2010年11月08日

わたしもレセプターが多いと思った

11月7日の朝日新聞 be on Saturday 「99歳私の証 あるがまま行く」の「受容体の大切さ」という記事を読んだ。これは聖路加病院の日野原重明氏の記事である。
そのなかに次のようなことが紹介されていた。

ところで私は人からよく「先生はどうしてそんなにいろいろなことに興味があるのですか?」と聞かれることがあります。


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2010年03月18日

いよさんの「ずれボタ」と「ボロこぼし」

 母のいよさん(90歳)をショートステイに送り出している。ほっとするところがないわけではないが、やはりさびしいし、うしろめたい感じもある。
 ところでいよさんと一緒にいるときの楽しみが2つある。いよさんには「悪趣味」と言われているのだが、これが楽しくてしょうがない。

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2010年02月20日

「小説蒲生氏郷」を読む

「小説蒲生氏郷」(童門冬二著 集英社文庫)を読んだ。700ページというぶあつい文庫本である。上下2巻にはせずに「全1冊」としたのはなぜか? わかるような気もするのだが……………。

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2010年02月15日

Aさん夫婦の精神科病棟入院生活 1

Aさんの奥様は統合失調症をわずらって、入退院を繰り返している。そのAさんから聞いた話。わたしはこういう話しはとても福音的で好きだ。

最初の入院は3か月。2度目の入院は1年。3度目の入院は3年だった。3度のうち2度は発作がおきてなかば本人の意志に反しての強制的な入院だった。

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Aさん夫婦の精神科病棟入院生活 3

Aさん夫婦はクリスチャンである。奥様が入院しているときに、スペイン人の神父さんが面会に来た。そのスペイン人の神父さんは、彼女に「病気も神さまのお恵みなんだよ」と言って励ました。彼女が入院生活をしている時に友だちとなった女性たちも一緒にその神父さんの話を聞いていた。

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2010年02月06日

パストラル・ダ・クリアンサとアルンス女史

 2月5日の朝日新聞に「ブラジルのマザー・テレサ アルンスさん 乳幼児支援の矢先 震災死。ハイチ初訪問、教会崩壊」という記事があった。

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2010年01月20日

通辞ジョアン・ロドリゲスという人物

 以前コンスタンティノ・ドラードについて述べたときにジョアン・ロドリゲスについても少し紹介した。

 清泉女子大学図書館に「通辞ロドリゲス−−南蛮の冒険者と大航海時代の日本・中国」(マイケル・クーパー著 松本たま訳 原書房 1991年)という本があったのでさっそく読んでみた。
 こういう人物がいたんだという驚きと感激に満ちた本であった。

 つづきを読む
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2009年12月08日

ヨハン・シドッティと新井白石

 今、藤沢周平著の「市塵」という小説を読んでいる。新井白石を主人公とした小説である。まだシドッティが登場するところまで読み進んでいないが、早く登場しないかと楽しみにしている。

 イタリア人宣教師ジョバンニ・バプティスタ・シドッティ神父の日本潜入から、昨年で300年なんだそうである。

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2009年10月14日

上杉鷹山の「なせばなる」

 まえに「なせばなる」の歌について書いた。
そして今回藤沢周平「漆の実の実る国」という小説を読んだ。なかなかおもしろかった。
 この本は上杉鷹山の藩政改革について書かれた小説である。困窮して借金だらけだった米沢藩を上杉鷹山はいかに立て直したのか、とても読み応えがあった小説であった。

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2009年10月09日

細井平州と上杉鷹山

 学校をやめてから小説を読むことを解禁した。学校時代は小説を読むのは「時間泥棒」だとしていくつかの例外を除いて読むことを自分で禁じていた。本当は好きなのだが、これを読み出すと他の本が読めなくなるからである。
 解禁になって最初に読んだ本は「ローマ人の物語」で、次に藤沢周平の本を手当たり次第に読むことにした。おもしろい。なぜ藤沢周平なのか、ある本で藤沢周平の本のテーマは「無償の愛」だというのを読んだからである。クリスチャンでもないのに「無償の愛」なのかといぶかしく思った。

 今読んでいるのは「漆の実のみのる国」である。これは上杉鷹山の藩政改革の話しである。なかなかおもしろい。

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2009年09月25日

「アホは神の望み」に共鳴しました

村上和雄著「アホは神の望み」(サンマーク出版刊)という本を読んだ。「そうだ、そうだ!」と共鳴するところ多くおもしろかった。
この本には英語のタイトルもあった。「Stay Honest Stay Stupid」となっている。

続きはここへ
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2009年09月16日

ニック・ボイチッチの感動的な生き方

 今年の「宗教倫理教育担当者ワークショップ」で教えられたニック・ボイチッチという人の生き方です。

 ここにあります。
 YouTube にはこの人の紹介の動画がたくさんあります。
 とにかく感動します。なぜだか泣けてきます。
 これを見て、考えたこと感じたことをぜひ友だちと分かち合ってみてください。

 この人についての紹介は、ここにあります。

 公式ホームページはここです。
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2009年05月20日

「生きがいの法則」は大発見だと思う。

 野田正彰著中公新書「生きがいシェアリング」を読んでいたら、こんなことが書かれていた。これは大発見だと思う。

 生きがいとはどうやら他者との相互関係の中にあると考えられる。それを定式化すれば次のようになる。

「生きがい」=「他人からよせられる関心」× 「それに応えているという自覚」

 先ず他人からよせられる関心がある。それに応えているという自覚が生じる。そしてその2つの積として生きがいが生じるのである。
 他人の関心がないのに自分だけで勝手に自負、ひいては生きがいを保つのは難しい。
 視点を変えれば、生きがいとは富とか地位と異なり、無限に創ることができるものであるといえる。私が身近な人の生き方、興味、得意とするものに関心を示すならば、相手はそれによって励まされて、生きがいを感じるのである。多くの人の生き方、存在に関心を持てば多くの生きがいが創られる。
 生きがいとは関心によって不断に分配可能なものである。他人への関心がその人の生きがいにつながるものと見れば、私は深い歓びを得る。
 同時に周囲の人びとは私のなかにさまざまな関心を見つけ出し、私の自負心をかき立ててくれるだろう。


 私ふうに言いかえれば、つまり、生きがいとは、人から必要とされている度合いとそのニーズ(必要とされていること)に応えられることとの積ということになる。
 誰からも必要とされていない、むしろ邪魔な存在とみられていると言うことは生きがいの喪失につながるであろう。
 そして必要とされていても、それに応えられないのであれば、また生きがいも消え去ってしまう。
 他人から必要とされることとその必要に応えられることとは確かに生きがいを構成する重要な要素であることはまちがいない。

 しかし、無名の多数からよせられている関心は受け手にとって真の関心ではない。それは幻想のなかの関心であり、そこから創られる生きがいは華やかに見えて空虚である。
 真の関心は少しでも知り合っている人から向けられた関心である。よく知っている人から「ああ、あなたはこんな生き方をしていたのか、こんな能力があったのか」と関心をむけられた、真実の生きがいを感じ取る。
 マス社会の関心から、個別の人間のネットワークのなかで生み出される関心へ、私たちは関心を作りかえる時に来ている。
 そうすれば生きている実感は絶えることはなくなるのではないか。私たちは勤勉によって生きがいを所有ないし、独占しようとした時代から「生きがいシェアリングの時代」に映っている。


 この定式によると、問題は「後期高齢者」とか「障害者」なのだろう。つまり、こういう人は「他人から必要とされること」も少ないし、「その必要に応える」こともほとんどできない。この人たちにこの定義・法則を伝えるにはどうしたらいいのか、お考えをお聞かせください。
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2009年05月07日

西水美恵子というこんなステキな日本人女性もいるんだ。

 これも毎日新聞の日曜日に掲載されている経済コラム「潮田道夫の『千波万波』」4月26日から。潮田道夫氏は毎日新聞論説委員。

 その記事で紹介されていたのが、西水美恵子さんという日本人女性である。彼女は元世界銀行副総裁であるというから、まずびっくり。緒方貞子につづいて国際舞台で活躍する日本人女性である。

 彼女が世界銀行に赴くときに、エジプトのカイロの「死人の町」というスラムを訪れた。そこで彼女にだかれつつ息を引き取った「ナディア」という少女に出会う。
 世界銀行の「官僚的な組織文化をひっくり返して、貧民に仕える文化に変え」るべく世界銀行の改革に乗り出す。
 その一環として「全職員の脊髄にあの火をつけよう」と、1〜2週間、途上国の貧村にホームステイをするように促した。尻込みする部下には「付いて来い!」と自ら率先。

「世界銀行の顧客が誰なのか、考えてごらんなさいな。 貧しさに喘ぐ人々です。政界や財界の権力者ではありません」。彼女はこういいながら貧困の問題と取り組む姿勢を明確にする。
 そして、世界銀行が投資すべき対象は、貧困の問題と正面から取り組んでいるリーダーたちであるとして、そのリーダーたちを育てることを重視した。

 彼女はブータンというアジアの小国に注目する。この国のワンチェク国王は国民総幸福量という指標をGDPのかわりに提唱したことでしられている。国勢調査で国民にあなたは幸せですかときいたら、なんと97%が幸せですと応えたそうである。
 日本がこの国から学ぶことはとても多いと指摘している。


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2009年04月22日

世界第2位の「自殺率」OECD2008年世界の主要統計報告より

 日本の話題で世界第2位といえば普通「経済大国」と続くのが普通である。が、ほかにもある。悲しい統計、つまり「自殺率」なのである。

 毎日新聞の「発信箱」というコラムで経済部の福本容子記者はこんなふうに紹介している。

 人口10万人あたりの自殺者数で日本は20.3人となり、世界先進29か国中2位。全体が減り続ける中、日本だけは高止まりしている。1位はハンガリーの22.6人だったが、80年代のピークから半減している。
 報告書「09年ファクトブック」にこうある。「自殺率と国の経済水準とは無関係であるが、生活満足度とは関連がある」
 確かに、国民の生活満足度の最低はハンガリー、日本はしたから4番目である。
 もっと詳しく見ていくと「2位」の輪郭が浮かんでくる。
「昨日感じたこと」の調査で「私は大切にされている」の回答率で日本は最下位。
「誇らしいことをした」もしたから3番目。
逆に「憂鬱」の多さは1位だった。
「この1か月で見知らぬ人を助けた」の回答率が一番低かったのも気になる。

 フィンランドはかつて自殺がとても多かったが、国も積極的に自殺予防策に取り組んだ結果、自殺を減らした。そのフィンランドの調査で興味深い結果が報告されている。

「働きがいを高めてくれるもの」でもっとも答えが多かったのは「給料」でも「雇用の安定」でもなく「役立っていると感じること」だったのだ。


 このコラムは「役に立った、必要とされている、と感じる気持ちは思った以上に大きな力なのかもしれない」と結んでいる。
 つまり自殺率の高いことの重要な原因のひとつは「役に立った」「必要とされている」と感じることが少なく「自分なんていなくてもいい」「必要とされていない」と感じる人が増えているということであろう。
 このことをもっと考えていくことが今求められているのであろう。
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2009年04月04日

「わが友フロイス」はいかにも井上ひさしらしい。


わが友 「わが友フロイス」(井上ひさし著 ネスコ/文藝春秋刊)を読んだ。
 フロイスについては以前紹介したことがある。

 この書は、井上ひさしが戦国時代にキリスト教の布教活動にたずさわりながら、折々に書かれたであろうフロイスの書簡を想像して書いたものである。そんなに長い本ではないが、フロイスという人物のホンネや性格が井上ひさしらしく愛着を持ってよく描かれていると思う。

 たとえば、フロイス27歳の時インドのゴアのコレジオの院長がローマのイエズス会総長にあてた手紙には、フロイスについてこう書かれている。

 ゴアの修道院に在籍するイエズス会修道士の成績評定。1位、ルイス・フロイス。27歳。生まれついての文才と語学的才能あり。記憶力も豊富であって、あらゆる文筆の仕事に長ず。また、言葉をたくさん知っており、「歩く字引」というあだ名があるくらいなので、将来よい説教家にもなれるだろう。欠点、饒舌すぎること。2位、ガスパル・クェリョ、28歳、正直で大声の持ち主、統率能力あり。

 戦乱の続く京都を逃れて、堺にいたフロイスから、長崎にいる管区長ビレラにあてた手紙では「ここはなんと奇妙な国なのか」と嘆いている。

 ここは「鏡のなかの国、ヨーロッパとはすべてあべこべの国、こんな奇妙な国にキリストの福音の根付く日がいったいくるのでしょうか。
 ………ヨーロッパでは手で蠅を殺すのは不潔とされているが、あべこべに日本では公方や殿までがひょいと蠅を捕まえて羽をむしって投げ捨てる…………ヨーロッパ人は鼻が高くて大きいので拇指か人指し指で鼻の穴をきれいにするが、あべこべに日本人はそれを小指で行う…………われわれは女性の名前を聖人からとるが、あべこべに日本では鍋、鶴、亀、筆、茶などとさまざまなものからとる。われわれはわずか22文字で書くが、あべこべに日本人はほとんど無限にある文字を使って書く。…………われわれは便所で座り、あべこべに日本人はしゃがむ。

 オルガンチノからの手紙には、日本人をもって司祭にすべきであると書かれているのに対して、フロイスは「これは絵に描いた餅である」と応えています。
 この問題は当時の日本のイエズス会を2つに分けた大きな対立点でした。ビレラ、カブラルなどのポルトガル人たちはどこか日本人を蔑視する傾向を持ち日本人を司祭にすることには否定的でした。またヴァリニヤーノやオルガンチノなどイタリア人たちは積極的であったのですが、フロイスはどちらかというと前者だったようです。
 
 またフロイスは、巡察師ヴァリニヤーノにあてて、こんなブッソーな提案をしています。

 我等が、巡察師よ。わたしはあえて提案します。適当なキリシタン大名を選び、彼に対してイエズス会とポルトガル艦隊とが全面的に支援してはどうでしょうか。ゴアの兵器敞から大砲、鉄砲、そして火薬を取り寄せて、われわれの支援する大名に提供するのです。彼を実務化に天下人に仕立て上げるのです。もちろん彼に対しては口を酸っぱくして「あなたが天下人になれるとしたら、それはすべてデウス様のおかげですよ」と教え続ける必要がありますが、さもないともうひとり、日本式デウスができてしまいますから。なにとぞ深い洞察をもってこの提案をご検討くださいますように。


 これにたいするヴァリニヤーノの返書。

 提案は却下された。提案書は火にくべられ、ただの灰になった。却下理由。われわれはこの国に冒険をしに来たのではない。戦ごっこをしに来たのではない、キリストの福音を伝えに来たのである。以上。


 もちろん、この手紙は実際にはなかったであろう。が、いかにもフロイスならこういう提案をしそうな感じの人物である。ちょっと軽率で見かけだけ勇ましくて……………。

 ヴァリニヤーノの叱責にもかかわらず、フロイスはまた、秀吉の禁教令の後にバリニヤーノにあてて「小西行長の領土に要塞を築いてここをキリシタンの拠点とする」ことを提案し、さらに「正当ななすべき戦争の基準」について明示しています。
 その返書でヴァリニヤーノは、フロイスの書いた「日本史」を長すぎるとして「こんなものはすでに原稿でも書物でもあり得ない。これはよくできた紙くずである。きみはもっと簡潔に書く修業をせねばならない。ローマのイエズス会総長もきみの「日本史」を待っておいでである。早急に、少なくてもこの十分の一以下に書き改めてもらいたい」といい、さらに

 きみの思想は過激すぎる。…………相手は世界一やせ我慢の強い日本人なのだよ。…………あの「チャ」と称する苦くてまずい飲み物をやせ我慢をはってうまそうにのみ、またあの「セイザ」と称する窮屈きわまりない座り方を半日続けても弱音を吐かない連中を相手に戦って、いったいどこの軍隊がかてるだろうか。


 と書いている。いかにも井上ひさしらしいヴァリニヤーノ観だなとおもわず感心してしまうのである。
 フロイスは、更にヴァリニヤーノに食い下がる手紙を書いてついにマカオに転勤を命じられ、その間に「日本人が常用する褌よりも長ったらしい彼の『日本史』を、日本人の背の高さぐらいまで短く書き改めなければならない」と命じられる。
 マカオに左遷されたフロイスはついにイエズス会総長に泣き言の手紙を書く。そして棄教した千々石ミゲルとの往復書簡があり、そして「日本26聖人殉教」の報告でもってこの書簡集は終わる。

 真面目な顔してかたるフロイス像やヴァリニヤーノ像が実に個性的で、ユーモラスなのである。しかもあの時のキリシタンの置かれた歴史的な位置や宣教方針の違いなども読み込んでいる。井上ひさし文学の面目躍如というところだと思う。

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2009年04月02日

松浦静山はわたしみたいな人だと言われた。

 平戸城と松浦資料館にいって松浦静山という人物の紹介文を読んだ MAGIS 氏が「ツッチー(わたしのこと)みたいな人がいるよ」とわたしに教えてくれた。何がわたしみたいなのか、紹介文をよく読んでみると、この人は松浦藩の藩主、日本初の雑誌を発行した人で、「発信型」のひとだったところがわたしみたいだというのである。

 そこで改めて調べてみたら、なるほどこの人の生き方もおもしろい。

 松浦静山(1760〜1841)は、1775年15歳にして家督を継ぎ平戸藩藩主となる。財政改革や藩政改革を断行し、藩校維新館をつくるなどして実績を上げた。
 しかし1806年には家督を次男に譲り、隠居生活に入る。隠居して何をしていたかというと、文筆活動なのである。随筆集『甲子夜話』や剣術書『剣談』などを著した。とくに『甲子夜話』正編100巻、続編100巻、三編78巻に及ぶ大規模なものであり、内容は田沼意次時代から寛政の改革時代頃にかけての政治、諸大名や旗本、民衆の暮らしや風俗を知る上で貴重な史料となっている。
 また。剣道にも長けていて、心形刀流の奥儀を極めていた。静山が老中・水野越前守忠邦に頼まれて、柳原の土手によく出没した辻斬りを退治するために、夜パトロールをしていたという話しも残っている。
 名君として誉れ高い松浦静山は、川柳のよき理解者でもあった。川柳人松山又流水としての立場で暮らすことのできた希代の大名でもある。

 更に驚くことは、このひとは17男16女に恵まれている。(いったい何人の妻がいたんだ。)
 そのうちの11女・愛子は公家の中山忠能と結婚して慶子を産み、この慶子が孝明天皇の典侍となって宮中に入って孝明天皇と結婚し、明治天皇を産んでいる。つまり、明治天皇の曾祖父にあたることになり、現在の天皇家には、この松浦静山の血も少なからず受け継がれているのである。
 ここは、わたしとはまったく異なっている。

 平戸城で松浦静山の肖像画を撮影したのだが、iPhone 水死となってあえなく消失。残念。
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2009年01月17日

満月の夜の集い「ルナー協会」

 毎日新聞の1月11日の「余録」に「ルナー協会」のことが出ていた。これに興味を持ったので少し調べてみた。

 文化団体の多くは文化の中心である首都ロンドンに集中していたが、地方都市に皆無であった訳ではない。中部イングランドのバーミンガムにも、1760年代に「ルナー・ソサイエティ」が誕生した。
 直訳すると「満月協会」で、毎月の満月の晩に会員相互の家に集まって、共通の話題について論じ合った。
 満月の晩を選んだのは、終わってから各自が家に帰る時に明るくて便利だからだったが、イギリスのようにお天気の悪い土地で、いつも月がこうこうと照り輝くはずはあるまいが、と余計な心配をしたくなってしまう。
 冗談はさておき、この協会員は自分たちのことを「ルナティック」つまり「月の影響を受けた人」と呼んでいた。しかし、英語を勉強した人ならすぐ気づくだろうが、ルナティックというと普通「狂人」を意味する。
昔の人は月から地球に流れ込む、ある霊気にふれると精神異常になると信じていたために、そうなってしまったのだ。
「ルナー協会」の会員たちはもちろんこのことを承知の上で、いかにもイギリス風のユーモアを発揮して、この呼び名を自分自身につけたのだ。
 さて、この協会員には当時、一流の知識人が顔を揃えていた。ジェイムズ・ワット、ジョサイア・ウェッジウッド、エラズマス・ダーウィン、マシュー・ボールトン…などなど。
「私の英国物語 ジョサイア・ウェッジウッドとその時代」より


ルナーThis meeting took place in the house of inventor James Watt (1736-1819). The Lunar Society began in 1765 and was made up of learned men of the time, great thinkers of the Industrial Revolotion who met to debate scientific questions and the application of science to manufacturing, mining, transport, education, and medicine. The society got its name from the practice of meeting when the moon was full so that its light would guide the members home through otherwise unlit streets. Other famous members of the society included chemists James Keir (1735-1820) and Joseph Priestley (1733-1804); physician, poet and grandfather of Charles Darwin, Erasmus Darwin (1731-1802); and ceramics pioneer Josiah Wedgwood (1730-1795).


 エラズマス・ダーウィンはあの「進化論」のチャールズ・ダーウィンの祖父、著名な意志でその著作には進化論を思い起こさせる表現があるという。
 ジェームス・ワットは蒸気機関を発明した産業革命の父である。
 そしてジョサイア・ウェッジウッドは、イギリスの陶器の父と言われていて、陶器会社の起業家であった。「余録」はこの陶器会社がこの経済危機で経営破綻び追い込まれたということで話を展開していた。

 そういえば英語の時間に、月のことをルナーといい、太陽のことをソラーというのを教わったことをおもいだした。でもルナーの形容詞形 lunatic は「気の狂った」という意味があり、昔の人は月をみると気が狂うというように感じていたんだと英語の先生がボソッと言ったのをよく覚えている。この語源は、これはラテン語かギリシャ語か? それともアングロサクソンか?

 ところで、このルナー協会ではどんな会話がなされていたのだろうか? 

 こういう集まりはとてもおもしろい。
 たとえばカントは毎日昼食を友人たちを招いてとっていたとか、あと渡辺崋山や高野長英らの尚歯会の集まりもおもしろい。
 そこに私もたまらなく参加してみたくなるのだ。

 



 
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2008年12月12日

哲学者アランの卒業試験

 「聞き上手話し上手」(草柳大蔵著 講談社現代新書)を読んでいたらこんな話しが紹介されていた。

 フランスの作家アンドレ・モロアの哲学の先生はアランだった。「幸福論」や「精神と情熱に関する81章」の著者で「神を信じるものも信じないものも」という「人民戦線によるレジスタンス」を呼びかけた人でもある。
 ルアンのリセの教授であったアランはモロワの卒業試験として次のような問題を出した。

「いま、ここに人生に絶望した一人の女性がその運命をはかなみ、セーヌ川に身を投じようとしている。君はなんと言って彼女の自殺を思いとどまらせるか?」


 たしかにこれは卒業試験にふさわしい哲学の「究極の問題」の一つであろう。

 これに対する一つの答は、アメリカの「いのちの電話」が持っている。アメリカの電話には数字のほかにアルファベットがふってあって、FRIENDとダイヤルするとこの「いのちの電話」につながる。
 ここにつなぐとボランティアの女性が受ける。
「どなた……」
 返事がない。彼女はすぐにこう応える。
「いま、どこにいるの? ええ、××橋のたもと、どちら側? 私はペパン、ミセス・ペパンよ。すぐにそこへいくわ。15分位よ。待っててね。」
 彼女はそこへいくと、すぐにそれとわかる女性が放心状態でたたずんでいる。
「ねえ、お茶でも飲まない」
二人は近くのレストランへ。
「おなかすいてるでしょう?」
温かいスープが運ばれてくる。おずおずと女がスープを口に運ぶ。
「どうしたの? どんな困ったことがあったの?」
 静かにやさしく問いかける。女がスープを飲み終えると、ポツリ。ポツリと身の上話をはじめる。ボランティアは熱心にあいづちをうちながら耳を傾ける。サンドイッチとコーヒーが運ばれてくる。女の口は前より少しばかり軽くなる。そしてそれを食べ終えるころには彼女の顔には生色がさしはじめる。
「元気を出してね。私、何かお仕事の世話をするわ」
 こういって別れるころには彼女はもう再起の決心はつけているのである。彼女は、自分の話を聞いてもらったことで悩みの大半は解消したのである。


 この問の答として、この本ではもうひとつの例を紹介していた。チャップリンの「ライムライト」という映画の一場面である。

 クレア・ブルームの扮する踊り子が、関節炎を患い絶望してガス自殺を図る。かつて盛名を誇り、今は落ちぶれた老喜劇俳優(チャップリン)が、それを見つけ、自分の部屋に運び込み、いろいろ手当てを加え、気を取り戻したところで、彼女の自殺の動機を親身になって聞いてやる。今や彼女にとって、彼はただひとり頼りになる人間である。何もかも話し終えて彼女の気分はすっかり落ち着く。するとチャップリンはここで彼の哲学を述べる。
「人生は、どんなにつらいことがあっても生きるに値する。そして、人が、この人生を生きていくためには3つのことが必要だ。希望という名の想像力と勇気、そしてサム・マネーだ」
 とうのである。希望と勇気という抽象的なものと、サム・マネーのとりあわせにいかにもチャップリンらしい人生哲学がにじみ出ている。


 このいずれの答えにも、先ず「聞くこと」がある。人の話をよく聞くことには、人を救う力があるというわけである。
 実はわたしにもこの問いへの答がある、それはまた改めて紹介することにしよう。

 

 
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2008年12月10日

巡察師ヴァリニャーノの「適応主義」

 列福式の翌日(11月25日)私は妻を浦上教会や永井隆の如己堂、原爆資料館、平和公園を案内したあとに長崎歴史文化博物館を訪れた。そこでは「バチカンの名宝とキリシタン文化」という列福式関連特別企画が開催されていた。
 そこを訪れて初めて知ったことだったが、その日26聖人記念館館長のレンゾ・デ・ルカ神父の講演会があるというのを聞いて参加することにした。レンゾ神父はアルゼンチン出身のイエズス会士、私は彼の叙階式にも参加した旧知の友人である。
 演題は「国際視野を持った巡察師ヴァリニャーノ」である。私はこの人物にも興味を持っていたので、とてもおもしろい講演であった。
 なんでもほんとうは「巡察師ヴァリニャーノと日本」という書を書いたヴィットリオ・ヴォルピ氏が講師として予定されていたが、かれが都合悪くなって急遽レンゾ神父が講師になったということである。

 ヴォルピ氏はイタリア系銀行の日本事務所を開設するために来日した金融マンで「宗教には深い関心がなかった」が、日本での仕事を進めていくなかで、16世紀に巡察師として日本に来たヴァリニャーノに興味を持ちついに本まで書くことになったという。
 ヴォルピ氏が注目するのは、異国の文化に入り込み、当時の日本に「適応」した布教を展開しようとしたヴァリニャーノの生き方であった。「4世紀を経て彼の思想はこれまで以上に今日的になっている」という。


ヴァリニャーノ ここでヴァリニャーノについて簡単に紹介しておこう。
 ヴァリニャーノは1539年イタリアの名門貴族の家に生まれた。パドヴァ大学で神学を学び、1566年イエズス会に入会、1570年に司祭となる。1574年巡察師としてインドのゴアに行き、1579年日本に来る。
 ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟、高山右近、織田信長らと謁見している。有馬や安土にセミナリオ、府内(大分)にコレジオを設立する。
 そして1582年天正遣欧使節とともにインドのゴアに行き、ローマには行かなかったが、使節の帰国に伴って再び日本に入国、今度は秀吉と謁見する。またヨーロッパから活版印刷機をもって帰り、キリシタン版の書籍を印刷する。
 1598年から1603年まで3度目の来日。このときは後発のフランシスコ会やアウグスチノ会などの修道会との調整をおこなっている。
 1606年マカオにて生涯を閉じる。

 レンゾ神父の講演においても、このヴァリニャーノの「適応主義」といわれている宣教方針の今日性を強調されていた。

 初来日の時、当時の日本管区長であったカブラルの日本人蔑視の布教方針を叱責し、日本の宗教や文化、習俗を理解したうえで日本人司祭の養成が急務であることを訴えた。これが「適応主義」ともいうべきもので、マテオ・リッチによって展開されていた中国宣教と共通の布教方針である。ヨーロッパで行われている宣教をそのままアジアに移植することの危険性を指摘しているのである。
 その宣教指針はセミナリオの教育理念にもよく表れている。セミナリオでは神学や聖書、ラテン語の学習とともに日本語や科学、音楽などもカリキュラムに組み入れらていた。とくに年長の生徒が年少の生徒の学習の手助けをするという方法や、個人の成績よりもともに学ぶことによる共同体意識の形成、自分が学んだことを他人に役立たせる姿勢を身につけることが重視された。学んだことを出版して書物にするために印刷機は大いに役立っている。この教育方針の下に、中浦ジュリアンらの遣欧使節や同宿のペトロ岐部、金鍔次兵衛らの信仰が育まれるのである。
 さらにこの印刷機で、キリスト教関連の書籍や辞書だけでなく、イソップ物語や日本の歴史、あるいは平家物語なども印刷されていることも注目する必要があるだろう。
 この「適応主義」は、貿易や武器の売買などを餌にして権力者に接近し、いわば権力による上からの改宗を迫るという布教方法とは明らかに異なり、対話(時には論争)や福祉、教育などを通して直接民衆に働きかけることによって布教を試み、自立した日本の教会の成長を促すことを導きだしたのである。
 これが後の迫害に屈しない殉教者たちの信仰を育て、教会と司祭不在の中で200年以上の迫害の時代を生き延びる信仰をつくりだす礎となるのである。

 ヴォルピ氏の「巡察師ヴァリニャーノと日本」という本もぜひ読んでみたくなった。

 
 
 
posted by mrgoodnews at 00:35| Comment(0) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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