そのころ、ある集まりでその後同僚となる友人二人とよく一緒になりました。あるころからその二人から、教員になって学校で「宗教」や「倫理」を教えないかと逢うたびに誘われるようになりました。
最初は、冗談かと思って真に受けませんでした。だって、その会社で、給料は安かったけど、社長に信頼されていたし、働く同僚からも慕われていたし、その会社が好きで一生懸命に働いていたからです。しかし、彼らは私が真に受けていないにもかかわらず、あいかわらず会うたびに誘い続けました。
今から思えば、彼らは、私の本当の望みが教員になることであったということを知っていたのです。にもかかわらず、最初は私もその誘いを断り続けていたのですが、しつこく誘われているうちに、自分でも昔教員になることを望んでいたことを思い出し、すこしずつ転職することも考えるようになりました。でも、社長や同僚たちを裏切ることができないしと悩むようになりました。
そこで、私は、その時に定期的に集まりを持っていた3組のクリスチャンの夫婦のグループに相談することにしました。私は、教員となって学校につとめるべきか、それともこのまま印刷会社に勤めるべきかをグループで決めようとしたのです。自分ひとりでは決められませんでした。
彼らは二つの道の難点や利点をあげたりして自分のことのように考えてくれました。そして最終的に自分だったらどちらを選ぶかという結論を出しました。結果は6対1で教員になるべきだという答えでした。それに反対をしたひとりは実は私だったのです。
彼らも、実は私の本当の望みが教員になるということを知っていたのです。そして私がつとめている印刷会社の社長や同僚たちをうらぎりたくないという気持ちでその道を選べないのだということを知っていました。
私もついに決意して、あるとき社長に会社を辞めて、教員になりたいということを思い切って言うことにしたのです。その社長も最初は「そうか、人にはそれぞれの生きる道がある」といってそれを受け入れてくれたのですが、1週間後に「やめないでくれ」と強く慰留されました。こういうのに私は弱いのですね。「私はやめるのをやめた」と妻に漏らしたら、妻はメンバーのひとりに「やめるのやめたといっている」と電話をしました。すると彼はすぐにその社長に会いに行って「至をやめさせてほしい」と談判したのです。
こんなこともあって、私は38歳の時今から22年ほど前に、転職をして教員になることができました。今から思うと、やはりこの道は自分の望んでいる道であったと思っています。ただ、この決断は、私ひとりではできなかったのです。
本当はそれを望んでいるにもかかわらずに、それが「本当の望み」とは気づかずに、他人の気持ちへの配慮や行きがかりからかえってそれとは異なった方を歩んでしまうということは結構あるように思います。私の場合、それでも問い続けてくれた、そして一緒に決断をしてくれた友人たちがいたおかげで、「本当の望み」にそった道を選べたのだと思っています。