このテーマと同趣旨の内容をラジオ「心のともしび」の原稿として書いたことがあるのだが、この内容はラジオ「心のともしび」にはふさわしくないとされてボツとなったといういきさつがある。
私にはこの内容はキリスト教会でもあえて触れられていない内容に思えるのだが、なぜだろうか? 私には謎めいている。
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1995年度後期神学講座 レポート
科目 宗教史「原始教会の形成と発展」 講師 百瀬文晃師
ユダヤ独立戦争と原始教会
1.ユダヤ戦争に新約聖書はなぜ「沈黙」しているのか
新約聖書のなかで最初に書かれたものはパウロによる「テサロニケ人への第一の手紙」であり、その時期は50年頃であるとされている。そして最後はヨハネ文書で、その時期は100年頃であるという。
この時期のエルサレムは2度にわたるユダヤ独立戦争にあい、エルサレムは陥落し、廃墟と化した。多くのユダヤ人たちはこの戦争で殺され、奴隷となり、そして離散した。
しかし、新約聖書はこの戦争についての記述が全くない。それはいったいなぜなのか、この戦争に対してキリスト教徒(まだこの時はキリスト教徒ではなく「ナザレ派のユダヤ教徒」)はどのような態度をとったのか、そしてこの戦争が原始教会の形成と発展にどのような影響を与えたのか、このテーマを考えることは「戦争と平和」にたいするキリスト教徒の態度を考えるためにも、そして「原始教会の形成」と福音書の内容を考えるためにも重要な示唆を与えるのではないかと思う。
エルサレム陥落と原始教会
50年頃にエルサレムで開かれた使徒会議は、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒対立を示した。律法の遵守を異邦人にも求めようとするユダヤ人キリスト教徒と、割礼や律法からの自由を標榜するパウロやバルナバらの異邦人キリスト教徒との対立は、ペトロの調停で妥協点が見出され、ここでは決定的な分裂はもたらされなかった。
しかし、エルサレムを拠点としていたユダヤ人キリスト教徒たちは高まるユダヤ独立運動に否応なく巻き込まれ、その求心力は急速に衰えていく。エルサレム教団のリーダーだった「主の兄弟」ヤコブはユダヤ的狂信の犠牲となって殉教し、そして第一次ユダヤ戦争でエルサレムが占領されるとともにエルサレムのユダヤ人教会も解体を余儀なくされる。 教会の中心はシリアのアンティオキアの異邦人キリスト教徒の教会へと移行していく。パウロは地中海沿岸のディアスポラのユダヤ人や異邦人たちを対象とした宣教に力を注ぐ。
彼の信仰は全く民族意識にとらわれずにキリストの福音の純粋な内的信仰にのみ依拠した世界主義的な脱ユダヤ人のキリスト教へと脱皮していく。
3.ユダヤ人キリスト教徒の態度
第一次ユダヤ独立戦争において、ユダヤ人キリスト教徒はどのような態度をとったのであろうか。
4世紀に書かれたエウゼビオスの「教会史」ならびに5世紀のエピファニオスの「異端反論」によると、エルサレム教団は「戦いに先立って」ヨルダン川の東にあるペラという町に脱出し、エルサレムの陥落は「すべての」キリスト教徒が立ち去った後におこった、とされている。つまり、戦いには加わらなかったというのである。
ハンス・キュンクもその著「教会論」のおいてそのような立場をとる。「パレスチナのキリスト教徒は、ローマに対する反乱には参加しなかった。そのため民族の裏切り者とみなされ、迫害されたので、彼らはヨルダン川の東の地域に逃れ、シリアとアラビアの境に当たる地方にキリスト教信仰を広めることになった」(「教会論 上」石脇・里野訳 新教出版社 P178)ただキュンクによればペラへ逃れたのは戦いを避けたのではなく、迫害を避けたからということになる。
4.マタイ福音の立場
「祖国のために戦わずに、祖国から逃げ出した」ということの非難を一身に受けてそれに反論をしているのはマタイである。マタイは廃墟と化したエルサレムで武器を取って戦わなかったことがイエスの教えに忠実であることを示そうとした。
マタイの福音書の24章16節に「荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのをみたならば、そのときユダヤにいる人は山に逃げよ」というイエスの言葉がある。その「主の戒めをよく守って、キリスト教徒は嵐の最初の遠鳴を聴いてヨルダン川の向こう岸のペラに逃げてしまった」(「教会史」ロルツ著 P51)という。
そういわれてみると、マタイ福音書には「平和」と「迫害」に関する記述が多い。
あのマタイの「山上の垂訓」はルカの平地の説教との間に際だった違いがある。ルカが「貧しい人は幸い」といっているのに対して、マタイは「心の貧しい人」といい、「飢える人は幸い」というルカに対し、マタイは「義に飢え渇く人」という。マタイの方が精神的な「貧しさ」や「飢え」を問題にする。さらに、マタイには「平和をもたらすものは幸い」「迫害を受けるものは幸い」というルカにない句がある。
また、「汝の敵を愛し、自分を迫害するもののために祈りなさい」(5章44節)や「剣をさやに納めなさい。剣をとるものは皆剣で滅びる」(26章52節)というようなイエスの言葉が目立つ。
これらのマタイの記述は、ユダヤ教徒からの批判にイエスの言葉に忠実に生きたということをもって応えようとしているように思える。マタイの平和主義はそのようなユダヤ教徒の批判に対してユダヤ人キリスト教徒の精いっぱいの反論であるだろう。
5.ペラ移動説への疑問
このユダヤ人キリスト教徒の「ペラ移動説」には疑問も多い。「キリスト教史1」(半田元男著 山川出版社)によれば、「これは何とも奇妙な話し」になる。
第一にユダヤ人が戦いへの激しい決意に燃えていたエルサレムから、ローマ軍の厚い包囲網を突破して脱出することの困難さをあげている。第二になぜペラという土地を選んだのか、この事情も理解できないという。ペラにはエルサレムから脱出したキリスト教徒よりもガリラヤから避難してきたキリスト教徒がいたのではないかと推測している。
それでは、エルサレム教団はいったいどうなったのか。「キリスト教史1」では一部エジプトへ脱出したものがあるが、大部分はエルサレムに集結し、同胞ユダヤ人たちとともに戦って玉砕したのではないかと述べる。
その根拠として、「キリスト教側文書の完全な沈黙」をあげる。異邦人対象に書かれたキリスト教文書にエルサレムでユダヤ人キリスト教徒たちが玉砕したということは「まことに扱いにくい厄介な問題」となり、これは「完全な沈黙に消し去らなくてはならなかった」というのである。
6.ユダヤ教との完全な決別
エウセビオスの「教会史」によると、エルサレム陥落後のユダヤ人キリスト教徒はなおもそこに残存し、「主の兄弟ヤコブ」の後継者として、イエスのいとこに当たるクロパスの子シメオンを選び、以後15人の主教がそこにいたということになっている。確かにペラや近郊に脱出したキリスト教徒のうち一部はパレスチナに戻り、教会を再建したというのは考えられるが、15人の主教がなおもエルサレムにとどまるというのは「後のエルサレム教会をキリスト教の母教会と思う心情が生み出した伝説」(「新約聖書−私のアングル」速水敏彦著 聖公会出版 p268)であり、事実とは違うのではないかと思う。
一方ユダヤ人たちは、エルサレムを脱出したパリサイ派のヨハナン・ベン・ザッカイに率いられ、ヤムニアに律法学院を作る。この学院が作った「18の祈願」のなかに「裏切り者の滅びの祈願」があり、「ナザレ派キリスト教徒への呪いの言葉」が祈りとして唱えられるようになる。ユダヤ人のキリスト教徒が裏切ったことへの憎しみの強さがかえってユダヤ人キリスト教徒が戦わずに逃げ出したということを物語っているのかもしれない。この「祈願」が採用されるのは85年頃といわれる。
この「異端者への呪い」は各地のユダヤ教のシナゴーグに伝えられ、これによって完全にキリスト教徒は会堂から追放される。パリサイ派のヤムニアのユダヤ教とキリスト教徒との対立を強く意識したのはヨハネ福音書である。ヨハネ文書にはこの「会堂追放」ということが3カ所現れる。ヨハネはこのヤムニアのユダヤ教への批判に応える形で生み出された弁証の所産であるということは、マタイ福音書と同質の背景をもっていることとして大変興味深い。ただマタイとヨハネの現れ方はかなり異なっている。マタイがユダヤ人ということに固執しているのに対し、ヨハネにはもうユダヤ人への執着は全くないといってもいいだろう。
ユダヤ教徒の決別にとどめを刺す事件が第二次ユダヤ戦争、いわゆるバル・コクバの反乱である。これが135年に鎮圧されて、エルサレム教会の信徒たちは他のユダヤ人と同様に再びエルサレムには入れなくなり、アンティオキアやヘレニズム世界の諸教会に吸収されていき、エルサレム教団は消滅していく。キリスト教はユダヤ社会と決別し、世界宗教になる。
7.終わりに
このテーマを研究するねらいは、なぜ新約聖書がユダヤ独立戦争に対して「完全な沈黙」を保っていたのかということであった。この疑問は解けなかった、というよりますます膨らんでいる。とくにパウロをはじめとするヘレニストキリスト教徒が何も触れていないことが奇妙である。
ローマに対する不必要な刺激を避けていたのかもしれないことは容易に推測されることであるが、それにしてもマタイやヨハネの立場とずいぶんと異なっている。
ペラに脱出したかどうかということはともかく、おそらくエルサレム教団はこの独立戦争に武器を持って戦わなかったのではないかと思う。マタイ福音の平和主義をみても、ユダヤ教徒のキリスト教徒に対する「裏切りの呪い」の強さからみても、そう判断される。
特にマタイの平和主義の主張はマタイのおかれた歴史的背景の中で読んでいくと、とても興味深いものがある。エルサレム教団がユダヤ独立戦争で武器を取らずにエルサレムを抜け出したことは、イエスの示した平和主義に「忠実に生きた」こととしてもっと積極的に評価していいのではないかと思う。
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