2007年01月03日

ラナルド・マクドナルドの和英辞典

 日本で最初の和英辞典を作った人物はラナルド・マクドナルド(1824〜1849)というカナダ人であった。

マクドナルド かれはスコットランド人を父に、チヌーク族というインディアンを母に持つカナダ人であった。インディアンがアジアから渡ってきた民族であると信じていた彼は鎖国中の日本に深い興味をおぼえ、捕鯨船に乗り込み日本をめざした。北海道沖合の利尻島に難破を装って漂着し、役人にとらえられ、長崎に護送される。かれが24歳の時1848年のことである。利尻島にはマクドナルド上陸記念碑がある。
 長崎では崇福寺大悲庵の屋敷牢に閉じこめられたが、長崎の通詞に熱心に英語を教えると同時に日本語を覚えた。最初の英語教師といわれている。また窮屈な生活のなかで小さな和英辞典をつくる。近い将来日本は鎖国をとき、アメリカとの通商が始まることを確信したからである。取り調べの時に踏み絵をさせられたが、彼自身はプロテスタントであったので踏み絵には抵抗がなかったという。

マクドナルド2 長崎市の上西山町にはかれの顕彰碑があるという。今度長崎の修学旅行に行った時に訪れてみよう。
 かれが日本に滞在したのはわずか7か月で翌年には長崎に来たアメリカ軍艦プエブロ号にのせて強制送還されてしまった。そしてすぐにその短いいのちを終えてしまう。しかし日本と日本人には終始好意的で、彼の墓碑銘には「SAINARA」という日本語が刻まれているという。

 1853年にアメリカからペリーがやってきた時に主席通訳を務めた森山栄之助はマクドナルドから英語を教わっていたのである。
 森山の持っていた和英辞書には、good は「よか」、bad は「わるか」と長崎弁のままで訳されていたという。
 マクドナルドの辞書の原稿は、カナダのビクトリアという町の州立古文書館に残っているという。
 また「インディアンの見た幕末の日本」と副題がついた『マクドナルド日本回想記』(ウ イリアムルイス・村上直次郎編:刀水書房)という書も残されている。
 さらに吉村昭著「海の祭礼」という小説はマクドナルドを描いた小説であるという。今度この本を探して読んで見ることにしよう。

 この人物の、未来をみとおす好奇心と実行力に強く惹かれるのである。
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2006年12月22日

最近ときめいていますか?

 今日テレビを見ていたら、「最近ときめいていますか?」という番組をやっていました。
 ときめいている人を何人か紹介していました。
 その中に「愛妻家協会」なるところの「テミル原則」が紹介されていました。

 5原則あるということです。

第1条 やってみる 妻が喜ぶ家事一つ
第2条 出してみる 気づいた時の感謝の言葉
第3条 聞いてみる 世間話と今日の出来事
第4条 捨ててみる ミエ、テレ、タテマエ、セケンテー
第5条 なってみる 恋した頃のふれあう気持ち

 私も「愛妻家」の端くれですので、この原則がよくわかります。とくに第4条がいいですね。こういうものから解放されたら、どんなに自由に愛することができることか、改めて痛感しました。
 
 私は仕事柄、ときめくことが多いです。年中ときめいています。こんなときめく職業はないのではないかとさえ思います。あまりときめきすぎると、妻が嫉妬してお弁当を作ってくれなくなる……………。

 そういえば、古典では「ときめく」というのは「寵愛を受ける」という意味でも使われるし、「今をときめく」という使い方もあります。
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2006年12月19日

アフリカの改革者 トーマス・サンカラ

なぜか。「アフリカの改革者 トーマス・サンカラ」のページへのアクセスが増えています。

なぜでしょうか? 自分でもわからないところです。

「ムハマド・ユヌスとグラミン銀行」の記事が、かれがノーベル平和賞を受賞した時に急増したのですが、こちらは理由がわかりますが……………。
 「トーマス・サンカラ」と google すると確かに私のブログがトップに表示されるのですが、それにしてもです。
 何かあったのでしょうね。
 どなたか、この理由をお知らせいただければ幸いです。

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2006年09月21日

哲学者アランの卒業試験

 20世紀半ばに活躍したフランスの哲学者アランは、哲学の大学生の卒業試験に次のような問題を出したという。

「いま、ここに人生に絶望した一人の女性が、その運命をはかなみ、セーヌ川に身を投じようとしていた。君はなんと言って、彼女の自殺をおもいとどまらせるか?」

 究極の哲学の問題の一つであろう。さてあなただったら、どのような答えを出すだろうか?

 チャップリンは映画「ライムライト」で次のような答えをしている。
 踊り子が絶望してガス自殺を図る。チャップリン扮する今は落ちぶれた喜劇俳優が、それをみつけ、自分の部屋に運び込み、いろいろ手当を加え、気を取り戻したところで、彼女との自殺の動機を親身になって聞いてやる。今や彼女にとって、彼はただ一人の頼りになる人間である。何もかも話し終えて彼女の気分はすっかりと落ち着く。するとチャップリンはここで彼の哲学を述べる。「人生は、どんなに辛いことがあっても生きるに値する。そして人が、この人生を生きていくためには3つのことが必要だ。希望という想像力と勇気、そしてサム・マネーだ」
 「サムマネー」を加えるところが、チャップリンらしいユーモアなのであろう。
 大事なことは「彼女との自殺の動機を親身になって聞いてやる」ということなのである。

 アメリカの「いのちの電話」の答えもある。アメリカの電話はダイヤルの所にアルファベットが当てはめられている。それでFRIENDとダイアルすると「いのちの電話」につながる。「いのちの電話」では次のように応答する。
「どこにいるの? 今すぐそこに行くからね。」
「おなかすいているでしょう」
「どうしたの? どんな困ったことがあったの?」

 いずれも答えは「聞くこと」なのである。


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喜捨と乞食と「喜んで世話になる生き方」

 イスラムの「六信五行」の教えの中に、「喜捨(ザカート)」というのがある。「喜捨」というのはもともとは仏教用語だと思うが、ザカートにもこの言葉が当てられている。仏教の「布施」というのと同じ意味で「貧しい人に見返りを求めずに施しを与えること」なのである。
 イスラム社会には「救貧税」という形で、この「喜捨」が制度化されている。ここが、キリスト教の「愛の行為」と違うところかもしれない。

 さて、イスラム社会では「物乞いをする乞食」というのは立派な職業として認められているという。彼らはアラーのために金やものをも求めるのであって、彼らに施しを与えるものはそれによって彼岸での救いを得るのだから、むしろ感謝しなければならないのは施す側なのである。人びとが天国に行くための必要な税金を神に代わって徴収しているのが乞食なのである。
 だから「乞食」は人びとに喜捨の心を呼び起こすという立派な仕事であり、かれらはその仕事に誇りを持っているともいわれる。

 こういう考え方は、むしろイスラム社会からもっと学ぶべきではないかと私は思っている。
 人の世話を受けてしか生きられない人がいる。障害者や高齢者のなかにはそういう人が多いだろう。日本人のそういう人は、人に世話をうけることを負い目に思っているのが普通である。
 でも、イスラム社会の「乞食」のように、本当はそういう人はひとに「人を援ける喜び」や「ボランティアをする喜び」を体験させている存在なのである。これはこれで実に大切な役割を果たしているのではないだろうか。負い目に思う必要はないだろう。

 私の恩師であるハンガリー人のイエズス会司祭が、ガンの治療の体験をして「喜んで世話になる生き方」(ネメシュ・エドモンド著 夢窓庵刊)という本を書いた。
 病気や高齢のために人に世話をうけることを、「迷惑をかける」ことだと負い目に思う日本人が多い。日本人は「人に迷惑をかけない」というのが最大の倫理観であるから、障害を持ったり、病気になったり、高齢化のために。人の世話になることを「人に迷惑をかける」ことだと「すまないね」と謝ってしまうのである。
 しかし、著者はこういう時には「喜んで世話になろう」と提案する。喜んで世話をし、喜んで世話になるというのはステキな生き方に違いないと私も思う。
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2006年08月29日

木のおもちゃの銀河工房をたずねました。

 上田市野倉にある木のおもちゃを作っている銀河工房をたずねました。一つ一つ手作りの木のおもちゃが展示されていました。気のぬくもりがやさしい手作りのおもちゃです。

銀河工房 店長の小林さんと少し話しました。
 私もこういうおもちゃづくりにあこがれています。私には木を削る技術はありませんが、こういうおもちゃをできたらいいなというアイディアがいくつかあるので、そういうのを紹介しました。具体的に何かできたらいいなと思います。
 上田に行くたびに訪れることにしています。
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2006年06月19日

私は No.1 を選ばない。

 昨日、我が家のクルマの歴史について書いた時に、ふと気がついたことであるが、どうも我が家の家系には「No.1 を選ばない」という傾向があるようだ。

 まずクルマ。いつも日産を愛用し、トヨタを買ったことがない。

 つぎに、写真植字機。これは「我が家のこと」ではないのだが、25年ほど前に写真植字を習った時に、会社の近くにあったモリサワの写植スクールに通ったことが縁で、写植機はモリサワであった。当時写植機の圧倒的なシュアは写研というメーカーが握っていた。石井明朝体やナールやゴナという美しいタイプフェースをもっていたのも写研であった。
 ところが写研はこのタイプフェースをデジタル・フォントにしなかった。それに対してモリサワは持っている書体をデジタル化して、パソコンのフォントとして売り出した。これが、写研とモリサワの命運を分けることになる。
 このことについてはまた改めて書きたい。

 つぎはパソコンである。学校で成績処理システムを構築した時に選んだ機種は最初は IBM 5550 という機種であった。これも20年ほど前にNEC の PC9800 というシリーズが圧倒的に売れていた時代であったにも、関わらずにあえてそれを選ばなかった。
 結果的にいうと、それが成功した。20年を経た今でもそのシステムは動いているのである。あのとき PC9800 にしていたら、こうはいかなかった。

 1993年に情報教育を開始した時に、選んだ機種は Macintosh であった。当時圧倒的なシュアは、MS-DOS の時代であった。この選択も正しかったと思う。Windows95 が出てくる以前にグラフィカルインターフェースを使え、そしてネットワークが標準装備されていたことがよかったのである。
 2003年に私が情報教育の担当を降りたとたんにWindows になってしまったが……………。

 私は自分でいつも使っているパソコンは Mac である。Windows はどうしてもという時以外は使わない。とくに MS-WORD は使わない。MS-EXEL はもともと MAC で開発されたソフトなので、これは使ってもいいことにしているが……………。


 その他にもいくつの例があるが、結果的にわたしはほとんど No.1 を選ばないのである。行きがかり上たまたまそうなったということもあるが、あえてそうしないことも多い。
 反骨精神というか、意地というか。わたしはいつもだいたい主流にはくみしないのである。選挙で自民党に投票したことは一度もない。家族の中にも確かいないはずである。
 こういう自分の性格をけっこう気に入っている。
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2006年05月28日

「街道をゆく 2 韓のくに紀行」(司馬遼太郎)から

「沙也可」のことをもうすこしこだわりたい。

沙也可2「沙也可 義に生きた降倭の将」(江宮隆之著 桐原書店刊)を読んだあとにつづいて「街道をゆく 2 韓のくに紀行」(司馬遼太郎著 朝日文庫)を読んだ。ここにも「降倭の将 沙也可」について書かれていたからである。

 江宮氏の小説といくつかの点で食い違いがあったことにきづく。

 第1に、加藤清正のことについてである。
 秀吉の朝鮮出兵は、重臣たちがみなこぞって反対していたにもかかわらず、秀吉の一存で決められた。司馬氏によると、「この時期の秀吉というのは、自己肥大がこうじて、すでに精神病理学的の対象以外の何ものでもない」とまで述べられている。ただ軍令だけは厳しく触れ出ている。「乱暴は一切いけない、砲火や人さらいをしてはいけない。庶民に対して勝手な労働をさせてはならない」というもので、清正はそれをよく守ったと書かれている。
 江宮氏の小説では、清正軍は略奪暴虐の限りを尽くし、小西軍はこの闘いを早く決着をつけ、無用の闘いをさけ和議に持ち込もうとしていたとあるのに、司馬遼太郎は、先鋒の小西軍が略奪したと書かれている。慶州の仏国寺を焼き討ちしたのも、江宮氏によると清正軍の仕業であるとされているのに、司馬氏は不明であるとしている。

 沙也可という人物について、そのような「降倭の将」がいて、その名前は「沙也可」といわれていたと言うことは事実である。この件については両者とも異存がない。
 ただ問題は、この沙也可という人物がどういう背景を持っていたのかについては意見が分かれる。
 「街道をゆく」においては阿蘇宮越後守という人物が沙也可かもしれないとは述べているが、江宮氏の小説では阿蘇宮越後は「雑賀衆」であるとして書かれている。「沙也可」は「雑賀」から来ているとしている。「街道をゆく」では雑賀衆のことは一言も出てこない。

 第3の相違点は、沙也可が「降倭」となった時期と動機である。「街道をゆく」では「慕夏堂記」という「沙也可」が書かれたとされている文書をもとに、朝鮮上陸直後に投降し、その動機は「礼教をしたって投じた」とされているのに対し、江宮氏の小説では清正軍が撤退を始めたときとされていて、しかも清正軍の暴虐に雑賀衆への暴虐と重なって我慢できなくなったことが動機となっている。

 以上のような重大な相違点があるが、沙也可という「降倭の将」が実在し、降服したあとは朝鮮側の義勇軍とともに勇猛果敢に日本軍と闘ったという事実は共通している。さらにその時に鉄砲の打ち方と作り方を朝鮮に伝え、日本軍を追いだしたあとにも北方の異民族の侵入にたいして闘い、その功によって「金忠善」という名前をいただいたことも歴史的な事実であろう。

 司馬氏も江宮氏も、金忠善(沙也可)の子孫の住む友鹿洞という村を訪れている。その村外までもどこか日本風の農村であることに感じ入るのである。

 歴史的事実と歴史小説とはことなるものであろう。江宮氏が「降倭」を鉄砲を扱うことが巧みであった雑賀衆と結びつけて小説を展開していることがどこまで歴史的事実なのか、考えさせられるのである。

 

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「沙也可 義に生きた降倭の将」を読む

前にこの話を紹介してから、amazon.com で本を注文して、さっそく読んでみた。

沙也可1その書は
「沙也可 義に生きた降倭の将」江宮隆之著 発行元 結書房 発売元桐原書店
である。

 おもしろかった。こういう日本人がいたことに驚く。こんなことは日本史では教わらなかった。そもそも秀吉の朝鮮出兵の文禄・慶長の役については、我が家の五月人形に「加藤清正虎退治」の人形が飾られていた英雄豪傑物語くらいにしか思っていなかったのである。
 ところが実態は、太閤秀吉の暴挙である侵略戦争そのものであった。

 この小説は
1.沙也可は、秀吉の朝鮮侵略の時に青年武将として出陣した
2.釜山に上陸してのちに朝鮮側に帰順した(朝鮮側では、こうした朝鮮側に投降した日本軍将兵を「降倭」と呼んでいた
3.沙也可は、鉄砲の扱いに巧みで朝鮮軍に鉄砲の技術を伝達した
4.日本軍に投稿したあとでも朝鮮に残って、国内の乱や北方女真族
の乱に参戦したこと
5.朝鮮国王から貴族「両班」に列せられ、「金忠善」という名前を賜ったこと
6.日本が朝鮮を「併合」という名前で植民地化したときに、総督府によって「反逆者」「売国奴」として、この歴史的事実を封印してしまったこと
という歴史的事実をもとに、この沙也可なる人物が、雑賀衆の雑賀孫次郎という人物であろうという想定のもとにこの小説を書いている。

 雑賀衆は、紀州雑賀庄にすんでいた部族で鉄砲の扱いに長けていたが、主君を持たず、金でその技術を買われる「傭兵」集団であった。信長が一向宗と闘っていたときに、本願寺側についてさんざん信長をてこづらせた。結局、信長のあと秀吉によって責められ、雑賀の庄は暴虐虐殺によって滅ぼされる。
 主人公の雑賀孫次郎はこのとき九州の阿蘇に逃れるのであるが、その地の領主となった加藤清正の群に組み込まれて、朝鮮出兵に参加する。清正が朝鮮で行った侵略行為が、雑賀の庄の暴虐をよびおこし、この闘いが「義のための闘いではない」ことに気づき、故国日本を捨てて「降倭」の将となって日本軍と闘うことになるのである。

 この小説のクライマックスは、清正軍が撤退するときに、しんがりを命ぜられた孫次郎が、家来たち300人を集めて、「降倭」となることを述べる下りであろう。

「俺は、撤退はせぬ。ここに残る。」
 雑賀衆からは、瞬間ざわめきが起きた。
「それだけではない。俺は、今宵よりは日本軍の岡本越後守ではない。ひとりの鈴木孫次郎に戻る。つまり」
 ここまで一気に言ってから孫次郎は、言葉を停めた。そして一座を見下ろした。
「つまり降倭の道を選ぶ。おれはただひとりでも降倭となる。」
 あっと驚きの声が上がった。その声が徐々に波のようになって孫次郎の頭上に覆い被さってきた。
「ということは、若は朝鮮に寝返るのか」
「日本には戻られぬのか」
「明日よりは、今日までの友軍に向かって鉄砲を撃つのか」
「われらは、若の言葉に従って朝鮮に出兵する兵士になったのだ。自分の意志でこんな場所に来たわけではない。」
「いまさらきれいごとを言っても始まらぬ。われらの手はもう汚れてしまっている」
……………。

 この続きは、ぜひこの書を読んでほしいところである。
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2006年04月19日

漱石山房


漱石山房 1907年、夏目漱石は生まれた家に近い新宿区早稲田南町に移り、死ぬまでここで暮らすことになる。これが「漱石山房」と呼ばれ、たくさんの弟子たちがたずねるようになった。漱石は毎週木曜日を弟子たちと合う日に決め、交友を深める。この会は漱石が亡くなるまで続けられた。
 この弟子たちの中には、中勘助、鈴木三重吉、内田百間、和辻哲郎、芥川龍之介、阿部次郎、森田草平、安倍能成、寺田寅彦らがいた。

 この絵は「21世紀子ども人物館」(小学館刊)に収められたものである。いかにも漱石という人物の人柄が描かれたなかなかステキな絵であると思う。
  

 
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2006年04月12日

「幸運ハンス」グリム童話集から

 グリムの童話に「幸運ハンス」という話しがあります。いかにその要約を書いてみましょう。この話しを読んで皆さんはなにを感じますか? 誰の意見も解説も聞かないで、あなたの心の動きを意識してみてください。


ハンス ハンスは7年聞、まじめに奉公してきたが、郷里の母のところに帰りたいからと給金をくださいと申し出ます。主人は礼として、「頭ほどもある大きな金のかたまり」をくれました。肩にかついで郷里の途についたハンスは、重くて足をひきずりながら歩いていく。そのとき馬に乗った人に出会い、羨ましくなり、金のかたまりを馬ととりかえてもらう。「ねがったり、かなったりです」と馬に乗ったハンスは、やがて駆けだした馬から投げ出されて、みぞの中にころげ落ちてしまいます。

 そのとき牝牛を追ってきた人に出会い、のんびりと歩く牛を羨ましく思う。ハンスは馬を牛ととりかえてもらって「大よろこび」する。ひどい暑さでのどがかわいたので、牛の乳をしぼろうとするが、おいぼれ牛からは一滴もでない。おまけに、荒っぽいしぼり方に腹を立てた牛が後ろ足でハンスの頭を蹴とはしたので、彼は気を失う。
 そこに手押し車に子ブタをのせた肉屋が通りかかる。肉屋は、ハンスを抱き起こして元気づけ、牛と子ブタとをとりかえてくれる。ハンスは「なにからなにまで自分の思いどおりになったわい」と考えて旅をつづけます。

 しばらくすると、白いガチョウをかかえた若ものと道連れになる。このブタが村で盗まれたものだとおどされたハンスは、ガチョウと交換してもらう。「今度のとりかえっこでも、やっぱりとくをしたわい」と、いそいそと旅をつづける。

 いよいよ最後の村を通っていると、手押し車をおした鋏研き屋に出会う。研ぎ屋ほど、いつでも現金が入ってくるよい手職はないといわれて、ハンスはガチョウを手渡し、代わりに砥石をうけとる。おまけとして、道端にあった重いごろ石まで渡される。

 こうして、頭ほどもある金のかたまりは、二つの石としてふたたび彼のもとに返ってきた。ハンスは、「心から満足して」最後の帰途につくが、夜明けから歩き通しの上に、重い石をかついで疲れ切ってしまう。這うようにしてたどりついた泉のへりで、水を飲もうと身をかがめたとき、うっかりけつまずき、石は二つとも泉の中に落ちてしまった。「ハンスは大声でいいました。『おれくらい運のいい人間は、天下に二人とあるまい』。荷やっかいなものからは、すっかり自由になり、心もうきうきして、ハンスは故郷のお母さんのところに跳んで帰りました」。

 この物語を読んでなにを感じましたか
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2006年03月28日

加藤シヅエさんの「長生きの秘訣」

 もと社会党の議員で社会主義運動の闘士であった加藤シヅエさんは100歳を超えて長生きをされた方であるが、彼女は「長生きの秘訣」としてこんなことを述べている。
           (94年10月11日の「朝日新聞」記事から)

 毎日一度は黙想をして心をきれいに掃除すること
 牛乳を一日3合飲むこと
 一日10回は何かに感動すること
 この3つが私の「長生きの秘訣」です。

 一日10回、小さなことに感動する習慣は、昔ラジオで聴いたあるおじいちゃまの話しから教わりました。その気になれば、たくさん見つかります。名もない花を見れば「ああ、こんなところで咲いている。かわいいなあ」と感動する。立派な方が立派な行いをなさったと知れば。えらいなあと感動する。
 いくらいい音楽を聴いても感動する気がなければ意味がない。逆に上手でない音楽でも、ああ一生懸命やっているな、なにかを表現しているんだなと思えば案外いいなあと思えるのです。そんな風にすると10くらいはすぐに見つかるはずです。
 感動する習慣を身につけると重宝でございますよ。感動は心に強く焼き付いて、脳のどこかのヒダにちゃんと書き付けられる、昔のことを聞かれたとき。感動の記憶が脳からとうとうと流れ出てくるからです。感動するたびに人は成長して心が楽しく明るくなり、ハッピーだから笑っていられるのです。
 残り少ない脳細胞ですから、いつも刺激を与えて回転翼しておきたい。脳は楽しいことのために使いたいから私はグチを言わない。昼寝もしない、年をとると体がだるくなり、横になりたいときもありますが、まだまだ、新しく学びたいこと、読みたい本がたくさんあります。頭を使わないとぼけるんじゃないかと思うから昼寝はいたしません。

 これはすごい話しだなと思います。「一日に10回感動する」というのが素晴らしいですね。私もこの文を読んで、そういう「一日に10回感動する」というのを実践しています。何度も述べているとおり、歩くということは感動することの宝庫だと思うのですね。鳥や花を見つけたり、
 

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2006年03月23日

父と母から譲り受けた「好奇心」というたからもの

 私が父と母からゆずりうけたもっともありがたい資質のひとつは好奇心の旺盛さだと思う。
 父と母のいる居間には、いつもテレビを見たり、食事をするときの手のとどくところに、辞書と地図帳、そして外来語辞典がおいてある。ニュースでわからない地名が出てくると、手をのばして地図帳をひっぱりだし、その位置を確かめる。わからない外来語や漢字が出てくるとこまめに辞書をひく。知識欲求を充たすために、辞書や地図帳で労を惜しむことなく、調べようとするこの好奇心があるかぎり、決してボケることがないだろうと思う。父八十二歳、母七十五歳の老夫婦である。

 その両親がささやかな楽しみとしているのは、毎日新聞が毎週金曜日に掲載しているジャンボ・クロスワードである。金曜の夜に食事のため両親の所を訪れると、待ってましたとばかり、クロスワードのわからないところの質問攻めに会う。
 父と母と私の三人で知恵を出しあえば、けっこういい線まで行く。空欄のマス目を一挙に埋める長い文字がわかった時は三人で子供のように喜ぶ。

 しかし、どうしてもマス目がうまらない時はどこか気分がスッキリしない。そんなときのおくのてがあのCD-ROMの広辞苑である。逆引きが可能なので、おわりの何文字から検索することができるので、時に役立つ。
 それでもわからない時は、次の週の金曜日の解答がのるまで待たなければならない。その答が自分たちの知らない言葉だったらあきらめもつくが、知っている言葉が出てきた時のくやしさもまた格別である。
 私もこのような好奇心と知識欲求を最後の最後までもちつづけたいと強く願っている。

付記 この文章は10年ほど前に書いたものである。父は一昨年10月に他界した。母は記憶力はだいぶ衰えたが、まだこの好奇心を持ち続けている。

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2006年03月21日

内村鑑三の推す「代表的日本人」とは?


内村内村鑑三著「代表的日本人」(内村鑑三著 鈴木範久訳 岩波文庫 1995年)を読む。
この書に訳者の名があることにお気づきであろうか。内村はこの書を英語で書いたのである。
カバーの紹介文には次のように記されている。

新渡戸稲造「武士道」、岡倉天心「茶の本」と並ぶ、日本人が英語で日本の文化。思想を西欧社会に紹介した代表的な著作。内村鑑三(1861〜1930)が、奔流の用に押し寄せる西欧文化の中で、どのような日本人として生きるべきかを模索した書。


内村はこの書の中で次の5人の人物を「代表的日本人」として紹介している。
西郷隆盛 −新日本の創設者
上杉鷹山 −封建領主
二宮尊徳 −農民聖者
中江藤樹 −村の先生
日蓮上人 −仏僧

内村はこの書の「後記」にこのように述べている。

私は、母の胎内に宿る以前に、数多くの影響を受けて形成されていたのでした。神の選びの業は、わが国民のうちに二千年以上も昔から働いていたのであり、ついに私もイエス・キリストの僕として選ばれることになったのであります。
私は宗教とはなにかをキリスト教の宣教師より学んだのではありませんでした。その前に日蓮、法然、蓮如など、敬虔にして尊敬すべきひとびとが、私の先祖と私に宗教の真髄を教えてくれたのであります。
何人もの藤樹が私の教師であり、何人もの鷹山が私の封建領主であり、何人もの尊徳が私どもの農業指導者であり、また何人もの西郷が私どもの政治家でありました。
そのひとびとにより、召されてナザレの神の人の足元にひれ伏す前の私が形作られたのであります。

キリスト教だけがアブラハムの子を石から起こしうると思うことはまちがっています。天がいかに純粋であっても、天だけでは実を結びません。神の恵みは天からと同じく地からも来なければなりません。


内村はこの書を1908年に出版した。もっともこれらの書が最初に書かれたのは1894年である。その時のタイトルは「日本および日本人」であった。かれが、1891年に「不敬事件」をおこして一高の教授職を追われ、極貧の生活をしていたときである。
これを最初に書いたころは、内村は日清戦争を義戦と呼んで支持していたが。出版したときにはかれは「絶対非戦論」者に変わっていて、この本のタイトルは「代表的日本人」となっている。

キリスト教国から見ると「異教徒の国」日本には、キリスト教徒よりもむしろすぐれた人物がいた。内村はこのことを誇らしげに西欧社会に知らしめようとしたのである。

私は、この書を書いた内村自身を「代表的日本人」として推挙したくなるのである。


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2006年03月09日

聖王ルイ9世


ルイ9世 聖王ルイ9世(1226〜1270)が世界史に登場するのは彼が第6回と第7回の最後の十字軍を率いて、エジプトや北アフリカのチュニスを攻撃したこと においてである。第6回十字軍ではかれはエジプトのダミエッタで捕虜となってしまい、多額の身代金を払って釈放される。それに懲りずに彼は第7回の十字軍をチュニスに送り、その途上で病没する。
 
 この王がなぜ教会の「聖人」となっているのか、そこに興味を覚えて調べてみた。彼の名にちなんだ町がアメリカのセントルイスである。
 彼が王として行ったことは、アルビジョワ派の異端の討伐を完了させたこと、パリ大学の前身であるソルボンヌ神学校を作ったこと、テンプル騎士団という聖地を守るための修道騎士団を育成したこと、(このテンプル騎士団はこのあとフィリップ4世の時には異端とされてしまう。)があげられる。

 中世フランスの栄光を代表する理想的な君主であったといわれているのは、きわめて敬虔で思慮に富み、正義と誠意にあふれていた王であったからである。
 彼は自ら、ハンセン氏病の患者の体を拭き、乞食の足を洗う王でもあった。政治家としては、政治的な野心を全く持たなかったが故に国際紛争の調停役を依頼され、官吏の抑圧と腐敗に敏感で正義の国王裁判所をもうけた。
 十字軍もまさに彼のそうした「正義感」からなされたものであったという。

参考 「世界の歴史 3 中世ヨーロッパ」堀米庸三編 中央公論社



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2006年02月27日

「センス・オブ・ワンダー」と「諸聖人の通功」

 レイチェル・カーソンは遺作となった「センス・オブ・ワンダー」のなかでこんな話しを紹介している。

 わたしは、スウェーデンのすぐれた海洋学者であるオットー・ペッテルソンのことをよく思い出します。彼は数年まえに93歳で世を去りましたが、最期まで彼のはつらつとした精神力は失われませんでした。彼の息子もまた世界的に名の知られた海洋学者ですが、最近出版された著作のなかで、彼の父親が、自分のまわりの世界でなにか新しい発見や経験をするたびに、それをいかに楽しんでいたかを述べています。「父は、どうしようもないロマンチストでした。生命と宇宙の神秘をかぎりなく愛していました」
 オットー・ペッテルソンは、地球上の景色をもうそんなに長くは楽しめないと悟ったとき、息子にこう語りました。「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先になにがあるのかというかぎりない好奇心だろうね」と。

 オットー・ペッテルソンはなくなるときに「死んだらどうなるのか」ということへの限りない好奇心を持っていたというのである。

 それだったら私には、それ以上の好奇心がある。
 カトリックの信仰か条の中に「諸聖人の通功」というのがある。「通功」とはラテン語でcommunio、つまり、天国では既に亡くなった聖人と親しい交わりができるというのである。この世においても祈りを通じてそれはできるとされている。
 考えてみたら、これはこの上ない楽しみである。もしもわたしが天国に行ったら、いったい誰と「親しい交わり」をもったらいいのか。キリストやマリアをはじめ、私の尊敬するトマス・モア、聖イグナチオ・ロヨラ、聖フランシスコ・ザビエル、聖王ルイ9世、聖ジャンヌ・ダルク、ペトロ岐部ともあえるというのだから。
 いやおそらくカトリック教会の定めた聖人だけではないはずである。歴史上のあらゆる人物とも相まみえることができるであろう。
 死んだらこんな楽しみがあるというのだ。でもそれは死んでからの楽しみとしてとっておくことにして、今は、今を一生懸命に生きることだ。
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2006年02月24日

もっともパワフルな女性 グロ・ハルレム・ブルントラント


ブルントラントグロ・ハルレム・ブルントラントを知っていますか?
世界でもっともパワフルな女性と言われました。
とにかくすごい人だと思います。

1939年ノルウェーのオスロで労働党政治家で国防相も務めた父親の元に生まれる。オスロ大学を経て米国ハーバードに留学、公衆衛生学を学ぶ。高校時代から社会主義学生同盟の役員を務めていた活動かであった。

34歳の時労働党内核の元で環境相を務め、75年には労働党党首、1981年41歳のとき、ノルウェー史上最年少で初の女性首相となる。でもこのときは総選挙で敗北、その理由が選挙中の党首テレビ討論会で時勢を失って相手を罵倒したのが敗因であったとか。

野党党首だった1983年国連環境開発委員会の委員長となり、「われら共有の未来」というレポートをまとめる。この中で「持続可能な開発(Sustainable Development」という理念を打ち出した。

その後、1986年には再びノルウェーの首相になり、18人の閣僚のうち、8人の女性を登用した。女性閣僚が妊娠したときには産休をとらせ、男の大蔵大臣には育児休暇を取らせたという。

1992年の「地球サミット」の事務局長をつとめ、リオ宣言のとりまとめに当たった。

また彼女はもう1回首相になるのだが、息子が自殺したのを期に労働党党首を辞める。
彼女は4人の子持ちでもあった。夫君は保守党の論客であったのだが、89年にはついに妻の政策に共鳴して労働党に鞍替えしたという。
首相は96年まで務める。

その後再度「貧困と病気の悪循環の根を断ち切りたい」として。今度はWHO(世界保険機構)の事務局長になった。彼女の就任演説は「タバコは人殺しである」という衝撃的な演説をするんだ。

1993年まで事務局長を務めるのだが、その後の活躍はあまりニュースにはなっていない。

とにかく、すごい女性だろうであることはわかってもらえたであろうか。

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2006年02月17日

「助けることは助けられること」

 中田正一著「国際協力の新しい風 −パワフルじいさん奮戦記」(岩波新書 1990年刊)という本を読んでいたら、この句に出会った。
 中田正一は「風の学校」の創始者。この学校については改めて紹介するときがあろう。

 私の旧制中学時代、私たちの英語の先生がある日、「アルプスを越える3人の少年」についての話しをしてくださった。
 3人の少年というのはA君とB君、C君。雪に埋もれたアルプスを1週間かけて北から南へ越える旅で、リュックを背負い、食料をもって3人で越えていた。その最後の夜は吹雪が激しかったが、翌朝はイタリア側へ降りるという真夜中、とうとうC君は吹雪の中に倒れて動けなくなった。寒さと疲れと空腹のためであった。
 A君は利口な頭のよい少年であった。「ぼくは早く行って救援を頼もう」と2人を残して雪の中に消えていった。あとに残ったのは倒れているC君とB君。B君は考えた。何とかしてC君を助けたい、今まで一緒に苦労してきたのだからと思い、C君を引き起こし、C君の左腕を肩にかけ、右腕でしっかりC君をいだき、二人がぴったりと体をくっつけ、とぼとぼ南へ向かって歩き始めた。
 かなりの時間歩いたころ、前方の雪の中に黒いものが見える。何だろうと近づいてみるとそれはA君であった。すでに凍死していた。
 それを見た瞬間、B君の頭の中に稲妻が走った。それは「私はC君を助けたい、助かるかもしれない、助けたと思った。しかしそれは間違いで、C君から助けられたのだ」と。
 英語の先生の話はこれで終わったが、B君とC君が体をくっつけ、体温を暖め合ったために二人とも助かったのである。この中学校の先生の話は、私の生涯を支配することとなった。「助けることは助けられること」これが私の国際協力哲学とも言えるものである。これは個人の場合はもちろん、民間協力NGOの場合でも、政府の協力ODAの場合でも例外ではない。
 「人のために尽くした。とか「途上国に協力した」とか威張るのではない。昔の人はよく知っていた。人のためとと書いて「偽」(いつわり)と読ませた。人のためではなく、みんな自分の人生のためにやっているのだ……………。
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2006年02月14日

アドルノの「権威主義的性格」と「民主主義的性格」

 フランクフルト学派のT.W.アドルノ(1903〜1969)は、第2次世界大戦後にナチスを支持した人たちの性格について、大規模な調査分析を行って、そこに共通する性格(パーソナリティ)を明らかにし、これを「権威主義的性格」と名付け、これに対する「民主主義的性格」と対比した。

権威主義的性格
1.強い者にへつらい、弱い者に威張る。
2.人種的宗教的などの偏見と差別意識にとらわれやすい。
3.自分の集団だけに忠誠心を感じ、他の集団には冷淡である。
4.善玉か悪玉か、敵か味方か、白か黒かというように全てのことを二分法的に決めつけ、中間や第3の立場を認めない。
5.型にはまった紋切り型の考え方(ステレオタイプ)にはまりやすい。
6.人間を人柄ではなく、肩書き、生まれ、家柄、学歴などの外面的な特徴で判断してしまう。
7.特に人間を序列化してタテの上下関係で捉えようとし、優秀な人物と劣等な人物とを区分しようとする。
8.「正しい」ということを「強い」ということにすり替え、「勝てば官軍(Might is right.)」の考えで、権力や金力、腕力のある者になびいていく。
9.人間を者のように考え、人を利用しても平気でいる。
10.人間を信用していない。
11.「現実主義」を自称して、理想主義的な努力にたいして皮肉で冷笑的な態度をとる。

民主主義的性格
1.偏見や差別意識にとらわれない。
2.自分と違った考え方や生き方に対しても理解する能力を持ち、それぞれの良さを評価することができる。
3.善玉か悪玉かを性急に決めつけることなく、さまざまな観点から柔軟にものを見ることができる。
4.人間の善意を信用し、理想主義的な努力に対して希望を失わない。
5.権威wも認めることはあっても無批判に盲従しない。
6.自分の集団以外にも心を開き、友情と誠意を持って接する。

 これを見て、こういう「権威主義的な性格」の人を想像してしまい、それに対して、自分は「民主主義的性格」だと思ってしまう人が多いだろう。私もそうであった。確かにそういうタイプの人がいるとは思う。
 が、これも二分法的に見てしまうと問題であろう。
 むしろ、誰もが両方の性格を持っていて、それが場所や役割、社会的状況によって表れ方が異なってくるというべきかもしれない。それまで「民主主義的な性格」だった人が管理職になって突然「権威主義的」になってしまうこともよくあることである。
 
 
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2006年02月13日

「それでも 喜び、希望、感謝」鹿児島司教誕生とCLC日本代表の選出

 私の関わっているCLC(Christian Life Community)というカトリック信徒の団体は、日本のCLCの代表として長崎の7人の子の母親の女性を選出した。「共同識別」という特別な手続きを経て選ばれた代表である。世間的な基準と常識では考えにくい結果であるが、まさにCLCらしい選択であった。実はわたしもその候補者であったのだが……………。


towel この選出に先立ち、1月29日、CLCの日本代表となった彼女とわたしたちは鹿児島で行われた郡山健次郎司教の叙階式に参列した。このカトリック教会鹿児島教区の新司教誕生も、これまでの司教叙階のなかでは「常識はずれ」のことであった。バチカンもなかなか人を見る目があるじゃないかと思わせたのである。
 叙階式に参加して、いろいろなことに驚いたが、なかでももっとも感動したことは、叙階式に参列した参加者に配られたタオルである。
なによりも、こんな時の記念品としてタオルを配るという発想が庶民的で飾らなくてシンボリックでいい。これで汗を拭き、垢を落とし、体を清めてほしいというわけである。
 そのタオルには、司教紋章が刷り込まれている。この紋章がまたいい。普通司教紋章といえば「楯」とか「エンブレム」ふうにするのだが、闇に輝く「世の光」に照らされた2匹の鳩を描いている。このデザインはクリスチャンでない友人のデザイナーにお願いしたという。
 そして、そこに書き込まれたモットーがまたまたいいのである。
日本語で「それでも 喜び、希望、感謝」英語でも書かれている。(ラテン語ではない)「Yet ...Joy! Hope! Gratitude!」
 どういう逆境にあっても、あるいはこういう時代にあっても「それでも 喜び、希望、感謝」なのである。福音とはまさにこういうものではないか。

 この二つの新しい代表の誕生は、「風は、西から九州から」を暗示させるものであった。教会の二人の新しい代表に拍手を送りたい。

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