2013年09月17日

「いのフェス」のために「チャレンジ!聖著クイズ32」を作りました。

9月14日に早稲田奉仕園で「いのフェス」なる集いが行われました。この様子はここに書いている人がいます。
このイベントにわが SIGNIS Japan も協賛していてブースを開きました。そのなかでわたしは「もっと聖書が読みたくなる チャレンジ!聖書クイズ32」なる小冊子を作って売っていました。

SeishoQuiz1

50部限定出版で13部売れたとのことです。ほとんどは「みうち」が買ってくれたようです。同じブースで「YOUCAT」を売っていた若者たちにこの聖書クイズにチャレンジしなさいとすすめましたが、「10問しかできませんでした」と報告してくれた青年がいました。
これは聖書(特に新約聖書)について、32問の4択問題を、センターテストふうにつくってみたものです。例えばこんな問題です。

SeishoQuiz2

人名や地名などの断片的な知識を問う問題はできるだけ少なくして、聖書をよく読み込まないと解けない問題を多く造ったつもりです。こんなことが書いてあるのかと知るとたまらなく聖書のその箇所を読みたくなるはずです。
とりあえずこのフェスティバルに間に合うように、まだ32問しかできていません。旧約も含めて、少しずつ拡充していき、100問くらい作ってみようと思います。
また、e-Learningソフトを使ってインターネット上でも展開していこうと考えています。
そしてあわよくば「聖書検定コース」を作ろうかなどと目論んでいます。

ま、とりあえずのこの聖書クイズをご希望の方は郵送料とも180円でおわけします。ただしあと30部です。
pdfでもいいと言われる方には無料で添付してお送りします。ただし完成した暁にはご購入いただきます。

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2013年09月05日

4つの福音書のシンボル

「カトリック生活」9月号の特集「教会のシンボル大集合!」を読んでいて、4人の福音史家が4つのシンボルで描かれるということがおもしろかったので、少し調べてみました。

マタイは、キリストの系図をたどり人間性を強調することから、翼を持った人(天使)がシンボルである。
MatAngel

マルコは、キリストの王としての威厳を伝えることから、翼を持ったライオンの姿である。これはベネチアの守護の聖人象としても有名である。
LIONMark

ルカは、キリストの犠牲を強調するため、古代のいけにえの獣になぞらえて翼を持った雄牛のすがたである。
LukaUSHI

ヨハネは、天の神秘を誰よりも深く見通し、神の言葉で豊かな霊感で記述したことからわしの姿で描かれる。
JOHNWASHI

人間イエスをもっともいきいきと描いたのはマルコじゃないかとか、ルカのいけにえはなぜ羊じゃないんだとか疑問がおこってきたが、これには実は出典があるらしい。

エゼキエル書1章1-28節に出てくる四つの有翼の生き物(10節によると人間、獅子、牛、鷲)とそれも踏まえた黙示録4章1-11節に出てくる同様の生き物(7節によると獅子、雄牛、人間、鷲)がやがて教父たちにより、四福音記者のシンボルとして解説されるようになる。
2世紀末のリヨンの司教イレネウス(エイレナイオス)は、上述の四つの生き物をまず神の救いの計画の四つの次元を表すものと考えた。獅子はキリストの王としての姿、雄牛は大祭司キリストの奉献、人間はキリストの人としての来臨、鷲は教会に降る聖霊のシンボルと考えた彼は、さらに獅子をヨハネ福音書、雄牛をルカ福音書、人間をマタイ福音書、鷲をマルコ福音書のシンボルとした。
その後、教父により四つの生き物のあてはめ方が多少変わるが、4世紀のヒエロニムスは、人間をマタイ、獅子をマルコ、牛をルカ、鷲をヨハネに当てはめた(エゼキエルの生き物の順と福音書の順も一致)。
マルコが獅子である理由として、荒れ野で回心を叫ぶ洗礼者ヨハネを念頭においているらしい。ヒエロニムスが西方教会では教会博士としての権威を持つことから、彼の適用法が絵画表現の伝統ともなる。


なるほど、こういう教会の伝統から定められたことなんだと妙にナットクした。今日の入門講座で「教会のシンボル」をとりあげてみよう。教会はこういうシンボルだらけであり、これを読み解いていくのはけっこう楽しい。

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2013年08月13日

風見鶏の鶏は「ペトロの否み」に由来するんですって。

西洋風の建物によく風見鶏がみられるけれど、あれはルーツが聖書の「ペトロの否み」なのだそうです。

【ルーツはキリスト教】風見鶏
ヨーロッパの教会で尖塔につけられたのがルーツです。キリストの弟子ペテロがキリストを三度否認した時に鶏が鳴いたという逸話から。罪への警告の象徴として教会に飾られました。また雛を羽の下に集める鶏の姿を教会に重ね合わせたという説もありますね。


kazamidori

橿原キリスト教会のFacebook で教えられました。プロテスタントの教会ですが、ここのFBはみていてとても楽しいし、いろいろなことを教わります。

ついでに、ガリラヤ湖畔の教会には「復活したイエスがペトロに3度『わたしを愛しているか?』ときく」場面がヨハネ21章にあるが、このことについては以前書いたことがあった。
あらためて山浦さんの「ガリラヤのイェシュー」のこの部分を読んでみると感動するのである。
しかし「フィリオー」というのは「ほれている」とか「くびったけ」というのとはちょっと違うような気もするのだがどうだろうか。リビングバイブルの訳がいいのではないかとあらためて思ったりした。

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2012年10月22日

復活したイエスがペトロに3回「私を愛しているか?」ときく

今回の巡礼で、ミサをあげたところの一つにガリラヤ湖畔のペトロの首位権教会があった。
ここは、復活したイエスがペトロに指示して釣った魚を焼いて弟子たちと朝食をしたところを記念して作られた教会である。この岩の上で魚を焼いたというその岩が残っていた。
その朝食の後にイエスがペトロに3回「あなたは私を愛しているか?」と聞く。ペトロは3回とも「私があなたを愛していることはよくご存知でしょう」と答えるところがある。ペトロがそう答えた後に「私の羊の世話をしなさい」とイエスはいっている。
この「私の羊の世話をしなさい」といわれているところから、ペトロを教会のリーダーとしての首位権を確認した箇所である。
ちなみに、ここともう一つペトロの首位権を認めたところがあるのだが、それについては次に述べようと思う。



巡礼ガイドの河谷さんが、ここのところをこう解説してくれた。
イエスは一度目の「私を愛するか?」という質問の時に、アガペオーという動詞で聞くのだが、ペトロはフィレオーという動詞で答えている。
二度目も同じで、イエスはアガペオーと聞くのに対して,ペトロはフィレオーと答えるのである。
ところが三度目、イエスは今度は「フィレオー」で「私を愛しているか?」と聞くのである。イエスは三度目に「愛のレベル」を下げて聞いているわけであり、ペトロはあいかわらずフィレオーと答えているのである。

アガペーというのは、神の愛のことで、無償の愛という意味で福音書では使われている。これに対して「フィレオー」は友愛を意味していて、ギリシャ語ではもっともよく使われる動詞であろう。
なぜペトロはアガペオーではなく、フィレオーで答えたのかなぜイエスは3回目に愛のレベルを下げて聞いたのだろうか? このことはどう解釈したらいいのだろうか?

聖書協会訳ならびに新共同訳聖書の日本語では、いずれも「愛しているか」で、統一されているのだが、たとえばリビングバイブルでは「アガペオー」は「愛しているか?」に対して、フィレオーは「あなたの友」と訳している。つまりこの動詞を区別して訳しているのである。Living Bible の英語版でも「Do you love me?」に対してペトロは「You know that I am your friend.」と答えている。
山浦さんの「ガリラヤのイシュー」では、イエスの問は「お前はこの俺大事に思っているか?」ときき、ペトロは「この俺はお前さまに惚れておりぁす」とこれも区別して訳している。三度目にイエスは「お前はこの俺に惚れこんでんのが?」と聞くとペトロは「俺がお前さまに首ったげなのァ知ってのとおりでがんす!」と答えている。さすが山浦さん、ちゃんと区別して訳している。

新共同訳などでは、どちらも「愛する」と訳しているので、ここが違う動詞であることは分からないわけであるが、ここは原文に忠実に訳語を変えて訳したほうがいいと私は個人的に思うが、みなさんはどう思われるだろうか?

この話は神学講座で聞いた記憶があるが、誰が述べたことかは覚えていない。それを今回のガイドさんの河谷さんが説明された。河谷さんはとてもよく聖書を読み込んでいるとあらためて尊敬した次第である。

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2012年07月02日

ゲッセマネのイエスの祈り

清泉女子大の「宗教科教育法」の授業で、「受難と十字架上の死」を取り上げました。歓呼とともに迎えられたエルサレム入場から、ピラトに「十字架につけよ」とさけぶ民衆の心変わりの過程をつぶさに読んでいきました。

やはり圧巻は「ゲッセマネのイエス」だと思います。
ここを読む場合、4つの福音書をいつものように読み比べていきます。福音記者によって微妙に表現が違います。
イエスが祈るときの姿勢は、マルコは「ひれ伏し」、マタイは「うつぶせになり」、ルカは「跪いて」祈ります。
「アッバ父よ」と呼びかけるのはマルコだけです。
そして「血の汗を流し」「天使がイエスを力づけた」のはルカだけです。

中3の生徒とここを読んだときに質問が上がりました。「弟子たちもみんな眠っていて、イエスがひとりで祈っていたところを誰も見ていないのに、どうしてイエスの祈りのスタイルを分かったのですか?」これには虚を突かれました。そうですよね。復活したあとにイエスが語ったとも読めないことはないでしょうが………。

このゲッセマネのイエスの祈りをみごとに描いたのは「ジーザス・クライスト・スーパースター」だと思います。



この曲はスゴイです。
もっとYouTubeを探していくとマイケル・クロフォードのゲッセマネをみつけました。こちらもなかなかスゴイです。字幕がついているところもいい。



イエスのゲッセマネの祈りは「きっとかくやあらん」と思わせる迫力でした。
同じ歌を日本の劇団四季が歌っているのもありますが、こちらはやはり迫力不足です。きっとゲッセマネのイエスを分かっていないんだろうと思ってしまいました。

でも中学3年生とこれを見ても、彼女たちはは私ほど感動しないだろうな。

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2012年01月10日

あなたがたの神を拝ませてください

イエズス会十二所日本殉教者修道院の Facebook にこんな話が載っていました。

―あなたがたの神様を拝ませてください―ご公現の日によせて

イエスの誕生を訪ねて遠い国から旅をしてきた3人の博士は、もちろんユダヤ教ではありませんでした。旧約聖書でいうならば、「異教の神」を拝む人々です。昨夏、被災地で聞いた本当の話をわかち合います。

大船渡の津波の被害は、それは大変なものでした。しかし、震災翌日から、続々と日本だけでなく海外からも重装備の救援部隊が駆け付けてきたのだそうです。

カトリック大船渡教会のある信徒は、朝、そんな部隊を運んできた大型バスに遭遇しました。すでに隊員は働きに出かけていて運転手さん一人だったのですが、少し話してわかったことは、彼らにはカップめんがひとりひとつだけしか残っていない、という厳しい食糧事情でした。彼女は急いで自宅に戻ると、あるだけのお米を炊いて、おにぎりを作り、それをバスまで持って行きました。

夕方になって、ひとりの重装備の大男の兵隊さんが大船渡教会を訪れました。
彼は、朝のバスの部隊の隊長さんだったのだそうです。
そして、神父様に今日の差し入れのお礼を言ってから、こう言ったのだそうです。

「あなたがたの神様を拝ませてください」

彼は重装備だったため、聖堂の中には入らず(大船渡教会は畳敷きのこじんまりとした聖堂です)、聖堂の入口で手を合わせると、ぶるぶると肩を震わせすすり泣き始めました…
いかつい、大男が、(彼にとっては)異教の神の前で。
…朝から過酷な任務を通して彼が何を見て、なにを感じたのか、知る由はありません。
彼はしばらく祈ってから、帰っていきました。

その部隊は、台湾から来た人たちのようだった、ということでした。


これはすぐに英文に訳されました。

"Please let me worship your God"-- In remembrance of Epiphany

The three magi who traveled from the East to witness the birth of Jesus were surely not Jews. In the terms of the Old Testament, they were the people who worshipped pagan gods.
Let me share with you the true story that I heard when I visited the tsunami stricken area last summer.

The damage caused by the tsunami in Ofunato was beyond description. However, starting from the day after the disaster, heavily-equipped relief forces kept coming in to the area, not only from within Japan, but also from overseas.
One morning, a member of Ofunato Catholic Church ran into a bus which was carrying a relief force. The troop had gone to work, and
only the driver was there. As she talked with the driver, she found out that their food supply was running out: they had only one cup
of instant noodles for all of them to share. So she hurried back home, and cooked all the rice she had, prepared rice balls, and
brought them back to the bus.

Later that day, a soldier visited Ofunato Catholic Church. He was the captain of the troop she met that morning.
He thanked the priest for the food, and then he said,

"Please let me worship your God."

Because he was donning heavy equipment, he did not go into the sanctuary (Ofunato church was a small church with tatami-mat floor). He

just stood at the entrance. As he put his hands together, he started sobbing, his shoulders trembling.

A big, stern man, sobbing in front of the pagan god (for him)....

Who would know what this soldier might have seen and felt, as he worked hard all day in such a terrible disaster stricken area.

He prayed for a while, and left.

I heard that the troop was probably from Taiwan.

(Translated by Sachi Nakamura)


1月8日は教会では、3人の博士たちがベトレヘムで誕生したイエスをたずねたことを記念する「ご公現」の日です。教会ではこの日にクリスマスの飾りを片付けます。
「ご公現」というのはこういうことだったのでしょうね。

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2011年05月09日

大船渡のイーピックスからの Good News

大津波で安否がとても気遣われた大船渡の山浦さんと熊谷さんについては、前に書きました。
そのイーピックスの熊谷さんから、次のようなニュースが入りました。

熊谷さんは大船渡で印刷会社を営むかたわらイーピックスという小さな出版社をおこし、山浦さんのケセン語訳聖書などの山浦さんの著書をはじめとして出版していました。
けれど今回の大津波で、工場と会社が押し流され、倉庫にあったケセン語訳聖書も水につかってしまったそうです。
さいわいご家族と会社で働く人はご無事でした。熊谷さんのご自宅も高台にあったので無事で、そこにプレハブの建物をつくり、再建がはじまったそうです。

ここで、お知らせしたい Good News のひとつは、水につかってしまった「ケセン語訳聖書」を販売しようとする動きがあるという新聞記事です。朝日新聞大阪版の5月4日の記事です。

もう一つは、山浦さんがまえに出たことのあるNHK教育テレビの「こころの時代」の取材があり、
5月22日(日)朝5時〜6時
5月28日(土)午後1時から2時
に、当地の山浦玄嗣先生の仕事や、流出したイー・ピックス出版、津波をかぶった『ケセン語訳聖書』のことが放映されるとのことです。
これは必ず見なければならないですね。

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2010年04月11日

マタイ「ぶどう園の労働者」の話し

マタイ20章1~16節の「ぶどう園の労働者」の話しは、前にも取り上げたことがあるが、イエスの教えの逆説性のゆえにもっともイエスらしいたとえ話であると思う。普通の見方ならば、この話しはえらい不公平な話しである。
このもっともイエスらしいたとえについて、どのように説教するかで、その司祭や牧師の考え方が分かるところでもある。

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2009年05月02日

"The Laughing Christ"「笑うイエス像」のほがらかさ

 聖書にはイエスが笑ったという記述がない。イエスが涙を流して泣いたというところや怒ったところはいくつもあるが、笑ったという記述はないのである。
 これはなぜか?

 いろいろ考えてみると、二つの理由が考えられる。
1.実際にイエスは一度も笑わなかった。
2.福音書を書いた人が笑う場面を必要としないと判断したから。
 まあ、1は考えられない。実際聖書を読んでみると、ここはイエスが笑ったであろうという個所はいくつかあるからである。
 では、なぜイエスが笑う場面が書かれなかったのか? 

 神聖な聖書にイエスの笑う姿を描くなんて不謹慎で不真面目だと思ったのであろうか。
 そういわれてみると、パウロも笑っていない。こちらは手紙なので無理はないかもしれないが、使徒言行録にはあってもよさそうなものだ。

 聖書で笑いが出てくるのは、旧約聖書の創世記にあるアブラハムの妻のサラのところである。でもこの笑いはユーモアの笑いではなく、そんなことはあり得ないという不信の笑いであった。
 その他にもあったかもしれないが今は思い出せない。
 確かに聖書には笑いが少ないようである。


LaughingChrist1 1986年のフィリピンの市民革命のとき、町には「The Laughing Christ」の絵が、なぜかあちこちに貼られていたという。
 それ以降いくつかの「The Laughing Christ」を見かけるようになった。
 でも私にはどこか不自然な感じがするのだが、どうであろうか。
 どこかにもっとステキな「イエスの笑顔」がないであろうか?
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2008年12月24日

クリスマス・ポスターをつくりました。

 クリスマス・ポスターをつくり、私の家の前にはりました。もしよろしかったら、コピーしてお使いください。
 ブログの容量制限にひっかかってしまったので、ちょっと小さくなってしまったのが残念です。

クリスマスポスター
 この中の詩は以前にも紹介したことがあります。

 背景の木の写真は、ヒイラギモチです。ヒイラギはモクセイ科で、黒い実をつけますが、ヒイラギモチはモチノキ科で、美しい赤い実をつけます。クリスマスに用いられるのは、このヒイラギモチです。

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2008年11月05日

仙台元寺小路教会のペトロとパウロ


ペトロ SIGNIS の「教会とインターネット」セミナーのために仙台教区のカテドラルである元寺小路教会に行きました。
 教会の入り口の左右にペトロとパウロの大理石でできたレリーフがありました。

 ところでどちらがペトロでどちらがパウロであるかわかりますか?


パウロ 左側にある(右を向いている)のがペトロですね。「天国の鍵」を持っているからわかります。
 とすると右側の左を向いている方がパウロでしょう。パウロは何を持っているのでしょうか。紙を巻いたものもっているようです。とするとパウロが持っているのは「手紙」ということになるのでしょう。
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2008年09月23日

あとのものが先になる………「ぶどう園の労働者」の話

 21日の日曜日のミサの朗読聖書は「ぶどう園の労働者」の話(マタイ20章1〜16節)だった。

 このたとえ話は「神の国とはこういうところだ」と説明されたイエスのたとえ話である。
 いちおう全文を引用してみよう。聖書にはこんな話が載っているという、もっともイエスらしい「たとえ話」であると思う。

 天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。


 さてこのたとえ話を読んでどのように感じられただろうか?
 「朝から働いた労働者と夕方から働きだした労働者との賃金が同じだなんて、なんて不公平な話なんだ」と思われたに違いない。普通はそう思うものである。
 この話は「放蕩息子」の話とともに、イエスの教えのなかでもっとも逆説的なそしてもっとも理解しにくい所かもしれない。だからこそ、ここにイエスの教えの真髄が表れる。

 このたとえ話ほど、これを読んでいる読者の視点が問題となるところはないのではないかと思う。
 私たちは知らず知らずのうちに、ある立場,ある視点からこの話を読んでいる。このたとえ話では私たちの視点はたぶん朝から働きだした労働者の視点に立つであろう。だから夕方から働きだした労働者に同じ賃金が与えられたことに不公平だと思う。
 もしこのたとえ話を、夕方から働いた労働者の視点に立って読んでみたら、何を感じるだろうか? 
 今日も仕事からあぶれてしまった。家で待っている家族や子どもたちのために食べものも満足に買ってやれないと途方に暮れていたはずである。そこにぶどう園で働きなさいと言われ、そして一日分の賃金が支払われた。そのときの安堵の気持ちはいかばかりであったのか。
 この話を釜が崎の労働者とともに読むとかれらは「イエスさんはオレたちのことをよくわかってくれる」と涙を流さんばかりに喜んだという話を聞いたことがある。

 中学3年の生徒とともに「放蕩息子」の話(ルカ15章11〜32節)を読んだことがある。その話を読んだあとに生徒たちに「この話の中の登場人物のひとりになって、その日の日記を書いてごらん」という課題を出した。
 すると3分の2近い生徒が「兄の日記」を書く。
「じゃあ、今度は弟の日記を書いてみて。もし書きにくかったら父親の日記でもいい。それも書けなかったら、召使いの日記でもいいよ」
 つまり、ここでも「視点」の違いによって感じ方がこのように違ってくるということが如実に表れる。
 前に視覚障害を持った教育実習生の「よきサマリア人」の聖書の授業を紹介したことがある。あれもこの「視点」の違いによる読み方の違いがよくあらわれていた。

 私たちは知らず知らずのうちに「ある視点」にたってこの話を読むものである。その話の登場人物の誰かに自分の視点を同一化してみるか、あるいは傍観者的に見るであろう。自分の感じ方も、そのちらず知らずのうちにその「視点」によって異なってくるのである。
 あえて「視点」を変えて読んでみて初めてその話の言わんとすることがわかってくる、聖書にはこういう話がけっこう多いのである。

 ところで。「ぶどう園の労働者」の話の最後の「遅く来たものが先になり………」という例を考えてみてほしい。こういう例はけっこう見つかるものである。

 たとえば、日曜日の教会の席は後ろの方から埋まってていく。ミサに遅れてきた人は前の方の列しかあいていないということが多い。

 コンピューターの世界にはじつは「あとのものが先になる」という例はけっこう多い。古いコンピューターを使っている人が苦労してできたことを最新のコンピューターはいとも簡単にやってのけることも多い。これなんかその最たる例であろう。

 教会ではこんな例がよく挙げられる。生まれてすぐに洗礼を受けたものも、死ぬ直前に臨終洗礼を受けたものも、神さまの前では平等であるということになぞらえる。むしろ臨終洗礼の方が洗礼によって罪が清められているから天国に早く行けるのである。こういうのを教会では「天国どろぼう」などとあしざまに言う人もいる。
 
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2007年10月09日

オリーブの葉 をくわえた鳩

 創世記7章の「ノアの箱舟」の話しのところで、大雨が終わり水が引き出したときに、ノアはまずカラスを放す。カラスは飛び立ったが、地上の水が乾くのを待って、箱舟から出たり入ったりした。
 続いてノアは鳩をはなして、地の表から水がひいたかどうかを確かめようとした。しかし鳩はとまるところが見つからなかったので、箱舟のノアのもとへ帰ってきた。
 さらに7日たって、再び鳩を放した。鳩は夕方になってノアのもとへ帰ってきた。鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。

 ハトは平和をもたらす鳥として愛されるようになったのは、この物語が原因となった。


peace1 ところで「オリーブの葉をくわえた鳩」というと、団塊の世代のひとは、たばこの Peace のデザインを思い出すであろう。
 これは1951年に、当時の専売公社が、もっとも有名なデザイナーであった、アメリカのレイモンド=ロウイに依頼してつくったものである。破格のデザイン料を払ったという。





peace2 ロウイは、アメリカのたばこの「ラッキー・ストライク」のデザイナーとしても知られている。
 ロウイは、全部で9つのデザインを用意したという。けっきょくそのうちのひとつだったあの「Peace」が採用された。

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2007年07月13日

シラ書(集会の書)を読んで笑ってしまった。

 聖書の中の「シラ書」は「続編」だし、堅苦しそうだし、めったに読むことのない聖書なのですが、昨日私の「入門講座」に来ている方が、「こんなところがあるよ。読んで思わず笑ってしまった」って教えてくれました。たまたま開いたところを読んでいたら、発見したのだそうです。
 そこにはこんなことが書いてありました。

人の顔つき(シラ書13章25・26節)

25 心の状態で人の顔つきは変わる。
嬉しい顔にもなれば、悲しい顔にもなる。
26 晴れやかな顔は、よい心の表れである。
それにしても格言づくりは、骨が折れる。


 前の3行は、当たり前のことを言っていて別にどうということのない文章であるのですが、問題は最後のひとこと。
 それまでの文章とは、あまり関係のない脈絡から、突然この最後の一句が出てくる。
 想像するに、この聖書の箇所を書いた著者が、あまりたいしたことを書いていないことに気づいてふっと漏らしたホンネなのかもしれないなんて考えてしまいました。
 まだこういう箇所があるかもしれないと思って、シラ書なる聖書を丁寧に読んでみようかと思ってしまいました。
 発見したら、またここで紹介してみましょう。
 

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2007年04月06日

聖木曜日の洗足式 続編

 聖木曜日の「洗足式」に女性信徒も足を洗われているかどうか、いろいろな教会の事情を友人たちに聞いてみたりして調べてみました。

 東京の梅田教会は今年から女性も足を洗われるようになった。
 さいたま教区の清瀬教会では若い神父さんのもとで、3:1の男女比であるとか、
 藤沢教会では12人は希望者で(もちろん女性も希望できます)さ
らに「お互いの足を洗い合う」という聖書でイエスがすすめられていることをそのまま実行されているのは驚きです。さすがもっとも先進的な教会ですね。
 さいたま教区の浦和教会では、信徒たちは苦行として足を洗われていて、その中には女性もいるとのことです。
 横浜教区の大船教会は、1か月ほど前から女性も含めて募集があったようですが、結局は男ばかりだったそうです。
 横浜教区の雪の下教会も男ばかりらしい(今年は行っていないからわからないけど、昨年はそうでしたというこたえでした)
 横浜教区の司教座山手教会は、「今年は行っていないけれど、女性もやっているのではないかな」
 戸塚教会は「そんなのずっと前から女性もやっているよ」でした。
 鶴見教会は男ばかりでした。

 ようするに特にきまっているわけではなさそうです。ということはおそらく主任司祭の一存できまっているのでしょう。

 いろいろあるんだなと思いました。
 でも「時のしるし」というのもこんなところにも表れてくるのだと思いました。

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聖木曜日の「洗足式」

 本日の聖木曜日の典礼に参加してきました。この日の典礼は「最後の晩さん」を記念して行われます。ミサの中で、イエスが晩さんの前に弟子たちの足を洗う場面(ヨハネ13章1〜11章)を模して「洗足式」が行われます。イエスが弟子たちを「この上なく愛し抜かれ」また「仕えられるためではなく、仕えるために来た」ことを表すためにイエスはこれをしたと書かれています。

 「灰の水曜日」の「灰の儀式」、受難の日の「枝の行列」、聖木曜日の「洗足式」そして聖土曜日の「光と水の典礼」など「四旬節」「聖週間」の典礼のこういう儀式を私はとても好きです。
こういう儀式はプロテスタントの教会ではないでしょうね。

 今年、わたしは「洗足式」の足を洗われる役でした。水の冷やっこさが今でも足に残っています。
 司祭に足を洗われてとてもいい気持ちでした。

 学校からの帰りにそのまま教会によりましたので、靴下や足が匂うかなと気になりました。でも、パレスティナの当時は、靴も靴下もはいていなかったので、足は匂いはしなかっただろうけれど、汚れていたのだから洗うのであって、神父さんには我慢をしてもらわなければと思っていました。

 でもうちの教会では侍者を、中学生のかわいい女の子がつとめていたので、こちらのほうが気になってしまいました。

 ところで、皆さんの教会では、洗足式で足を洗われる役は男性ばかりですか? 
 女性もその役をやっている教会はありませんか?
 私の教会では「12人の弟子たちは皆男だったから」という理由で
男性ばかりです。

確かに、聖書ではそのように書かれていますから、それも理屈には合っているというべきかもしれません。
でも、これは女性の典礼参加という点で、教会の姿勢が問われるところだと思います。おそらくこれは主任司祭の考え一つできまるだろうと思われるので、その主任司祭の姿勢が問われるのでしょう。

 たしかに、女性も足を出すのは嫌がられるかもしれないし、司祭もきっと嫌がられるだろうなと思います。
 聖書には「足を洗われたのは皆男だから」という理由もあります。
 だからやはり、男性ばかりがするのが「普通」なのでしょう。

しかし、それにもかかわらず、女性が洗足式で足を洗われる役をする教会があるならば、やはりそれは「女性の典礼参加」という点では、とても開明的な教会だろうと思います。

話は変わりますが、英語では、
まず呼び方は、次のようなのが一般的のようです:
聖週間=Holy week
聖木曜日=Holy Thursday
聖金曜日=Good Friday
聖土曜日=Easter Vigil
ちなみに vigil とは「通夜」を意味するそうです。
なんで「聖金曜日」だけは「Good Friday」なのでしょうか?

たぶん(?)原罪を「幸いなる過ち」(Felix culpa)と呼ぶのと同じ感覚で、キリストによるあがないが成就した日を[good]と呼んでいるのではないでしょうか?
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2007年02月02日

「イエス、ペトロの姑を癒す」場面から

 聖書のおもしろさはこんなところにもあります。
 福音書はマルコ、マタイ、ルカ、ヨハネという4人の記者が、別々の視点からイエスの言動を記したものですが、それぞれの記述を比べてみると、微妙な差が表れています。それぞれの記者の個性というか、書いた姿勢が異なっているのですね。
 たとえば、こんなところです。

 イエスが、ペトロの家に行って、寝込んでいたペトロの姑を癒す場面です。この箇所はペトロに妻がいたということを示しています。聖書にはペトロの妻のことはまったく書かれていません。彼は自分の家庭をほっぽり出してイエスについて行ったのだろうかと想像されるのですが、ここを読むと実はそうではなかったのかもしれません。

 シモンの姑が熱を出して寝ていたので、人びとはさっそく、彼女のことをイエスに話した。イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。(マルコ1章31〜32節)

 イエスはペトロの家に行き、その姑が熱を出して寝込んでいるのをご覧になった。イエスがその手に触れられると、熱は去り、姑は起きあがってイエスをもてなした。(マタイ8章14〜15節)

 イエスはシモンの家にお入りになった。シモンの姑が高い熱で苦しんでいたので、人びとは彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕元にたって熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起きあがって一同をもてなした。(ルカ4章38〜39節)


 マルコでは「手を取って起きあがらせ」、マタイでは「手に触れた」が、ルカでは「まくらもとで熱を叱りつけられた」とある。

ペトロ姑 ここで思い出すのは、レンブラントの絵である。この絵ではイエスはペトロの姑の手をたって起きあがらせるさまが描かれている。ということはレンブラントはマルコの記述に従って書いているということである。
 ところで、この場面にペトロはいたのでしょうか? おそらくいなかったのではないかと思われるのです。いたらペトロのことだから、当然何か言っていたはずです。なにも言っていないという子雄てゃいなかったと推測されます。このこともいろいろと想像をめぐらすことができます。

 こんなところもあります。子どもたちを祝福する場面です。

 「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのようなものたちのものである。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこにはいることはできない」そして、子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10章14〜18節)

 「子どもたちを来させなさい。私のところにくるのを妨げてはならない。天の国はこのようなものたちのものである。」そして、子どもたちに手を置いてから、そこを立ち去られた。(マタイ19章14〜15節)

 「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこにはいることはできない。」(ルカ18章16〜17節)


 マルコでは「子どもたちを抱き上げ」、マタイでは「子どもたちに手を触れ」、そしてルカではその記述はありません。
 こういう記述は他のところにもあります。それについてはまたの機会に触れることにしましょう。

 フェミニズム神学者のモルトマン・ヴェンデルはその著「乳と蜜の流れる国」という書のなかで、このようなマルコの記述を「マルコの感覚性」として説明しています。
 彼女は、このようなマルコから、マタイ、ルカ、そしてパウロの記述のしかたの変化は「感覚的経験の方向転換」であり、「具体的には目から耳への、それとともに自由から従順への転換」なのであるとしています。
 つまり、イエスのもっとも人間的な側面を描いたマルコにたいして、時代を経るに従って神格化されていくイエスが描かれていくということなのでしょう。

 

 

 
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2006年12月26日

ベトレヘムの星

 これもカトリック新聞のクリスマス特集号からの話しである。クリスマスは過ぎてしまったが……………。

 マタイは占星術の学者たちが、東のほうから星に導かれてイエスを拝みに来たと記しています。
 この星がなんだったのか、ドイツの天文学者ヨハンネス・ケプラー(1571〜1630)をはじめ、何人もの学者たちが関心を寄せてきました。計算の結果、紀元前7年頃、木星と土星が接近し、うお座のなかでひとかたまりとなって大きく輝いたことが判明し、これがイエス降誕の時に現れた星ではないかとも考えられています。


 イエスの誕生は、AD1年のはずだが、実際はBC3年か4年のことではないかといわれている。これはイエスの誕生を紀元とするということを決めたあとに、歴史的には皇帝アウグストが戸籍調査をした年が実はそれよりまえのことであるということがあとから判明したことによるらしい。
 この木星と土星が接近したのがBC7年とするとイエスの誕生はさらにさかのぼることになってしまう。

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2006年11月22日

詩編の「嘆き」と「賛美」

 旧約聖書の詩編は150編ありますが、そのテーマは大きく分けると2つの類型があります。一つは「嘆き」であり、もうひとつは「賛美」です。神のはたらきに対する応答としてある時は「嘆き」の形を取り、ある時は「賛美」の形を取ります。詩編150編はそのような嘆きと賛美の間をちょうど振り子のように揺れ動いている人間の心を歌っています。
 さらによく読み込んでいくと、「嘆き」の詩編の多くは、嘆きや願いの表白にとどまらずに、最後には賛美に変えられていくものが多いことに気づくでしょう。

 その「嘆きから賛美へ」と変えられていく詩編の代表は「詩編22章」でしょう。この詩編はイエスが十字架上で叫んだ「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(わが主よ、わが主よ、なぜ私を見捨てられたのか)という言葉を含んだ詩編です。
 この言葉だけを読むと、絶望的な叫びを表しています。しかし、この詩編を全部読んでいくと、その絶望的な叫びはやがて神への信頼と賛美へと変わっていくのです。
 イエスはこの言葉だけを叫んだのではなく、おそらくこの詩編全部をとなえたのではないかと推測されるのです。最初の部分しか兵士たちの耳には届かなかったのでしょう。

 嘆きから賛美への詩編は多くの場合、次のような要素からなっています。
1.導入
2.嘆き
3.神への願い
4.信頼の告白
5.神賛美の誓い

 詩編22章で見てみましょう。

1.導入
 私の神よ、私の神よ
 なぜ私をお見捨てになるのか。
 なぜ、私を遠く離れ、救おうとせず
 呻きも言葉も聞いてくださらないのか


ここでは「なぜ」とか「どうして」とか「いつまで」とかいう疑問詞で始まります。

2.嘆き
 私の神よ
 昼は、呼び求めても応えてくださらない。
 夜は、黙ることをお許しにはならない。
 私は虫けら、とても人とは言えない。
 人間のくず、民の恥。
 私を見る人は皆、私をあざ笑い、
 唇を突き出して、頭を振る。
 『主に頼んで救ってもらうがよい。
  主が愛しておられるなら助けてくださるだろう』
 犬どもが私を取り囲み、
 さいなむ者が群がって私を囲み、
 獅子のように私の手足を砕く。
 骨が教えられる程になったわたしのからだを
 彼らはさらしものにして眺め
 私の着物をわけ
 衣を取ろうとしてくじをひく。


 この部分ではイエスにたいするローマ兵の行為を思い出させます。

3.神への願い
 私を遠く離れないでください。
 苦難が近づき、助けてくれる者はいないのです。
 ……………
 私の力の神よ、今すぐに私を助けてください。

4.信頼の告白
 だがあなたは、聖所にいまし
 イスラエルの賛美を受ける方。
 私の先祖はあなたにより頼み
 依り頼んで救われてきた。
 助けを求めてあなたに叫び、救い出され
 あなたの依り頼んで、裏切られたことはない。


5.神賛美への誓い
 私は兄弟たちに御名を語り伝え、
 集会の中であなたを賛美します。
 主を畏れる人びとよ、主を賛美せよ。
 ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。
 イスラエルの子孫は皆、主を恐れよ。
 ……………
 わたしの魂は必ず命を得、
 子孫は神に仕え、
 主のことを来たるべき代に語り伝え、
 成し遂げてくださった恵みのみ業を
 民の末に告げ知らせるでしょう。


 このように見てくると、最初は絶望的な叫びや嘆きで始まった祈りが、嘆きを本当に心から嘆き、叫びを心の奥底から叫んでいくうちに
少しずつ心と魂が回復し癒されていく軌跡がこの詩編には実にみごとに描かれているのです。
 イエスが十字架上で、この詩編を唱えながら、断末魔の苦しみに耐えぬかれている、イエスをも十字架の苦しみから救った力の源がこの詩編にはあると思われます。

 この他にも、詩編の13編、30編、113編が、このような構造を持っています。

 ただし例外もないわけではありません。そこが詩編のもうひとつのおもしろさであるでしょう。
 たとえば、詩編89章です。ぜひ読んでみてください。

 



 
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2006年11月17日

「男と女」創造小咄2題

西洋のなぞなぞにこういうのがある。

「神はどうして女よりも先に男を造ったのか?」
「何にでも試作品は必要だから」

男は試作品というわけである。
これと対蹠的なこんな小咄がある。

神は天と地を創っていった。『我ながらよくできた。なんと美しい』」
次に草木を創っていった。『なかなかよくできた。なかなかきれいだ』
次に動物を創っていった。『美しい。完璧だ』
次に男を創って言った。『よし、最高に美しい』
最期に女を創ってため息をついた『……まあ、化粧させるという手もあるか……』

この小咄は男が作ったものでしょうね。
こういうジョウクはけっこうたくさんありそうです。

出典「知の教科書 キリスト教」(竹内節子著 講談社メチエ選書)


posted by mrgoodnews at 21:59| Comment(1) | TrackBack(0) | 聖書から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする