにきて
鼻水ぐちょぐちょ
風邪をひいては
威厳も保たもてない
「汝、それをするなかれ」
と雷を轟かすところ
「汝、それをハクション!」
では、だれもが笑ってしまう
おまけに
神さまは
コミックとジュースがほしかった
さらにはベッドの側でやさしく看病してくれる
誰かさんもほしかった
それで古い友だちマザー・テレサに
電話したってわけ
お見舞いに来てちょうだい
ついでにコミックも買ってきて
もちろんマザー・テレサはその通りにした
マザー・テレサったら
苦しんでいる人を愛してくれるのだ
たとえそれが神さまであっても
というより
神さまだからなおさら大事に
するんでしょうけれどね


 こういう調子である。
 この「神さま」は、のんびり屋でやさしくて、好奇心と冒険心が旺盛で、あいきょうがあって、親しみやすく、でもさびしがりやで、ちょっとぬけていて、威厳がなくて……………。でもやっぱり神さまだと思わせるのですね。

 シンシア・ライラントはアメリカ、ヴァージニア州1954年生まれの絵本作家、童話作家。
 この作家の他の著作も読んでみたくなったし、英語のオリジナルも読んでみたくなった。


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2008年05月13日

オリンパス「私は、こんなに、生きている」の全面広告


olympus 4月17日の朝日新聞に、オリンパス光学の全面広告が載っていて、そのコピーに惹かれた。
「そうそう、まさに私の生き方だ」と思ったからである。いつもデジカメを持ち歩くライフスタイルである。

 私は、こんなに、生きている

デジタルカメラを、ぶらさげて。
いつもより、 ひとつ手前の角を曲がる。
いつもなら、渡らない橋を渡る。
いつもより、きょろきょろしてみる。
いつもなら、気付かなかったものが 見えてくる。

こんなところに 白い花が咲いている。
こんなところに ホーローの古い看板がある。
こんなところに ゾウさんの滑り台がある。
こんなところから 遠くの山が見える。

よく買いに来るこのパン屋さん、
「ショパン」っていう名前だったんだ。
でも店内の音楽は、歌謡曲(笑)。

カメラを向ければはにかむ子供たち、「コンニチハ」。
デジタルカメラひとつで、
いつもの町が違った顔を見せてくれる。
なにげない散歩も、ちょっとした小旅行になる。

写真って、単なる記録じゃないんだ。
ひとつひとつが、発見なんだ。

写真には写っていないけれど、
いつもカメラのこちらには、
わくわくどきどきしている私がいる。
今度はいつ行こうかな。

 ただ私の持っているデジカメはオリンパスではないけれど…………。
 私が初めてデジカメを手にしたのは、1994年カシオの QV-10 だった。最初は38万画素だったか。あれから3台買い換えて、現在の SONY CyberShot DSC-P3 280万画素になる。もっとも今のものはつかって5年目になるかな。
 iPhoto に蓄えられた画像はまもなく1万点になる。

 まさに、このコピーが表現するような「毎日が発見である」生き方をつくりだしてくれたのはデジカメであった。そしてそれを自分だけで楽しむのにとどめず、発表して人と分かち合う場を与えてくれたブログがあったからこそ継続できたのである。
 私の生き方を支えてくれるデジカメとブログに感謝!

 
 
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2008年05月08日

高村光太郎は帰国直後に日本人をこう描いていた。題して「根付けの国」

「詩ってなんだろう」(谷川俊太郎著 筑摩書房刊)にはこんな詩も紹介されていた。

 「根付の国」  高村光太郎

 頬骨が出て,唇が厚くて,眼が三角で,名人三五郎の彫った
 根付(ねつけ)の様(よう)な顔をして,
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない,こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まって,納まり返った
 猿の様な,狐の様な,ももんがあの様な,だぼはぜの様な,
  麦魚(めだか)の様な,鬼瓦の様な,茶碗のかけらの様な日本人


 高村光太郎は,詩人であり,彫刻家である。「智恵子抄」はあまりにも有名である。
 この詩は,明治44年1月に発表されたもので,長い外国生活から帰った直後に書かれたという。そんなかれには日本人がこのように見えたらしい。

 根付は,印籠や煙草入れなどを帯に挟んだとき,落ちないように,それらの紐の端に付ける小彫刻や珍石などのこと。今なら携帯のストラップの端に付けるグッズにあたるだろう。
 名人三五郎は,根付彫刻の名匠といわれた人。ただし、ほかの詩集には「名人周山」とでていた。
 ももんがあは,リス科の動物モモンガのこと。

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2008年04月27日

「マリアのうた」を「遠い世界に」のメロディで歌う

 「マリアのうた」を「遠い世界に」のメロディで歌う替え歌がなかなかいいです。
 「遠い世界に」は「5つの赤い風船」というグループが歌っていました。その歌はここで聴くことができます。
 私たちは教会青年会でギターを弾きながらよく歌ったものです。おそらく「翼をください」とともにもっとも人気のあったフォークソングではなかったかと思います。

 さてそのマリアのうたは以下のようなものです。歌詞もなかなかシンプルでよろしい。

マリアのうた

昔、ユダヤの小さな村に、
瞳の澄んだ、心のきれいな
乙女が一人住んでいました。
その名はマリア、貧しいけれども、
希望を胸に、明日(あす)を見つめて
いつも神をたたえてました。

ある日、一人の天使が告げた
「幸せ者よ、あなたはきっと、
救い主の母となるでしょう。
喜べ、マリア、生まれでる子は
愛と平和をこの世にもたらす
神の御子(おんこ)、イエスキリスト」

霊に満たされ、マリアは歌う。
「私は神をたたえ敬う。
神は、弱い私を選び
偉大なことをなさいました。
これから後(のち)の人は言うでしょう、
マリアさまは幸せ者と」


 このうたの歌詞は、大阪教区の浜崎神父さんとかいう方で、このかたはその後海でなくなられたとか………。


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2008年04月21日

「ほほえみ」という詩 ロバート・バー

 この私のブログ画面のレイアウトが崩れてしまいました。今修正の方法を問い合わせています。
 今しばらくご辛抱をお願いいたします。
 かわりにお詫びのしるしに「ほほえみをあなたに」という詩をさし上げましょう。


『ほほえみをあなたに』
                ロバート・バー

 ほほえみ、それは少しも元手はかかりません。
 しかし、多くのものを人に与えてくれます。

 ほほえみ、それは人に与えてもいっこうに減りはしません。
 しかし、もらった人を限りなく豊にします。
 しかし、このほほえみはお金で買うことも、人から借りることも、
 盗むこともできません。

 ほほえみ、それを生み出すのに少しも時間はいりません。
 しかし、それを受けた人の記憶の中には
 永遠に残ることさえあります。

 ほほえみ、それがなくても生きていけるほど強い人は
 この世にいません。
 それがなくてもいいほど豊かな人もいません。

 ほほえみ、それは疲れ切った心に休みを与え、
 失望した人に励ましを与え、
 悲しんでいる人に光をもたらしてくれます。

 ほほえみ、それは人生のあらゆる問題に対して
 神が与えてくださる妙薬です。
 ある人はほほえむことができないほど
 疲れているかもしれません。
 だから、その人にあなたのほほえみをあげてください。
 あなたのほほえみを最も必要としているのは、
 その人かもしれないのですから。





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2008年04月20日

西島三重子「池上線」が朝日新聞で大々的に紹介されていた。

 4月19日の朝日新聞「be on Saturday」の「うたの旅人」にわたしの大好きな西島三重子「池上線」が紹介されていた。

 わたしが西島三重子のファンであることは以前このブログでも紹介した。
 1972年わたしが結婚して2年ほどちょうどこのうたの舞台となった池上線沿線の品川区荏原というところでアパート暮らしをした。確かこのころにこのうたと出会ったと思うのだが、このうたがLPレコードのなかの1曲として発売されたのは1975年9月、シングルカットされたのが1976年5月のことであったとこの記事には記されていた。

池上線

佐藤順英 作詞
西島三重子 作曲

古い電車のドアのそば
二人は黙って立っていた
話す言葉をさがしながら
すきま風にふるえて
いくつ駅を過ぎたのか
忘れてあなたに聞いたのに
じっと私を見つめながら
ごめんねなんて言ったわ
泣いてはだめだと胸にきかせて
白いハンカチを握りしめたの
池上線が走る街に
あなたは二度と来ないのね
池上線に揺られながら
今日も帰る私なの

終電時刻をたしかめて
あなたは私と駅を出た
角のフルーツショップだけが
灯りともす夜更けに
商店街を通りぬけ
踏切渡った時だわね
待っていますとつぶやいたら
突然抱いてくれたわ
あとからあとから涙あふれて
後姿さえ見えなかったの
池上線が走る街に
あなたは二度と来ないのね
池上線に揺られながら
今日も帰る私なの


 YouTube にはうた付きの映像がいくつもある。
 またここには歌詞とギター演奏がある。

 この歌詞の中の駅とはどこなのか、わたしにはとても興味があったことである。
 私の住んでいたところの戸越銀座駅には「角のフルーツショップ」があって、終電車の時間になっても明かりをともしていた。だからここではないかともおもえたのだが、残念なことに戸越銀座駅の近くの商店街を抜けたところに踏みきりはなかったので、ここではないなという感じもした、たしかに池上線沿線にはこのような駅がいくつもあった。
 この新聞記事では、作詞家の佐藤順英氏が、この駅は池上線の池上駅であり、作詞家の体験をもとに書かれた詩であると紹介されている。
 この記事を読んで、永年の疑問が解けた。

 またこの記事には、当時この曲のキャンペーンのために東急に協力を依頼したが、東急は「古い電車」の「すきま風」が会社の方針に合わずにことわられたということも紹介されていた。池上線を走る電車は東急東横線のお下がりであったのである。
 そしてこの「古い電車」は青森県の十和田観光電鉄で今も元気に走っているということも紹介されていた。

 「池上線」や「のんだくれ」「ジンライム」を作詞した佐藤順英氏は現在山形でベンチャー企業の社長をしているという。

 この記事のおかげで、あのころがよみがえってきてとても懐かしくも嬉しくもあったことを感謝したい。

 
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2008年04月02日

「獄窓の歌人」島秋人の最期の歌

 島秋人は「獄窓の歌人」といわれた。

 かれは昭和9年満州で生まれる。戦後引き揚げてきて、貧困と病弱の中で育ち、母とも死別する。学校に行ってもいじめられ、さげすまれ、次第に不良化し、犯罪を繰り返し、少年院に送られたりする。
 そしてついに、餓えのあまり押し入った家であやまって殺人を犯し、死刑の判決を受ける。昭和37年のことである。

 彼の少年時代は何一ついいことがなかったが、ただ一度だけ図画の先生にほめられたことを思い出し、その先生に獄中から手紙を書く。その先生の妻が短歌を詠む人であった。それから8年間の獄中の死刑囚と先生夫妻との手紙と短歌のやりとりが始まる。

 死刑が確定した日の歌である。

  わが死にてつぐない得るや被害者の
    みたまに詫びぬ確定の日に

 その先生に宛てた手紙の中に次のような文がある。

 教師はすべての生徒を平等に愛して欲しいものです。一人だけを暖かくしても、一人だけを冷たくしてもこまります。目立たない少年少女も等しく愛される権利があります。むしろ目立った成績の優れた生徒よりも、目立たなくて覚えていなかったような生徒の中にこそ、いつまでも教えられたことの優しさを忘れないでいる者が多いと思います。忘れられていた子供の心の中には、一つだけでもほめられたというそのことが一生涯繰り返して思い出され、なつかしいもの、楽しいものとして、いつまでも残っているものです。私がそうです。

 そして昭和42年死刑が執行される。その前日に彼は次のような歌を残している。

  ふきあがるさびしさありて
    許されぬクレヨン欲しき死刑囚のわれ
  世のためになりて死にたし
    死刑囚の眼はもらひ手もなきかも知れぬ
  助からぬ生命と思へば
    一日のちひさなよろこび大切にせむ
  愛に飢ゑし死刑囚
    われの賜ひし菓子地に置きて蟻を待ちたり
  にくまるる死刑囚
    われが夜の冴えにほめられし思ひ出を指折り数ふ
  死刑囚のわれを養子にしたまひし
    未婚の母よ若く優しき

 さらに処刑の日に、被害者の夫Sさんに宛てた手紙荷は次のような思いが表現されている。

 長い間お詫びも申し上げずに過ごしていました。申し訳ありません。本日処刑を受けることになり、深くお詫びします。最後まで犯した罪を悔いていました。亡き奥様に御報告して下さい。私は詫びても詫びても詫びが足らず,ひたすら悔を深めるだけでございます。私の死によって、いくらかでもお心の癒やされますことをお願い申し上げます。申し訳ないことでありました。ここに記してお詫びの事に代えます。皆様の御幸福をお祈り申し上げます。


 そしてさらに続ける。

 僕は気の弱い人間でしかない者だったと思う。でも生きることがとても尊いことだけは解ります。僕の犯した罪に対しては、『死刑だから仕方なしに受ける』というのではなくて、『死刑を賜った』と思って刑に服したいと思います。罪は罪、生きたい思いとは又別なことだと思わなければならない。


 これほど、自分の罪深さを悔い、ゆるしを求め、いのちの尊厳を自覚しているのに、彼を死刑にせざるを得ない「法の厳しさ」というものは、いったい何なのだろうか。
 
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吉野弘「白い表紙」は男の視点からの「いのちのうた」である。

 毎日新聞の「余録」3月27日に吉野弘の「白い表紙」という詩が紹介されていました。この記事では、この詩から始まって、産婦人科医師の不足問題について論じています。

 わたしも中3の「総合」の「いのち」に関する授業で、吉野弘の詩をいくつか生徒とともに読んでいます。
「奈々子に」「生命は」「夕焼け」「人に」「身も心も」「I was Born」などの詩をわたしもとても好きです。
 ただ、この詩は知りませんでした。

  白い表紙   吉野弘作

ジーンズの、ゆるいスカートに
おなかのふくらみを包んで
おかっぱ頭の若い女のひとが読んでいる
白い表紙の大きな本。
電車の中
私の前の座席に腰を下ろして。

白い表紙は
本のカバーの裏返し。
やがて
彼女はまどろみ
手から離れた本は
開かれたまま、膝の上。
さかさに見える絵は

出産育児の手引。

母親になる準備を
彼女に急がせているのは
おなかの中の小さな命令――愛らしい威嚇(いかく)
彼女は、その声に従う。
声の望みを理解するための知識をむさぼる。
おそらく
それまでのどんな試験のときよりも
真摯(しんし)な集中

疲れているらしく
彼女はまどろみ
膝の上に開かれた本は
時折、風にめくられている。


 ただ、中3の女子と吉野弘の詩を読んでいると、彼女たちはどうも中年の男の視線を感じてしまうらしく、この詩の世界に入りきれないのですね。
 その典型はあの「夕焼け」という詩です。
 この詩にもそれを感じてしまうでしょう。
 たしかに、この詩は男が描く「いのちのうた」なのでしょう。
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2008年02月28日

「一太郎」広告コピー

美しくなくてもよいのです。
饒舌でなくてもよいのです。
どうか、どうか、
あなた自身の言葉で、
あなたの気持ちを
一生懸命伝えてください。



一太郎広告JUST SYSTEM 「一太郎」の広告コピーでした。
このシンプルさが好きです。

わたしは今も Mac で「一太郎v5」を使っています。
Mac で「一太郎2008」を使えるといいのになとこの広告コピーを見ながら恨めしく思いました。

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2008年02月03日

「君は念力の存在を信じるかね?」

 高校時代、化学の先生がこんなことを言っていたことを思い出した。この先生は「エロジー」といわれていて、生徒からはあまり好かれている先生ではなかったのだが、彼が授業中に述べたことはけっこう残っているのである。

 それは「念力」の話だった。
 「君たちは『念力』というものの存在を信じるかね? サイコロを何百回、何千回とふっていくとそれぞれの目が出る確率は6分の1であるということは知っているよね。ところが、サイコロを振るときに、たとえば1の目を出すのだと心に念じて、サイコロを振ると1がでることが多くなるのだ。100回や200回ではダメだよ、何千回とふらなければダメだ。ウソだと思ったらやってご覧。」

 この「実験」を実際にした生徒がいるかどうかはわからない。でもきっとだれかやったはずだ。あの学校はそういう学校だった。
 私も、いつかやってみたいと思っているのだが、まだ試していない。
 それがやれる日が近づいてきた。

 この話は、どこか「祈り」というものの効果と似ているのかもしれない。
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2008年01月18日

フランシスコの「平和の祈り」について

 私の学校ではいま「歌集」の改訂をしています。
 その「歌集」に載っているフランシスコの「平和の祈り」が問題となっています。この祈りはもっともすぐれた祈りの言葉として最近教会でも良く唱えられるようになりました。しかし、これにはいろいろな訳があるので、果たして今うちの学校で使っているものが一番いいものかどうかが問題となっているのです。

 うちの学校で唱えられている「平和の祈り」は次のようなものです。私の教会でもこの祈りが唱えられています。

神よ、わたしを、
あなたの平和のために用いてください。
憎しみのあるところに、愛を
争いのあるところに、和解を、
分裂のあるところに、一致を、
疑いのあるところに、真実を、
絶望のあるところに、希望を、
悲しみのあるところに、よろこびを、
暗闇のあるところに、光をもたらすことができるように、
助け、導いてください。

神よ、わたしに、
慰められることよりも、慰めることを、
理解されることよりも、理解することを、
愛されることよりも、愛することを望ませてください。

わたしたちは、
与えることによって、与えられ、
すすんでゆるすことによって、ゆるされ、
人のために死ぬことによって、永遠に生きることができるからです。


英語では次のような文が一番多いようです。

LORD,
make me an instrument of Your peace.
Where there is hatred, let me sow love;
where there is injury, pardon;
where there is doubt, faith;
where there is despair, hope;
where there is darkness, light;
and where there is sadness, joy.

O DIVINE MASTER,
grant that I may not so much seek to be consoled as to console;
to be understood as to understand;
to be loved as to love;
for it is in giving that we receive;
it is in pardoning that we are pardoned;
and it is in dying that we are born to eternal life.

こんな訳もあります。

わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
憎しみのあるところに愛を
いさかいのあるところにゆるしを
分裂のあるところに一致を
疑惑のあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください

慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することをわたしが求めますように 
わたしたちは与えるから受け 
ゆるすからゆるされ 
自分を捨てて死に 
永遠のいのちをいただくのですから



問題となっていることは

1.最初の部分の「平和の道具(instrument)」「平和の器」と訳されているこの言葉を生かすべきかどうかですね。
2.「争い→和解」とするか「いさかい→ゆるし」とするか 英語では「injury → pardon」です。
3.「疑い→真実」とするか「疑惑→信仰」とするか 英語では「doubt → faith 」です。
4.一番の問題は最後の部分です。
 英語では it is in dying that we are born to eternal life
 日本語では「人のために死ぬことによって永遠の命を得る」とあるものや「自分を捨てて死に永遠のいのちをいただく」とあるものもあります。
 この二つには、それぞれの解釈がふくまれています。
 英語文は「死において永遠のいのちに生まれる」だけです。
 わたしはこの部分はもっともシンプルにしていろいろな解釈があり得るようにするのがもっともいいのではないかと思います。
5.「与えることによって与えられ、ゆるすことによってゆるされ……………。」とすると与えること、ゆるすことが与えられること、ゆるすことの条件になってしまいかねない。むしろ「ゆるすことのうちにゆるされ、与えることのうちにあたえられ、死ぬことのうちに永遠のいのちに生きる」としたほうが英語の「in giving」「in pardoning 」「in dying 」の表現には忠実なような気もします。

 この祈りはフランシスコ自身の作った祈りではないとされています。しかしフランシスコの精神と生き方を実によく表現しているということで20世紀になってひろまったもののようです。あるところには次のように記載されていました。

 この詩は、1913年に、フランスのノルマンディー地方で、「信心会」の年報『平和の聖母』(1913年1月、第95号)に掲載された。さらに、 1916年1月、バチカン発行の『オッセルヴァトレ・ロマーノ』紙で公認された。そして、第一次世界大戦の中、人々に広まっていった。
 第二次世界大戦が終わった1945年10月、サンフランシスコで開かれた国連のある会議の場で、アメリカ上院議員トム・コナリーがこの「平和の祈り」を読み上げたという。それ以降、この詩が広く知れ渡るようになったらしい。

 皆さんはどの祈りがいいと思いますか?
 多少の訳の違いがあり、こめられた意味の違いもあったけれど、それでもこの祈りは「究極の祈り」といってもいいように思います。
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2008年01月14日

「成人の日に」谷川俊太郎

 1月14日の朝日新聞の社説に「成人の日に」(谷川俊太郎)が紹介されていた。社説では一部抜粋であったが、ここでは全文を紹介しよう。

成人の日に 谷川俊太郎


人間とは常に人間になりつつある存在だ/かつて教えられたその言葉が
しこりのように胸の奥に残っている
成人とは人に成ること もしそうなら
私たちはみな日々成人の日を生きている
完全な人間はどこにもいない
人間とは何かを知りつくしている者もいない
だからみな問いかけるのだ
人間とはいったい何かを
そしてみな答えているのだ その問いに
毎日のささやかな行動で
人は人を傷つける 人は人を慰める
人は人を怖れ 人は人を求める
子どもとおとなの区別がどこにあるのか
子どもは生まれでたそのときから小さなおとな
おとなは一生大きな子ども
どんな美しい記念の晴着も
どんな華やかなお祝いの花束も
それだけではきみをおとなにはしてくれない
他人のうちに自分と同じ美しさをみとめ
自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ
でき上がったどんな権威にもしばられず
流れ動く多数の意見にまどわされず
とらわれぬ子どもの魂で
いまあるものを組み なおしつくりかえる
それこそがおとなの始まり
永遠に終らないおとなへの出発点
人間が人間になりつづけるための
苦しみと喜びの方法論だ


 この詩の出典は「魂のいちばんおいしいところ」(谷川俊太郎詩集 谷川俊太郎/著 サンリオ 1990.12p.92-94)です。
 後半の10行ぐらいがいいですね。とくに「他人のうちに自分とおなじ美しさをみとめ/自分のうちに他人と同じ醜さをみとめ」というところが好きです。
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2008年01月08日

春の七草と七草がゆ

 今日は「七草がゆ」の日でした。昨日の教会の新年会に「七草がゆ」がでておいしくいただきました。

 ところで「春の七草」いえますか?

 セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ、春の七草

 という歌がありました。

 そういえば前にこのブログで「七草あえ」という料理を紹介しました。じつは教会の新年会にこれも自分で作ってもっていったら、けっこう好評でした。

 秦野の農家に嫁いだ妹が、七草がゆの日には、玄関に七草をならべてそれを包丁で叩きながら次のようなおまじないを唱えていると教えてくれました。

ななくさなずな とうどのとりが
にほんのくにへ わたらぬさきに
まだ見ぬうちに
すととのとん♪


この歌の意味は調べてみると、こんなことが書いてありました。

「唐土の鳥が日本の土地へ、渡らぬ先に、なずな七草はやしてほとと」で、唐土の鳥は鬼車鳥、隠飛鳥などと呼ばれる凶鳥だそうです。農耕に悪さをするこの鳥が海を越えて日本へ渡ってくる前に、まな板になずなを載せ、それを包丁、すりこ木、菜箸などの台所用品で叩いて追い払い、五穀豊穣を祈る「鳥追い」の儀式で唱えるのが問題のはやし言葉だそうです。それが七草粥に結びついたのだろうと見られています。


 なかなか意味の深いうたというかおまじないというか。
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2008年01月05日

「花であり、月であり、」花王の元旦の新聞広告


花と月 元旦の新聞の全面広告にはときどきはっとするようなものがあります。これもそうでした。こういうコピーをつくりだすコピーライターに敬意を表します。

さあ、あたらしい、朝へ


移り変わる時代、流れゆく時の中で
私たちの暮らしも、一日として同じ日はありません。

時には、心を痛めることも
思い通りいかないことも、あるでしょう

それでも、どんなときでも。
私たちは、あたらしい朝を迎えます。

空を仰いで、すくっと立つ「花」のように。
うつりゆく日々に、凛としたまなざしをたたえる「月」のように

自分をたいせつに、育んでいくこと。
毎日をていねいに、つづっていくこと。
それこそが、「こころ豊かな暮らし」を
支える力になるのだと、私たちは信じています。

私たちはそばにいて、わかちあいたい。
たとえば、あなたが、その髪、その肌に触れるとき、
お日さまの光をたっぷり浴びた衣類につつまれるとき、
安らかなよろこびや、笑顔で満ちていくことを。

あなたというたった一人の存在が
背筋をすっと伸ばし、あたらしい朝にむかって歩き出す瞬間を。

そう、花であり、月であり、
――――あなたです。

 でもこれって詩というよりもやはり広告のコピーなのですね。なんでそう感じるかというと、「着物の下から鎧が見えてしまう」のです。「花と月」というと「花王」ですものね。
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2008年01月04日

「祈り」と「宿題」谷川俊太郎

 谷川俊太郎の詩集「二十億光年の孤独」のなかに「祈り」という詩がありました。いかにもこの人らしい詩だなって思いました。

祈り


一つの大きな主張が
無限の時の突端に始まり
今もそれが続いているのに
僕等は無数の提案をもって
その主張にむかおうとする
( ああ 傲慢すぎる ホモサピエンス 傲慢すぎる)

主張の解明のためにこそ
僕らは学んできたのではなかったのか
主張の歓喜のためにこそ
僕らは営んできたのではなかったのか

稚い僕の心に
( こわれかけた複雑な機械の鋲の一つ)
今は祈りのみが信じられる
( 宇宙の中の無限小から
  宇宙の中の無限大への)

人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりのまえに僕は祈ろう

( ところはすべて地球上の一点だし
  みんなはすべて人間のひとり)
さびしさをたえて僕は祈ろう

一つの大きな主張が
無限の突端に始まり
今もなお続いている

そして
一つの小さな祈りは
暗くて巨きな時の中に
かすかながらもしっかり燃え続けようと
今 炎をあげる


 特に「稚い僕の心に(こわれかけた複雑な機械の鋲の一つ)今は祈りのみが信じられる( 宇宙の中の無限小から宇宙の中の無限大への)」という部分もいいと思うし、「人々の祈りの部分がもっとつよくあるように
人々が地球のさびしさをもっとひしひし感じるように
ねむりのまえに僕は祈ろう」というところもとてもいい。
 クリスチャンの祈りとは違うものを感じます。「宇宙の中の無限大」というのが「神さま」なのかな?

 ついでにおなじ詩集の中につぎのような詩もありました。

宿題


目をつぶっていると
神様が見えた

うす目をあいたら
神様は見えなくなった

はっきりと目をあいて
神様は見えるか見えないか
それが宿題


 やはり祈りは目をつぶってしなければいけないのですね。でもなんで「宿題」なのかな? この宿題はいつまでにしなければいけないのだろうか?
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2008年01月02日

山村暮鳥という詩人の詩と信仰 その1

 私がこのブログで紹介しようとしながら、なかなか書き出せないテーマの一つが、山村暮鳥という詩人である。かれは詩人であるとともに、聖公会の伝道師であった。彼の詩とともに彼の生き方と信仰に興味をひかれるのである。

 まず暮鳥の詩をいくつか紹介しよう。彼の詩は国語の教科書にもよく紹介されるから、その名前はよく知られているだろう。
 彼の代表作は「風景 ー純銀もざいく」という詩である。こういう詩である。きっとどこかで読んだことがあるに違いない。

風景

純銀もざいく  


いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな


「いちめんのなのはな」という言葉の繰り返しの詩である。最初に読んだときには「なんだこの詩は」と思われるだろう。「いちめんのなのはな」という言葉のリフレインの間に第1節には「かすかなるむぎぶえ」第2節には「ひばりのおしゃべり」第3節には「やめるはひるのつき」という句がそれぞれはさまれている。
 さらに菜の花ならば「純金もざいく」とするべきではないか、なぜ彼はこの詩を「純銀モザイク」としたのであろうか?

此の世界のはじめもこんなであったか


うすむらさきのもやのはれゆく
海をみろ
此のすきとおった海の感覚
おお此の黎明
此の世界のはじめもこんなであったか
さざなみのうちよせるなぎさから
ひろびろとした海にむかって
一人のとしよった漁夫がその掌をあわせている
渚につけた千鳥のあしあともはっきりと
けさ海は静穏かである

 早朝の穏やかな海の日が昇る前のとき、「此のせかいのはじめもこんなであったか」と「天地創造」について思いめぐらす。それに向かって「一人の漁夫が手を合わせて祈っている」。
 この詩を読むと暮鳥はやはりクリスチャンなのだと思わせる。

友におくる詩


何も言うことはありません。
よく生きなさい。
つよく
つよく
そして働くことです。
石工が石を割るように
左官が壁を塗るように
それでいい
手や足を動かしなさい
しっかりと働きなさい
それが人間の美しさです
仕事はあなたにあなたの欲する一切のものをあたえましょう


 「人間が美しく生きることの原点は手や足を動かして働くことにある」という言葉に共感を覚えます。ところがこういうように働く美しさを人間は忘れつつあるのも現実である。
 平易でわかりやすい詩だが、その奥に秘められている意味は奥深い。

 暮鳥の詩は晩年になるほど。平易で短くなり、ひらがなで書かれたものが多くなる。

 わたしは高校時代からこの詩人の詩が好きだった。山村暮鳥詩集という文庫本をよく読んでいた。特に好きだったのは次の「沼」という詩だった。



やまのうへにふるきぬまあり、
ぬまはいのれるひとのすがた、
そのみづのしづかなる
そのみづにうつれるそらの
くもは、かなしや、
みづとりのそよふくかぜにおどろき、
ほと、しづみぬるみづのそこ、
そらのくもこそゆらめける。
あはれ、いりひのかがやかに
みづとりは
かく、うきつしづみつ、
こころのごときぬまなれば
さみしきはなもにほふなれ。

やまのうへにふるきぬまあり
そのみづのまぼろし、
ただ、ひとつなるみづとり。

 しかし、暮鳥という詩人がより好きになったのは実は今から10年ほど前にこの文庫本に載っていない一つの長編詩に出会ったときからであった。その詩は「荘厳なる苦悩者の頌栄」という題の詩であった。
 この詩については改めて紹介したい。  
posted by mrgoodnews at 22:43| Comment(2) | 詩、歌、祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月01日

「いま始まる新しいいま」川崎洋の詩ではじまった二〇〇八年

 正月に毎年することは「初詣巡礼ツアー」の他に、元日の新聞を買い集めること。
 巡礼ツアーの途中、駅により、駅の売店で元日の新聞を買い集め、正月休みをかけてそれを読んでいくこと。このことは去年もまた一昨年も紹介したと思うが……………。

 今年の元日の毎日新聞「余録」に次のよう詩が紹介されていた。元旦にふさわしい詩であると思うので紹介したい。

いま始まる新しいいま
川崎洋  


     川崎洋詩集「海があるということは」より抜粋

心臓から送り出された新鮮な血液は
十数秒で全身をめぐる
わたしはさっきのわたしではない
そしてあなたも
わたしたちはいつも新しい

さなぎからかえったばかりの蝶が
うまれたばかりの陽炎の中で揺れる
あの花は
きのうはまだ蕾だった
海を渡ってきた新しい風がほら
踊りながら走ってくる
自然はいつも新しい

きのうは知らなかったことを
きょう知る喜び
きのうは気がつかなかったけど
きょうは見えてくるものがある
日々新しくなる世界
古代史の一部がまた塗り替えられる
過去でさえ新しくなる

きょうも新しいめぐり合いがあり
まっさらの愛が
次々に生まれ
いま初めて歌われる歌がある
いつも いつも
新しいいのちを生きよう
いま始まる新しいいま


{これは抜粋なので、ほんとうは全文を紹介したいところだが、これは学校が始まってから、調べてみることにしよう。


 
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「福徳のことば」大本山総持寺白字会


福徳 元旦の私の日課は、初詣ツアー(巡礼)。今日は妻と一緒だった。
 まず教会の元旦のミサ。そして総持寺にまわり、さらに鶴見神社、熊野神社とまわる。日本人が真剣に祈る姿を見て、私も祈る。
 総持寺では毎年、その年のことばを印刷したポスターをもらう。今年はこんなことばだった。

 福徳のことば お釈迦様

一、病なきは第一の利
一、満足を知るは第一の富
一、信頼を受くるは第一の安らぎ
一,信仰を得るは第一の楽しみ

 平成二〇年 
 大本山総持寺白字会


 「信仰を得るは第一の楽しみ」とするところがさすが仏教である。「信仰」は「楽しみ」でありたいと私も思う。信仰はけっして「重荷」ではない「楽しみ」なのである。
 これは仏教でもキリスト教でもおなじであると思う。

 おそまきながら二〇〇八年の「謹賀新年」。
posted by mrgoodnews at 21:18| Comment(0) | 詩、歌、祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年12月29日

クリスマス(降誕節)の祈り


クリスマス1おそまきながら「メリークリスマス」です。
12月25日から1月5日までの降誕節の祈りとしてふさわしいものを紹介します。
この詩の形式を利用して私も「クリスマスの祈り」をつくってみたくなりました。
この祈りは「クリスマスの祈り(The Legend of the Christmas Prayer)」(ブライアン・モルガン著 斎藤登志子訳 いのちのことば社)の絵本から引用しました。

クリスマスの祈り

ブライアン・モーガン


クリスマスの一日目に
君のために喜びを祈ろう。
あふれるばかりの喜びと
心を動かす笑い声を。
笑い声は病をいやし
喜びはたましいを高く舞あげる。

クリスマスの二日目に
君のために吐息を祈ろう。
心を晴らす深い吐息を。
人は吐息をつくときに
どうにもならない現実を
うけいれるのだろう。

クリスマスの三日目に
君のために涙を祈ろう。
あふれる涙は目を澄みわたらせ
きらめく星をうつしてくれる。
流した涙はたましいをきよめ
いやしの道へと進ませる。

クリスマスの四日目に
君のために静けさを祈ろう。
平和をもたらす静けさを
争いも戦いも心のなかで芽生え
心のなかで芽をつまないと
いけないものだから。

クリスマスの五日目に
君のために知恵を祈ろう。
正しい決断へとみちびく知恵を。
知恵の声に従い
日々ことばとおこないで
かしこくふるまえるように。

クリスマスの六日目に
君のために忍耐を祈ろう。
苦難にうちかつ忍耐を。
じっと耐えているうちに
困難はすぎさり、
しんぼう強く待つときに成功はおとずれる。

クリスマスの七日目に
君のために勇気を祈ろう。
雄々しく進みゆく勇気を。
行く手に誘惑や危険が
待ちうけていても
まっすぐに問題に立ち向かえるように。

クリスマスの八日目に
君のためにあわれみの心を祈ろう。
人の痛みを理解するあわれみの心を。
ほんとうに人を助けられるのは
人を理解したとき、
ほんとうに人を理解できるのは
おなじ痛みを経験したときだから。

クリスマスの九日目に
君のためにはたらく喜びを祈ろう。
夢を実現するために
すすんではたらく喜びを。
その夢が君のものでも
君の助けるだれかのものでも
かわりはない。

クリスマスの十日目に
君のために信仰を祈ろう。
ゆるがぬたしかな信仰を。
信仰は人としての生き方と
生きる目的をかたちづくり
人を神に近づける。

クリスマスの十一日目に
君のためにのぞみを祈ろう。
心にあふれる豊かなのぞみを。
のぞみは心のあり方をさだめ
進むべきめあてとなり
生きる理想をつくりだす。

クリスマスの十二日目に
君のために愛を祈ろう。
心の底から湧きでる愛を。
くらしのなかで行き交う人に
いつも愛を
あたえることができるように。


posted by mrgoodnews at 16:00| Comment(0) | 詩、歌、祈り | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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