2008年12月07日

金鍔次兵衛神父書簡の激しさ

 今回の列福式と巡礼に先立ち、私は金鍔神父のマニラからローマのアウグスチノ修道会総長宛の書簡をひょんなことで手に入れることができた。

金鍔書簡 この書簡はラテン語で書かれている。長崎の井手義美氏が入手されたものを広島の大魚正人氏が翻訳されたもので、私はこれを井手氏からいただいた。
 金鍔次兵衛神父がマニラにいて日本に潜入する前に書かれたもので、その文面には日本に戻りたいという執念がこめられている。

 以下に書いた手紙は、必ず日本国から届く事を固く信じています。
 われらの会祖の聖アウグスティヌスの全隠遁者修道会の、最も注意深い牧会者であり、われらの最も尊敬する、父である総長様に、絶えざる恵みを《私は祈ります》
 最も尊敬する総長様、私は、最初に、少し《物事を》理解し始めた頃[・・・その頃は平和な良い時代でした・・・]、世間とは異なる考えを持ち始めた頃から、常に、徳の装飾よりも、徳そのものを得ることの方が、はるかに優れており、そして、より一層希求すべきことと、考えて来ました。
 それゆえに、私は、両親が嫌がるにも関わらず、人文学の勉強のために、自分の意志で神学校へ進みました。それは、日本の国が、キリスト教的平和を享受していた間、イエズス会が司教の権威により経営していた、本当にすべての徳の神学校でした。
 そしてそこで、哲学と神学の中で、私の少年期と青春期の全てを鍛練しました。
 しかし、数年後に、すさまじい迫害の嵐が起きました。その嵐は、荒廃した日本から、様々な修道会を追い出し、(このようなことを語る時に、誰が涙を流さずにおられましょうか)礼拝堂を破壊し、全ての聖器と全ての聖物を冒とくの手で汚しました。
 学校の多彩な生徒は三分され、世界の異なった地方へと旅立って行きました。ある者たちは、活動を継続するために、背嚢一つ背負う旅姿で、日本全国に散って行きました。それはキリスト信者の集会に粉骨砕身するためでした。他の者たちは、フィリピン諸島に追放されてしまいました。
 私はと言えば、残りの者と一緒に、日本の海の、実に広大な海面を、ジグザグに帆走して、マカオ島に上陸しました。そこの城砦都市は、島と同じ名前が付けられていて、土地が豊かなだけでなく、中国商品も豊かでした。何故ならば、ポルトガルの商人によって少なからず《交易が》自由だからです。
 ここでは、私たち学生にとって、目新しいものばかりでした。だから《一層のこと》、私たち学生は、かの地の神父たちの承認を得て、人文学の勉強と、さらに信心と業の最高の実践をもって、《自己本来の姿を》回復《確立》しようと、決意をどんなに新たにした事でしょうか。
 さて五年後、私は同修道会の神父たちの協議に基づき、日本に帰国しました。要理を教えることに、キリシタンの至上の歓喜にあふれて、−−そのキリストの葡萄畑では、今なお、このやりかたを行うことが許されているのです−−そして、私は大きな辛苦をしのぎ、集会をし、《教理を》説明しました。そして、生命の危険を冒しながら、《霊的な葡萄の実を》産み出しました。
 すなわち、昼間は隠れ家や洞窟に、【転々と場所を変えながら、】身を潜め、(キリシタンに対する迫害者の激怒は、決して和らぐことはありませんでしたので) 夜になると、キリスト教信仰の反対者との戦いを雄々しく始め、全力を尽くし、しかも、慎重に【その求道者を】教育しなければなりませんでした。
 最も尊敬する総長様、これらをしている間に、私は強く感じました。ある熱烈な望みが、あたかも神の霊感によって、私の内に燃え立つのを。 それは【その望みは】、《現在従事している任務を》より完全に行うために、修道士の服を着て修道士となるという事でした。そして、【その望みは】《さらに》私を熱烈に駆り立てて行くのでした。このような事情で、【何もかも】そのままにして、私はこのフィリピン諸島に渡航しました。そして、誰をも見捨てない神の恵みにより、このアウグスティノ修道会で、私は選択したことに関して、望みを達成しました。
 しかし、ここで、私は祖国に帰る希望なく時を過ごして、もう十年近くの歳月が流れました。尊敬する総長様。率直に述べる事にします。それ【帰国の希望が持てないの】は、この管区の神父たちの、ひどい生温さと大きな怠慢のためです。彼らは日本の迫害の噂を怖がっていました。《そのため》修道者が日本へ渡航をすることを申し出ても、誰一人も許されていません。
 実際、迫害の力は更新された【一層激しくなった】ので、非常に大切にされて【それまでに】残存していた、神聖な神殿は、残らず毀損されてしまいました。迫害者は、すべての日本人に対して、この《フィリピン》諸島の住民との、修好同盟の契約の締結や、商取引や航行を、禁制にすることが出来たのです。  
 尊敬する総長様。しかし、何故、福音を伝えるために日本へ行くことが、ドミニコ会会員やフランシスコ会会員そしてイエズス会会員には許されていて、独り私たちアウグスティノ会にだけ、許されていないのか、私には分りません。彼らは 毎年日本に上陸して、喜ばしい布教の最も豊かな収穫を得ているのです。   
 しかも、彼ら【日本に上陸した神父たち】は自分のものをではなく、神に属するものを探し求めているのです。反対に、私たちは、財宝を求め、(私はこの管区の神父たちについて話しているのですが)労苦を拒み、私たちの修道会の名誉を軽んじています。 
 しかし、良いすべてのことは神から出ていること、そのことに頷[うなず]きながら、すべては神の摂理により治められていることを、私達はしっかりと理解します。そしてまた、これらの事【=日本への潜入宣教】も神の御旨なしにはなく、少なくとも、《神の》許しにより行われることを、私は自分に言い聞かせています。 
 そこで、私は最も尊敬する総長閣下に、ローマに行く許可を私にお与え下さいますよう、謙虚にお願い申し上げます。なぜなら、もしそこで、神聖な教皇様の御足と、総長様の御手に接吻することが出来るなら、私は自分が十二分に《この世に》生きたと思うでしょうし、仮に私がこの人間界から消え去ろうとも、私の喜びは溢れるに違いないからです。
 更に、私には最も尊敬する総長様と、私たち日本管区の、宣教が行われている事情および状況について、《話すべきことが》たくさんあります。それ【日本管区】は、《迫害当時の》ローマと大変よく似ています。【そのローマは】多数の神聖な殉教者の証明により、最も豊かな輝かしい栄光へ高められ、そしてその聖なる民と選ばれた民族の故に、司祭的で王者にふさわしい都と呼ばれ、使徒ペトロの聖座によって、世界の頭となり、地上の支配力と言うよりはむしろ神的な教化事業によって、広く治めています。
 その上、尊敬する総長様と御一緒に語る沢山の事柄、それらはただ単にこの【日本】管区と日本の教会の益と保護に役立つだけでなく、私たちの修道会全体の名誉と栄誉にもなるのです。
 その上、私がローマ市の聖地を見ることは、日本で【基本的・信仰的な】教理を教える時だけでなく、【体験的具体的な】説教をする時にも、大きな助けになります。それは、多くのイエズス会員の例が示すように明白であります。
私は、尊敬する総長様に謙[へりくだ]ってその許可をお願いします。そして、その許可を、あなたが好意を持って私に与えて下さるであろうことを、私は主にあって、固く信じています。
 ここ【フィリピン】にいる間は、私はその許可の命令の期待を楽しむでしょう。当然のことながら、尊敬する総長様が、私たちの修道会全体の光栄と名誉のために、いつまでも無事・無傷でおられることが許されますようにと、私は主に祈ることを決して止めません。さようなら。

   西暦1630年8月2日、マニラ発。
 
総長様の、最も小さい僕であり卑しい子供、
修道士 トマス・デ・サン・アウグスティノ、日本人


 この「修道士 トマス・デ・サン・アウグスティノ、日本人」が金鍔次兵衛神父と同一人物であることが発見されたのは1926年宗教学者姉崎正治氏によってのことだそうである。

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金鍔次兵衛神父の隠れた「次兵衛岩」

 今回、列福された一人である「魔法のバテレン」こと金鍔次兵衛神父については前に紹介した。


次兵衛4 金綱次兵衛神父は1600年頃大村に生まれる。6歳(!)のとき有馬のセミナリオに入学、その後イエズス会の少年同宿(志願者)となった。1614年宣教師の国外追放の時に原マルチノやペトロ岐部らとともにマカオに追放。
 司祭を志しマカオで学んだが、日本人学生に対する偏見と資金難のためにマカオのセミナリオは閉鎖。ペトロ岐部たち3人はローマを目指して旅立つが、かれは日本に戻り、伝道師として信徒の世話にあたった。しかし、司祭への志しはやみがたく再びマニラに行き、アウグスチノ会に入会、1628年セブ島で司祭になった。
 そして1630年日本に上陸。昼は長崎奉行所の馬丁になりすまし、投獄された宣教師や信徒を訪ねては励まし、夜は隠れ家でゆるしの恵みを与え、ミサをささげた。
 長崎奉行所は金鍔神父をとらえようと、必死になって捜索するが、彼はあるときは江戸に出現し、将軍家光のおひざもとである小姓たちに教えを説いたりもする。
 しかしついに1636年11月1日、長崎の片淵でとらえられ、長崎の西坂で、1637年11月6日過酷なる拷問のすえ、穴吊りの刑によって殉教した。

次兵衛4 この写真は長崎西坂の26聖人記念館中庭にある金鍔神父の像である。かれは金の鍔のついた刀を常に所持していたという。もっともかれは金鍔という地名の出身であったがゆえにこの名前を持っていたのであるが、この金の鍔の刀はまさに彼のトレードマークだったということなのか。



次兵衛1 次兵衛岩は外海山中の隠れ家の一つである。

 私たちは今回の巡礼地の一つとしてその「次兵衛岩」を訪れた。車から降りて、1本の竹の杖と、荒縄2本が渡された。くつを荒縄で縛って、沢ぞいに登ること1時間半。こけが生えた岩はすべりやすく、荒縄はとても役立った。沢を離れてがけを登っていくとその「次兵衛岩」はあった。

次兵衛2 そこには人一人がやっとくぐって入れるような洞窟がある。金鍔神父がここで祈りを捧げ、ミサをあげ、そして生活していたのだと思うと、そこには今でも祈りの「霊」がこもっているような場所であった。


次兵衛3 隠れ家はもうひとつ長崎の戸町というところにも発見されている。
 彼はこれらの山中のいくつかの隠れ家をてんてんとして山野を駆けめぐっていたのであろう。
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2008年12月05日

キリシタン武将黒田如水のこと

 以前紹介した「風渡る」(葉室麟著 講談社刊)は黒田如水と修道者ジョアンを主人公にした歴史物語ですが、そこに黒田如水についてこんなことが書かれていました。

 官兵衛は、いと(清原マリア 細川ガラシアの小侍従)の言葉に応じて策をめぐらすことに不思議なたかぶりを覚えた。そして小西隆佐(小西行長の父 キリシタン 堺の商人)からジョスエ(旧約聖書のモーゼの後継者ヨシュア)についてきかされたことを思いだした。ジョスエは指導者を失った民を率いて難関を越え、地上の楽園を目指したという。
 官兵衛は、自分はジョスエになれるだろうか、と自問した。ジョスエが難攻不落の城塞を落としたように、豊臣という巨城を落とせるだろうか。
(知恵を絞ればできぬことはあるまい)
 官兵衛の胸に不敵な思いが浮かんだ。それとともにこれからは如水という号を使おうと思いついた。
(水の如く自在に生きよう)
という意味である。だがもうひとつの意味があった。
 後に官兵衛はローマ字で
 Josui Simeon
と刻んだ印刻を用いるようになる。如水、シメオンである。語尾が一字違うがポルトガル語で Josue はジョスエすなわちヨシュアのことだ。
 ヨシュアとして戦うことを官兵衛は選んだのだった。



如水 秀吉の軍師として生きた官兵衛がどこまでキリシタン武将として信仰の道を守り続けたかはこの小説には書かれていない。
 しかし「如水」が旧約のヨシュアを意味していたということにちょっとした驚きとともに感動を覚えたのである。
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2008年11月11日

経世家林子平の「寛政の奇人」的生き方


林子平1 林子平は江戸中期の経世家。上州の高山彦久郎、下野の蒲生君平とともに「寛政の3奇人」のひとりである。
 林子平(1738〜1793)は仙台の出身。日本全国を歩き、外敵の侵入の恐ろしさを警告して「海国兵談」と「三国通覧図説」を著した。この書は世界的視野にたって、「藩」という発想ではなく、日本という国の防衛を説いたところに彼の思想のスケールの大きさが伺われる。
 しかし、これらの書は出版するところが見つからず、自ら版木をつくって自費出版したが、幕府の禁に触れ版木を没収された。さらに仙台に蟄居を命ぜられ、そこで没す。

 親も無し 妻無し子無し版木無し 
     金も無けれど死にたくも無し



林子平2 このような歌を残し、と嘆き、自ら六無斎(ろくむさい)と号した。
 宮城県塩釜市の名前の由来である鹽竈神社に日時計がある。これは長崎の出島にある日時計をもとにして林子平が作ったものだそうだ。何故長崎の出島の日時計のレプリカが仙台にあるのか? その辺りに林子平が奇人たる所以があるかもしれない。

 平賀源内、渡辺崋山、高野長英らに共通するすさまじいまでの生き方である。かれらがあと100年後に生まれたならば………。


 
 

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2008年10月08日

蒲生氏郷が伊勢松坂、会津若松、福島を命名した

 戦国時代の武将蒲生氏郷は、自分の任地の行く先々でおめでたい名前を地名につけたという。

 かれは近江の国蒲生郡日野の生まれ、幼少時に人質として岐阜で過ごしたときに、信長にその才知を認められ、信長の娘の冬姫を妻に迎える。
 信長が本能寺で急死したあとに安土にいた信長の妻子を日野城にかくまい、光秀に対抗した。
 秀吉はその後氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えると、かれは新しい城を造り、そこを「松坂」と命名した。
 さらにかれは秀吉の奥州仕置により、陸奥会津に移封され、42万石を与えられる。このとき、この地は黒川と呼ばれていたが、ここを「若松」と命名した。そして城は氏郷の幼名鶴千代にちなみ「鶴ヶ島城」と呼ぶようにした。
 また伝えられるところによれば当時杉妻と呼ばれていた地を「福島」と変えたのも氏郷であるという。

 町作りは、町名をおめでたい新しい名前に変えるところからはじめたわけである。そして移封するたびにかれは商人を引き連れていき、商業を盛んにすることをこころがけた。
 三越の創業者であった三井家はもともと日野の商人で氏郷に引き連れられて松坂に移ったという。でも三井家は会津には移らなかった。
 ちなみに伊勢松坂は、本居宣長の出身地で宣長が賀茂真淵と出会ったところとして歴史に登場する。

 ちなみに氏郷はキリシタン大名高山右近の影響で彼自身もキリシタンとなり、レオンという洗礼名を持っていて、たびたびローマ教皇に手紙を送ったらしい。
 ただキリシタン大名としての足跡は会津には残っていない。
 1595年40歳で没。

 氏郷の死後家内不穏とのことで宇都宮に移封され、会津若松には上杉景勝が入ることになる。
 たしかNHKの来年の大河ドラマは上杉景勝と知将直江兼続の話だったと思う。

 諸大名からの人望も厚く、家臣を大事にして、商業を盛んにして町づくりを行うなど、経営的センスも持ち合わせていたとともに、千利休の弟子として「風流の利発人」であり、和歌も詠んだ。

 思ひきや人の行方ぞ定めなき
   我が故郷をよそに見んとは

 限りあれば吹かねど花は散るものを 
   心短き春の山風
 
 
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2008年08月17日

宮澤賢治のこの写真はベートーベンのまねだったらしい


賢治1 以前「日曜喫茶室」で宮澤賢治がテーマとなっていたときに、賢治のこの有名な写真は、ベートーベンをまねたポーズを写真屋にとらせていたという話を聞いたことがあります。

 それで、7月に花巻の宮澤賢治記念館を訪れたときに、学芸員の方にそのことを聞いてみました。
 その学芸員の方のお話によると、


ベートーベン 
確かにあの写真はベートーベンをまねたものであるらしいですね。賢治はベートーベンが好きで、ベートーベンのSPレコードを、給料をはたいて買いあさっていたとのことです。東北で2番目にレコードを買った人ということで、レコード会社から表彰されたとか、レコード屋とまちがわれたという話が残っているくらいです。
 農学校の授業でもしばしば生徒たちにレコードを聴かせていたとか、レコードコンサートを企画したとか、自分の手持ちのレコードを自分の持っていないレコードと交換しようと呼びかけその交換規定までつくっていたとかいう話しが伝えられています。


 ということでした。
 賢治の茶目っ気ブリというかオタクぶりがうかがわれます。
 こういうところがまた賢治の魅力なのでしょう。
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2008年07月24日

唐人お吉と新渡戸稲造

 私の父の実家は、伊豆の下田であった。
 前にも書いたことがあったと思うが、私が小学生だったころ、夏休みや春休みによく田舎に行った。まだ伊豆急も開通していなかったので、下田へは、伊東から東海岸ぞいにいく東海岸コース、修善寺から天城越えで行くコース、沼津から土肥、松崎を経て西海岸を行くコースのいずれも3時間近くかけて東海バスでいったものである。
 東海バスの中では、いつもバスガイドさんが観光案内をしてくれた。そのはなしは、曾我兄弟物語、伊豆の踊子、源頼朝と北條政子、吉田松陰と黒船の物語、そして唐人お吉物語であった。伊豆半島にまつわる物語を時に歌をまじえながら、案内をしてくれたものである。

 「新渡戸記念館」には、その「唐人お吉」のために新渡戸稲造がこんな歌を詠っていたことが紹介されていた。
 からくさの浮き名のもとに枯れはてし
 君が心は大和撫子

 新渡戸稲造が下田に来て、お吉の話を聞いて、お吉が身投げをしたという「お吉が淵」と呼ばれていたところにお地蔵さんをおき、この歌を読んだという。

 下田に黒船がやってきて、アメリカの総領事館が置かれた。お吉は総領事ハリスに仕えた女性であったが、ハリスの帰国後、まわりの人からの中傷をあびて、身を持ち崩してしまい、最後は稲生沢川に身を投げて世を去ってしまった女性である。
 新渡戸稲造は、お吉の話を聞いて、この女性こそ「大和撫子」だとほめあげて、そこにお地蔵さんをすえたのである。
 考えてみたら、新渡戸はクリスチャンだから、お地蔵さんというのはちょっと宗旨がちがうのではないかと思わないわけではないが、でもこんな所に新渡戸稲造という人の人柄が偲ばれるであろう。

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2008年07月18日

「われ太平洋の架け橋とならん」新渡戸稲造物語その2


nitobe1 新渡戸稲造は1875年15歳の時に、札幌農学校に入学します。同期生に内村鑑三がいました。札幌農学校には、あの "Boys be ambitious!" で有名なクラークがいましたが、新渡戸が入学したときにはすでにクラークはアメリカに帰っていました。内村も新渡戸もクラークには直接教わっていなかったのです。
 クラークをアメリカから招聘したのは北海道開発庁間だった黒田清隆でした。クラークはその条件として「聖書を教える」ことを黒田に認めさせます。国立大学では宗教教育はできなかったのですが、クラークは堂々とそれをするのです。そのクラークのもたらしたキリスト教精神は1期生の中に根付き、その先輩からの強い影響で新渡戸も内村も洗礼を受けてクリスチャンになるのです。

 農学校を卒業した新渡戸は1883年東京大学に入学します。その面接の時に新渡戸は有名な言葉を熱っぽく語りました。
「願わくはわれ太平洋の架け橋とならん」

 ただ外国の学問や文化を導入するだけにとどまらずに、日本の文化や伝統を外国に紹介するという使命をこのときから自覚していたわけです。この言葉は新渡戸の生涯をつらぬく生き方となりました。

 1884年新渡戸は私費でアメリカのジョンズ・ホプキンス大学に留学します。
 内村もアメリカに留学していました。アメリカに留学した二人は、しかしクラークとアメリカに失望します。クラークは日本にいた1年足らずが教育者としてもっとも輝いていたときで、アメリカに帰ったクラークは実業に失敗してみる影もなく落ちぶれていました。クラークが語っていたキリスト教の国アメリカは、人種差別の国でした。
 そのかわりに彼らは目覚めたのです。「大和魂」や「武士道」などの日本精神に。彼らはその日本精神をアメリカに伝えようとします。1900年に新渡戸は「武士道(Bushidou)」をアメリカで出版し、これはベストセラーになっていろいろな国の言葉に翻訳されます。


nitobe3 ドイツ留学をへて、メリー・エルキントンと出会い結婚して日本に帰国したのは1891年、彼は母校の札幌農学校で教鞭をとります。
 札幌時代にメリー夫人とともに力を注いだことは、遠友夜学校の創立でした。これは1894年に設立した貧しい子供や勤労青年が無料で学べる学校でした。
 遠友夜学校では「リンカーンに学べ」を校是に札幌農学校(現・北海道大学)の学生が無報酬で講師をつとめ、1944年まで数千人が学びました。メリー夫人が受け取った遺産がその運営資金にあてられたといわれています。

 1901年台湾総督府民政部殖産課長として、台湾の殖産興業に尽力します。特に製糖産業の基礎を築いたといわれます。彼は単なる学問の徒ではなく、実践の人でもありました。
 1903年には京都帝国大学教授、1906年には第一高等学校長に就任、東京帝国大学教授も兼任します。
 1918年には東京女子大学の初代学長になります。


nitobe4 そして1920年、国際連盟事務次長に就任。6年間の任期を勤めます。彼が力を入れたのは、ユネスコの前進となる「知的協力委員会」でした。
 彼が国際連盟を去ってから、日本は急速に軍国主義の道を歩むことになります。
 彼の晩年は「憂国と愛国の間で」苦悩の連続でした。このころについてはここに詳しく書かれています。このことについてはいずれまた書きたいと思います。

 1933年、第5回太平洋会議に出席するためにカナダのヴィクトリア市にて客死します。71歳でした。
 
 

 


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2008年07月17日

「永遠の青年」新渡戸稲造 その1

 花巻で「花巻新渡戸記念館」を訪れました。
 これは新渡戸稲造の先祖、新渡戸家の歴史を新渡戸稲造の生涯とともに紹介した記念館です。
 新渡戸家は8代228年間にわたり高松・安野の地に居住し、新田開発など地域開発に貢献しました。

 旧五千円札の人新渡戸稲造について、賀川豊彦の次のような詩が目にとまりました。

   永遠の青年
      カガワ・トヨヒコ

大きかったね
 その輪廓は――
  すっきりしてゐたね
   その肌合は
    武士道に
     世界魂を注人した
      その気魂は
       日本の島に容れるのには
        少し大き過ぎたね

年と共に
 若くなる
  あの気持のよい
   霊魂――
    どこからあゝした
     若々しさが湧くだらうかと
      いつも感心させられた
       永遠の青年!

解りの善い賢人
 博識なる善人
  弱者にも 貴人にも
   何等隔てなき尊者
    明徹朗麗
     花辮の如き魂であったよ
      新渡戸稲造は――

私は 日本の七賢人は
 誰かと聞かれたら
  新渡戸稲造を先づ
   第一にあげたであらう――

誠に彼はギリシヤの
 ターレスにも ソロンにも
  劣らざる賢人であつたよ
   凡俗を抜いて――
    然し この賢人は
     至高の純愛の持主であったよ
      彼ニイトベは――

祖父の血を継いで
 開拓精神に生き
  國境を越えて
   人間を愛し得る
    宇宙精神の持主であつたよ
     おゝ 尊き存在――

彼が
 曽子 荀子 孟子に比較しても
  決してひけ目のない
   霊魂であつたことを 私は考へてゐる
    彼は
     聖賢に属する存在であつた

彼の名は
 彼は 魂の彫刻者として
  自己の姿を
   不朽の霊に刻んだよー
    おゝ 優れたる彫刻者
     おゝ エキセルショア!
      親しむべき師父
       巨大なる世界人――・
        ニイトベ!

年経つと共に
 彼の名は
  花園の薫の如く
   日本に愛せらるゝであらう
    徳愛の人――日本人
     おゝ 日本人中の日本人よ!

(『新渡戸稲造博士追憶集』昭和十一年刊より)


 彼の生涯ならびに功績を挙げてみよう。

国際人として
 世界の平和と協力を目的とした、国際連盟の事務局次長を務め、草創期の国連の基礎確立に貢献し「ジュネーブの星」と称せられた。
 ユネスコの前進である「知的協力委員会」の創設に尽力した。

教育者として
 札幌農学校、京都帝国大学、東京帝国大学などで教鞭をとり、第一高等学校長、東京女子大学学長を歴任した。万人に等しく学びの場を、との願いのもとに私立「遠友夜学校」を開校し、運営・指導した。

農政学者として
 佐藤昌介(花巻出身、北海道帝国大学初代学長)らと友に日本初の農学博士の学位を受ける。
 日本統治下にあった台湾の財政的自立のために、技術者・指導者としてサトウキビ栽培や製糖工場の基礎を築いた。

著述家として
 代表的な著書「武士道」は日本文化の伝統の中に人類共通の道徳があることを世界に紹介したいと願っている。
 農学・歴史・法学などの学術専門書から人生訓、講義録など。多方面にわたっての著書を、英語日本語で著している。

 


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日本の夜明けを告げた幕末の蘭学者高野長英のすさまじい生き方


高野長英 水沢で高野長英記念館を訪れました。
 この人物は驚くべき生き方をした蘭学者で、今回の旅で出会いたい人物のひとりでした。
 記念館のパンフレットにあった高野長英の生涯を紹介しましょう。

 
高野長英は1804年水沢で生まれ、世界に目を開き日本の夜明けのため生涯をささげました。
 17歳で江戸に出てオランダ医学を学び、さらに長崎に行きシーボルトの鳴滝塾において、医学と蘭学を学びました。
 その後、江戸に戻り、開業医をしながら翻訳を続け、庶民の要求に応える学問を続けました。
 1838年「戊戌夢物語」を書き、これが幕府を批判したとして投獄されました。1844年に脱獄し、数多くの門人や宇和島・薩摩藩主に守られ、潜行千里、その間も医療や天文学、兵学などの著訳に力を傾けました。
 そして、薬品で顔を焼き、人相を変えて医療を続け、1850年10月30日江戸青山百人町で英雄的な最期を遂げました。47歳でした。


 長英は後藤家の生まれだが、9歳の時母の実家である高野家の養子となった。高野家は蘭学の素養を持った祖父や養父がいて、彼らを通じて蘭学を学んだ。この少年時代の環境が長英の生涯を切り開いたわけである。
 しかし、水沢で蘭学医をするにとどまらず、彼の目は世界に開かれていく。17歳で江戸、さらに22歳の時に長崎のシーボルトを訪ねて鳴滝塾で学び続ける。

 鳴滝塾におけるシーボルトの教育方針は、弟子たちに日本研究をさせて発表させるというものであった。シーボルトが持ち帰った弟子たちのオランダ語論文43点のうち11点は長英の論文であった。
長英の論文は、「活花の技法について」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」、「小野蘭山『飲膳摘要』(日本人の食べ物の百科全集)」、「日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法」(2)、「日本古代史断片」、「都における寺と神社の記述」、「琉球に関する記述(新井白石『南島志』抄訳)などで、日本の歴史、地理、風俗、産業などシーボルトの日本研究の基礎資料となるものであった。
 長英は「鯨油および捕鯨について」という博士論文を書きシーボルトよりドクトルの称号を受ける。
 シーボルトはドイツ人であったが、オランダ人になりすまして日本に滞在した。日本地図を持ち出そうとして幕府の禁に触れ、スパイ容疑で国外追放となる。いわゆる「シーボルト事件」である。
 弟子たちはシーボルトのスパイ行為を助けたとしてこの事件に連座する。
 たまたま旅行中で難を逃れた長英は、長崎を離れ江戸に行く。途中大分県の日田の儒学者広瀬淡窓を尋ねたとされている。広瀬淡窓の塾「咸宜園」を出て世に名をなした人及び門人の名簿に高野長英の名が載っている。

 水沢の高野家は、養父が亡くなったために、長英に跡を継がせようとしたが、長英は江戸にいて学業を継続したいという意が強く、高野家と絶縁するしかなかった。
 江戸において、長英は町医者を開業する傍ら、著述をおこない日本初の生理学書「医原枢要」や飢餓対策の書「救荒二物考」流行病対策の書「避疫要法」を著した。
「救荒二物考」は天保の凶作に際して、庶民の窮乏を救うため、早ソバと馬鈴薯(じゃがいも)の栽培をすすめたものである。長英の学問的態度がこれらの書によく表現されている。

 またかれは「尚歯会」に加わった。田原藩の家老渡辺崋山、岸和田藩医小関三英、江川太郎左右衛門らの洋学者とともに、内外の情勢を研究しようとしたグループの歴史的呼称である。
 そのはじまりは、天保3年(1832)ごろ、崋山、長英、三英らの交友にはじまり、その後、当時打ち続いた大飢饉の応急対策を練ったりした。
 このグループは単に洋学の研究にとどまらずに、その当時の世界と日本の将来を考える政治結社であった。

尚歯会 この尚歯会の集まりの様子を渡辺崋山が描いている。「尚歯会」の集まりの後、仲間で囲碁をうつ風景を描いた図。立っているのが渡辺崋山で、その前で碁石を持っているのが高野長英であると伝えられる。
 日本人漂流民を日本に届けるべく江戸湾に現れたアメリカ商船モリソン号を浦賀奉行は砲撃を加え追い払う、いわゆる「モリソン号事件」に対する幕府の対応を批判した、長英の「戊戌夢物語」、渡辺崋山の「慎機論」を口実に「蛮社の獄」が起きた。長英は「永牢(終身刑)」となる。

 長英は、1844年江戸小伝馬町の牢屋敷が火災に乗じて脱獄し「天下のお尋ね者」となるのである。
 逃亡中、長英は諸国の弟子たちを訪ね、また故郷水沢にもたちよる。さらに宇和島の開明的藩主伊達宗城や薩摩藩主を訪れるが追跡の手が回った。
 逃亡中金比羅神社で心情を記した詩が紹介されていた。
 暦日春に入って未だ春を見ず
 ただ看る満眼の菜花新たなるを
 問うや君 拝廟果たして何の意ぞ
 これより東方の第一人たらん

 彼の目は「アジアの第一人者」として世界をながめていたのである。
 また門人に送った手紙に、西洋のことわざを歌にしたものがある。
 たえねばや はてはいしとも うがつらん
   かよわきつゆの ちからなれども

 大阪に滞在したときに彼は顔を硝酸で焼き、顔を変装して江戸にもどることを決意する。

 江戸では「沢三伯」と名前を変え、江戸青山百人町に町医者を開業し、翻訳や著述を継続する。
 しかしついに追捕の役人の手がまわり、1840年自害する。47歳の生涯であった。ペリーが浦賀に来日し日本が開国する四年前のことであった。

 顔を変装してまで江戸に帰ろうとしたのはなぜだったのか。国家の危機を感じ取り、それに対する自らの使命を感じ取ったからなのだろうか。
 長英の死を悼んで詠った江川担庵の句があった。
 
里はまだ夜ふかし富士の朝ぼらけ



 


 

 

 
 

 

 

 
 

 
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2008年06月22日

森の「物語」の語り部になりたい

 今、私は「無職失業中」なのだが、個人的には「サバティカル中(充電中)」だと思って、新しい冒険にチャレンジしている。これがなかなかおもしろいのだ。

 一つは、「おもしろ科学体験インストラクター」であり、もうひとつは「森林インストラクター」である。

 「森林インストラクター」については、森林レクリエーション協会の養成講座と、神奈川県森林文化協会が主催するものと、園芸協会の行う通信講座とがあるようだ。
 通信講座はちょっと高いし、通信では続かないと思って思い切って「森林レクレーション協会」の夏期集中講座に参加することと「神奈川県森林文化協会」のコースに参加することにした。

 神奈川県森林文化協会のコースに参加するには「小論文」が必要だったので、それに次のような文章を書いたので紹介したい。

 
森の「物語」の語り部になりたい


 私は町でも野山でも森でも歩くのが好きです。ただ歩くだけでなく、デジカメを持ち歩き、いろいろなものを発見しては撮影し、その中で興味あるものはさらに調べたりしてブログで紹介するというライフスタイルを楽しんでいます。
 先日、丹沢「札掛の森の家」で「まるごと森体験!」に参加しました。残念ながら雨だったので森の間伐や下草刈りはできませんでしたが、雨の中の森の散策は行いました。雨の「ケヤキの森」「カシの森」「モミの森考証林」の美しさとともに、もっとも印象的なものは「ヤマビル体験」でした。
 最近このあたりで「ヤマビル」が大発生していて、なんでもシカの増殖と関係あるらしいとか。私は、靴下に塩をすり込んで防御したのにヤマビルに吸血されてしまいました。靴下に血がにじんでいて気づいたのですが、痛くもかゆくもなかったので吸血されていたことを気がつきませんでした。
 ヤマビルについての説明を聞き、この小さな動物の「物語」にとても興味を持ちました。ヤマビルは吸血するときに麻酔みたいなものと血を凝固させないためのものを分泌し、一度血を吸うと産卵を始め、1年は生き延びるという話しを知って、これは医学的にも薬学的にもおもしろい生き物だと興味を持ちました。ヒルという生物は嫌われるのが普通ですが、私は親しみを覚えるようになりました。「ヒル(蛭)」という漢字はムシヘンに私の名前「至」だからなのかもしれません。
 ヒルの話だけでなく、森は生き物たちの「物語」の宝庫です。こういう「物語」が森の植物や動物のいとなみのなかに隠れています。その「物語」を探し出し、調べ、紹介することによって、「森の語り部」になれたらと熱き想いを寄せています。

 こんな「小論文」では合格しないかも。そういえばまだ「合格通知」は来ていない。

 「森林インストラクター」になるには2回の試験があるようなので、これにもチャレンジしようと思っている。
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2008年06月17日

有さんの絵 第2作


有さん2 有さんの絵の第1作は前に紹介した。なかなかいい絵だった。
 と誉めたら、第2作目も見せてくれた。これもなかなかいい出来映えので、続いて紹介しよう。

 この絵は鎌倉の「旧華頂宮邸」をスケッチしたものである。ここもなかなかいいところみたいなので、今度訪れてみることにしよう。
 彼の絵は描いたところに誘い出す、つまり行ってみたくさせる不思議な魅力を持つ。
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2008年06月16日

「ラーハ=ゆとろぎ」ばかりの生活

 6月13日の朝日新聞「窓 高貴高齢者 越村佳代子」に次のようなことが紹介されていました。

 前国際日本文化研究センター所長の片倉もとこさんについて述べたものです。

「後期高齢者は高貴高齢者ですよね」とにこやかに話だし、アラビアの社会では時間が「労働」「遊び」「ラーハ」の3つに分かれると語った。
「ラーハ」とは学ぶ、ごろんとする、お客をもてなす、祈る、詩歌を作るなど、大人として大切な時間とされている。
 片倉さんはそれを表すのに「ゆとり」と「くつろぎ」を足して「りくつ」を引いた「ゆとろぎ」という造語を考えた。最近、同名の本を岩波書店から出版した。
 街や人とつながり、「ゆとろぎ」の時間を過ごす。高貴高齢者でなくとも、こんな暮らしがしたい。


 別なサイトでは「ラーハ」についてこんなこともかかれていた。
 ラーハで行われるのは、
▽学ぶこと、
▽ごろんとすること、寝ること
▽家族や友人と一緒にいること
▽祈ること、断食すること
▽客をもてなすこと
▽詩歌を作ること。
 死ぬこともラーハであり、死は悲しむことではなく、眠りも「小さな死」と言われているという。
 また、「労働は人生の一大事ではない。遊びは子供がすることで、遊びをやめてラーハの時間を大切にするのが大人になった証し、とイスラムでは考えられている。


 私は現在「失業中(サバティカル中)」なので、「ラーハ」の時間ばかりなのですが、「ラーハ」のなかに「祈ること」「詩歌を作ること」というのがあるところがおもしろいなと思いました。
 「ラーハ」のなかに
▽散歩すること
▽森を歩くこと
▽料理をすること
▽おもちゃをつくって子どもと一緒に遊ぶこと
▽家を片づけること、家の修理や掃除をすること
▽ブログを書くこと
 というのをくわえたら、完璧に今の私の生活になります。

 

 
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2008年05月20日

榎本武揚という「万能人」

 榎本武揚という人物がおもしろい。
 5月18日の毎日新聞に「近代日本の万能人・榎本武揚」という本の書評が載っていたのを読んで知った。

 榎本武揚といえば函館五稜郭の戦いで大鳥圭介や土方歳三らとともに官軍と戦い、黒田清隆の説得で降服したことと、旧幕臣でありながら維新政府の要職を務め、黒田清隆に認められ北海道開拓使で働いたり、外務大臣として条約改正交渉にあたったことで日本史に登場する人物である。

 この書では、榎本の「万能人ぶり」が紹介されていたが、こういう人物であることは知らなかった。

 彼は行政官であり、外交官であり、政治家であり、また多くの学会を創設した学者でもあった。「維新政府最良の官僚」とも言われている。

 少年の時から昌平坂学問所に学び、ジョン万次郎から英語をまなび、さらに海軍伝習所にて西洋の学問に接する。彼の万能ぶりは、特に1862年から5年間のオランダに留学したときに身につけたという。
 軍艦について学ぶことから関連して造船、砲術、化学、物理学、地学、金属学、数学などを学ぶ。プロシア=オーストリア戦争においては観戦武官として近代戦争を知る。地学や国際法、農学にも強い関心を持つ。

 北海道開拓使時代には、硫黄、石炭の調査をし、爆薬を用いて土地を開墾する手法を実験した。
 外交官としては、対ロシアとの間に樺太・千島交換条約を成立させた。
 逓信大臣として電機産業の育成につとめ、函館海底電線工事を完成させた。「〒」のマークを採用したのも彼である。
 農商務大臣としては足尾鉱毒事件の現地視察をおこない、鉱毒調査委員会を設置した。
 また民間のメキシコ殖民事業をはじめた。
 地学協会、電気学会、気象学会、工業化学会などの会長を務め、また東京農業大学の前身である徳川育英黌農業科を設立した。

 かれは「三現主義(現場、現物、現実)」を掲げた実証的な工学者ではあったが、富国強兵論者ではなかった。むしろ「国利民福」の思想を持ち平和的な殖産興業を主張した。

 福沢諭吉は、彼を「無為無策の伴食大臣。二君に仕えるという武士にあるまじき行動をとった典型的なオポチュニスト。挙句は、かつての敵から爵位を授けられて嬉々としている「痩我慢」を知らぬ男」と罵倒している(『痩我慢の説』)。もっとも福沢は榎本がとらわれの時代にあったときに、彼の有能ぶりを認め、助命嘆願をしたひとりではあったが……………。

 江戸期から維新期にかけて、彼のような「万能人」を探してみると、けっこうおおいと思う。
 キリシタン時代の宣教師たちたとえばルイス・アルメイダ、新井白石とヨハン・シドッチ、平賀源内、渡辺崋山、高野長英、佐久間象山、江川担庵、緒方洪庵、さらに福沢もそのなかにあげられるであろう。明治期の宣教師ド・ロ神父もそのなかに加えたい。
 
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2008年03月06日

「アレッポの石鹸」を使ってみた


アレッポ 「アレッポの石鹸」なるものを買って使ってみた。
 入浴時に使うと肌がすべすべする感じである。ちょうど単純アルカリ泉の温泉に入った時みたいである。風呂から出たときの香りもいいと妻から言われた。
 使っているときには石鹸特有の匂いがする。

 能書きによると、この石鹸の原産地はシリアなのだそうである。そしてこの石鹸はオリーブ油とローレル油(月桂樹の実からつくった天然素材の石鹸である。このオリーブ油とローレル油の配合加減でお値段が違うらしい。
 私の買ったのは駅ビルの天然素材を扱う店においてあった。


ロリエ そういえば、ローレル(月桂樹)は今頃小さな実をたくさんつけている。実の部分をつぶして匂いをかぐと月桂樹の葉と同じようにいい匂いがする。
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2008年02月28日

エレン・スワロウ・リチャーズ物語


スワロウ「環境教育の母 エレン・スワロウ・リチャーズ物語」(東京書籍 エスリー・アン・ヴェア著 住田和子・住田良仁訳)を読みました。

 19世紀のアメリカで、自らの意志を貫いて大学に進学して科学を学び、それを人びとの日常生活の向上に役立てた女性科学者、エレン・スワロウ・リチャーズ(1842~1911)。あのキュリー夫人も敬意を表したそのひたむきな生涯をたどるやさしい伝記。
 
 エレンは、1世紀以上も前に、環境教育に生涯を捧げた女性です。彼女は環境教育、公衆衛生学、家政学、消費者運動の先駆者で、それぞれの分野で「母」と呼ばれています。彼女は、科学は人類の福祉に役立つべきであり、世の中をよくすることに役立たない科学は意味がない、と考えました。彼女にとって、科学の大事な目的は、人びとを健康で幸福にすることでした。そこで彼女は「豊かな生活」より「正しい生活」のために科学を役立てたいと願ったのです。
  {訳者あとがき)

 この人は、「沈黙の春」のレイチェル・カーソンとともに「エコロジー」を打ち立てた人と言われます。レイチェル・カーソン(1907〜1963)よりひと世代前の人です。エコロジーはこれらの女性によって創始されたと言ってもいいでしょう。

 1860年代のアメリカといえば、まだほとんどの女性がハイスクールへ行けなかった時代ですが、そんな時代に彼女はマサチューセッツ工科大学に学んだ最初の女性となりました。最初の女性化学者になったのです。
 彼女は学んだ化学を水質汚染や栄養学の分野できわめて実践的にいかし、家政学(ホーム・エコロジー)を創始しました。
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2008年01月29日

左投げに変身とまではいかないが、左投げ(サウスポー)に挑戦中!

 高校時代にこんなことがあった。

 あのころ、休み時間になると外でテニスボールを使ったキャッチボールがはやっていた。フォークボールやらナックルボールやらの変化球を投げることを競いあっていた。
 なかなかマスターできなかったのが浮くボール、いまでいえばライズボールである。それを投げられるようになったのが何人かいたが、私にはできなかった。
 そのかわり、私はある落ちるボールの投げ方を開発して得意になっていた。

 あのころ南海ホークス(今のソフトバンク・ホークス)に杉浦という下手投げの美しいフォームのピッチャーがいて、みなでそれをまねして下手投げにチャレンジしていた。

 なかにI少年がいた。
 彼は「右利き」だったのだが、夏休みを過ぎてなんと「左投げ」それも「左下手投げ(アンダースロー)」をマスターしていたのである。
 左の下手投げ(アンダースロー)はプロのピッチャーでも少なくて、私の知る限りでは中日に中山というピッチャーがいたくらいである。
 夏休み中に、どれくらいそしてどんな練習をしたのか、彼は多くを語らなかったが、それがどのくらい大変なことかは私たちはわかっていた。それを彼は夏休みという短期間でやってのけたのである。
 一挙に彼に対する尊敬の念をいだくようになって、彼の株が急騰した。
 こんなことでみなの注目を浴びることができるんだと私は思った。

 私は現在ソフトボール部の顧問をしているので、部員の生徒相手にキャッチボールをすることも多い。右利きなのでふだんはもちろん右投げであるが、壁を相手に左投げの練習をするようになって5年くらいたった。
 スピードも飛距離もコントロールも右投げにはまだまだ及ばないが、それでも少しは投げられるようになった。
 少しずつでも続けてやり続ければできないことではないということを部員生徒に示したかったのだが、あいにく期待に反して生徒からの尊敬を集めるには至っていない。これくらいではまだ注目には値しないと思っているのであろうか。

 中1の新入部員で初めてバットを握る生徒には「左打ちのバッター」になることをすすめているので、右投げ左打ちの選手は少なくないが、右利きで左投げをするのはめったにいない。

 
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2008年01月25日

「困っている人がいたら助けてあげてください」という言葉のかっこよさ

 今日、学校から帰る途中、門のところで一人の生徒が困っているらしいところに出くわした。彼女は自転車通学なのだが、その自転車のチェーンがはずれてしまったという。
 「そういえば子どものときにそんなことがあったっけ」とおもいだしながら「ど〜れ、なおしてみよう」と試みた。何度か試しているうちにチェーンはうまくはまり、自転車は動くようになった。その生徒の喜んだ顔が忘れられない。
 人が困っているときに助けられたということはとても大きな喜びであるということを改めて実感したのである。

 私がコンピューター教室の管理をしていたころ、生徒が「コンピューターが動かなくなっちゃったのですけれど」とよく助けを求めてやってきた。私は喜々としてコンピューターの前に行き「ああ、これはこうすればいいんだよ」と生徒の前で即座に治してあげられたときのかっこよさ、わたしの教員生活のなかでもっとも得意になったときであった。
 自分が必要とされていること、役に立っていることを実感できることはいきがいとつながるものである。

 もう25年近く前、まだ教員になる前のことだった。その日私は次の日に廃車にする車を運転していた。それでガソリンをケチっていたら、案の定途中でガス欠になり、有料道路の出口をすぎたところの道路のまん中で止まってしまった。かなり車の通りの激しい幹線道路だったので、大変危険なところであり、途方に暮れてしまった。
 近くのガソリンスタンドへ行って、ガソリンを少し買ってくるしかないと思っていたら、あるトラックに乗っていた青年が「どうしたんすか?」と止まってくれた。
「いあや、ガス欠で立ち往生です。実はあした廃車にしようと思っていたので、ガソリンをケチっていたらこの始末です。おはずかしい。」
「そりゃ、お困りでしょう。ロープで近くのスタンドまで引っ張ってあげますから、車に結んでください」といって車を近くのスタンドまで引っ張っていってくれたのである。
「ほんとに助かりました。どんなにお礼をしたらいいか。ほんのお礼のつもりです。受け取ってください」といって幾ばくかのお金を出して渡そうとした。
 するとその青年「いやあ、いいっすよ。そんなことよりももし同じように誰か困っている人がいたら、助けてあげてください」と実にさわやかに言って、その場を立ち去っていった。その言葉のかっこよかったこと。私も「このかっこいい言葉を誰かに言ってやるぞ」とこころにきめ、牽引用のロープをいつも車に積んでおくことにしたのである。

 程なくしてそのチャンスがやってきた。若いカップルが車の前で困りはてて助けを求めているのを見つけた。パンクらしい。
 さっそく下りて、わたしもあのことばをはいた。
「どうしたんすか?」
「タイヤがパンクしてしまって」
「タイヤ交換くらい自分でできなくっちゃ。スペアタイヤはありますよね」
「さあ」となんとも頼りない声。
 私がその車のトランクを開けて探したら、スペアタイヤは見つかった。まだま新しい車である。
「じゃ私が交換してあげるから、よく見ていてくださいよ。今度は自分でできるようになってくださいね」
と、自分の車からジャッキを出して車を持ち上げてともかく交換できた。
「ありがとうございました。今度から自分でなおします。お礼としては何ですが、せめてこれを受け取ってください」と出してくれたのがミカン数個。
「え、ミカンかよ」思ったが、これをことわる理由がすぐに思い浮かばず、受け取ってしまったら、あの言葉を言い出せなかった。
 ホントはあのカッコイイ青年のように「いいっすよ。そんなことより今度パンクして困っている人がいたら、助けてあげてくださいね」と言いたかったのだが、ミカンじゃことわるわけにもいかず、言いそびれてしまった。残念!

 あれから何度かこういうケースで人を助けたことがあり、あの言葉を言うチャンスがあったのでそれはいいのだが、あの青年のようにカッコよくはいかなかった。

 助けようとして助けられなかったこともある。その時の情けなさ、ふがいなさも忘れられない。
 

 

 
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2008年01月02日

「民俗学とはどういう学問か」柳田国男

 佐野眞一著「だから、僕は書く。」(平凡社刊)を読んでいたら、こんなことばが紹介されていた。彼はこのことばを「非常に構えの大きな言葉」と評していた。

 民俗学とは「かつてこの国土に生まれたもの、現にこの国土に生活しているもの、さらに将来この国土に生まれるもののための学問である」
 つまり、もうすでにいない人、いま生きている人、まだいないけれども将来生まれる人、簡単に言えば、過去と現在と未来にわたる学問が民俗学だというのである。……。それぐらいの大きなスタンスでこの学問をやるんだという、ある種、非常に情熱的というか、希望に満ちた言葉だというんです。


 この言葉の紹介の前に著者はもうひとつの言葉も紹介していました。こちらは「歴史とは何か」(E.H.カー著 岩波新書)の言葉です。

 E.H.カーは「歴史とは何か」という問いに答えて「それは現代の光りを過去に当て、過去の光りで現代を見ることだ」という意味のことをいっています。………。歴史は過去の遺物ではありません。そこには必ず現在を照り返す光りが含まれています。


 塩野七生著「ローマ人の物語」を7巻まで読み終えてまさにそのとおりだなという意を強くしました。

 
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2007年12月10日

中江藤樹と「神」

 中江藤樹は、儒学を学ぶ過程で、儒教の経典に述べられている最高至上の神を尊崇するようになった。

 彼は最初「皇上帝」あるいは「上帝」と「神」を呼んでいた。「皇上帝」とは宇宙の主宰者であり、無限の霊妙不可思議な能力を持っているものとした。天地万物の創造主である。儒教を形成した敬天思想の影響があるが、彼の持っている「皇上帝」は超越的な人格神であるところが、儒教の「天帝」とは異なっている。
 「皇上帝」は常に人間の行いを見ていて、人間に生まれつきの運命を賦与し、善と悪の道徳的な審判を下す人格神である。

 さらに彼は、道教を学び、そこから「太乙神」への信仰を持つに至る。神を祭り、礼拝し、感謝するべき存在となる。人間は「太乙神」の命ずるように誠意を持って生きていくことが説かれている。

 そして彼は日本の神道のなかに、この「太乙神」信仰と似たものを見つける。人間にとっての大始祖は皇上帝・太乙神であり、ついでの大父母は天神地祇、そして両親がある。神道の神々も皇上帝・太乙神が生育したとする。

 この「神」はキリスト教の神に近い。すでにキリスト教は厳しい禁教下にあり、それを公けにすることはできなかったが、おそらく藤樹はキリスト教の教えをある程度理解していたものと思われる。
 ただ藤樹の「神」思想のなかには、キリスト教の神が持つ人間と神の断絶やあるいは罪とゆるしの考え方はない。何よりも愛の神の姿は見出されない。

 内村鑑三は、その著「代表的日本人」の書の中で中江藤樹を、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、日蓮らとともに「代表的日本人」として紹介している。
 ただし、この書には、藤樹が「神」を信じていたことについては触れていない。
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