2015年01月11日

松葉杖をつかう生活で気づいたこと

この10日間松葉杖のゴヤッカイとなりました。その使い方もマスターとまではいかないまでも、一応ひととり使いこなすことができるようになったと思います。
階段ののぼりおりには目から鱗の感じさえしました。作業療法士さんに感謝です。

ところで病院の中で松葉杖の生活をしてみて、いろいろと気づいた点がいくつかあります。これらの多くは実際に松葉杖にゴヤッカイになる生活をしないとわからない、してみて初めて気づく性質のものでしょう。

その第一は松葉杖を立てかけるところについてです。
病室のベッドに来ると松葉杖はどこかに立てかけなければなりません。その場所がないので、壁に立てかけたりするのですが、不安定で倒れやすいのです。せめて壁にぶら下げるためのフックがあればいいのですが、外科の病室でさえないのです。
そういえば松葉杖を立てかけなければならないところは結構あります。トイレ、洗面所、ロビー、待合室、食堂、どこにもありません。
これは結構不便ですが、病院でさえ気付かないのですね。
ロビーや食堂にはスマートでセンスよくデザインされた傘立てみたいなものがあるといいですね。
できたら松葉杖に付属して杖と一体化できて、必要なときにとりはずして使えるものがいい。これができたら特許ものですよ。きっと。別に松葉杖でなくても普通の杖にも言えることです。これはそのうちどこかのデザイナーさんが考え出すよね。

その2です。
松葉杖をおいて作業をしなければいけないところがいくつかあります。中でも洗面台、公衆電話のまえ、シャワー室、玄関での靴を履くとき、そういうところは片足だちしなければならないのですが、これが不安定だし、つかれるし.....。そこに小さな丸椅子があると便利です。この病院では結構あちこちに丸椅子がおいてありました。これはありがたいことでした。
でも、それを使って気づいたことがあります。洗面台の前です。丸椅子に座ってヒゲソリをしようとしたとところ、鏡が高い。座ったママだと鏡が見られないのです。車椅子用の洗面台はさすがそういう配慮はされているのですが、

その3です。
これは退院してからのことです。入院中はいいことです。台所です。両手をつかうから座って作業をする必要があります。でも、この椅子は普通の椅子より高いものが必要ですね。どのくらいのたかさがあるといいのでしょうか。これは普通の家具屋にあるのでしょうか。あったとしてお店でどのくらいの高さが適当なのかを確かめられるのでしょうか。
やはりこういうのは福祉専門店で相談してみるのがいちばんなのかもしれません、
それに厄介なことは松葉杖が不要になるとこの椅子も不要となります。そのときのためにレンタルの対応ができるかどうか。
家の場所として気になるのは、他にもトイレ、玄関、浴室です。これは実際に家に帰ってから考えるとしましょう。

その4です。
両手で松葉杖をつかうとものが運べません。そうすると必要なのはせおいぶくろ、ナップサックみたいなものです。いや待てよ。別に背負う必要はないですよね。フタも必要ない。前掛けタイプの方が出し入れが簡単です。ぶどうをつんだらいれるかごみたいなものでもいいですね。でも、探してみるとこういうのが意外に見つからない。
これも考えてみると松葉杖に限らず普通の場合にもあったらいいものになるかもしれません。最近は赤ちゃんを前に抱っこするタイプのものもあります。あれと同じように前に抱っこするようなタイプのナップサックみたいなもの、満員電車の中でも安全です。何よりもものを出し入れできるところがいい。これもスタイリッシュにでデザインされたものが出てきたら買いですね。

その5
松葉杖をもっとスタイリッシュにかっこよいものにすることはできないか。杖はけっこうオシャレなものがあるけれど、松葉杖にもあっていいと思います。
松葉杖に別な機能をつけた複合機能はどうか。たとえばナビ付きの松葉杖。スマホを置くことができて見たり聞いたりできたら役に立つかもね。これも行けるかもしれない。
折りたたみ笠やワンタッチ傘が着脱できたらいいかも。両手の松葉杖だと傘がさせません。だから松葉杖に一体化できるアタッチメントがあればいいんですよね。でも、どういう構造にしたらいいのかのイメージが今ひとつうかんでこないけれど、これも実現できたら特許ものだよね。

考えてみるとまだまだいろいろとアイディアが浮かんで来そうです。「必要は発明の母」というのは本当ですね。

こちらにもどうぞ
posted by mrgoodnews at 16:06| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月11日

iPhone をイーモバイル htc に変えました。

私は1990年以来のマックユーザーで、今もパソコンは MacMINIに、iPod, iPad, iPhone を使っていましたが、ついに7月この一角が崩れました。

私の iPhone をイーモバイルの htc に変えたのです。
それはなぜか?
実はいつだったか、iPhone の OS を最新のバージョンに変えたところ、とたんにひんぱんに落ちてしまうのです。とくにそとからケイタイの電話を受けたあとがいけません。画面が消えてしまい、どこを押してもうんともすんとも言わない状態になります。そしてしばらくたつといつのまにか復帰しているのです。
それで、銀座のアップルにいって問い合わせました。
「あ、それはそのバージョンがそのハードには負担が大きいからです。使って何年になりますか」
「このハードを購入して2年、その前に一度紛失し、一度は水につけてダメにしたから4年目になるのかな。それで、これを何とかする方法がないの?」
「前のバージョンに戻していただくのがいいかと思いますが、それは保証の範囲外となります。」
「それはなかなか難しそうでしょう。なにか、ほかにないの?」
「買い換えていただくしかありません。」
「そんなー。それだったらそうとバージョンアップするときに注意を喚起しなければいけないよね。バージョンアップすると落ちることが多くなります、それでもバージョンアップしますかって。」
「はあ、もうしわけありません」

むかしの Apple はもっと謙虚だったし、親切で、しかも挑戦的だったとおもいます。最近はちょっと高慢な感じがして好きではありません。

もうひとつ理由があります。
それはテザリング機能を使いたかったからです。

続きを読む
posted by mrgoodnews at 11:42| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月11日

日本人の静かなパニック

あの日以来始めて会う友人たちには、いつも「そのときあなたは」と言うのを聞くことにしている。というか、こちらが聞くよりも前に勝手に語り出すのが普通である。

そんな中の一つ、ある友人がこんなことを話してくれた。

震災の会った翌日、大きなスーパーに買出しに行った。案の定、いくつかの生活必需品は品薄になっていて、それを買いあさる人たちの姿をあさましく思っていた。
多くのものを買い込んだ人たちがレジ前に長蛇の列であるが、皆静かに順番を待っていた。
ところがなかにあるレジの前にはあまり人が並んでいない。普通だったら底を目ざとく見た人が並びだし、われもわれもと続いて直ぐに他の列と同じように長蛇の列になるのだが、この日は違った。
その列に人が並ばないのである。「レジの店員がこちらにどうぞ」と言っても並ばない。
かれは店長と思しき人に「もっとあの列に並ぶようにお客さんに言ったらどうですか」と言ったのだが、その店長氏いわく「何度か言っているのですが、どうしてもだめなのですね。お客さんもみんな静かなるパニック状態で」
ついに彼はその列にならないレジを閉鎖してしまった。

この話を聞いて、私も思い当たることがあった。

続きを読む
posted by mrgoodnews at 23:40| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月27日

「ところがところが」の「平戸旅ものがたり」

 ただし、この旅のみのりを吹き飛ばしてしまうこともあったのです。思い出しただけでもうため息が出てくるような失敗でした。
 それは私の大事な大事な iPhone が水につかって使えなくなってしまったということです。

 漁師体験をしたときのことです。生月島の漁港から10分くらいいった沖合で定置網を引き揚げることを漁師の皆さんとともに体験できたことは、すばらしいことでした。70センチくらいのブリやヒラメがあげられていました。ハリセンボンも上がってきましたが、これは役に立たないのかすぐに海に捨てられました。今はあまり魚が多い季節ではなく、9〜11月頃がもっとも漁獲量が多いとのことです。
 ただ波が2.5メートルくらいあって、結構船が揺れました。子どものころブランコにのっても酔ってしまう少年だった私は、船に弱いのです。場所を変えて2つ目の網を引き揚げるところに移動するあたりから、気分が悪くなってきたのです。生あくびをかみしめながら、早く岸に返らないかなということばかり考えていました。なんとか気を取り直してデジカメの写真を撮ることだけはできたのですが……………。

 3箇所の定置網をあげてから船は漁場を離れ一路港へ戻ることとなりました。水しぶきを浴びるからと船の後尾に座っていました。たしかにレインコートはびしょぬれとなりました。わたしは iPhone をレインコートの胸ポケットにしまいました。

 港について、すぐにレインコートを脱いでまとめておいてあるところに置いておきました。しばらくして私の大事な iPhone をレインコートの胸ポケットに置き忘れていたことを思いだし、脱いで置いたところに駆け付けたのですが………。
 そこにはなかったのです。どこにあるかとまわりを探したら、なんと大きな桶の中に水につけられていました。あわててレインコートを引き揚げたのですが、時すでにおそし。私の iPhone は水死でした。ああ……………。


iPhone1 私のiPhone には500曲くらいの音楽と100名くらいの電話やケイタイの番号がアドレスが入っていました。でもこれらは何とか復元できますが、この旅行で取りためた100枚以上のデジカメ写真は復活できません。これがもう立ち直れないほどのショックなのです。

 船酔いとこのショックの二重苦のために、わたしの食欲はまったくありませんでした。漁師さんたちの食堂で今あげてきた魚を漁師さんのおくさんたちがすぐに調理してくれるという最高の条件になっているのになんです。
 これも悔しかったし、悲しかった。最高においしいはずの魚が、おいしくないのです。食べられないのです。あ〜あ、思い出すことさえつらくくやしいのです。

 私のこのページと前のページには、写真が貼ってあってしかるべきなのにそれが溺死した iPhone 以外は全くないというわけもおわかりいただけたことと思います。
 わがいとしの iPhone に心から哀悼の意をささげます。
 
posted by mrgoodnews at 01:05| Comment(2) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月23日

禁煙とおもしろキャンディの妙な取り合わせ

 私は、昨年のクリスマスから、40年間吸い続けたタバコを禁煙している。別に大決心をして禁煙しているわけではなく、風邪をひいたのを機にやめてみるかと思い立ってやめた。いまのところやめることができている。
 前もそうだったが、パソコンに向かってなにかをしているときとお酒を飲んでいるときにタバコを吸いたくなるのだが、パソコンに向かうときにはあめ玉をなめることにしている。
 そのせいか、あるいは学校の仕事を辞めたことのせいか、30年間維持し続けた65〜67キロの体重が70キロに増え、ベルトの穴がひとつずれた。


キャンディ1 さて話しはダイエットの話しではない。あめ玉の話しである。いろいろなあめ玉を代わる代わるなめているのだが、先日おもしろいあめ玉を見つけた。
 そのアメは「ポンとでてくるフルーツ玉キャンディ」とかいうネーミングで、製造はライオン菓子株式会社である。ライオン菓子といえば「ライオネスコーヒーキャンディ」とか「ライオンバターボール」とかいう定番商品でよく聞く名前である。

キャンディ2 このキャンディがおもしろいのはその包装である。一個に一枚の包装がしてあるのだが、この包装を横からつぶすと、ポンと音が出てフルーツ玉が飛び出してくるのである。その音がまたいい。あめ玉の好きな母のいよさんもビックリ。
 さらにあめ玉もゆず、りんご、マスカット、オレンジ、ピーチ、いちご、レモン、グレープの味がして、結構おいしいのである。「一粒にレモン1個分のビタミンC」とかいうのもうれしい。ただ残念なことに私の好きなグレープフルーツ味がない。いずれもホンモノのフルーツよりもずっとそのフルーツの味がするのである。香料のなす技であろう。

 私の友人に香料の会社に勤めている人がいる。かれが豪語するには、すべての食品やフルーツの味を香料で人工的に合成することができる、しかもホンモノよりもホンモノらしい味と香りをつくりだすことができるということなのである。彼の顔を思い出した。
posted by mrgoodnews at 00:53| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月15日

白滝によったら黒曜石があった


黒曜石 テレビで黒曜石の話をしていた。この石は黒光りのする堅い石で、昔は弓矢の鏃やいろいろな道具に使われていたというものである。
 このテレビを見ていて、私の学生時代の北海道遊説旅行を思い出した。

 私は学生時代に弁論部というサークルにいた。その話はまたいずれ書きたいと思うのだが、大学1年の時に北海道遊説旅行なるものに参加し、北海道の各都市で遊説(駅頭で演説をする)をしてまわった。いまから40年ほど前のことで北海道の均一周遊券が学割で5000円だった時代である。
 その旅行の途中、時間調整か何かで石北本線の白滝という駅でたまたま降りて町に出た。さびしい町で何にもなかった。駅前のパチンコ屋が大音響で流していたバーブ佐竹の「女心のうた」が耳に残っている。
 町中を散歩していたら、道路の砂利が目に入った。黒光りのする黒曜石が一面に敷き詰められていたことを発見したのである。
 一緒に行った仲間たちにそれを指摘したら、彼らは別に何の興味も示さなかったが、わたしはそこからいくつかを拾っておみやげにしようともって帰った。あとで札幌のおみやげ店によったら、この黒曜石が土産物として売られていたのを発見した彼らはとても悔しがっていて、わたしは優越感に浸ったものである。

 あとで調べたところによると黒曜石は全国のいくつかの所に産地がある。信州の霧ヶ峰高原や和田峠、伊豆天城、箱根などにも産地があるという。北海道では十勝石といわれているそうである。

 だいたい黒曜石を砂利代わりの敷石にするなんて、堅くてとがっているので、車のタイヤにはいいはずがないと思い、あの記憶は単なる幻想だったのかもしれないと不安になった。
 そしてあれから30年たって旭川を訪れたときに、友人から車を借りてオホーツク海を見に行く途中、その思い出の白滝にたちよった。
 記憶にあった町とかなり様変わりがしていたのだが、わたしはさっそく駅前の駐車場にしかれていた砂利の中を探してみた。すると細かく砕いてあるが、たしかにその砂利の中に黒曜石が混じっていたのである。
 あの記憶はまちがっていなかったというわけである。
 今はこの町は黒曜石の産地として売り出そうとしていて、「白滝黒曜石ジオパーク構想」なるものを計画中であるという。
posted by mrgoodnews at 15:19| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月29日

プノンペンの子どもたちの昼休み


SS2 プノンペンの Pour un Surire d'Enfants (For a Smile of Children)というハイスクールを訪れたときはちょうど昼休みで、わたしたちも子どもたちと同じ食堂で昼食をとりました。
 
 私はそこの中学生に「逆立ちごま」をプレゼントしたりしました。

 そこの昼休みの子どもたちの遊び風景を写真に納めたので紹介します。


SS3これは日本の相撲のような感じでした。上半身裸の男の子たちが3〜4人のチームになってとっくみあいをしている遊びでした。




SS1 これは女の子のゴム飛びです。自分の背丈よりも高いゴムに挑戦していました。子ども時代に私も見たことがあるけれどこんな高いのに挑戦しているのは驚きでした。




SS4 これは手をつないでする鬼ごっこみたいな遊びでした。みんなはだしです。


 みんな元気で明るい子どもたちでした。学校の名前のように笑顔のステキな子どもたちが多かった。
posted by mrgoodnews at 01:22| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

プノンペン土産はキャッツアイ・グラス


Market 市内観光の時に、プノンペンのロシアン・マーケットにいった。そこは小さな店が建ち並ぶちょうどアメ横みたいな感じのまさに市場という感じである。中にはいると迷路みたいで迷ってしまいそうになる。
 1980年代にロシア人観光客が多く訪れたので、その名があるという。

 そこに行ってみなはおみやげ探しに夢中になった。仏像などの工芸品や衣類などを売っている店が多かった。


Catseye2 わたしはそのなかでキャッツアイがたくさん並んだお店があったので、そこで土産を買うことにして、交渉した。直径4センチの球が10ドルだという。一緒に行ったカンボジアの若い人に交渉してもらったら、8ドルまでさがったので、いろいろな色のものを5つ買った。日本でも観光地のジュエリーを売っているところでこの大きさのものは1500円くらいで売っている。
 この石はどこでつくられたのかと聞くと「わからない、たぶんタイではないか」と応えていた。


Catseye1 実はプノンペン空港にも売っていた。これはブレスレットになっていたもので、これも8ドルだった。ここでもこれはどこでつくられたのかと聞いてもわからないといわれた。

 私はこれは天然石を磨いてつくってつくったものだと思っていたのだが、日本に帰って調べてみるとこれはガラスの加工品であるようだ。

 このキャッツアイ・ガラスはよく見ると光の加減でたてに白い筋が表れる。これがねこの目のように見えるのでこの名が付いたのだという。
 このような光りの現象をキャッツアイ効果(シャトヤンシー効果)というのだそうだ。「宝石内部に存在する平行に発達した繊維状結晶または管状包有物等からの光の反射によって生じる猫の目のような光彩効果」と書いてある。
 よくシャンプーのCMなどで髪の毛に白い筋状の光りが表れるのがこのシャトヤンシー効果であるらしい。

 このキャッツアイ効果を持つ鉱物に、クリソベリル、トルマリン、アパタイト、オパール、ウレキサイト、などがあり、タイガーアイという名の付いたものもある。天然石のものはこういうふうに安くはないようである。

 カンボジアのほかの若い人に聞いたら、それは4ドルくらいで買うことができるよといわれた。

 カンボジアのお金は1ドルが4000リエルになる。高額のものはほとんどドルで払い、おつりとしてリエル紙幣が戻ってくるのが普通なのだそうである。コインはまったく見なかった。
 それからホテルにあったタバコはなんと日本のマイルドセブンであった。空港などでも売られていたのもマイルドセブンが多かったのには驚いた。しかしカンボジア人でタバコを吸っている人はほとんど見かけなかった。


posted by mrgoodnews at 00:34| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月21日

プノンペンから帰りました。

 昨日20日の朝、無事日本に帰ってきました。
 予定していた到着時刻がちょうど台風の上陸と重なるということで心配しましたが、結局2時間半遅れで飛行機はバンコクを出発し、成田に朝8時45分に到着しました。

 SIGNIS Asia のアジア会議に参加してきました。SIGNIS とは前に紹介しましたが、カトリックメディア協議会という名前の会で、ローマ教皇庁に認められた国際組織です。
 今回はアジアの14カ国からの参加がありました。東から日本、韓国、台湾、香港、マカオ、フィリピン、ベトナム、カンボジア、タイ、マレーシア、インドネシア、ミャンマー、インド、スリランカの参加でした。バングラディシュ、シンガポール、パキスタンは欠席でした。
 今回でベトナムの参加が認められ、初参加でした。

 参加者の多くは、会議のあとアンコールワットへのツアーにいきましたが、私は20日に予定があり、このツアーには参加できませんでした。残念です。

 私は過去4回ほど、海外旅行に行ったことがありますが、そのうち3回はキリスト教関係の国際会議への参加でした。他の1度はフィリピンへの Exposure (体験旅行)でした。今回で5度目となります。

 1976年 マニラでのCLC世界大会
 1976年 ローマでのCLC世界大会
 1983年 香港でのアジア信徒会議
 1990年 カトリック研修センター主催の青年対象アジア体験旅行

 今回も含めて5回のうち4回はアジアへの旅行だったというわけです。
 国際会議なので英語で話さなければならず、大変でした。英語力はどんどん落ちて行った感じですが、下手な英語でも話しかける度胸は今回がいちばんだったかもしれません。

 少しずつこの体験で得た Good News を紹介していこうと思います。

 
posted by mrgoodnews at 22:47| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年09月15日

カンボジア・プノンペンで開かれる SIGNIS Asia に行ってきます。

 9月15日から20日まで、SIGNIS(カトリックメディア協議会)の Asia 会議のためにカンボジアのプノンペンに行ってきます。

 SIGNIS はカトリック教会のメディアにたずさわる人びとの国際組織です。SIGNIS Asia はそのアジア会議で、毎年1回開催されます。
 昨年は東京でアジア会議を開催しました。
 今年はカンボジアのプノンペンで開かれ、アジアの14カ国の代表が参加します。
 来年は世界会議がタイで開かれると予定です。

 テーマは
"Children in Asia and the Media:the Challenge...the Future"
というものです。

 アジアカトリック映画賞を設置しようとか、「インターネットと子どもたち」とかいうあたりが討議のテーマになるだろうと思います。
 日本から3人が参加します。

 私の英語でこのテーマについて、どこまで参加できるかどうか、ちょっと不安ですが、なんとかなるでしょう。

 ですので、このブログはちょっとおやすみになるでしょう。
 うまくいけばプノンペンから、更新できるかもしれませんが、ちょっと期待薄でしょうか。

 

 
posted by mrgoodnews at 01:47| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月16日

4泊5日の岩手県 Good News 探しの旅

 この11日から15日まで東北岩手県の旅行に行きました。私の旅はどこへ行ってもつねに Good News を探しに行くたびです。
 今回もステキな Good News をたくさん見つけて「おみやげ」にもってきました。それを少しずつ報告できたらと思っています。

 今回訪れたところは以下のような所でした。詳しい報告は改めてしたいと思います。今日は訪れたところをざっと紹介しましょう。

●宮城県秋保温泉

磐司岩 
これは前から行きたかったところです。本当は麓の磐司山荘に泊まって温泉に入り、登山したかったのですが、あいにく遠くから眺めただけでした。

秋保大滝 
この滝は華厳の滝、那智の滝とならんだ日本3大瀑布なのだそうです。ここでメグスリノキを煎じた飲み物を試飲しました。不思議な味だった。本当は買ってきたかったのですが、妻に反対されてしまいました。

磊々峡 
宿泊したホテルの裏がすぐにこの渓谷でした。

秋保工芸の里御独楽處廣井 
江戸独楽の作家廣井道顕氏の工房です。いろいろなおもしろい独楽を手に入れてきました。

●平泉
毛越寺浄土庭園
モウツウジと呼ぶのだそうです。

中尊寺
金色堂は金ぴかでした。

達谷窟毘沙門堂
坂上田村麻呂がつくったとか。岩窟から突き出るようにつくられた寺で、西の絶壁には大日如来が掘られていました。

厳美渓
前の日の夜にふった雨のために水が濁っていたのが残念です。地震のために吊り橋は渡れませんでした。

●水沢
高野長英記念館
日本の夜明けに生涯をささげた幕末の蘭学者高野長英も水沢の人なのです。

カトリック水沢教会
「奥州キリシタンの父」後藤寿庵の像があります。ここで日曜日のミサにあずかりました。
ペトロ岐部も水沢で捕まるのですが、残念ながらその足跡は残っていないのだそうです。

後藤寿庵廟
後藤寿庵は近代農業の先駆者といわれます。胆沢川の水を引いた「寿庵堰」をつくり、福原の地の潅漑に供しました。

後藤新平記念館
のちに東京市長になって関東大震災後の東京復興に貢献した「大風呂敷」後藤新平は水沢の人です。

●花巻
花ごころの宿「渡り」
花ごころが満ちたステキなホテルでした。こんな宿泊料でこんなステキなホテルに泊まれたことが夢みたいでした。「南部美人」というお酒にすっかり酔ってしまいました。

新渡戸記念館
5000円札の人新渡戸稲造父祖ゆかりの地に立てられた美しい記念館です。

宮澤賢治記念館
「イーハトヴ」というのは、銀河の空間、四次元宇宙であり、田園の風と光りに満ちあふれたドリームランド岩手のことをいうのですね。

花巻では高村光太郎にも会いたかったのですが、今回は残念ながらできませんでした。

●一関・登米市東和町
猊鼻渓
ここの渓谷美は他に類例を見ないものです。120メートルの絶壁に囲まれた川の流れを舟でゆったりと堪能しました。ガイドの船頭さんのトークと「げいび追分け」の歌に魅せられました。

東山町幽玄洞
3億5千年前の地層に属する日本最古の鍾乳洞なのだそうです。ウミユリや三葉虫などの化石が洞内から発見されています。

藤沢町大籠キリシタン殉教公園
ここで300人ものキリシタンが殉教しました。ここの資料館の展示もとても美しい。

東和町カトリック米川教会と三経塚殉教公園
藤沢町隣町の宮城県東和町米川でも殉教がありました。

スモークハウス道楽亭
藤沢町で燻製づくりにはげんでおられる佐藤さんから話を聞き、おいしい燻製を買いました。わたしも「燻製鍋」を買って「燻製づくり」を試みているので………。

どうですか?
充実した旅だったことがおわかりだと思います。
今回の旅は、わたしの「昭和の車」日産パルサーでの旅でした。カーナビが大いに役立ちました。
土産話の Good News は、少しずつ紹介していこうと思っています。




 

posted by mrgoodnews at 00:07| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月08日

新シリーズ 母の「介護」体験記 その1

 私の母は89歳。「母の『介護』体験記」という新カテゴリーを起こして、このシリーズを立ち上げることにした。これがけっこう「福音的な体験」なのである。

「要介護3」であるが、けっこう元気である。この年で薬は何も飲んでいない。医者嫌いの薬嫌いなのである。
 目もいいし、耳も悪くない。心臓が少し弱っているらしく、ちょっと動くとすぐに「苦しい」と言い出す。
 笑顔のかわいい明るいおばあちゃんである。外へ出て行くと、愛嬌と笑顔を振りまき、けっこう人気者でいつもまわりから「ちやほや」されている。息子としてはこの「かわいいおばあちゃん」が少々誇らしい。「自慢の母」なのである。

 私は仕事を辞めて今は晴れて自由の身になって、その「自由」を謳歌しているが、その自由時間のほぼ半分を使ってこの母とつきあうようになった。
 そしてその母とつきあえばつきあうほど、母がいとおしくなるのである。もうこれは「いとおしい」という感情以外の何ものでもない。

 目も耳もいい母だが、物忘れははげしい。5分前のことをすっかり忘れるのである。脳が萎縮して最近のことを記憶する領域が失われてしまっている。
 父を亡くした4年くらい前からの記憶はまったくない。だから父はまだ生きていると思うことが多く、しばしば「お父さんはいつ帰ってくるの?」と聞いてくる。そのたびに私は「お父さんは4年前に死んだんだよ。ほらあそこに書いてあるでしょう。写真もあるし」と笑いながら答える。もう何百回と答えたか。
 ただし、私は母に「お母さんはしあわせだよね。目も耳もいいし、それに物忘れ能力が抜群だし………」と誉める。

 母は、私の隣の家で寝起きしている。食事はいつも一緒で母を寝かしつけてから、自分の家に帰ってくるのだが、そう簡単に母は寝ない。
 寝かしつけたと思ったら、パジャマ姿で私の家のドアフォンを「ピンポン」と鳴らしてやってくる。
「どうしたの?」ときくと「明日の朝は何時に起きたらいいの? 朝食は別々にするの?」と聞く。
「朝は7時半に起きるんだよ。7時半にそちらに行っておこしてあげるから。朝食の準備は私たちがするから、ごはんを炊かないで待っていてね。」と丁寧に答えて母を寝床につれていく。
 ごはんを炊かれると大変なのである。鍋は焦がすし、水加減はいいかげんだし、火災の危険はあるし……。3人で食事をすると3合を必ず炊いてしまう。私たちが子どものときの感覚でいるのだ。
 また5分後にピンポンとやってくる。「わかんなくなっちゃった。わたしはどうすればいいの? 明日は何時に起きるの?」と前と同じことを聞く。
 今までの記録では「12ピンポン」というのが一番多い。平均すると「5ピンポン」くらいか。いつも9時半から10時くらいに寝かしつけるのだが、おそくなると11時半になることもある。
 ただしけっして、「もう何度目だと思っているの」とか「今何時だと思っているの」とかきつく詰問調でいってはならない。そういうとかならず母の「嘆きのサイクル」がまわりだす。
「すっかり頭がバカになって、もうこんなじゃ生きていてもしょうがない。死んじゃいたいよ。」といいだすのである。
 その「嘆きのサイクル」に入ってしまったときは、いすに座らせて母の好物のお菓子やキャンディーを与える。
 そしてこういう。
「ね、おいしいでしょ。こういうおいしいものを食べると生きててよかったと思うでしょ。もう死にたいなんて思わないでしょ。」ということにしている。
 だいたい5分たてば忘れて、再びニコニコし出すから、ことはそう深刻にはならない。「物忘れ能力が抜群」ということは幸いなことであるのだ。
 「これで6ピンポンだけど、何度きてもいいよ。」といってそのつど母の手を引いて、寝床に案内する。
 母はちょっと足元がおぼつかない。しばしばよろけたり、よたよたする。そういうときは「よたいよ(よろいよ)さんなんだから気をつけてね。」(母の名前は依代(いよ)さんなのだ。実にいい名前だと思うのだが、母はこの名前を気に入っていない)
 ともかく、この母の「パジャマ姿のピンポン」をどうしたら少なくできるか、どうしたら母を早く寝かしつけるか、その『試行錯誤』を楽しんでいるのである。もちまえの「こーしたらどーなる?の実験精神」がこんな所にも現れる。

 年老いた母を受け入れるということはこういうことなのだと思う。

 夜寝る前に限らず、食事を食べるときには「どうおいしい?」と聞く。「おいしい」と答えたら、「ね、生きていてよかったでしょ。こんなにおいしいものが食べられて」と確認をする。
 しばしばこうも言う。「お母さんはしあわせものだよね。こんなにいい孝行息子と嫁と孝行娘を持って。こんなに親孝行な子どもはそうめったにいないよ。こんなにいい息子と娘がいるのに、死んじゃいたいなんていう『息子不孝』なこと思わないよね」
 
 妹は、秦野の農家に嫁いでいるが、この妹も実によくできた嫁であり、また娘である。嫁ぎ先で母と同じ歳の義理の母を「介護」しているのだが、1週間に1回は2時間近くをかけて実家に帰ってきて、実母の相手をする。長男の私は実に大助かりなのである。
 なんとよくできた妹なのだと惚れ込んでしまう。嫁ぎ先でも「とてもよい嫁さんで」と誉められるので鼻高々で「自慢の妹」なのである。
 もっとも最近は妹が帰ってくると、母をそっちのけで
「数独パズル」のときくらべをしているのだが……。

posted by mrgoodnews at 00:49| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月21日

「21世紀の森」でノルディック・ウォーキングを体験しました。

 5月17日に「県立21世紀の森」が主催した「森林ウォーク」に参加したら、ノルディック・ウォーキングというのを教わりました。
 これはスキーのストックのようなつえを2本持って歩くウォーキングです。ノルディック・スキーというのは冬季オリンピックの種目になっているので、知ってはいましたが、これは知りませんでした。
 ノルディックというのは北欧風のという意味です。
 ノルディック・ウォーキングは正式にはディメンチア・ウォーキング(物忘れウォーキング)と呼ばれ、クロスカントリースキーの競技会でスキー板を忘れた選手がストックだけでウォーキングしたことが始まりで、クロスカントリースキーのオフシーズンの練習用に使われ出し、フィットネス・ウォーキングとして広まりつつあるということです。

 ただ単に歩くだけだと、足腰だけの下半身運動になってしまいますが、これはストックを使って体を前に押し出すことをするので、首や肩を使ってより全身運動となり、歩くときも膝や足、腰の負担を減らすことができるといわれています。
 実際に体験して、なるほどという感じです。これならより長距離をより速く疲れずに歩けるかなという気がしました。

 これはどちらかというと山登り用と言うよりも平坦な道あるいは起伏の少ない山道を歩くのに向いているかもしれません。
 ただストックがやや高価なようで、これを購入するかどうか悩んでしまいます。
 それと、グローブとストックがくっついているので、ひたすら歩くにはいいのですが、私のように森を観察したり、デジカメで撮影したりというのにはちょっと難ありという感じです。

 「県立21世紀の森」もなかなかいいところです。こちらはヤマビルの被害には遭いませんでした。違う季節にまた訪れようと思っています。
 ただ、車以外でのアクセスに時間がかかります。車をあまり使いたくないわたしは、いきは御殿場線山北駅から1時間半、帰りは大雄山線大雄山駅まで2時間かけて歩きました。「県立21世紀の森」にいくまでのウォーキングもなかなかよかったし、大雄山線というのに乗ったのは初めてでよかったのですが……………。
posted by mrgoodnews at 00:18| Comment(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月05日

ブログ開設3年目に入りました。

 この6月1日でブログ開設3年目になりました。
 読者の皆様のご愛顧をこころより感謝しております。
 簡単に現在のこのブログの状況を報告しておきましょう。

 おかげさまで2年で633ページ、51メガものボリュームになっています。100メガまで容量を増やしました。

 だいたい平均すると、1日に250名650ビューものアクセス量になります。
 RSSが37アクセス、270ビューくらいをしめています
 また検索エンジンから来る人が120くらいです。3分の1強は検索エンジンから来るというのがこのブログの特徴かもしれません。
 
 これが多いのかすくないのかはよくわかりません。

 どういう方が訪れて来られるのかもよくわかりません。
 コメントはとても少ないと思います。これは私が頻繁に応答していないからなのかもしれませんが…………。

 ただスパムのトラックバックが最近とても多くなっています。出会い系とかいかがわしいものとかつい更新を怠るとすぐにいくつもついてしまいます。
 最近は、何とかナビとかエリアガイドとかいうスパムが増えました。
 このトラックバックを削除するのが毎日の大仕事です。削除するだけではなく、再構築しなければならないし、禁止トラックバックに登録していかなければならないのでたいへんです。

 いっそのことトラックバックをできない設定にしてしまえばいいのでしょうか。

 まだまだ good news のネタはつきることなく、こんこんと湧いてきます。なかにはこれがどうして good news なのかというように思われるものもあると思いますが……………。
 今後とも引き続きご愛顧のほう、どうぞよろしくお願い申し上げます。
posted by mrgoodnews at 23:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月02日

和解のミサ

 4月27日に「イトスギは神の存在を信じます」という本のなかの二人の司祭の話を紹介した。この話を読んであることを思いだした。

 話しは1969年、安田講堂陥落後の3月の話しである。
 高校時代の親友であったS君は私より1年あとに私と同じ学部に進学してきた。ところが彼は学部自治会の副委員長となり、私の立場とは激しく対立する党派に属していたのである。いわばかつての親友も敵味方同士になってしまい、学生大会では激しく応酬する関係となってしまった。政治的な対立が、二人の友情を引き裂いてしまったのである。
 このことは悲しいことであった。そこで、私は当時本郷聖書センターにいたイエズス会のR神父に「彼と和解したい」と相談した。R神父は「それなら、彼をここに呼んできなさい。3人で『和解のミサ』をあげよう」といってくれた。
 さっそく彼に連絡をしたところ、彼も喜んでそれに応じてくれた。もっとも彼は「こんなことで友情にひびが入るわけがない」と言っていたことに感動した。敵対していたというのは私の思いこみに過ぎなかったらしい。
 聖書センターの和室で3人だけのミサが立てられた。そのミサがどんなミサでR神父がどのような説教をしたかは憶えていない。
 しかし、その後は彼と再び親友の関係を取り戻すことができてとても嬉しかった。

 その彼は私と同じ時に大学を卒業し、しばらく県庁で福祉関係の仕事をしていたが、やがて彼は東京のカトリックの高校の教員となった。私も彼のあとを追うように神奈川のカトリック学校の教員となったのである。
 「イトスギ」の話しでは「告白(ゆるしの秘跡)」であったが、私たちの場合にはミサであった。いずれも秘跡(サクラメント)」の秘跡たるゆえんに関係していると思われる話しである。
posted by mrgoodnews at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月22日

浅葱色の原稿用紙

 浅葱色ってどんな色だかご存知ですか?
 辞書によると「緑がかった薄い藍色」とあります。紀州製紙の色上質紙は、今ほど色が揃っていなかったときに、ブルー系統の薄い色の色上質としてはこれしかなかった時代がありました。今では空色とか水色とかスカイ・ブルーとかいろいろとあります。
 この色のもうひとつの特徴として、コピー機が感じにくい色だったことがあげられます。

 この色のこの性質を利用して、私が印刷工であった時代に、各種の原稿用紙を自分で印刷していました。原稿用紙の版下は写真植字機で自分で作りました。今のPCのワープロ、とくに「一太郎」を使うとなんなく原稿用紙の版下をつくることができますが、写真植字の時は結構大変でした。
 私がつくった原稿用紙は、40字×40行、30字×30行、25字×25行、50字×25行(横おき)、5ミリ角の方眼紙をB5判、A4判でつくりました。それからいわゆるB5判の京大式カードもつくりました。
 この原稿用紙はレイアウト用紙も兼ねているものでした。
 用紙もいろいろな紙を試しに使ってみて、もっともインクののりのよい書きやすい紙を探しました。

 まだワープロのない時代、手書きのプリントを作るときにはこれはけっこう重宝しました。印刷部数は各3000枚くらい印刷したものです。あれから20年以上たっていますが、まだけっこうあまっていたりして使い切っていません。
posted by mrgoodnews at 01:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月03日

ひな祭りと学芸会とりんごジュースの思い出

 わたしの小学校時代の3月といえば、学芸会が開かれていた。歌とか劇とかをクラスで企画して家族を教室に呼んで見せていたものだ。今でもそんな習慣があるのだろうか。
 しかし、私はよくそのころにカゼをひいて1週間くらい休んでしまい、せっかく劇の主役をもらっていたのに、それからはずされて代役を立てられていた。不思議なことに学芸会のときには風邪も治り、元気になっていたのだが、主役には戻れずに劇のはじっこで「ちょい役」を演じていたものである。

 ところで、私はカゼをひくと高い熱を出した。40度とかの高熱によくうなされていたものである。家族はそんな私を心配そうに看病してくれた。
 このころ、病気になった子どもにはある「特権」が与えられていた。それは、りんごをおろしたものを絞って生ジュースにして飲ませてくれたのである。高熱にうなされていた子どもにはそれはたまらない「特権」であった。
 いろいろと聞いてみると、この病気の子に与えられた「特権」はどうやらどこでも見られたものだったようだ。島根県の山奥の妻の実家でも同じことがあったという。
 ただ違うことがあった。りんごを手ぬぐいに包んで搾ったジュースは病気の子に与えられたのだが、病気ではない子どもたちはその絞りかすをもらえるというおこぼれにあずかることができたという点だ。
この絞りかすもなかなかおいしかったということを覚えている。妻の実家にはそういう習慣はなかったという記憶である。

 「あかりをつけましょぼんぼりに」という歌と「どこかで春が」という歌は学芸会で必ず歌われた歌だった。そういえば「どこかで春が」の歌は「どじょっこだのふなっこだの」と「さようならみなさま」とともに卒業祝賀会で先生たち全員が3部に別れて歌う定番の歌となっている。
posted by mrgoodnews at 20:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月28日

選挙参謀と遊説隊長をしたことがあります

 私は選挙の応援をしたことがある。時は1975年、統一地方選挙の東京都品川区の区議会議員選挙。まだ美濃部革新都政の時代であった。
 わたしはそのころ、「池上線」という西島三重子の歌がヒットしていた頃、池上線沿線にアパート暮らしをしていた。製本工をしていた頃で私はまだ20代であった。若かった。
 候補者は近藤栄子さんというおばさん。彼女は立会川という川を暗渠化した時にその上を道路ではなく、公園にしようという住民運動をしていた。
 彼女と知り合ったのは、品川区の区民大学。品川区の社会教育課が企画していた住民主役の企画で、私はここに出入りしている時にこの候補者と知り合った。なかなかバイタリティのあるユニークなおばさんであった彼女と知り合って、その人柄に惹かれた。
 彼女が区議会選挙に出るというので「手伝ってもいいよ」と返事したことから、この選挙運動は始まった。彼女は社会党から立候補。といっても社会党からの応援はほとんどなかった。彼女の応援に集まったのは若者ばかり。もちろん選挙運動などしたことがない素人ばかり。結局自分たちで選挙運動をやるしかないということで、若者中心の選対による「しっちゃかめっちゃか」選挙が始まった。
 私は選挙運動の副参謀。遊説隊長ということになった。選挙運動期間は2週間。私はそのうち10日間会社を休んでおもに遊説をする役割を担った。
 そのときの選挙スローガンは「今、品川、私たちこそ!」というものであった。私たち市民が主役。社会党公認ではあったが、社会党にはたよらずじぶんたちの選挙をしようということになった。
 朝のビラ配りに始まり、朝の駅頭での挨拶、電話での勧誘、そして選挙カーでの遊説。私たちは「辻説法」と呼んでいた。私は大学時代に「弁論部」というところに所属していて「学生弁論にこの人あり」といわれていた(?)遊説能力が買われたことになる。「辻説法」は200ヵ書にも及んだ。
 候補者も演説がなかなかうまかったが、途中で声をつぶしてしまい、はりをうちながらの演説であった。

 区議会議員選挙は品川区全体が選挙区で、選挙カーは品川区全域を駆けめぐったが、結局票がでたのは地元しかなかった。結果は1280票で落選。1800票の当選ラインには手が届かなかった。
 別の社会党候補からは、組織も地盤もないのによくこれだけ票を集めたとほめられ、他の「革新」政党の候補からは地域へのビラ配布の行動力に怖れられたりした。この政党は投票日前日に私たち陣営を批判するビラを一斉に配っていた。

 わたしは、このあと品川区から転居してしまい、候補者の近藤栄子さんとは縁遠くなってしまったが、彼女は次の区議選で今度は無所属で再度立候補したらしい。このときは1000票にも届かなかったということである。
 その後彼女は、政治への夢はあきらめ、「ネパール教育基金」をつくり、教育ボランティアの活動を始めた。ネパールに味噌造りを普及するということに熱心になって、今でも精力的に活動を続けている。著書に『本もの手づくり12ヶ月』『作って食べようシリーズ・味噌の本』という味噌造りの本がある。
 彼女とはその後会ってはいないが、手紙はよく来る。相変わらず精力的なおばさんである。ウェブを彼女の名前で検索したら、こんな紹介がでていた。

 私にとっては忘れられない体験である。
posted by mrgoodnews at 00:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月12日

書道を習っていた日々と自分の字をフォントにする夢

 私が横須賀市追浜にいた頃、つまり小学4年生から中学1年生の時代に、毎週日曜日になると書道を習いに行っていました。追浜の南町から追浜東町まで、40分くらいかけて通っていました。
 先生は確か、浜岡見山という書家だったように記憶しています。妹も一緒に通っていました。妹のほうが筋がよかったらしく、先に上達してしまったので、あまりやる気にならずにだんだんさぼりがちになりました。
 本当の目的は実は、順番を待っている間にマンガを読むことでした。席が空いて順番が来て名前を呼ばれても、マンガに夢中だった私は返事をしなかったので、いつも最後になっていました。
 最後になって待っている人がいなくなると、しぶしぶ席について、書道の練習をするのですが、それでも硯に水を入れて、墨をすり出すと、すみの香りが漂ってだんだんと墨が濃くなっていくのは好きでした。
 お手本を見ながら、何枚も課題となっていた字を半紙に書き続け、いい作品ができたと思ったら、先生の所へ見せに行くと、先生は朱を入れて直してくださいました。それを見ながら、再び字を書き直します。それで満足がいくものができると、提出しておしまいでした。
 一月くらいすると、その結果が発表され、いい作品が描けると段位が上がるというような仕組みだったようです。初級から初段までは何とかいったのですが、それから先はなかなか上達せずについにそのくらいでやめてしまったように思います。家が追浜から鶴見に引っ越してしまったこともやめた理由だったのですが、もしもあれを続けていたら、私はどこまでうまくなっていたか? あるいはまったく進歩が止まってしまっていたのかもしれません。

 母は字がうまくてなかなかいい字を書きます。女学校時代に習字をみっちり仕込まれたそうです。その時の先生は尾上紫舟先生だったということです。この先生の名前は歌人としてもけっこう知られていた方です。
 女学校時代のクラスメートから母宛にくる年賀状を見てみると、みな字が似ているのです。同じ習字の先生から習っていたからだそうです。

 書道はあの時にやめてしまったけれど、字を書くことは今でも嫌いではありません。決してうまい字とは言えないけれど、読みやすい字を書くとよくいわれます。けっこう自分の字が好きなのです。
 写真植字をやっていた頃もありましたので、あのころから自分の字をフォントにして写植文字にしたいという夢を持っていました。写植ではその夢はかないませんでしたが、ワープロを使うようになって、それができそうになりました。パソコンのフォントを自分の文字でできるソフトがあったら、ぜひ自分の文字をパソコンのフォントにしようと思っています。JISの第一水準と第2水準の文字合計8000字余りを手書きで書いて、スキャナーで読み込み、フォントにできたらいいなと思い続けています。
 そういうソフトがありましたら、ぜひご紹介ください。
 
posted by mrgoodnews at 22:14| Comment(1) | TrackBack(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月09日

NHK 歌謡コンサートをNHKホールに見に行ったとき

 もう10年以上前になるが、NHKが毎週火曜日夜8時からテレビ中継している「歌謡コンサート」を見に行ったことがある。いつも妻が楽しみにしてみている番組であったので、妻が申し込んだのである。あのころ、これは参加申し込みをしたら、日時は指定できないけれどいつかは見に行けるようにできていた。
 妻と二人でいくことになったその日は、松田聖子が出演する日だった。学校を早めに抜け出して、NHKホールに行き、受付で座席券をもらったら、なんと運のいいことに前から2列目の席があたったのである。必ずしも先着順に席が決まるのではなく、ランダムに割り振られるのだという。
 中に入ったら、ロビーで夕食のお弁当を食べている人がたくさんいた。前のほうの席だったら、これはひょっとするとテレビに映されるかもしれないと思い、ビデオをセットしてこなかったことが悔やまれた。何せ生中継の番組である。

 いよいよ始まった。前のほうの席だといろいろなことを発見するものである。
 まず第一に発見したことは、ほとんどの歌手は、歌詞を書いたカードがステージのすぐ下に用意されていたことであった。カンニングペーパーを見て歌っているということである。松田聖子は「赤いスイートピー」「風立ちぬ」などを歌っていたが、これもカンニングペーパーを見て歌っていた。こんなことは最前列にいってみなければ分からないことである。
 第2に、生中継されるのは45分くらいなのだが、テレビの放映時間が終わってから、出演した歌手はもう1曲歌ってくれたのである。中継が終わると本番とはがらっと雰囲気がかわり、それまでの緊張が消えて、ぐっとリラックスした感じになる。これがまたいいのだ。
 そして、生中継の時に赤いランプのついたカメラがこちらを映しているときがあった。これはテレビに映っているかもしれないと意識してつとめてにこやかな表情をしてみた。

 次の日に、学校に行ったら、高3の生徒がやってきて、「先生昨日テレビに出ていたでしょう」といいに来る生徒がいた。わたしは、よもやうちの生徒たちが歌謡コンサートなど見るはずないだろうなんて思っていたから、これは驚きであったとともに、やはり映っていたんだと思ったのである。その生徒は「普段歌謡コンサートなんか見ることはないのだが、たまたまソファーにリラックスして何気なくテレビを見ていたら、どうもどこかで見た顔が映っていた。思わずがばっと跳ね起きて画面をよく見ていると、うちの先生ではないか。思わず家族に『これ、うちの先生だ。先生がテレビに映っている!』と家族中に触れ回ってしまいました。」と述べていた。
 生徒が1000人以上いると、中にはこの番組を見る生徒もいても不思議ではないと、あらためて考えた次第である。
 学校で声をかけてくれた生徒はひとりであったが、翌週の日曜日に教会に行ったら、何人かのおばさんから「テレビに映っていたわよ」と声をかけられた。やはり視聴者の層が違うのだなと思ったのである。 

posted by mrgoodnews at 23:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 私の体験から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする