2007年11月28日

近江聖人中江藤樹物語


藤樹 日本人の中に「聖人」と呼ばれる人はきわめて少ない。聖徳太子、26聖人、そしてこのひと近江聖人といわれた中江藤樹くらいではないか。
 荻生徂徠は「熊沢蕃山の知、伊藤仁斎の行、これに加うるに自分の学をもってしたならば、日本ははじめてひとりの聖人を出すことになろう。」といっている。荻生徂徠は中江藤樹を聖人とは認めていなかったことになる。

 わたしの家には、中江藤樹の伝記があって、小学生の時になんども読んだ記憶がある。戦前の本で旧仮名遣いではあったが、子ども向けに書かれていて、何とか読めた。

 そのなかで大野了佐との話しが今でも記憶に残っている。了佐は大洲藩時代の同僚の次男であったが、知能がきわめて低かった。父親はとうてい武士としてはやっていけないと見切りをつけ、何か身に職をつけさせようと考えた。了佐は武士に家に生まれながらも武士になれない自分を恥ずかしくおもい、せめて医者になって人の役に立ちたいと願い、藤樹を訪ねてその門弟に加わった。
 藤樹も了佐の熱意に応えてなんとか医者にしてあげたいと了佐の医学を学ぶことを助けようとする。
 しかし知的能力の低かった了佐に医学を教えることは大変だった。文章が読めない、読んでもすぐに忘れてしまう。同じことを何百回と繰り返し教えることに精も根もつきはてるばかりであったという。

 しかし、それでも了佐はあきらめなかった。その了佐の熱意に動かされ、藤樹は自ら了佐ひとりのために筆を執って「捷径医筌」という教科書をつくる。「捷径」は近道、「医筌」とは医学の手引きを意味する。
 これを何度も繰り返し、読み、覚え、質問をし、とにかく身に付くまで徹底して教えた。「捷径医筌」は6巻もの大部となる。了佐一人に教えるために、自らも医学を学び、それをいかにして了佐に理解させるか、精根尽き果てるような努力の積み重ねであった。
 それがみのり、了佐も医者になることができ、藤樹自らも医学を学ぶことができた。
 藤樹は、後でふり返って次のように述べている。
「わたしがいくら一生懸命に教えても、了佐に学ぶ意欲がなかったら、とうていできなかったことである。彼は非常に愚鈍であったけれども、医術を身につけようとする熱意たるや並大抵のものではなかった。」
 自分は、了佐の熱意に応えただけのことであるというわけである。

 藤樹にとって大切なことは、よく生きることに全力を尽くすことであった。彼は才能の有無も、貧富も、身分の違いも問題にはしなかった。了佐が全力を尽くそうとしている限り、自分も全力を尽くさなければならないと考えたのである。
 このような藤樹の生き方は弟子たちだけでなく、小川村の人びとを動かした。


蕃山1 藤樹の弟子になった中でもっとも有名なのが熊沢蕃山である。蕃山が学問の志を持ちながらよき師を求めて旅をしていたとき、京都の宿で同宿人から藤樹のうわさを聞き、自分の師となるべき人物はこの人だと心に決めた。その藤樹のうわさとはこういう話しであった。

 その同宿人は加賀の飛脚であった。彼は大名の公金200両をあずかって京都に運ぶ役を仰せつかっていたのだが、宿に着いたときにその大金を紛失していることに気づく。その飛脚は色を失い、悲嘆にくれていた。そこへその飛脚を乗せた馬方がたずねてきて、馬の鞍に忘れてあった包みに大金が入っていたのであわてて届けにきたという。
 飛脚は喜びのあまり、苦境を救われたお礼に15両をとりだして渡そうとしたところ、その馬方はびっくりしてその礼を受け取ろうとしない。それでは自分の気が済まないと言ってなんとかうけとってもらいたいと懇願したところ、やっと200文だけいただきますと言って受け取った。それを受け取ると馬方は、その金で酒を買い、宿の人たちと一緒に飲み、よい機嫌になって帰ろうとした。
 飛脚はつくづく感心して、馬方に一体どこのどなたなのですかと尋ねると、馬方は自分は取るに足りない馬方で学問もありませんが、わたしの近くの小川村で中江藤樹という先生の講話をよく聞いております。その藤樹先生が言われるとおりのことをしたまでですと応えたというのである。

 蕃山はこの飛脚の話を聞いて、この人こそわたしが求めていたまことの学者であると、翌日直ちに小川村の藤樹を訪ねたのである。蕃山23歳のことである。
 しかし、藤樹はこの蕃山の申し出をことわる。しかし蕃山はあきらめずに、門前で二夜を過ごすに至って、その熱意に動かされた母のすすめでともかく会うことだけはしてもらえるが、それでも弟子となることを許されなかった。
 しかし、蕃山は屈しなかった。これはきっと母親を一人国元に残していることが藤樹先生にとって気に入らないにちがいないと推測し、いったん国に帰り、今度は母親とともに小川村に移り住んだ後にあらためて藤樹を訪ね、ついに入門を認められたという。

 蕃山が藤樹から学ぶことができたのは、わずかに八か月であった。しかしこの八ヵ月の間に、藤樹と蕃山は師弟の関係を越え、「性命の友」「輔仁・莫逆の間柄」となった。互いに教えあい、学びあう対等な関係になったというわけである。
 吉田松陰はこの藤樹と蕃山の関係を次のように述べている。
「みだりに人の師になってはいけない。またみだりに人を師としてはいけない。必ず真に教えるべきことがあってこそ師となり、真に学ぶべきことがあってこそ師とすべきである。熊沢了介(蕃山)が中江藤樹を師とした例は、師弟ともにそれぞれの道理を得ているということができる。」
 実にうらやましい師弟関係である。

 蕃山についてはまたいずれ調べて書くことにしよう。
 

 

 
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2007年11月22日

カントの規則正しい生活

 黒崎政男著「デジタルを哲学する」(PHP新書)の「カントは面白い」というところに、「カントの生涯」(ヤハマン著、木場深定訳、理想社)の書評が載っていた。これがまたおもしろかった。

 哲学者カントは、バルト海にのぞむケーニヒスベルクの町(現在のカリーニングラード、なぜかここはロシアの飛び地である)を生涯離れなかった。せいぜい数マイルの行動範囲で80年の生涯を終えた。
 にもかかわらず、彼の思想がグローバルなスケールをもっていることにおどろく。


カント1 彼の規則正しい生活は有名である。朝5時に起き、睡眠は必ず7時間をとり、夜10時には床につく。食事は一日1食、毎夕定期的に散歩を欠かさなかった。町の人は彼の散歩を時計がわりにしていた。
 ただ一度、その散歩を忘れてしまったことがあった。それはルソーの「エミール」という本を読んだときであったという。

 かれは一日1回の食事を、友人たちを家に招いてゆっくりと談話を楽しみつつ楽しんだ。その人数は「9人より多くなく3人より少なくない」と決めていた。
 カントの昼食のテーブルでは、哲学論議などの堅苦しい議論は嫌っていた。


カント2
 カントの家で食事を共にした日は、その友人にとっても祭日であった。カントは少しも教師らしいふうをしないが、愉快な幾多の教訓で食事に香味を添えた。そうして1時から4時までの時間を短く感じさせ、しかも非常に有益で少しも退屈させなかった。彼は会話が活気を養う突然の瞬間を「無風」と名付け、これに我慢できなかった。彼はいつも一般的な話題を持ち出し、人びとの好みを察して共感を持ってそれを話し合うことができた。(「晩年におけるカント」バジャンスキー著 芝丞訳)


 食事中の談話は偉大な芸術である。臨席の人とだけではなく、同席者のすべてと談話することができなければならない。重苦しい長い沈黙の時があってはならない。また談話の対象を一遍に別の対象に飛躍してはならない。談話中に激情が燃え上がることがないようにしなければならない。食卓での会話は遊戯であって、仕事ではない。…………討論を終わらせる最良の方法は冗談である。冗談は対立する意見を仲裁するだけではなく、笑いを呼び起こして消化作用を助ける。


 一体どんな話が出たのか、その話の内容は記録に残っていないのが残念である。
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2007年11月12日

フランクリン「貧しいリチャードの暦」

 ベンジャミン・フランクリンという人は実に人生をエンジョイして生きた人だと思う。彼の生き方も good News の宝庫だと思う。

 彼は1733年にリチャード・ソンダースという名前で、はじめてカレンダーを出版した。以後25年間出していたが、そのカレンダーは一般に「貧しいリチャードの暦」といわれていた。わたしはそれを面白くてかつ役に立つものにしようとして一生懸命につくったので、次第に需要が増え、年々1万部近くも売れるようになり、ずいぶん儲かった。
 これが、この地方の周囲で暦のない所がないくらい普及していき、みんなに読まれるようになったのを見て、わたしは、暦はほかの本をほとんど買わない一般の人にも、教訓を与えるのにちょうどよい手段となると考え、暦の中の特殊な日と日との間にできる小さな余白をことわざのような文章で埋めた。その文章は主に富を売る手段として、勤勉と節約を説き、そうすることによって徳も身に付くようになるのだ、と説いた。というのは一例として「空の袋はまっすぐには立ちにくい」ということわざも使われているように、貧乏な人間ほど常に正直に暮らすのは難しいのである。
  「フランクリン自伝」鶴見俊輔役 旺文社文庫



Frankulin つまり、格言入りのカレンダーを一番最初につくったのはフランクリンの発明だというのである。
 その格言にどんなものが載っていたか、英語訳をつけながら紹介しよう。

『貧しいリチャードの暦』から
From "poor Richard's Almanac", 1733~1758

人とメロンは中味がわからぬ。
Men and melons are hard to know.

見くびってもよい敵はない。
There is no little enemy.

恋愛のない結婚があるところに、結婚のない恋愛もあるだろう。
Where there's marriage without love, there will be love without marriage.

金持ちがつつましく暮らす必要がないように、つつましく暮らせるものは金持ちになる必要がない。
He that is rich need not live sparingly need not be rich.

彼は富を所有しているのではなく、富が彼を所有しているのである。
He does not possess wealth,it possess him.

3人の間の秘密は、そのうち2人が死んで初めて守れる。
There may keep a secret, if two of them are dead.

結婚前には目を大きく開けよ。結婚したら、半分閉じよ。
keep your eyes wide open before marriage, half shut afterwards.

貧乏だったことは恥ではない。しかし、これを恥じることは恥である。
Having been poor is no shame, but being shamed of it is.

とこんなところがあげられる。「時は金なり」といったのもフランクリンではないか。すべてがフランクリンの創作というわけではないが、古いことわざにヒントを得たばあいにも、彼の工夫が加わっているという。
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2007年10月08日

アリストテレスの「四原因説」

 アリストテレスは、プラトンのつくった学園「アカデメイア」の学頭を勤めたもっとも優秀な弟子であったが、「わたしはプラトン先生を愛する。しかし真理をより愛する」として師のプラトンの「イデア論」を批判する。

 アリストテレスは、現象を生起する原因は4つあるとして「四原因説」をうちたてた。
 先ず「質料(hyle)因」。これは事物を構成しているものであり、ラテン語の「マテリア」である。
 つぎに「形相(eidos)因」。形相とは個物の形に内在する本質とでもいうべきもので、プラトンのイデアに近い。ラテン語では「フォルメ」がこれにあたる。
 さらに「作用因」は運動や現象を引き起こす始原(arche)である。「始原因」ともいう。
 そして「目的因」はそのものの目指す目的(telos)にあたる。

 形相は個物に内在する。たとえば植物の種子には、植物の形相が「可能態(デュミナス)」として内在しており、それが発芽・生長をして「現実態(エネルゲイア」となるとする。
 形相がより大きな割合で内在している存在ほど高級であるとして、もっとも高級な存在は、質料をまったく持たない「純粋形相=神:不動の動者」であるとした。もっとも根源的な始原であり、なおかつ究極的な目的でもある存在である。

 このあたりの理論が、キリスト教との親和性をつくり出し、のちにトマス・アキナスらのスコラ哲学に採用され、ヘブライズムとヘレニズムの融合を可能にした「キー概念」となるのであろう。
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2007年10月07日

タレスの「万物の根源(アルケー)とは何か?」という問の偉大さ

 紀元前6世紀、アテネの植民都市であったイオニア地方のミレトスという町に哲学者タレスが現れた。彼は「ギリシャの7賢人」のひとりでもあり、またアリストテレスはかれを「最初の哲学者(哲学の祖)」とした。

 タレスは「万物の根源(アルケー)とはなにか?」という問を発し、自分で「万物の根源は水である」とした。確かに水は生命にはなくてはならぬものではあるが、彼の出した答よりもこの問いかけのほうに大きな意味があったといえよう。
 この問いかけは、それまでの神話的思考(ミュトス)から、合理的思考(ロゴス)」への転換をはかる偉大な問いかけであったのであり、この問いかけから哲学や科学が誕生することになる。

 この万物の根源をめぐって、自然哲学者たちは様々な答を導き出した。
 タレスと同じミレトスのアナクシメネスは「万物の根源を空気(プネウマ)である」とした。かれは日時計の発明者でもあった。
 アナクシマンドロスは「万物の根源は無限なるもの(ト・アペイロン)であるとした。
 またエフェゾスのヘラクレイトスは「万物の根源を火である」とした。彼は「万物は流転する」という有名な言葉も残している。つまり「火と水が戦って空気となる」という「戦いが生々流転をつくり出す」として「弁証法の祖」とも言われる。
 「三平方の定理」で有名なピタゴラスは「万物の根源は数である」つまり「万物は数学的秩序でもって構成されている」とした。かれは音楽や美術の美しさも数学的に解明できるとして、音階や和音の考え方も発見したという。彼については以前紹介したことがある。

 エンペドクレスは「万物は土と水と空気と火からなっている」とし、デモクリトスはついに「万物は原子(アトム)から成り立っている」とした。ここまで来ると近代化学の元素説ときわめて類似していることがわかるであろう。デモクリトスは人間もこの原子から成り立っていて、死ぬと原子が分解してしまって、魂などという者は存在しないと述べているので、最初の唯物主義者であるともいわれている。
 この問に終止符を打ったのはアリストテレスである。彼は四原因説を打ち立てたが、これについてはまたいずれ説明することにしよう。

 話しをタレスに戻そう。
 彼は、この時代にすでに皆既日食(前525年5月28日)を予言したり、またエジプトに行ってピラミッドの高さを測量したというくらい、天文学と測量術に長けていたようである。
 こんな話しもある。夜空の星を観察しながら穴に落ちたタレスは、それを見ていた女性にバカにされる。「タレス先生は遠い星のことはわかっても足のもとのことはわからない」と言われた話しは有名である。
 また貧乏生活をしていたタレスにあるひとが「哲学なんかしていったい何になるのだ?」と問いかけた。タレスは、その答には直接答えずに、かれは町にあるオリーブの実を絞って油をとる機械を買い占めた。かれは天文学的にその年にオリーブが豊作となることを知っていたのである。案の定そうなった。人びとは油を絞る機械を求めたが、それらはタレスの買い占められていたのである。おかげで彼は大もうけをしたという話しである。まさにベーコンが言う「知は力なり」を身をもって証明したわけである。

 中学の数学の教科書には「タレスの定理」というのが載っているらしい。これは「直径に対する円周角は、直角である」というものである。ターレス自身が、円周角上の点と円の中心を結び、2つの二等辺三角形を作って、この定理を証明したために、この名前がついたという。

 「アルケー」というギリシャ語は、archeology(考古学)architecture(建築)architype(ユングの元型)などの英語の語源となっている。

 
 
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2007年08月30日

マンザナール・プロジェクト 飢餓と貧困からの脱出

 本屋で「高校生のための東大授業ライブ」(東大出版会)とかいう本を立ち読みしていたら、「マンザナール・プロジェクト」が紹介されていた。
 この本は買わずに、さっそくインターネットで調べてみたら、こんなことがわかった。

 マンザナール・プロジェクトとは、アメリカ・カリフォルニア州中部の砂漠地帯にあったマンザナール日系アメリカ人強制収容所で、第2次世界大戦中過ごした経験を持つサトウ博士が考えたプロジェクト。貧困や飢餓、環境汚染、砂漠化など、過酷な環境下で自力で生き抜いて行くシンプルで実用的なシステムの開発を目指す。これまで砂漠の海岸での魚の養殖に成功。世界各地で砂漠化が進む中、砂漠の緑化にもつながるマングローブの植林は注目されている。


マングローブ ゴードン・ヒロシ・サトウ氏は、エチオピアから分離独立した小国エリトリアの海岸にマングローブの森をつくることを思いつく。
 しかし、このあたりの海にはマングローブが生長するために必要な、窒素、リン、鉄が不足していることを突き止め、それを有機的な方法で補う技術を開発。
 さらにマングローブを羊の餌とするための方法も開発する。
 現在役80万本のマングローブの植林に成功し、さらに500万本まで増やしていこうとしている。

 この地域は、しばらく内戦の舞台となったところで、独立戦争で夫を失った女性たちが主なる働き手であるという。
 サトウ氏は、みずから日本人強制収容所の体験を持つ。その体験がモチーフとなって、過酷な環境下でどのように開発を進めていくのかを研究するようになったと述べている。

 このプロジェクトは2004年「ブループラネット賞」をうけた。その時の講演の内容がここにある
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2007年08月27日

生け花「ハマ展」に今年も行きました。

 今年も8月26日、横浜そごう9階で行われた「生け花ハマ展」にいきました。

 このブログにもよく登場する「我が校の周公旦」物知り生物の先生が出展するというので、楽しみにしていきました。昨年の天井からぶら下がった700個のミニトマトにもおどろきましたが、今年もそれに劣らず「これが生け花なのだろうか?」と圧倒されました。

 
ハマ展07-1会場のほぼ中央にそれらしき作品がありました。会場の中央にあるというところがすごいです。来場した人たちが皆注目し、圧倒されていたくらいです。

 天井からシーツみたいなものがぶら下がっていて、そのシーツは紫色に染まっています。そしてそのシーツから紫色の液体がしみ出してガラスの器にたまっています。これは何だろうとそのシーツの中をのぞき込むと、なんと1000個以上のナスが入っていたのです。
 しみ出していた紫色の正体はナスだったのです。
 それがみごとな照明の演出によりとても美しく発色していました。


ハマ展07-2 出品者の解説によると、ナスには塩とミョウバンが加えられているのだそうです。つまり「ナスの塩漬け」の発色した液体がガラスの器にたまっていたのです。
 ミョウバンはナスの発色をよくするためによくナスの漬け物に使われます。ミョウバンのアルミニウムがナスの色素と反応して鮮やかさをますわけです。

 この生け花展には、小原流とか草月流とかいうオーソドックスな生け花も多かったのですが、この作品はその奇抜さにおいてはピカイチです。
 前衛的というよりも、理科の先生としての科学的な蘊蓄がこめられています。しかも立派な芸術作品です。

 おみやげに「ナスの漬け物」をもらい、夕食にさっそくいただきましたが、これまたけっこうな味の漬け物でした。

 来年はどんな作品を展示するのだろうか?と早くも次の作品に興味を持ちました。こういうアイディアが次々に湧いてくるところがたぐいまれな「生け花」をつくり出しています。拍手喝采でした。
 

 
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2007年08月21日

らいてう・晶子の「母性保護論争」

 1918年から1919年にかけて。雑誌「青鞜」誌上で平塚らいてうと与謝野晶子との間で「母性保護論争」というのが展開された。

 「母性保護」とは「女性が持っている妊娠・出産などの身体機能を損なうことがないように、労働時間の制限や危険有害業務への就業禁止など、女性労働者を保護すること」である。平塚らいてうが主張した。

 ところが与謝野晶子は「女子が自活し得るだけの職業的技能を持つと云ふことは、女子の人格の独立と自由とを自ら保証する第一の基礎である」としながらも「婦人は如何なる場合にも依存主義を採つてはならない」「たとひ男子にその経済の保障があつても女子にまだその保障が無い間は結婚及び分娩を避くべきものと思ひます」と述べる。
 「母性保護」を国家に要求することは、「それまで男の奴隷であった女が国家の奴隷になるだけだ」ともいうのである。

 らいてうの主張は戦後の「労働基準法」や「男女雇用機会均等法」「育児休業法」などによってかなり認められた。さらに現在「少子化」の対策をめぐってさらに認められていく方向にある。
 果たしてその結果「女性が国家の奴隷」となったかどうか。
 らいてうの主張のほうが時代を先取りしていたといえるかもしれない。しかし晶子の凛とした主張にも大いに説得力があると思うのである。
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2007年08月18日

雑誌「青鞜」創刊の時

 1911年(明治44年)平塚らいてうらは雑誌「青鞜」を発刊する。18世紀半ば、ロンドンのサロンに集まった婦人たちが青靴下を履いて女権を唱えたというので、ブルー・ストッキングの名称が広まり、それにちなんで『青鞜』とした。

 「青鞜」創刊に意気込むらいてうらは、創刊号への寄稿を依頼しに与謝野晶子を訪ねた。
 らいてうによると、晶子は終始下を向いたまま「女は男に及ばない」というようなことをつぶやいていたということである。それは「たしなめられているようでもあり、また反対にだからしっかり頑張ってやれとはげまされているようでも」あった。結局原稿を書いてくれるのかどうかもわからずに帰ってきた。
 後日、晶子の原稿がまっさきにらいてうのもとに送られてきて、らいてうらを感激させる。有名な「山の動く日来る」ということばではじまる「そぞろごと」という詩である。

山の動く日来(きた)る。
かく云えども人われを信ぜじ。
山は姑(しばら)く眠りしのみ。
その昔に於て
山は皆火に燃えて動きしものを。
されど、そは信ぜずともよし。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(おなご)今ぞ目覚めて動くなる。


 この詩が有名になったのは、1989年土井たか子社会党委員長の下で「マドンナブーム」を起こしたときの言葉であった。

 平塚らいてうの「創刊の辞」はまた有名な「元始女性は太陽であった。という詩である。

 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。
 偖(さ)てこゝに「青鞜(せいたふ)」は初声(うぶごゑ)を上げた。
 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。
 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。
 私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或(ある)ものを。


 これも長編の文であるが、全体の文はここで読める。

 こんなに格調の高い文が「青鞜」創刊号に掲載されている。文章のパワーに圧倒される思いである。


らいてう2 「らいてうの家」に展示されていた「青鞜」創刊号の復刻版を手にとってもうひとつ発見したことがあった。
それは「青鞜」の創刊号の表紙の絵は、長沼智恵子によって書かれたものであった。あの「智恵子抄」の高村智恵子である。
 顔を横に向けたアラビア風の女性の立像画。智恵子は日本女子大学でらいてうの一年後輩、白く豊かな頬(ほお)としなやかな体つきをした目立つ女性だった。肩に絵の具箱をかけて歩き、らいてうとはテニスを一緒に楽しんだ。

 


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2007年07月02日

パステルナーク「欲望について」

 前に続いてふたたび「神谷美恵子コレクション 人間を見つめて」にあった詩を紹介しよう。

「欲望について −何がたいせつか」
       パステルナーク作 稲田定雄訳

有名になることは 醜いことだ。
これは 人間を高めはしない
文書にしておく必要はなく
草稿のままで惜しむがよい

創造の目的は 献身にあり
評判でもなく 成功でもない
ついうかうかと みんなの口に
のぼるのは 恥ずかしいことだ

そうだ 偽りの名声に生きてはならぬ
つづまりは このように生きることだ
宇宙の愛を自分にひきつけ
未来の叫び声に 耳を澄ますのだ

…………………………

ほかの人びとは 生きた足跡をたどって
一歩一歩 おまえの道をくるだろう
けれど 敗北と 勝利とを
おまえ自身が区別してはならぬ


 パステルナークは1958年にノーベル文学賞を授与されたが、これを辞退した詩人である。辞退の理由はソ連の政治的事情といわれていたが、パステルナーク自身が名誉欲にとらわれていなかったことをこの詩は示している。
 「敗北と勝利とをおまえ自身が区別してはならぬ」「宇宙の愛を自分にひきつけ 未来の叫び声に耳を澄ますのだ」「創造の目的は献身にある」この短い詩がもつスケールの大きなメッセージに心動かさずにはいられない。みごとな表現であると思う。

 
 
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2007年07月01日

オルテガの「生命的方程式」 慣習的自己と本質的自己

 神谷美恵子の「神谷美恵子コレクション 人間を見つめて」(みすず書房刊 2004年)にこんなことが書かれていた。神谷美恵子については以前にも何度か取り上げている・

 人生にはただ慣習的に従っていけばよい面と、どうしてもこれだけはゆずれない、ゆずってはならないという本質的な面とがある。同じように、どの人間の中にも「慣習的自己」と「本質的な自己」の二つが宿っている。一人の人間の内部におけるこの二つの比をスペインの哲学者オルテガは生命的方程式(vital equation)と呼んだ。本質的自己の割合の多い人ほど、慣習にとらわれず、他人の目を気にせず,いきいきしていると、彼はいう。
 サン=テグジュペリも『手帖』のなかに「自由とは統計に反して行動しうる力である」と記しているが、確かに社会的統計は参考になっても、個人を支配すべきすじあいのものではない。二義的なことで、いたずらに角を立てるのは下手なやり方だが、他とかけがえのない本質的な自己には忠実にありたいものである。


 本質的な自己とは何か? 著者は簡単にわかるものではないと続いて述べているが、「生きがい」や「主体性」さらに「自由」というものがこの本質的な自己に深い関係を持っているということは確かであろう。
 私ふうにいえば、「心の奥深いところにある本当の望み」ということになるだろうか。



 
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2007年04月27日

「The Cypresses Believe in God」(イトスギは神の存在を信じます)

 カトリック新聞の4月29日号に、カプチン会司祭のラサール・パーソンズ神父が「The Cypresses Believe in God」(イトスギは神の存在を信じます)という本を紹介していた。

 この小説のなかに、スペインの内乱時の革命軍に身を投じとらわれて死刑を宣告された若い司祭と、政府軍の年寄りの聴罪司祭との話しがある。
 その若い司祭は死刑の前にゆるしの秘跡をうけることになり、彼の告白を聴くために老司祭が呼ばれた。若い司祭は、老司祭の前に跪き「私は罪人です。どうぞ私の罪をゆるしてください。私は人びとのことばかりを考えて神様のことを忘れてしまいました」と告白する。
 老司祭は「神の御名によってあなたの罪をゆるします」といわれ、若い司祭が立ってでようとしたときに、急に老司祭が彼を引き止め、「どうか私の告白を聴いてください」と若い司祭の前に跪いて告白する。「私は罪人です。どうぞ私の罪をゆるしてください。私は神様のことばかりを考え、人びとのことを忘れていました」と。

 ラサール神父は「私たち日本における聖職者が、誰が神様のことばかりを考えているのか、それとも人びとのことばかりを考えているのかを問うことなく、ともに聖なるかみさまのことをわすれないように、もっと神様の聖なるものである、小さな人びとを大切にしようではないか」こ述べている。 
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2007年03月14日

生きがいについて

「生きがいについて」は神谷美恵子さんの本(みすず書房)が有名です。彼女は岡山県のハンセン氏病の施設長島愛生園に1958年から72年まで精神科医として勤務されました。その間の体験から「生きがい」について考え続けてそれを文章にまとめたものです。
 今回中3の「総合」の時間に神谷さんの文章を読みました。

 「生きがい」という言葉は、日本語独特の表現で、英語にはこれにぴったりと当たる言葉が見つからないそうです。「張り合い」とか「やりがい」なども同じように、英語では表現しにくいということです。

 授業では、生徒たちに「あなたの生きがいとは何か?」と聞いてみる。この問いは中三の生徒には少し難しすぎる応えにくい問いのようです。

 どういう人が一番生きがいを感じる人種であろうか。自己の存在目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標に向かって全力を注いで歩いている人−−言いかえれば使命感にいきるひとではないであろうか。


 この本では、シュバイツアーやナイチンゲール、宮沢賢治を例に出して説明しています。

 「生きがいの特徴」として4つの点を上げています。
 第一は、生きがいというものが人に「生きがい感」をあたえるものである。「生きる喜び」「生きるはりあい」の源泉となる生存充実感とでもいったらいいだろうか。
 第二は、生きがいというものが、生活を営んでいく上での実利実益とは必ずしも関係ない「無償の」活動であり、生きていく上ではどうしても必要なものではない。一種のムダ、またはぜいたくとも言える一面がある。
 第三は、生きがい活動は「やりたいからやる」という自発性をもっている。
 第四に、生きがいというものはまったく個性的なものである。借り物や人まねでは生きがいたりえない。
 第五に、生きがいはそれをもつ人の心に一つの価値体系を作る性質を持つ。
 第六に、生きがいは人がその中でのびのびと生きていけるような、その人の独自の心の世界を作りあげる。

「生きがいを求める心」を構成する七つの欲求がある。
1,生存充実感への欲求を持たすもの
2,変化と成長への欲求をもたすもの
3,未来性への欲求を満たすもの
4,反響への欲求をみたすもの 「手ごたえ」みたいなもの
  1)共感や友情や愛の交流
  2)他人から尊敬や名誉や服従を受ける
  3)服従と奉仕によって他から必要とされること
5、自由への欲求を満たすもの
6,自己実現への欲求を満たすもの
 何かそれまでになかった新しいものを作り出す
7,意味への欲求を満たすもの
 自分の存在意義の感じられるようなあらゆる仕事や使命がこれに入る。

 さあて、私の「生きがい」はこの七つの欲求を満たしているだろうか? 
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2007年03月10日

ミッションにパッションを注ぐ最高の幸せ

 2月24日の読売の夕刊に、うちの生徒が投稿したというので、わざわざ新聞販売店に行って買い求めにいった。ここで紹介しようとすることはその生徒の投稿記事ではない。
 その夕刊に掲載されていた「人は運命の糸が8割」と題した諸富祥彦という心理学者の書いた記事と出会った。そこにはこう書いてあった。

 私たちが心の奥底から満ち足りた人生を生きるために本当に必要なもの。その一つは、人生を懸けるに値するミッション(使命)の存在ではないでしょうか。学問、スポーツ、ビジネス………ジャンルの違いを超えて、真に充実した人生をいき、かつ社会的にも大きな貢献を果たした人に共通するのは、自分のミッションを自覚し、その実現のために可能な限りのすべてのパッション(情熱)を降り注いで来た点だと思われます。

 では、そのミッションと出会うにはどうしたらいいのか、著者はこう続けていきます。

 人が、みずからの人生を懸けるに値する仕事にであったり、魂の伴侶ともいうべき大切なパートナーに出会ったりするとき、自分でも不思議な心の動きや、ユングがシンクロニシティ(共時性)と呼んだ予期しない一連の出来事の繰り返しによって、あたかも「運命の糸」に操られるかのようにしてその出会いへ導かれていくことは少なくないようです。
 ……………
 私は、しょせんすべては予めきまっているなどと考える「宿命論的な人生観」は好みません。しかし、私たちの人生にあたかも突然の渦巻きのように訪れるさまざまな出来事や出会いによって、またそのときに、私たちの内側に届けられる未来からの静かな呼び声「サイレントコーリング」に導かれるようにして、ひとりの人間の人生がその使命を果たすべく少しずつ整えられていくこともまた人生の真実でしょう。
 忙しい毎日の合間にふと立ち止まって自らをふり返る。そんなとき「あぁ、私は、この人生を生きることになっていたのだ!」とあたかも自分の人生に隠れたシナリオが刻印されていて、それがときを得てようやく姿を現してきたのだと感じられたことがある人も少なくないのではないでしょうか。


 「ミッション」という言葉はもともとキリスト教的な表現である。「神からの呼びかけに応じて派遣されること」として使われる。宣教師のことをミショナリーと呼んでいるのである。
 この文章も「神から与えられた使命」と説明すれば簡単なのに、著者はあえてその語を使わずに「私たちの内側に届けられる未来からの静かな呼び声「サイレントコーリング」」と表現している。
 また「神の摂理(計画)」という言葉を使わずに「自分の人生に隠れたシナリオ」というように呼んでいる。

 「ミッション」について書かれたもうひとつの新聞記事を見つけた。これは「ビジネス脳はどうつくるか}(今北純一書 文藝春秋刊)を「私の選んだこの1冊」として紹介している坪内千恵という女性へのインタビュー記事であった。

 本書のキーワードは「MVP」と「個人としての豊かな感性」。
「ミッション」(M=自らがチャレンジすべき夢や目標。本当に自分がやりたいこと)
「ビジョン」(V=ミッションに至る具体的な道筋)
「パッション」(P=夢や目標に向かって燃やす情熱。夢をとことん追いかけるエネルギー)
 この「MVP」がきちんとしていれば先行き混沌としたこの時代でも本物として残っていくこともできる。ミッションを自らつくり出すことなくして個人も企業も何も新しくならない。そして、ここには感性、構想力、想像力、知恵が必要である。


 ミッションの説明に「自分が本当にやりたいこと」とあったが、厳密に言うとこれは違うと思う。自分がやりたいことではない。自分がやりたいかどうかにかかわらず神に派遣されることだからだ。そこに自分の意志はない。

 この本の副題に「Carpe Diem」というラテン語があった。このことばはどこかで聞いたことがある。思い出した。「今を生きる」という映画の中だった。「今をつかめ」という意味である。この言葉についても改めて調べてみよう。

 中3の「総合」の時間に読んだ神谷美恵子さんの「生きがいについて」という文章の中にも、生きがいを構成するもっとも大事な要素は「使命感(ミッション)」であると書かれていた。これについても改めて紹介しよう。
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2007年03月02日

「いのちより大切なこと」を考える

 中3の「総合」の「いのち」のシリーズの最後の時間で、生徒たちに星野富弘さんの詩を紹介したあとに「いのちより大切なものって何だろう?」ってきいてみました。
 彼女たちは、これは難しい質問だという表情をしていたのですが、聞いてみました。
 「う〜ん、家族かな。」という答えがはじめに出てきました。
 「ともだち」と答えた生徒もいます。
 「恋人」という答えが出てきたときには皆から冷やかしの声が上がりました。
 「ペットの犬」という答えも出てきて、皆から笑いが出てきました。
 でも、答えはこのくらいでした。
 で、わたしは「そのものずばりでなくてもいいんだ。こういうものとかこんな感じのことでもいいよ」といいました。
 そしたら、ある生徒が「想い出とか、記憶とか、そういうのってその人が死んでもずっと残る……………。」と答えました。
 次の生徒は「そのためにいのちを投げ出してもいいものではないかな」と答えてくれました。その答えがでるのを待っていたのです。
 そこで次の問いかけをしました。
「たとえば、戦争中の日本の兵士たちは何かのために自分のいのちをささげたよね。それって何のためだった?」
「『おくに』のため」
「天皇陛下のために」
「そういう兵士たちにとっては『おくに』や『天皇陛下』は自分のいのちより大切なものだったんだ。」
「では、キリシタン時代に、踏み絵を踏むことを拒否して殺されたキリシタンがいた。そういう人達にとってはいのちより大切なものは何だった?」
「信仰かな。」
「この前、踏みきりの中にいた人を救おうとして殉職した警官がいた。ちょっと前の話しだけれど、新大久保駅でホームから堕ちた人を救おうとして自分の命を省みずに線路に飛び降りて結果的には電車にはねられて死んでしまった韓国人の留学生もいた。この話しは映画になったのかな。そういう彼らにとっては自分のいのちより大切なものは何だったのだろう」
「ひとのいのち……………。」
「アウシュビッツである男の身代わりになって死んだコルベ神父の話を聞いたことがあるよね。彼にとっても見ず知らずの人のいのちは自分のいのちより大切なものだったというわけだ。」
「なかにはお金のために殺人をしてしまうひともいる。封建時代の武士たちは名誉や忠義のためにいのちを投げ出した。『一生懸命』という言葉があるけれど、あれは最初は『一所懸命』だったんだ。主君から与えられた土地や城を命を懸けて守ったというところからきた言葉らしい」
「つまり、これらの人たちにとって『自分のいのちよりたいせつなもの』があったのだ。愛や信仰や真理、正義、自由は自分のいのちを投げ出しても守るだけの価値を持っていたわけだ。祖国の独立や革命のためにいのちを懸けた人もたくさんいる。なかにはお金や名誉、ときには権力がいのちより大切な人もいた。」
「フランシスコの『平和の祈り』のなかで『ひとのために死ぬことによって永遠のいのちが与えられる』ということばがあるね。あそこを祈るときにはきっとみなのこころのなかにちょっとした抵抗感が生まれると思うけれど、あれは『自分のいのちより大切なもの』を『永遠のいのち』といっているのだと思う。」
「その『いのちより大切なもの』『そのためにいのちをささげてもおしくないもの』をいま『生きがい』と結びつけて考えてみたいと思う。で、次のテーマは『生きがい』だ。」

 ふつう「いのち」を扱う授業では「いのちの大切さ」を教えるだけで終わってしまうものである。こんなふうに『いのちよりたいせつなものがある』という結論にもっていってしまうのは、やはり『宗教』が背景にあるからであろう。公立の中学でこういうことを考えたら『偏向』っていわれてしまうだろうな。
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2007年02月15日

「世界に目を向けた町医者 高野長英」の社会科授業のおもしろろさ

「ゆかいな社会科」(田所恭介著 大月書店)という本に高野長英の社会科の授業が紹介されています。確かに歴史をこう教えられたらゆかいですね。

 1837年、一隻の外国船が浦賀に向かっていました。その船は、アメリカのモリソン号という船で、日本の漂流民7人を送り届けるとともに、日本と貿易をしようという目的をもっていました。

「さて、その船がいすの海岸に近づいたときに、江戸幕府はどうしたと思う?」
「外国が攻めてきたと勘違いした」
「英語を話せる人がいないから放っておいた」
「鎖国中だから、漂流民だけを受け取って帰ってもらった」
「貿易はしないと思う。」

 幕府は、外国船を見たら打ち払えという命令を出していたのです。だから漂流民をのせたまま船は引き返していったのです。

「そんなばかな?!」
「漂流民はどうしたのですか?」

 そんな事件のあったころ、江戸に高野長英という町医者がいました。長英は、田原藩の家老の渡辺崋山と知り合い、尚歯会という会を作って勉強会をしていました。

「何を勉強していたと思う?」
「杉田玄白と同じように西洋の医学を勉強していたと思います」
「オランダの本を読んだり、ヨーロッパのことを知る快打と思います」

 長英たちは、西洋のことを勉強するにつれ、外国のようすが少しずつわかってきました。アメリカがイギリスから独立したこと、フランス革命が起こり、王政が倒されたことなど………。そんななかで「モリソン号事件」を知ったのです。

「長英たちはモリソン号事件についてなんと言ったと思う?」
「漂流民を連れてきてくれたのに、なんとバカなことをするんだといったと思う」
「大砲で撃つなんて非常識だといった。」
「幕府は何を考えているんだと怒ったと思います。」

 長英は「戊戌夢物語」という本を書きました。その本は夢を見たときの話しとして書かれています。次のように書かれたところがありました。
 「外国は、日本と貿易を希望し、それができなければ、せめて巻や水を補給したいと望んでいるのだ。それなのに、外国船といえば海賊と考え、理由も言わずに大砲で撃ち払おうとしている。およそ、世界中で、こんなむちゃなことはない」

「さて幕府はこの本を見てどうしたと思う?」
「こんな幕府の悪口を言う奴はすぐにとらえろ」
「つかまえてすぐ死刑だ。」

 長英はとらえられて、永牢(死ぬまで獄)、「慎機論」を書いた渡辺崋山も幕府の政治を批判したとして田原藩の家の中に閉じこめられてしまいました。崋山は2年ほどして自ら命を絶ってしまいます。
 数年の年月を牢屋で過ごした長英に思いもかけぬことが起こりました。江戸に大火事が起こったのです。牢の中のものはいったん解放され、3日後に牢に帰ってくる決まりがありました。

「長英は火事のときに何を考えていたと思う?」
「どうせ死ぬのなら牢の中に帰るよりも、脱走しようと決めた」
「逃げてやると思った」

 長英の逃亡生活が始まります。群馬から新潟へ、そして故郷の水沢へ、そこで母と再会しますその後はまた四国、九州鹿児島へと学問の仲間や知人を訪ねながら逃亡を続けます。逃げている間にも長英は勉強し続けました。長英をかくまってくれる大名や武士には、蘭学も教えました。
 しかし、全国どこへ行っても長英の人相書きが配られていて、長英は安心できません。江戸へ帰りたいという思いもつのるばかり。そこで長英は決心をします。

「どんな決心だと思う?」
「捕まえられてもいいから、江戸に帰ろうと決めた。」
「捕まったらおしまいだから、ただ江戸に帰るだけじゃだめだよ」
「わかった! 捕まらないように変装をした?」
「だけどその変装もハンパではない。彼は塩酸を用いて、顔を焼くのです。」

 顔を焼いて変身した長英は、江戸に戻って、沢三伯を名乗り、医者を再開しました。沢三伯は名医だと評判になります。
 でも結局役人たちにとらわれてしまいます。
 「もはやこれまで」と思ったときに彼は自分の担当をのどに突き立てて死んでしまいました。


 「長英はなぜそこまでしても江戸に行きたかったのだろうか?」
 これが最後の問いだったのです。



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2007年02月05日

バックミンスター・フラーと「宇宙船地球号」

 バックミンスター・フラー(1895〜1983)という人は「20世紀のレオナルド・ダ・ビンチ」と言われています。なかなか興味ある生き方をした人です。

 もっとも有名なのは「宇宙船地球号」という概念を提唱したことでしょう。地球を一つの宇宙船としてとらえ、資源の有限性や汚染は宇宙船にとっての命取りになること、さらには地球全体が運命共同体であることを示そうとした概念です。
 この概念は経済学者のケネス・ボウルディングらによって経済学的な概念として発展していきました。

 本来は物理学者であったようですが、数学者、建築家、詩人、哲学者、発明家としても大きな功績を残しています。

 たとえば、炭素の分子構造と同じ構造をもつ建築物、ジオデジック・ドームを発明したり、もっともゆがみの少ない世界地図である、ダイマクション・マップを考案したり、ダイマクション・カーという航空機の頭の部分のような自動車を発明したりしました。

 ダイマクションとは、入手可能なすべての材料を最大の効率で利用するという概念を指す。
 人が必要とするものは、直接、技術で解決できるとの信念を持っていたフラーは、空輸可能で組み立ても簡単なダイマクション・ハウス、プレハブ式のユニットバス、10人乗りの3輪自動車といった発明品を生み出しました。


湘南台センター かれはまた「デザイン・サイエンス」という概念もつくり上げました。これは宇宙の真理を含んだ形、造形物、デザインの在り様すべてをさします。
 たとえば、ドーム・ハウスは小さな三角形を組み合わせて球体に組み上げる独自の構造により、強度をはじめ空間効率やエネルギー効率の飛躍的な向上を実現しています。
 藤沢の湘南台文化センターは、このジオデジック名構造をもった建物として設計されました。

 もっとも注目すべきは、究極のシミュレーションゲームといわれる「ワールド・ゲーム」を考案しています。「ワールド・ゲーム」についてはまた改めて、紹介しようと思います。



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2007年01月12日

友人の社長の正月の過ごし方

 私の友人がこんな話しをしてくれた。
 彼の勤めている中小企業の社長さんは、正月になると20冊くらいの本をどこかから借りてきて、その本と共にどこかのひなびた温泉地の旅館にこもって、ひたすら本を読み続けるという正月を過ごす。
 読書に飽きると、温泉に入り、近くを散策する。
 まさに読書三昧の正月というわけである。それで1年分の英気を養うという。暮れに、その20冊の本を選ぶというのも、この上ない楽しみの一つなのだそうである。悦楽の正月というか至福の正月というか。


 私もそれにならって、学校の図書館から10冊くらいの本を借りて、読書三昧をしようと思ったのだが、今年は元旦の新聞を読むのに忙しくて、借りてきた本のなかの1冊しか読めなかった。
 その1冊の本をもうすこしで読み終える。その本の紹介をこの次にしよう。
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2007年01月10日

ラファエロ作「アテネの学堂」がマンションの入り口にあった


レリーフ 散歩をしていたら、近くのマンションの入り口にルネッサンスのラファエロ作の「アテネの学堂」のレリーフが設置されているのを発見しました。なんて格調の高いマンションなんだと感心したのですが、ここの住人はこのリリーフの意味を理解しているのだろうかとちょっと不安にもなりました。
 そういえばこのマンションの名前は「ルネ東寺尾」という名前なので、これはルネッサンスを意味しているからこのラファエロがあるのかもしれないと想像しました。


アテネの学堂 高校で公民科「倫理」を教えていると教科書にこの絵が必ず紹介されています。この絵にはギリシャの哲学者が一堂に会して描かれています。
 中央にいる二人がプラトンとアリストテレスです。左の天を指さしているのが理想主義者プラトンで、右の地上を指さしているのが現実主義者アリストテレスです。ラファエロはそれぞれモデルとしてダビンチとミケランジェロを描いたともされています。
 左の上の方で、若者たちと議論をしているのがソクラテスです。かれは「魂の産婆術」でもって若者に議論をふっかけているわけです。
 左下の方で、画板に何やら図形を書いているのが「三平方の定理」のピタゴラスです。彼は数学者でありながら、戒律の厳しい宗教教団みたいなものをつくり、輪廻説を説きました。
 下の段の真ん中左寄りで、頬杖をついて思索にふけっているのは「万物は流転する」とのべたヘラクレイトスです。この変化をつくり出す「万物の根源を火である」としました。
 中央で階段に寝そべっているのが、酒樽を住まいとしたディオゲネスです。
 このほかにも「万物の根源は水である」とした哲学の祖ターレスや「万物は原子からなっている」とした唯物論者デモクリトスもいるはずですが、どの人物がそうなのか特定できていません。
 さらに、この絵からはみでたところにラファエロ自身も描かれています。

 このラファエロの絵は実はバチカン宮殿の「署名の間」という部屋に壁画として飾られています。カトリックの総本山であるバチカン宮殿にある所も不思議なことです。
 
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2007年01月09日

ヒルマン監督と Power For Living


ヒルマン監督 元日の毎日新聞の全面広告に日本ハムのトレイ・ヒルマン監督がでていた。これはいったい何の広告なのだと不思議に思って切り抜いておいた。
 そこのコピーにはこんな文章が載っていた。

トレイ・ヒルマン
北海道日本ハムファイターズ監督

昨年、44年ぶりに、日本一となった北海道日本ハムファイターズ。

監督に就任して4年。
私を幸運な男だと言う人もいる。
だが道のりは決して平坦なものではなかった。

母国アメリカではメジャーとは無縁。
無名の私は11年間マイナーで監督をつとめ、
日本へやってきた。
少年時代。私が神を信じた時から、
どんな試練も苦しいと感じたことはなかった。
必ず乗り越えられる。必ず道は開かれる。
試練は使命であると確信し、成功の道を歩んできた。

そして、これからも、愛する日本の地で、
自分にしかできない道を切り開いて行きたい。

私はこの本のメッセージで、
使命感を持って生きることの素晴らしさを知りました。


 さっそくこの本を注文したことはいうまでもない。
 そこに記載があったホームページにアクセスしてみると、そこには久米小百合やフィギアスケートのジャネット・リンも載っていた。彼女たちもこの Power For Living を推奨しているのである。
 久米小百合については前に紹介したこともあるので知ってはいるが、これはきっとキリスト教(プロテスタント)の伝道に関わるものであることは推測できる。
 が、全国誌の全面広告に打って出るというのは、さすがというか、圧倒される何かがある。
 


posted by mrgoodnews at 01:50| Comment(1) | TrackBack(0) | 人、生き方、思想 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする