2008年06月29日

「慰めの子」バルナバという初代教会の重要人物

 パウロという人物がいなかったならば、キリスト教はユダヤの民族宗教でおわり、世界宗教とはならなかったといってもいいくらいパウロの果たした役割は大きい。

 しかしこのパウロの活躍のかげにバルナバという男がいた。この男がいなかったならば、パウロはキリスト教徒を迫害した過去の持つものとして初代教会には受け入れられなかっただろうし、またパウロはペトロをはじめとする使徒たちと分裂してパウロ教をつくっていたのではないかと思える重要人物である。
 この人物を使徒言行録に追ってみよう。

 バルナバは本名はヨゼフ、レビ族に属し、使徒たちから「慰めの子」と呼ばれていた。キプロス島の出身で自分の持っていた土地を売り、その代金を使徒たちに差し出した。(使徒言行録5章36節)

 回心後のパウロをエルサレム教会の紹介した。(9章27節)

 出身地のタルソにひきこもっていたパウロをアンティオキアに連れて行った。(11章25節)

 パウロとともに第1回伝道旅行に行った。(13章2節〜14章21節)

 エルサレム使徒会議にパウロとともに出席。使徒たちに異邦人宣教を認めさせる。(14章26節〜15章22節)

 第2回伝道旅行出発に当たり、いとこのヨハネ・マルコを連れて行くかどうかについて、パウロと意見が対立し、結局パウロと決別する。(15章37〜39節)

 使徒言行録にはこのように書かれている。
「慰めの子」と言うからには、穏和な性格で思いやりに満ちた人柄であることが想像される。
 またパウロの能力と役割のもっともよき理解者であるとともに、そのたりないところも見抜いていたに違いない。
 そのバルナバが第2回伝道旅行でなぜパウロと袂を分かったのか? ここは謎である。

 パウロは、その手紙の中でもこのバルバロを同志としてみていた。

 パウロもバルナバも信徒たちから経済的な報酬をもらう権利を持っていると思っているが、あえてそれをせずに無報酬で働いている。(一コリント9章6節)

 ペトロとパウロが異邦人との食事をめぐって対立したときに、バルナバさえも(ペトロらの」見せかけのおこないに引きずり込まれてしまった。(ガラテヤ2章13節)

 私と一緒に捕らわれの身になっているアリスタルコが、そしてバルナバのいとこのマルコが、あなたがたによろしくと言っています。(コロサイ4章10節)


 バルナバのいとこのマルコが、パンフィリアにいくときに一緒に行かなかったことでもって、パウロはバルナバと決別したのに、さいごにはマルコとパウロは同じ捕らわれの身であったということなのだろうか。
 バルナバはパウロと別れてどうしたのだろうか。このことについて聖書には記述がない。



 

 

 

 
posted by mrgoodnews at 23:36| Comment(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月07日

パラグアイで、引退した司教フェルナンド・ルゴ氏が大統領に

 4月22日の朝日新聞「ニュースの顔」に「パラグアイ大統領選を制したフェルナンド・ルゴ氏」が紹介されていた。

 「今日からはパラグアイはみんなのものだ」。選挙本部で国旗を振って喜びを表す支持者に向かって叫ぶと、顔をくしゃくしゃにして笑った。貧困と不平等との戦いを訴え続け、保守コロラド党の長期支配を打ち破った。
 南部イタプア県の農家に生まれた。小学校の教員免許を取得したが、直後にカトリック系の修道会の聖職者見習いとなる。77年に聖職者となり、エクアドルで布教活動をした。
 宗教活動と決別したのが05年。バチカンの許可を得ぬままに司教職辞任を表明、反政府デモなどの活動を始めた。貧困や保健衛生の不備に不満をつのらせる庶民の支持を得た。


 朝日新聞にはこのように紹介されていたが、5月8日付の「カトリック新聞」にも紹介されていた。

 バチカンは公式に大統領選出馬を承認せず、パラグアイ司教協議会も当初は同様の姿勢を示していたが、ルゴ司教は選挙前の支持率調査でもはじめからリードしていた。カトリック信者がおおい同国でのルゴ司教支持が堅調に高まる中,司教協議会は見解の開示を控えるようになった。
 ルゴ司教は2005年、サンペドロ教区司教を退任した。バチカンは同司教が大統領選出馬決めた時点で、同司教の司祭職執行を禁じたが、還俗を願う同司教の嘆願は却下された。
 一般メディアは、バチカンがルゴ司教の免職を検討する可能性を報じているが、駐パラグアイ教皇庁大使館はルゴ司教の引退司教としての身分には何の関わりもないとしている。


 さてここで問題は現教皇ベネディクト16世であろう。教皇はバチカンの教理聖省の長官をしていたときに「解放の神学」者たちを喚問している。教皇の政治的立場が問われることとなるだろう。

 以前、ハイチで元サレジオ会の司祭アリスティド神父が大統領に選ばれたことがある。このときも司祭職が停止され、さらにアリスティドは還俗して結婚したという。
 今回は司教という高位聖職者であるだけに、その反響は大きいであろう。
 貧困や不平等の問題に暴力的な手段に訴えずに取り組もうとする中南米の教会の姿勢に支持が集まっているということを意味しているのではないかと思う。
 このパラグアイの新大統領に注目したい。
posted by mrgoodnews at 09:13| Comment(2) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月02日

モンゴル帝国とキリスト教

 中国へのキリスト教伝来は、5世紀に異端とされたネストリウス派が635年に中国にもたらされ、景教となって唐代にひろがったことに始まる。
 781年には大秦景教流行碑がつくられるなど栄えている。
 ところが845年武宗は廃仏運動を進め、景教も迫害されて衰退した。
 宋代には北西の辺境でわずかに生き残っていたが、元代にはいると再び勢力を盛り返した。

 その北西の辺境にいた民族がオングート族で、その都であったオロンスムから、東アジア最古のカトリック教会跡が発掘されたのである。
 元代に入って、ローマ教皇ニコラウス4世は、フランシスコ会士のモンテ=コルビノ=ジョバンニ神父を元に送り、1294年に元の首都大都にはいる。その働きによって景教からカトリックへの改宗が相次ぐようになる。
 北京には3つの教会が造られ、13年後には信徒5000人にもなった。モンテ=コルビノは東アジアの総大司教にもなる。

 イエズス会のマテオ=リッチが中国にはいるのは、それからしばらく立った1601年のことである。
posted by mrgoodnews at 02:58| Comment(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月22日

キリスト教一致祈祷週間のこと

 1月18日から25日までカトリック教会では「キリスト教一致祈祷週間」と定めて、教派を越えた合同祈祷集会が各地で行われております。私の教会でもこの間には特別な祈りが行われ、また20日には近くのプロテスタントの教会と合同祈祷集会が行われました。この合同祈祷集会はもう30年近く行われております。

 この運動は今から100年前の1908年に、聖公会の司祭であり、アトンメント会の共同創立者であったポール・ワトソン神父が、ニューヨーク州のグレイムアで始めた「キリスト教一致のための8日間の祈り」が起源となっております。
 実は私の教会はこのアトンメント会の本部修道院がある教会なので、この運動には強い関心をもっております。

 ポール・ワトソン神父は、教会典礼暦の「ペトロ使徒座の祝日」だった1月18日から「パウロの回心の祝日」である25日までを祈祷週間と位置づけました。
 最初は、「キリスト教一致」とは諸教会がローマ・カトリック教会に復帰することだと考えられていたようです。
 1930年代にフランス、リヨンの大修道院長であったポール・クトゥリール神父は、新しい方向付けを与え、名称を「普遍的なキリスト教一致祈祷集会」と改め、「キリストが望まれた仕方で」教会一致のために祈ることを促進しました。
 またアメリカ合衆国聖公会では1915年に「信仰と職制委員会によって「キリスト教一致祈祷の手引き」が刊行されております。

 カトリック教会では第2バチカン公会議において、エキュメニズムを推進すべく「エキュメニズムに関する教令」が採択され、2004年には「聖公会信仰と職制委員会」と「教皇庁キリスト教一致推進評議会」による合同の祈祷週間のパンフレットが作成されるようになり、現在に至っております。

 私の教会で行われる「合同祈祷会」はいつもなかなかいい集いとなっています。今年は残念ながら参加できなかったのですが……………。


 
posted by mrgoodnews at 01:17| Comment(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月21日

秀吉とロレンソ修道士

 高山右近の伝記を読んでいたら、こんな話しに出くわした。ちょっと面白かったので紹介しよう。

 ある日秀吉は、大阪の教会へ現れたときに、供をしている諸侯たちにこう言った。
「わしはバテレン(宣教師)たちが、本願寺の坊主どもよりも正しいことをよく承知しておる。バテレンは清浄な生活をおくり、坊主どものように汚れていない。
 わしは、またキリシタンの教えに満足している。女どものことさえなければ、わしもキリシタンになってもいいと思っているほどだ。」
 秀吉が「女どものこと」と言ったのは、彼がおおくの側女をはべらせていたからである。
 また秀吉は古なじみのロレンソ修道士にもこう言った。
「わしが大勢の女たちを持つことを、バテレンが許してくれれば、わしは今すぐにでもキリシタンになるのだがな。でウスの教えで守りがたいのはそれだけじゃよ。」
 するとロレンソは笑いながら応えた。
「ではわたしが許してさし上げますから、キリシタンにおなりください。殿下は戒律を破った罰で地獄に落ちるでしょうが、殿下のまねをしてキリシタンになった大勢の人が救われますから。」
 これを聞くと秀吉は、機嫌を損ねるどころか、大声で笑ったという。

 ロレンソ修道士とは、盲目の日本人修道士で、もとは琵琶法師であったという。琵琶をかき鳴らしながら平家物語を説くようにイエスの福音を説き、日本語のできない外国人宣教師に変わってその力を大いに発揮した人物である。
 この話の出典は、現在調査中である。
 
posted by mrgoodnews at 21:13| Comment(2) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月28日

ペルジーノ展にいかなくちゃ

 ペルジーノ展が開かれている。
 ここに紹介がある。
 私はここでそれを知った。この紹介はなかなかみごとである。


ペルージノ 私はこの画家を知らなかった。でもその紹介は、私をして何とかしていかなくちゃという気にさせた。7月1日までである。最終日にいけるかどうか。

 その紹介によると、ペルジーノは「甘美なる聖母の画家」とある。また「ラファエロが師と仰いだ神のごとき人」ともある。レオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェッリの兄弟弟子で、1500年当時「イタリア最良の画家」と呼ばれたらしい。

 もし見に行けたらまた紹介することにしよう。
posted by mrgoodnews at 01:21| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月09日

キリシタンの霊を弔う寺 名古屋栄国寺

 友人からすすめられて「主の慈悲(いつくしみ)をたたえよう −別冊・教会だより−」(岩崎一二三神父福音説教集刊行会編 新世社刊)を読んでいる。この本は名古屋教区の司祭岩崎一二三神父が赴任していた時に教会報など書かれた文章を、この本を貸してくれた友人たち信徒が、岩崎神父の司祭叙階40周年を記念して編纂したものであるという。なかなか興味深い文が多い書である。
 
 その書に名古屋の浄土宗栄国寺で、キリシタン殉教者を記念するミサがささげられたという話しが紹介されている。1986年9月のことである。
 この寺のある名古屋市中区の橘町、松原町一帯は、昔、千本松原といわれ、尾張藩の刑場があったところである。今から340年ほど前の1665年、ここで200余名のキリシタンが処刑された。
 尾張藩はもともとキリシタンの迫害には消極的だったが、幕府の強い圧力によって、藩北部の農民の間から検挙された2000人以上のキリシタンの中から主だったキリシタンを選んで断罪に処した。
 その後、二代藩主徳川光友は、これら罪なくして殺されていった人びとの霊を弔うために、千本松原に栄国寺を建立したという。それから約300年間栄国寺代々の住職は、毎日これらキリシタン殉教者の冥福を祈り、その墓には一日たりともお花を絶やしたことがないという。
 カトリック教会でも、殉教者を記念するミサをこの寺で行うようになり、また寺の中にカトリック名古屋教区によってつくられたキリシタン殉教顕彰碑があり、キリシタン博物館もある。
 こういうお寺もあるんだとおもった。

 今度名古屋に行ったらぜひ訪問することとしたい。

posted by mrgoodnews at 00:13| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月25日

メリー・クリスマス or ハッピー・ホリデーズ

 イエスの誕生が12月25日であったとは、聖書にはどこにも書かれていない。この日がイエスの誕生を祝う日と定められたのは4世紀のニケア公会議でのことだったという。

 もともとこの日はローマ帝国時代に広まっていたミトラ教の祝日に由来しているという。太陽神を崇拝していたミトラ教は、冬至を過ぎて太陽が力を取り戻しはじめるこの日を「不滅の太陽の誕生日」として祝っていた。キリスト教徒はイエスこそ「義の太陽」(マラキ書3:20)であると考え、この日にイエスの誕生を祝うようになった。(カトリック新聞12月24日号より)

 この日はユダヤ教でも「ハヌカの祝い」であり、またアフリカ系アメリカ人にとっては「クワンザの祭り」であるという。アメリカではそういう少数民族への配慮から「メリー・クリスマス」といわずに「ハッピー・ホリデーズ」と公にいうようになっている。
 この呼び名にキリスト教右派が反発して「メリー・クリスマス」の復権を主張していたのだが、今年はいくつかの大手のスーパーが「メリー・クリスマス」を使うようになったと12月23日付の朝日新聞で報じていた。

 それに対するに、日本人はそんな宗教対立もなく「メリー・クリスマス」の氾濫である。別にイエス・キリストを信じているわけでもないのになんでこんなにクリスマスが祝われるのだと不思議な感じがする。クリスマスを祝っている人に「なぜクリスマスがそんなにめでたいのですか?」と聞いてみたくなるのだが、最近はそれに目くじらを立てるよりも、多くの日本人がクリスマスを祝っていくれているのには、感謝しなければいけないのではないかと考えるようになった。
posted by mrgoodnews at 18:05| Comment(2) | TrackBack(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月14日

内藤ジュリアとベアタス修道女会

 内藤如安の妹の内藤ジュリアもまた信仰に生きた女性であった。

 内藤ジュリアは一度結婚するが、夫に先立たれ、夫の死後仏門に入り、比丘尼となる。彼女は小西行長の母小西マグダレナの導きにより、イエズス会のオルガンチノ神父から洗礼を授かり、京都で布教活動を精力的に行う。
 さらに日本最初の女子修道会ベアタス会を5人の女性信者とともに創 立。その5人の女性の中には、筒井定次の娘マリア伊賀、大友宗麟の娘と言われるメンシア大友、ジュリアのいとこのマグダレナ中島らがいた。ベアタスとは生涯を神と人に愛をささげるために独身で修行する女性たちの共同体を意味する。
 修道院は下京の教会に隣接していたが、1614年の大弾圧が開始されたとき、会員は18名あり、ジュリアは若い修道女9名を他所に隠したので、彼女を含め9名が逮捕された。彼女等は俵に入れられ縄で巻かれて首だけ出した状態で、刑場として使用されていた河原に晒された。
 その後、高山右近や内藤如安がマニラに追放になった時に行動を共にし、如安とともにマニラ日本人町のリーダーとして生きた。如安の死後3年後に彼女も帰天する。享年62歳であった。

 高山右近や内藤如安、小西行長らキリシタン武将とともに、細川ガラシア、おたあジュリアら、信仰を生きた数多くの女性たちがいたことも忘れてはならないであろう。


posted by mrgoodnews at 22:17| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月12日

聖書武将の生々流転 内藤如安

 信長・秀吉・家康という近世三代の英雄の時代を、救世主キリストを精神のよりどころとして、高い志をもって生き抜いた戦国の武将がいた。その武将の名を内藤飛騨守忠俊という。十七歳で宣教師ルイス・フロイスから京都の教会で洗礼を受けて、ジョアンという霊名をもらった。かれはジョアンを漢字に置き換えて「内藤如安」と称した。

 「聖書武将の生々流転 −豊臣秀吉の朝鮮出兵と内藤如安」(楠戸吉昭著 講談社刊)の書き出しの文章である。

 如安は丹波守守護代の内藤家の血のもとに生まれ、零落していく足利最後の将軍吉昭にまごころをもって仕えた。
 如安は義のために生きた男であった。


如安碑 如安がまさに「時代」と衝突し、大きく人生を揺さぶられたのは、七年に及ぶ秀吉の朝鮮侵略戦争であった。この戦争において常に先鋒として朝鮮の大地を突き進んだ小西行長の副将として従軍した。

 この不幸な戦争を終わらせる平和の使者として、如安は北京に赴き、困難な交渉に当たった。その成果は後の秀吉の怒りによってもろくも消え去るが、戦争終結のために敵国に出向き、日本の立場を主張した如安はおそらく日本で最初の外交官であったといえよう。

 関ヶ原の戦いに呼応した九州の戦いでは、小西行長の留守部隊をあずかって宇土城に籠城し、加藤清正軍と互角の戦いをした。
 如安の人生は戦いそのものであった。戦国の殺しあいを切り抜け、朝鮮で戦い、そしてキリシタン迫害と戦った。
 最期は、高山右近という人生最大の親友とともに、マニラに追放となり、その地で客死する。
 その最期の時まで、かれは聖書の言葉にこそ、生かされてある自分の命があることを信じて疑わなかった。だからどんな逆境にあっても、神を信じ、自分を信じて疑わなかった。家族を愛し、友を愛した。如安こそ真実の勇者としてその人生を鮮烈に生きた。

 戦国から安土桃山に時代において、多くのキリシタン武将がいた。
 高山右近、小西行長、大阪の陣において大阪城入りした明石掃部、黒田如水、有馬晴信、志賀親次など、それぞれに自分の信念をもってこの時代を生き抜いた。


 


posted by mrgoodnews at 23:12| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月09日

「大ハレルヤ」に見る13世紀の熱狂的信仰

 「世界の歴史 3 中世ヨーロッパ」(中央公論社)をよんでいたら、13世紀前半に起こった「大ハレルヤ」という「世直し民衆運動」というのに出会った。

 グレゴリー9世が教皇であった1230年頃、北イタリアのパルマ、ミラノなどロンバルディア地方一体を風靡した「大ハレルヤ」という一種の平和運動があった。この運動は托鉢僧団出身の説教師(ドミニコ会か?)が指導していた。かれらは手に手に木の枝と蝋燭をかざしたたくさんの少年を連れ、神、キリスト、聖霊、マリアの賛歌を唱え、その後に決まって「ハレルヤ、ハレルヤ」と繰り返しながら、町々を練り歩き、人々に悔い改めと平和を求めた。市と市が争っているところに割って入って、争いをやめさせ、利殖と奢侈に反対し、負債でとらわれたものの釈放や負債法規の緩和を要求した。ただ彼らは異端狩りにも熱心であり、これに恐れをなした都市の支配階級の反感と民衆に恐怖を引き起こして自滅している。

 注目すべきはこれらの運動が都市の市民の信徒の運動として生まれたところにあるだろう。それは教会の聖職者階級と対立して「異端」とされてしまうが、この時代に平和を説き、都市の貧しい住民の側に立った信徒の運動として、聖書の口語訳を作りだし、信徒も説教ができる「自由説教」を求めていた。ドミニコやフランシスコが生まれた背景にはこういう動きもあったのである。


posted by mrgoodnews at 23:42| Comment(0) | TrackBack(0) | キリスト教の歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。