2006年07月13日

私の「本当の望み」と生涯の選択

 私は大学の教育学部を卒業したあと、いろいろな事情があって教員になることを選ばずに、小さな印刷会社に15年間勤めていました。
 そのころ、ある集まりでその後同僚となる友人二人とよく一緒になりました。あるころからその二人から、教員になって学校で「宗教」や「倫理」を教えないかと逢うたびに誘われるようになりました。
 最初は、冗談かと思って真に受けませんでした。だって、その会社で、給料は安かったけど、社長に信頼されていたし、働く同僚からも慕われていたし、その会社が好きで一生懸命に働いていたからです。しかし、彼らは私が真に受けていないにもかかわらず、あいかわらず会うたびに誘い続けました。
 今から思えば、彼らは、私の本当の望みが教員になることであったということを知っていたのです。にもかかわらず、最初は私もその誘いを断り続けていたのですが、しつこく誘われているうちに、自分でも昔教員になることを望んでいたことを思い出し、すこしずつ転職することも考えるようになりました。でも、社長や同僚たちを裏切ることができないしと悩むようになりました。

 そこで、私は、その時に定期的に集まりを持っていた3組のクリスチャンの夫婦のグループに相談することにしました。私は、教員となって学校につとめるべきか、それともこのまま印刷会社に勤めるべきかをグループで決めようとしたのです。自分ひとりでは決められませんでした。
 彼らは二つの道の難点や利点をあげたりして自分のことのように考えてくれました。そして最終的に自分だったらどちらを選ぶかという結論を出しました。結果は6対1で教員になるべきだという答えでした。それに反対をしたひとりは実は私だったのです。
 彼らも、実は私の本当の望みが教員になるということを知っていたのです。そして私がつとめている印刷会社の社長や同僚たちをうらぎりたくないという気持ちでその道を選べないのだということを知っていました。

 私もついに決意して、あるとき社長に会社を辞めて、教員になりたいということを思い切って言うことにしたのです。その社長も最初は「そうか、人にはそれぞれの生きる道がある」といってそれを受け入れてくれたのですが、1週間後に「やめないでくれ」と強く慰留されました。こういうのに私は弱いのですね。「私はやめるのをやめた」と妻に漏らしたら、妻はメンバーのひとりに「やめるのやめたといっている」と電話をしました。すると彼はすぐにその社長に会いに行って「至をやめさせてほしい」と談判したのです。

 こんなこともあって、私は38歳の時今から22年ほど前に、転職をして教員になることができました。今から思うと、やはりこの道は自分の望んでいる道であったと思っています。ただ、この決断は、私ひとりではできなかったのです。
 本当はそれを望んでいるにもかかわらずに、それが「本当の望み」とは気づかずに、他人の気持ちへの配慮や行きがかりからかえってそれとは異なった方を歩んでしまうということは結構あるように思います。私の場合、それでも問い続けてくれた、そして一緒に決断をしてくれた友人たちがいたおかげで、「本当の望み」にそった道を選べたのだと思っています。
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2006年07月06日

プラチナのマリッジリング

 今年の3月に大腸カメラと胃カメラの撮影をした時に、「指輪をはずしてください」と言われて、30年間一度もはずしたことのないプラチナのマリッジリングをはずしたら、その後どこかになくしてしまいました。

 それで妻に相談したら、新しいのを作ったらといわれたので、結婚した時に作ったのと同じもっともシンプルな甲丸形のリングを作ってもらいました。
 32年前のものはたしか9,800円でしたが、今回作ったのはなんと80,000円くらいしました。何でもプラチナはとても高価になっているそうで、その原因は、車の排気ガスをおさえるための触媒として大量に使われているからなのだそうです。

 新しいリングが届いて、さっそく指にはめていたら、なんとカバンの底から古いものが出てきました。光沢もなく、ゆがんでしまっていて、新しいものに比べるとみすぼらしいものでしたが、何とも言えない愛着を感じて二つともはめることにしました。


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2006年07月03日

ある年の夏休みの頭痛と「老眼鏡」

 もう10年くらい前にこんなことがあったのを思い出しました。

 教員の仕事はやってもやってもきりがないものです。看護士の仕事や福祉の関係の仕事にも同じようなことが言えます。人を相手とする仕事に共通するこのような性質の仕事は「燃え尽き症候群」に陥りやすいのですが、教員の場合に救いがあるのは、夏休みなどの「休み」があることです。いつもちょうど長距離走のランナーがゴールに倒れ込むように「休み」に入ります。
 
 ところが、その時の私は「休み」に入ってから、頭痛に襲われました。鎮痛剤を服用しても治らないので、近くの病院に行き、CTスキャンなどをして脳の検査をしていただきました。
 担当の医師は、「これはですね。まもなく『老眼』が始まる兆候なのです。しばらくすると痛みは消えますよ」とことなげにいうのです。そういわれてみると、このごろ小さな文字がかすんで読みにくくなったなんて思っていました。
 ところが、それでもなかなか痛みは止まらなかったのですが、不思議なことに夏休みがおわって学期が始まると、ケロッと痛みは消えてしまいました。
 そして案の定「老眼」が始まったのです。40代の終わり頃の話しでした。

 ストレスのために、心や体の状態が左右されることって多いものですが、私の場合、ストレスから解放されたらとたんに頭痛が起こり、再びストレスの中に戻ったら頭痛が治まったというわけです。
 適度の緊張が頭痛を抑え込むということがあるのでしょうね。

 そういえば、ちょうどその前の春、学校の健康診断が行われた時、視力検査があって、私の視力はなんと1.2になったのです。それまで0.8くらいしかなかったのに、「わ、視力がよくなった!」と喜んだら、保健の先生が、にやっとされて「先生、それは必ずしもよい印ではないのですよ。老眼が始まる前に、視力は少し良くなるものなのです」といわれました。

 私が検眼をして、老眼鏡を使用するようになったのは、ちょうどその年の秋でした。

 英語の先生がこんなことを言っていました。彼女も『老眼鏡』のお世話になる年頃のようです。
 「英語では、Reading Glasses というだけなのに、日本語では「老眼鏡」というのは、なんかいやな表現よね」

 

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2006年06月30日

「ど・田舎」礼賛と至少年の好奇心

 よく生徒には「結婚するのだったら、田舎出身の人とするのがいいよ。それも『ど』のつく田舎がいい。」とすすめます。
 私の妻はまさに、その「ど」のつく田舎出身だからです。なにせ、川の上流から箸が流れてきたので、その上流に人が住んでいたことが分かるようなところなのです。そこに行くのが大変であればあるほど、その田舎の価値が上がると思っています。

 私の父の実家は伊豆の下田でした。下田の山の中といったらいいでしょう。「ど」のつく田舎ではなかったかもしれないけれど、小学校時代にはまだ伊豆急もなく、伊東からあるいは修善寺から東海バスで3時間くらいかけていったものです。特に修善寺からの天城越えはバスがすれ違えないような細い山道をうねうねと登っていって、対抗車が来ると大変でした。崖っぷちすれすれのところまで車を寄せてすれ違うのです。
 でもそこへ行く途中の楽しみがありました。バスガイドが伊豆に秘められたお話しをいくつもしてくれました。曽我の五郎十郎の話や、修善寺物語、源頼朝の蛭が小島の話、「伊豆の踊子」から、唐人お吉の話し、あるいは黒船の密航を企てた吉田松陰の話しなど、ガイドさんの歌つきの話題に心躍らせて聞き入っていたものです。

 私の小学生時代、夏休みや春休みなど、2週間くらいよく子供たちだけでいなかへいきました。田舎のおじさんのところには同世代のいとこたちがいて、遊び相手にも事欠かなかったことも幸いしていました。
 いっしょに山に登ったり、海に行ったり、川に泳ぎに行ったり、セミ取りに行ったり、花火を見に行ったり、温泉に入ったり…………。

 たしか小学5年生、6年生、あるいは中学生の夏、私はみずから志願して、おじさんの仕事の手伝い(つまり農林業体験)をしたことがあります。
 植林した杉や檜の木の伐採前に、下枝を切り落とす仕事、木の太さや高さを測る仕事、そして植林の手伝いをしたこともありました。あれから50年、そろそろ切り出してもいい頃なのですが、今は切り出す手間のほうが高くついてしまって、なかなか切り出せずに、そのままになっているそうです。
 背負子を背負って、薪となる枝を背負って山からおろしてきたこともあります。おじさんは3束くらい背負って降りてくるのですが、私は1束が精一杯でした。
 わさび沢にいってわさびを収穫したこともありました。蛭に取っつかれて血を吸われたこともありましたっけ。

 一つだけイヤだったのは「ぶよ」でした。こいつは始末が悪い。蚊よりも小さいのですが、夕方風のない時に屋外にいるとさされます。あわててたたきつぶしてももう遅い。さされると腫れてしまい、いつまでもかゆいのです。虫除けのスプレーなんてものはまだなかった時代でした。
 なぜか田舎の子はさされずに、都会の子だけさされるのも不思議でした。

 生み立ての新鮮な卵の味や、とりたてのキュウリ、トマト、トウモロコシの味も忘れられません。山の中だったけれど、海の幸も新鮮でした。鰯の刺身をご飯の上にのせて熱い湯をそそぎ、刺身茶漬けにして食べた味もよかった。

 こういう体験ができるのですね。だからもし子供ができたら子供を2〜3週間田舎にあずけて、山村体験や農業体験をさせることをすすめています。これは本当に貴重な体験でした。
 よくぞあんなことをみずから志願してやったものだと、至少年の好奇心に我ながら、感心してしまいます。
 
 田舎から帰るのが、かなしかった。夏の終わりの哀愁がこもっていました。バス停まで見送りに来てくれた祖母やいとこたちに、バスの後ろに乗り込んで見えなくなるまで手を振っていました。
 帰りの電車の中で食べた祖母の手作りのおむすびを食べながら、なぜか涙がでてきましたっけ。
 朝日新聞の日曜版の滝平次郎さんの切り絵に確かそんな情景を描いたものがありました。あれも切り抜いてどこかにしまってあるはずなので、見つけたらまた紹介しましょう。
 
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2006年06月18日

母の作ったカレーライス

 母の作った料理でもっともおいしかったものとして、コロッケの次に上がったのはやはりカレーライスでした。
 カレーライスを作る時、我が家にはみんなが食べるだけの量を一度に作れるお鍋がなく、二つのお鍋に分けて作られました。それで一つのお鍋ではカレーライス、もうひとつの少し小さなお鍋ではハヤシライスが作られました。材料は同じでルーだけ変えればよかったのです。
 すさまじい食欲の息子娘たちは、ひとりお皿三杯をおかわりしました。この三杯のおかわりをどの順でするかというのはみな決まっていました。
 妹と上の弟はその三回のお皿を「カレー。カレー、カレー」つまり3回ともカレーライスでした。これくらいカレーライスが好きだった。
 一番下の弟は、「カレー、ハヤシ、カレー」の順でした。
 そして私は、「ハヤシ、カレー、ハヤシ」でどちらかというとハヤシライスのほうが好きだったのです。

 こんなところにも、子供たちひとりひとりの個性が表れていて、我が家の食事はいつもにぎやかでおおさわぎで、しかも実によく食べる家でした。お米やさんからは「もうすこし代用食をとるように」といわれたくらいでした。「代用食」とはお米以外の、うどんとかそばとかパンのことをいいます。母はお米やさんには頭が上がらなかったのです。

 団塊の世代が少年少女だったころは、こんな光景はどこの家でも見られたのではないかと思われます。食事についてはたくさんのこのようなエピソードがあったに違いありません。

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母の作った料理でもっともおいしかったもの

 母は現在87歳。かなり物覚えが悪くなりまして、今したことも思い出せなくなっています。でもこれって、帰ってイヤなことも忘れてしまうので、ケンカ状態にあってもすぐに忘れてしまい、ニコニコとし出します。そういう母にとっては「今」を楽しむことがもっとも大切なことなのです。

 その母には3人の息子、ひとりの娘がおります。私はその一番上(つまり長男)で、一つおきの兄弟姉妹となります。いずれも団塊の世代ということになるでしょうか。
 私の高校時代、その4人の食欲はすさまじく、おかずによっては一升のご飯を炊いてもたりなくなるくらいでした。
 その息子娘たちが集まると、そのころ食べたものの話がよく出てきます。母は自分ではよく「料理が下手で申し訳なかった」といっていて、子供たちは異口同音に「そんなことはなかった。とてもおいしかったよ」というのですが、母はなかなかそれを受け入れようとはしません。

 先日、その息子娘たちが全員集まった時に、「母の作った料理の中でもっともおいしかったものは?」と聞いてみました。
 答えは一致しました。だれかが「手作りのコロッケ」といいだしたら、みんなそうだそうだといって、答えが一致しました。
 ゆでたジャガイモをすりつぶすことからはじまるコロッケはけっこう作るのに手間がかかるのですが、あげたてのコロッケほどおいしいものはありませんでした。お店で買ってくるものとはまったく違った味で、おいしさはどこで買ったものよりもおいしかったのです。

 「ほかには?」ときくと「カレーライス」「ハヤシライス」「オムレツ」「とろろいも」があがりました。
 「とろろいも」は父の大好物で、作るのも父でした。私たちはしばしばすりばちをおさえている手伝いをさせられたものです。とろろのときは子供たちが次々とおかわりをするので、母は自分の食べるひまがなかったくらいでした。
 これらがおかずの時は母も一升のご飯を炊いたものです。

 
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2006年06月16日

至少年の好奇心 その4 黄繊化の研究

 至少年が中学3年か高校1年の時の生物部での研究テーマは「黄繊化の研究」であった。

 「黄繊化」とは、日光を当てずに暗所で植物を育てると、もやしのように黄色でひょろ長く育つことである。そのまま暗所で育て続けるとやがて枯れてしまうのであるが、あるところからこれを日光のもとに移して育てると、緑になっていく。
 この「黄繊化」という言葉で今 google を検索してみても該当するものがひっかからなかった。

 あのときはたしか、ソラマメを暗所で育てた。
 普通の日光の当たるところで育てたものと、暗所で育てたものとの成長の具合を比較するところから、研究が始まった。

 緑の葉っぱを溶剤にとかし、クロマトグラフィーという方法で分析すると葉緑素はいくつかの色素群に別れる。確か、葉緑素α、葉緑素β、カロチン、アントシアンだったか。つまり葉っぱの葉緑素はこのような色素群が混じり合って構成されているのである。
 このクロマトグラフィーを「黄繊化」したソラマメの葉っぱでたしかめてみた。さらに「黄繊化」したものを日光のもとにおいて緑になっていく過程の葉っぱの葉緑素について調べてみたのである。

 どんな結果が出たかは実は覚えていない。この実験はうまくいかなかったかもしれない。詰めが甘い至少年はあと一歩のところで、はかばかしい結果が出ないままに研究を打ち切ってしまったようである。

 でも、この研究のおもしろさは「黄繊化」をクロマトグラフィーで調べたこと、さらに「黄繊化」から緑になっていく過程をクロマトグラフィーで調べようとしたことにあった。
 生物部の顧問であった「チョンス」と呼ばれていた生物の先生は、この現象を面白がって写真に撮っていたことは思い出すが、彼に「こうしたらもっと面白くなる」という指導を受けた覚えはない。
 このとき、至少年をおだてあげ、適切なアドバイスを与えて、その気にさせて「詰め」をさせていたら、けっこうよい研究になったと思うのである。

 私の学校の同僚の生物の先生は、実は生物部の後輩であるが、かれだったらきっと至少年をその気にさせることができたであろうと思ったりするのである。
 あるいは、今の私が至少年を指導していたら、きっと至少年を生物学者に育て上げることができたかもしれないのである。
 至少年の好奇心は、実はよい指導者に巡り会えなかった不運によって、そのまま萎んでしまったのであろうか。
 このブログを読んでおられる方は、きっと、至少年の好奇心は今もなお健在であることに気づかれるかもしれない。対象は植物に限らないでさまざまなところで、散発的ではあるが、根付いていて、昔にかわらず旺盛であることに気づかれるであろう。

 ある生徒から、こう言われた。
 「先生はいつまでも少年のような夢と好奇心を持ち続けている」と。
 とても嬉しかった覚えがある。

 

 
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2006年06月15日

至少年の好奇心 その3 やぶからしの研究

 至少年は、そのころ田浦にあったE学園中学校に進学しました。追浜南町から45分くらい歩いて通っていました。

 そういえば、そのころ田浦は「湘南田浦」といっていました。追浜には湘南病院という病院も駅の上にありました。湘南地方というと、今では相模湾沿い藤沢や茅ヶ崎、平塚ということになっているのですが、あのころは横須賀も湘南地方でした。

 至少年は、中学校では生物部に入りました。その時に興味を持ったのが植物だったのです。昆虫や小動物ではなかったので、ひとりだけで植物班を造っていました。そこで始めて研究したものをまとめて発表するというチャンスが得られたのです。
 中学1年の時、研究課題をえらび、調べてまとめて、生物部誌「SNOCH」に発表しました。


やぶからし そのテーマは「やぶからしの研究」というものでした。この花はブドウ科の花で、地下茎で伸び、藪を枯らしてしまうほど繁殖力の豊かな雑草です。別名「びんぼうかずら」あまり好かれている花ではないのです。こういう花に興味を持つところが至少年なのです。
 7〜9月頃に花をつけます。この花の付き方に特徴があります。朝早くに花を開き、昼には花弁もおしべも落として朱色(橙色)の花盤だけが残るので、濃緑色の葉と対比して、よく目立ちます。花盤には蜜があり、蝶がよく集まってきます。

 なにを調べたかというと、まずこの花によくやってくるムシでした。蝶やはちやかなぶんなどです。花弁には蜜があるようです。1時間おきにどのようなムシが来るか調べました。
 それから花の構造です。花は最初は橙色なのですが、そのうちにピンクになります。花のつき方が幾何学的なのです。蔓や5枚の葉も付き方に法則性があるのではないかと調べました。
 
 今から思うと「花の蜜」も科学的に調べたらよかったかもしれません。この花の蜜はかなり高級品なのだそうです。

 一応部誌に発表したのですが、これは誰からも注目されませんでした。今からみてもそうたいした研究ではなかったようです。
 ただあまり好かれていない雑草に興味を持って調べるあたりは、至少年らしいということになるでしょうか。
 
 
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至少年の好奇心 その2 追浜の町の商店分布

 私の追浜時代のことです。昭和30年代前半です。
 中古の自転車を買ってもらって、それで追浜の町中を乗り回していました。
 横須賀の町は、あちこちにトンネルがありました。そのトンネルを越えていくとまったく違った町に出るのです。それがとても面白かった。
 そのうちにただ乗り回しているだけでは満足せずに、あることを調べだして地図上に記入していくことにしました。このあたりが至少年の不思議な好奇心の所産でした。

 なにを調べたかというと、商店なのです。このころいろいろなお店がありました。傘屋、下駄屋、お茶屋、クリーニング店、さかな屋、八百屋、果物屋、お菓子屋、銭湯、貸本屋……………。単品の商品を扱う商店が結構あったのです。
 あのころはそれでも商店がやっていけたのでしょう。ちょっとした路地にまでお店を拡げていました。
 それで、そのうちに追浜南町にはどのお店が何軒、鷹取町には何件ということを統計に取り出したりしました。そこに住む人の人口と対比して1軒のお店あたりの人口を割り出したりしたのです。

 いまから考えてみると、これって結構面白いところに目をつけています。ちょっとしたマーケットリサーチだったわけです。分野でいうと、経済学や社会学ということになるでしょうか。

 その後調べたことをどうしたか、記憶にはないのです。別に論文を書いて発表したりしたわけではなく、ただひたすら自己満足に終始していたようです。
 だから、別に研究をまとめたり、発表したりすることなく、そのうちに興味を失って、そのままになってしまったのでしょう。
 これも、だれか大人がみて、ちょっとアドバイスをしてやって、発表する場を与えてやったら、至少年は得意になって、熱中してそれなりのものをできたことでしょう。
 残念ながら、そういう大人はいなかった。
 私の父はけっこうこの至少年の好奇心に注目し、一緒になって楽しみにしていたようですが、仕事が忙しくてそんなに相手をしてくれませんでした。
 今大人になった私が、至少年のそばにいたならば、彼の好奇心を育て上げたことでしょう。おだてて、誉めて、夢中にさせて、得意になって発表させて。めっぽうおだてには弱かった少年でしたから。今でもそうですが……………。
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至少年の好奇心 その1 京浜急行の電車とポイント

 今から45年くらい前、至少年は好奇心の旺盛なちょっと不思議な少年でした。教える立場になって考えてみると、こういう少年こそ教えがいのある生徒だったと思うのです。
 あのときに、上手に指導する先生に出会っていたら、あるいは発表する場を与えてちょっとおだててはりきらせていたら、至少年は立派な科学者か技術者になっていたかもしれません。そうおもうとちょっともったいなかった………そういう少年でした。
 

ポイント で、どんなことに興味を持っていたか、それをいくつか紹介しましょう。
 今から思うと、フィールドワークのとても好きな少年でした。いろいろなことを調べて楽しんでいたのです。

 小学校の5,6年生の時、毎日のように、黄金町にある山手英学院という中学受験の予備校に通っていました。もうそのころから受験競争が激しかったのです。何せ「団塊の世代」、ベビーブームに生まれ育った世代です。
 そのときその予備校で教えていたのは香取草之助という先生が専任講師で、この先生の算数や理科の授業はとても面白かったのを記憶しています。
 で、この先生をインターネットで検索してみると、現在は東海大学の副学長で「授業を変えれば大学は変わる」などの著書でけっこう有名な人になっていました。

 その予備校に通うために、追浜から日ノ出町まで京浜急行に乗っていました。今は「京浜」という名前がイメージが悪いということらしく「京急」という会社名になってしまいましたが。
 その京浜急行の電車には、100型、200型、300型、400型、500型、600型というのがあって、それぞれ座席はいくつあり、定員は何人で、つり革はいくつあってとかいうことを克明に調べていました。「京浜急行の研究」と題してノートに記していたのです。

 そのうちに興味を持ちだしたのは、線路の切り替えを行うポイントでした。どこの駅にはどういうポイントがあるということを調べだしたのです。いつも電車の一番前にたち、くいいるように線路を眺めていました。
 中でも金沢文庫という駅には、電車基地があって、ポイントもいろいろなものがあり、そこを通るのを胸ときめかせながら楽しみにしていたものです。駅に降りてプラットホームの先に行って、ポイントが切り替わるのを今か今かと待っていたものです。

 何でこんなことに興味を持ったのか、今から考えてもとても不思議な感じがします。
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2006年06月03日

祖父土屋修の3冊の著作

 先日、私の母方の宮城家・青地家家系図を紹介したが、今度は父方の祖父を紹介したいと思う。なかなかユニークな生き方をした人だったようである。


祖父著作 実は、祖父土屋修には著書がある。そこで国立国会図書館で蔵書検索をしてみたら、なんと3冊の本が出てきたのである。
 3冊ともに、私の家には伝わっていて、手元にあるが、国会図書館に所蔵されているとは、さすが国立図書館だけあると、いたく感心してしまった。

 この著書を読んでみると分かるのであるが、祖父は「日本は神の国である」という思想の持ち主であり、この3冊の著書はいずれもそのような立場から書かれている。
 ただし、土屋家では祖母がとても偉大であって数々の言い伝えがあるが、婿養子となったこのかわりものの土屋修についてはほとんど伝わっていないのである。祖父と祖母はあまり仲がよくはなく、ほぼ別居状態が続いていたようである。


神魂 土屋修の書いた本のうち「神魂」が代表作であろう。この書は昭和15年に「吾が御魂 日本学提要」というタイトルで自費出版したものを改めて出版したものである。
 ここで書かれている「神」はキリスト教の神ではない。祖父は皇學館大學を出て、神官の資格を有していたらしいので、ここでいう「神は」「日本は神国である」の「神」である。
 いつかはゆっくりと読んで、解説をしなければならないと思っているが、私はまだこの本全部を読んではいない。

 花は桜木、人は武士、とか、すごいほどの名句である。如何にもわれらの武士、すなわち無敵皇軍は朝日に匂ふ山桜花である。此の無敵皇軍あるかぎり、吾等は枕が高く憩へる。


 こういう書き出しで始まっている。この書き出しでもわかるように、「日本が神国である」ということを、古事記や日本書紀の文章をあげながら説明している。


 2冊目の「大政翼賛阿保陀羅聖経」は、今手元にないのだが、たしか和歌で現実を風刺しているような文であった。

 3冊目は「天祖御記」。これは「昭和の神話」という副題が付いていて、日本の神話をやさしく説明したものである。この書の前書きには
 
明治天皇御製
 目に見えぬ神の心にかよふこそ
      人の心のまことなりけれ
 くもりなき朝日の旗に天照らす
      神のみいづを仰げ国民

という歌が紹介されている。

 以前、私の祖父の著作であるといって、学校の社会科の先生にこの本を見せたら、「それでわかった。土屋先生の思いこみの激しさは祖父譲りなんだ」といわれてしまった。





 




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2006年05月23日

「本の雑誌」誌に投稿した記事が出てきた

 前の記事の「石垣りん」の切り抜きを探していたら、こんな切り抜きが出てきた。「本の雑誌」誌への投稿記事である。
 これはたしか、読者カードに書いたものであるが、断りもなく、「本の雑誌」誌に掲載されてしまったものである。

「われわれは常に激しくうれいておるのだ」と題された投稿記事の一つである。

大古本センターをつくれ

★通信販売中心の「大古本センター」というのができないかなー。とにかく古本屋はどこへ行っても狭い店に、本が倒れんばかりにギッシリ。探す気にもならない。それに持ち込んでも二束三文でしか買ってくれない。だったら、ちょっと郊外のボーリング場のあとの建物でも買って、コンピューターを使って在庫管理して、そして郵送料を含めても新刊買うより少し安いくらいにして、古本を扱ったらうけると思うんだがなー。目録なんか完璧にして、本はとにかく安ければ体裁はいいのです。

この記事の私の肩書きが我ながらすごい。
製本工、写植工、印刷工、製版工、編集見習い、要するに一冊の本ができちゃうのだ。33歳。横浜市鶴見区……………。

いまから27年前のことである。(年齢がばれてしまった……。)
結局この記事には何の反応もなかったけれど、インターネットが普及して、ここで書いた願いは実は実現したと言ってもいいのかもしれない。
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2006年04月06日

「世界の現実を前にして」という講演で示された「優先順位」の原則について

 CLCの世界大会 Rome’79 において、「世界の現実を前にして」というタイトルでイエズス会の神学者キャンベル・ジョンストン神父の講演がありました。これがとても格調の高いしかも分かりやすいものでした。
 彼はこの講演を次のようなジョークで始めました。
「私のいまの気持ちはヌーディストキャンプのモスキトウみたいな気分です。どこからも刺すことができるので、そこを刺したらいいのか分からない」
 このジョークに笑いの波が3つありました。この講演は英語で行われたので、まず最初の笑いの波は英語のよく分かる人たちのものでした。次の波は同時通訳で聞いていたスペイン語やフランス語の人たちでした。そしてしばらく間をおいて第3の笑いの波が起こったのは「今なにを言ったのか?」と周りの人に聞いてこのジョークを知った人の笑いでした。私の笑いはこの「第3の波」だったのはいうまでもないのですが……………。
 それにしてもさすがに英語圏のユーモアだと感心しながら、この講演に聞き耳を立てたものです。

 さて彼は、「進歩と発展」を計る指標には4つあると述べています。
 第一に、GNPという指標。この使用によるもっとも進歩した社会体制は「産業社会」ですね。
 第二に、「どれだけ豊かな人たちが貧しい人たちに分け与えているのか」という指標、ここからは「福祉社会」が生まれます。
 第三に、「社会の底辺にいる人をどれだけ社会体制の中に組み込んでいるか」という指標。この指標によるもっとも進歩した社会体制は「管理社会」というものでしょう。
 第四に、「社会の底辺にいる人たちがどれだけ自分の存在する場の現実を意識しているのか」という指標だといいます。この「意識」というのを英語では「conscientization」と表現していました。この言葉はもともとは中南米の教育学者パウロ・フレーレの概念で、「行動に結びつく意識化」とか訳されています。
 もちろんこの四番目の指標による進歩・発展をこそが、私たちが求めているもっとも望ましいものであると結論づけていました。

 さらにすごい!と思ったのは「三つの優先順位」の原則についてです。
 第一に、貧しい人の欲求は富んでいる人の欲望よりも優先しなければならない
 第二は、支配されている人の自由は、権力を持っているひとたちの自由よりも尊重されなければならない
 第三は、社会の底辺にある人の社会参加は、その人たちを排除した秩序を維持することよりも重視されなければならない。

 この文を書いていて、この「優先順位」はあれから三〇年近くたった現在でも、まったくそのままで当てはまる原則だと思い、あらためてそのみごとさに感服するのです。


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1979年のヨハネ・パウロ2世との教皇謁見

 私は1979年にローマで開かれたCLC(Christian Life Community)世界大会 Rome'79 に日本の代表として参加した。世界の45カ国から100名以上の参加者による国際会議であった。
 このときのハイライトはなんといっても就任間もないときの前教皇ヨハネ・パウロ2世との謁見であった。

 大会の何日目かに、今日は「教皇謁見」があるというアナウンスがあったのだが、私はその「謁見」という言葉が分からずにピクニックにでも行くのかなと思っていた。それにしてはみな正装していたので、へんだなと思ってはいたのだが、どこに行くんだと人に聞く勇気はなかった。
 バスは田舎のほうの山の中に入っていったので、ますますピクニックだとおもってたのである。あるお城みたいなところにつくと、そこにはたくさんの人たちがいた。人混みをかき分けて私たちは城の中のある部屋に通された。私はまだこの時点でも「なんだ、古城の見学か。それにしてもたくさん人がいるな」くらいにしか思っていなかった。
 外の人たちは「ビバ、パパ!」と叫んでいて始めて「教皇謁見」であることを知ったのである。そこはカステル・ガンドルフォという教皇の別荘であったのだ。


pope 1時間くらい待たされて、白いスルタンを着た教皇が現れた。「ほんとうだ! 教皇ヨハネパウロ2世だ。」かれは一同の前で、短いメッセージを読み上げられた。
 それが終わると聞いていた人はみなわれさきにと教皇の前に駈けより、握手を求めだした。私は例のごとくどうしたらいいのか判らずに出遅れてしまったが、それでも教皇と握手をすることができたのである。
 教皇の手は私の手より冷たかったが、でも大きくて柔らかだった。
「日本から着ました。ぜひ日本にも着てください」と私は英語でいったのだが、「Sometime in the near future」と応えられたと記憶しているのだが、さだかではない。

 実際にその何年後かに教皇ヨハネ・パウロ2世は日本に来られるのである。
 幸いにもあとで、そのときの私が教皇と握手している写真が届けられた。
 私はその写真をそれほどありがたいものとは思っていなくてほとんど誰にもみせなかったのだが、なにかのきっかけでその写真を教会の人たちに見せるととてもうらやましがられ、それで始めて教皇謁見の価値を知ることになる。
 そして教皇がなくなられたときに、その写真をもう一度とりだして、みなにみせびらかしたものである。
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2006年01月23日

ささやかな「雪かき」体験記

 朝、雨戸を開けて雪が積もっていたときに、「雪だ!」とイヌのように喜び勇むのと「雪か、いやだな」と思うのとで「若さ」の差がでてくるのだと、今日の日曜日のミサの説教で教会の神父さんが話していました。
 私は、まだ前者なので、かなり精神年齢は若いと自負していました。私が雪を見てうれしがるのにはわけがあります。

 私の家は山の上にあり、朝、通勤で駅に行くときには、急な坂を駆け下りていきます。雪が積もるとこの坂は恐いのです。しかも日当たりが悪いので、この坂の雪はいつまでも残り、凍結して滑りやすくなります。
 日曜日の教会から帰ると、さっそくスコップを持って、この坂まで行き、雪かきをすることにしました。そうしないと明日朝、駆け下りることができなくなり、電車に間に合わなくなってしまうからです。
 自分の家の前は平らなので、そちらの雪かきよりも、この坂の雪かきを先にしました。
 すでに凍結していて、アイスバーン状態で、坂を下りる人たちはみな歩幅を小さくしておそるおそる降りていきます。

 そこで雪かきをしていると、坂を下りてくる人たちから、声をかけられます。
「ありがとうございます。これで安心して坂を下ることができます」
「大変ですね。今雪かきをしておくと、明日凍結しないですみますね」
「すみません。お手伝いをしないで……………。」
 坂の近くの人も家から出てきて、雪かきを始めます。普段ほとんど挨拶もしない人たちですが、この雪かきをきっかけに知り合いになったりします。

 このふれあいが楽しみで、この雪かきがやめられないのです。そして朝雪が積もっていると、むしょうに「雪かき」をしたくなるのです。
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2006年01月18日

ミロク経理のオフコンを売り歩いていたころ その4

 私が1983年から1984年頃に飛び込みセールスをしていたときに、こういう会社がありました。
 確か品川区の会社でした。
 いつものように品川でフェアを企画し、それに向けて集客をすべく、会社訪問をしていたときです。

 まず受付によって、事務合理化の提案をもって伺った旨を告げ、担当者に会わせてくれるように、お願いしました。
「アポイントはありますか?」と聞かれ、「ありません」と言ったにもかかわらず、受付嬢は担当者につないでくれました。
 そして意外にも「専務がお会いいたします」といって、応接室に通されました。すぐにお茶とお菓子をもった女性が現れ、「今しばらくお待ちください」といわれました。

 普通は受付ですげなくことわられるのに、これは何かの間違いではないかと思って、それを言おうとしたら、専務氏が現れました。
 さっそく名刺を出して、自己紹介と来社の目的を話そうとしたら、「驚かれたでしょう。これはうちの会社の方針なのです。私どもの会社にもあなたのようなセールスマンがたくさんおります。彼らも毎日たくさんの会社を訪問して、受付で冷たく扱われていることを体験しています。そういうときのセールスマンの気持ちがいたいほどわかりますから、せめてうちの会社に飛び込んできたセールスマンの方にはあたたかくお迎えしようではないかということにしているのです。あなたは運がいい、ちょうど3時のお茶の時間に来られたからお菓子まで出るのですよ。さあ、遠慮せずにどうぞお召し上がりください。」
 遠慮なく、お茶とお菓子を専務氏と一緒にいただいたあと、
「では、あなたが販売しているものの紹介をしてくださいな。」
といわれました。
 わたしは、あっけにとられて、ものも言えない状態であったのですが、あわてて気を取り直して、チラシとパンフをカバンから取り出して、説明を始めました。

 ひととおり、説明が終わったころ、その専務氏は
「残念ながら、あなたの説明では、その商品に対する興味を持てませんでした。あなたもセールスマンだからおわかりでしょうが、まず顧客のニーズをつかむことから始めなければなりません。どういう仕事をしていて、現状でどういう問題があるのかを、コンピューターの説明を始める前に、聞き出すことが先決なのですね。」
 痛いところをつかれました。それはセールスマンとしては「基本のキ」ですから。でもあまりの厚遇ぶりにすっかり取り乱していて、その「基本」を忘れてしまったのです。
 飛び込んだ先の会社から、お茶とお菓子の接待を受けた上に、セールスの基本を逆に教わってしまったわけです。
 別れ際に「またこのあたりを通りかかることがありましたら、ぜひお寄りください。お菓子はその時間でないと出ませんが、お茶の一つもさし上げましょう。」とまで言われました。

 こういう会社は後にも先にも、ここ1社だけでした。あの会社は今どうなっているのでしょうか? 
 今、私はまったく別の分野で仕事をしていますが、あれから、少なくとも、私の職場に飛び込んできたセールスマンが来たら、受付でことわることをせずに、できるだけ時間を作って会うことにしています。お茶やお菓子を出すところまではいきませんが……………。

 
 



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2006年01月17日

ミロク経理のオフコンを売り歩いていたころ その3

 今、私の手元にあのころ、訪問した会社のリストが残っている。
 そのなかに、こんな会社があった。パイプとその継ぎ手を販売している小さな会社であった。
 私が訪問したとき、社長さんだけが会社にいて、ちょうど新聞を読んでいるところだった。その新聞にはフェアのチラシが折り込まれていた。
 「君の販売しているオフコンはこれかね?」とそのチラシを見せてくれたのである。
 「それです。それです。そのフェアの案内に伺いました。」とさっそくパンフレットを取り出し、説明を始めようとしたのだが、セールス研修センターの所長にいわれたことを思いだした。
 「オフコンの説明をする前に、会社の仕事の中身を聞き出せ! 相手に現在の仕事の問題点や悩みをかたらせろ!」
 「御社が扱っておられる商品はどのようなものですか? 今どのような問題をもっていますか?……………。」
 その社長は、かなり話し好きで、次々に語り出した。ひととおり語り終えたころ、わたしはやっと取り出したパンフを見せて、オフコンの紹介をはじめた。
 結局、次の日に、オフコンを持ち込んで、デモをする約束を取り付け、その日はいったん帰ることにした。

 次の日、研修センターの所長氏と一緒にオフコンを持ち込み、デモをした。説明もうまくいき、現状調査にはいる。社長も気に入ってくれて、提案書を書くこととなった。
 その何日後かに作成した提案書をもっていって説明したら、「わかった、明日契約をするから契約書を作ってきなさい」といわれた。

 こんなにトントン拍子にいくのは珍しい。ちょっと薄気味悪かったくらいである。

 そして次の日、契約書をもって朝一番でいさんで訪問した。4回目である。
 しかし、「おはようございます」と挨拶をするまもなく、その社長はいきなり謝りだした。
 「ごめん、すまん、あれはなかったことにしてくれ。じつはお得意先にコンピューターの販売会社があって、オフコンを入れると相談したら、ウチのを買うようにいわれ、ことわれなかったんだ。」
 目の前が真っ暗になった。とらえたえさを食べようとしたときに横から来たハイエナに横取りされた感じである。
「チクショー」という声がでかかったが、それをぐっと飲み込んだら「お詫びの印にこれを受け取ってくれ」と当時は高級なウィスキーであったサントリーオールドを渡され、すごすごと退散するほかなかった。
 契約する前の日にひっくりかえったのである。

「それでオールドをもらってすごすごとひきあげてきたのか!」と所長に怒られたが、所長はすぐに冷静さを取り戻して言った。
「しょうがない、そういうこともあるんだ。提案書をもっていったときに、契約書を突きつけるべきだったな。得意先に相談させるひまを与えるべきではなかった。」といって、その日の反省会で、皆の前でその失敗の教訓を説明してくれた。

 「彼(実は私のこと)は、コンピューターの知識も豊富だし、説明もうまい。しかしセールスマンとして決定的に足りないものが3つある。それは『ずうずうしさ』『押しの強さ』『ひとなつこさ・なれなれしさ』である。」
 所長は、センターの皆の前でそういうふうにきっぱりと言ってくれた。セールスマンとしてやっていける自信を失わせた出来事であった。

 今でも『ずうずうしさ』『押しの強さ』『ひとなつこさ・なれなれしさ』は私にはない。もしそれが私にあったら、どんなにかいいだろうと思っている。

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2006年01月13日

ミロク経理のオフコンを売り歩いていたころ その2

「ミロク経理」の代理店の資格を取って、セールスの仕事に入ったのは1983年のことである。

 最初は晴海のビジネスホテルでの3泊4日の研修からはじまりました。コンピューターの基礎知識から、飛び込みセールスのしかたまで懇切丁寧に教えてくれた。

 そして、そのあとSISセンターというところに通って、同じようにオフコンのセールスを始めようとしていた15人くらいの若者たちと実地研修に入った。地域を決めてフェア(展示会)を計画し、そこに顧客を集めるべく、その地域にある中小企業に飛び込んでいく。実際に飛び込んでいく時のトークについての訓練が何度も行われ、商品のデモの場面や契約直前の場面などのロールプレイがおこなわれました。
 最初この企画をしたのは、墨田区で、私には亀戸のあたりが割り当てられた。

 最初の日の朝、セールス研修センターの所長がこんなことを言っていたのが記憶に残っている。
「飛び込みセールスの最初の日に、今日飛び込んだ客の中に誰かが成約までいく顧客が必ずいる。初めての日の緊張と初々しさはお客さんにとってはたまらない魅力なのだから。今までの経験上いえることである。だから、希望を持ってがんばるように。
 今までの経験からいうと、100飛び込んだ中から一つの割合で、見込み客が生まれる。300飛び込んだ中から1社の契約が取れる。このくらいの確率なのである。今日30飛び込んでもおそらく9割以上はけんもほろろだろう。それにめげてはこの仕事は続かない。
 飛び込むときは『ダメもと』の精神でいけ! だめでもともとなのだ。だから、センターに帰ってくるときは、ダメだったと落ち込んで帰ってくるな。自分をよくやったじゃないかと誉めながら帰ってこい。」

 そして、所長がいったことは本当だった。初日に飛び込んだ会社から契約まで行ったところが2社も出てきたのだった。
 センターに帰ってきたときに、センターの職員はとてもあたたかく迎えてくれた。すぐにコーヒーを入れてもってきてくれた。
 帰ってきた仲間たちはめいめいその日に飛び込んだ会社のことを興奮して語るのを「そうかそうか」と言って聞いてくれた。
 あの暖かい雰囲気をたまらないなつかしさとともに昨日のことのように思い出すことができる。
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2006年01月12日

ミロク経理のオフコンを売り歩いていたころ その1

 私は学校に勤める前に、15年間小さな印刷会社に勤めていました。
この会社にいたときの最後の2年間、会社から派遣されて、コンピューターのセールスマンをしていたのです。ちょうどOA革命と騒がれていたころでした。

 売っていたのは、「ミロク経理」という会社の小型オフィスコンピューターでいた。パソコンはNECのPC9800が出かかっていたころで、まだ業務には使えなかった時代です。小型オフコンといってもまだ1台250万くらいしていた時代でした。

 この「ミロク経理」という会社がとてもユニークなベンチャー企業で、そこが販売していた「スーパー7」というオフコンも実にユニークなコンピューターでした。この会社はもともとは複写伝票を使った経理システムを販売していた会社なのですが、それがオフコンの開発を手がけたのです。発想がコンピューター会社のそれではないのです。
 「スーパー7」というコンピューターは、キーボードが全文字配列で、それをペンでタッチして入力し、さらに10ページくらいのブックにボタンがあって、それで経理の「勘定科目」や販売システムの得意先などをそのボタンに当てはめて登録しておくと、ワンタッチで得意先や勘定科目が入力されるというものでした。こういう発想のコンピューターは電気会社は造らないだろうなと思わせるしろものでした。さながらキーボードのキーだらけのお化けみたいなコンピューターでした。
 これが一時は小型オフコンでNECや富士通をしのぐほどの売り上げをもっていました。誰にでも使えるオフコンというふれこみだったのです。


ミロク 最初は、私のつとめていた印刷会社の発送業務をこの「スーパー7」で処理することになって、それが思いの外うまくいったときに、社長からこのオフコンを売ってみようということで、代理店の資格を取って売りに歩くことになったものです。

 その後「ミロク経理」は二つのディスプレイを持つオフコンも開発していたりします。押入の奥を探したら、「スーパー7」のカタログは見つけることはできませんでしたが、二つのディスプレイを持つオフコンのちらしは発見できました。
 ただ残念なことに「ミロク経理」は私が教員になった翌年の1986年6月に不渡りを出して倒産してしまいました。

 さて、私のセールスマン体験については、また「続き」を書きたいと思います。 
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