2013年11月22日

俳優座「気骨の判決」を見に行きました。

 「心のともしび」で月に一度私の原稿を朗読してくださっている俳優座の坪井木の実さんが出演する「気骨の判決」を新宿紀伊国屋ホールに見に行った。会場は満席、若い人たちがたくさん来ていたのを観て、これは何だろうかと不思議に思った。法学部の学生がゼミの教官に勧められてみに来たのだろうかと思ったが、どうも雰囲気が法学部の学生とは違っていた。これはどこかの演劇学校の学生らしい。

 この話は次のような話である。

 太平洋戦争中の昭和17年、東条英機総理大臣のもと、国政に全面的に賛成する議会を作るべく総選挙が行われた。政府への批判は非国民とされ、露骨な選挙妨害が相次ぎ、各地から選挙無効の訴えが大審院に持ち込まれた。他の民事部が原告敗訴の判決を出す中、正義を求め続けた男がいた…………大審院第三民事部部長(裁判長)吉田久。政府の圧力に屈することなく、真実を見つめたひとりの裁判官と彼を支えた家族の物語。
 2009年 NHKドラマ化され、大きな反響を呼んだ莞隚作を竹内一郎書き下ろしで舞台化するこの秋の話題作!


 1940年2月2日の第75議会で壇上に立った民政党斎藤隆夫の有名な「反軍演説」については以前書いたことがあるが、こういう人物がいたことは恥ずかしながらまったく知らなかった。この演劇を見て初めて知った。そのことだけでも見に行ってよかったと思った。
岩ア加根子さんはじめ、坪井木の実さんも熱演だった。台詞が多かったにもかかわらず話はとても判り易かった。周りの若い人たちは「ねえ、わかった?」とききあっていたが、私はよくわかった。
 しかし、ちょっと気になることがあった。5人の判事の内3人までは選挙無効に反対していたにもかかわらず、最終的には全員選挙無効の審決が下った、この審決については法廷場面だけで知ることになる。つまり、選挙無効に反対していた3人の判事が考えをひっくり返す審議の場面が演じられていなかったのである。本来この審議場面がクライマックスともいうべき場面になるのではないのかと思ったのだが、それがなかったのはちょっと物足りなかった。
 これはシナリオの問題ではないかと思うが、俳優たちはそこを演じきる自信がなかったのだろうか?
 あとで、憲兵とのやり取りで、東京大空襲以降の焼け野原となったのをみて、考えを変えたということが説明されるのだが、なんとも、物足りない感じが残ったのである。

 このような裁判官がいたことを、今の裁判官や裁判員はどのように受け取るのであろうか? 感想を聞いてみたい。

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2012年09月05日

不法移住のルーツは1492年にありというわけです。

Facebook上でまわってきたものを紹介します。



つまり、Illegal Immigration (不法移住)」は1492年、つまりコロンブスの新大陸発見からはじまったというわけです。

そういえば、もともとそこに住んでいた住民にとっては
あいつらは新大陸発見だと喜んでいるが、ここはもともとずーっとここにあっただ。あいつらばかでね〜の。

というわけですよね。

 

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2012年01月07日

「ウォール街を占拠せよ!」の仕掛け人インタビュー記事

正月の新聞記事や広告の中から、面白いものを紹介しよう。その第1弾。

 1月1日の朝日新聞の「壊れる民主主義」という特集記事のなかの「カオスの深淵」という記事で、昨年、アメリカのウォール街占拠事件の仕掛け人となったカレ・ラースンという人物のインタビュー記事が載っている。
 この人は、エストニア生まれ、東京で会社経営のあと、カナダへ移住。80年雑誌「アドバスターズ」創刊。この雑誌は商業広告を退治しようと呼びかける隔月月刊誌である。「ノーバイデイ」(今日1日は何も買わないで済ませようという1日)や、「デジタル解毒デイ」(デジタルに魂を抜かれないように今日一日はデジタル製品に触れない日としよう)を呼びかけている。



−占拠参加者たちの求める直接民主主義とは?
 それはウォール街占拠よりも前にスペインの若者がすでにやってきた。どこの国でも若者は政治に幻滅している。かれらは代議制民主主義がどこの国でも失敗したのだから、ぼくらは直接民主主義で行く。リーダーを擁しない。統一目標や綱領も作らない。そのかわり、参加者全員が平等の発言権を有する。時間がかかっても話し合いで物事を決める。

−キャッチコピーの「私たちは99%だ」は誰が考えだしたのですか?
 ニューヨーク在住のある大学教員が考えました。ウォール街占拠の立ち上げに加わった男性です。1%の大金持ちが富を独占していることを鋭くついた言葉で、世界中の人びとが格差感を端的に表現してくれました。社会運動史に残る名作だと思います。



−今後選挙運動はどこへ?
 春になったら、また新しい仕掛けをしていきます。まず「ロビン・フッド税」の実現が目標です。お金を右から左へ動かすだけの投機的な国際取引に対する課税で、それには投機的な取引の総本山である米国を巻き込まないと行けません。押収には賛成するリーダーが多いのですが、かたくなに反対しているのは、米国と英国。


 これも昨年チュニジアに始まった若者の運動と同じように、Facebook を通じて呼びかけられたアメリカの運動である。
 これまでのベトナム反戦運動やアースデイを巡る運動、反核運動などの若者の運動とも異なった、しかしどこか共通点がある運動である。
 この運動が、アメリカの大統領選挙にどういう影響を与えるのか、注目されている。

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2011年11月07日

安土往還記にみる信長とキリシタン宣教師たち

aduchioukanki

辻邦生の「安土往還記」という短編小説がある。
この文庫本の裏表紙には次のような紹介があった。

争乱渦巻く戦国時代、宣教師を送りとどけるために渡来した外国の船員を語り手とし、争乱のさ中にあって、純粋にこの世の道理を求め、自己に課した掟に一貫して忠実であろうとする“尾張の大殿(シニョーレ)”織田信長の心と行動を描く。ゆたかな想像力と抑制のきいたストイックな文体で信長一代の栄華を鮮やかに定着させ、生の高貴さを追究した長編。文部省芸術選奨新人賞を受けた力作である。


この小説に信長がなぜキリシタン宣教師たちに好意を寄せていたのかという心情がみごとに描かれているところがあった。

大殿(シニョーレ)はこうした現実の問題を処理する立場の人間として、tらえず「事が成る」ための力を必要としていた。事を成就せしめぬような知識はがらくたに過ぎなかった。彼は目を光らせ、渇いた人のように、事を成就させる知識を求めたが、同時にそうした知識を造り出す態度の厳しさに関心を持ったのだ。
「キリシタンの僧たちが大海に乗り出すように、その同じ勇気をもって、仕事に当たれ」
大殿は近習たちと雑談の折、そんな言葉を漏らしたと伝えられている。確かにオルガンチノをつかまえて、大殿は「あなたはなぜこのような遠くの国まで、危険な大海を渡って航海してくるのか、それが知りたい」とよく言っていた。彼は布教のためであれ、その他の目的であれ、生死のぎりぎりの地点にたち「事が成る」というただそのことに力を集中して生きるその厳しさ、緊張、生命の燃焼に強い共感を持っていたのだ。
大殿は「事が成る」ために目的のすべてを−自分の思惑、感情、惰性、習慣、威信、自尊心までを犠牲にした。そしてそうした態度をあえて他の武将、将軍、大名にも要求した。このことに関しては大殿は徹底的な献身を要求した。「事が成る」ために誰もが自分を殺し、自分を乗り越え、「理にかなう」方法を遂行しなければならなかった。


なるほど。信長は「事が成る」ための不屈な精神とおなじものを宣教師たちの中に認めていたわけである。秀吉はそれを怖れていたのだが………。

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2011年09月26日

「海鳴りの底から」にみる島原の乱の「パライソとインヘルノ」

この小説は堀田善衛が60年安保のころに「朝日ジャーナル」に書き下ろしたものである。
この本の表紙に書かれているこの小説の紹介である。

生きるか死ぬか、死ぬのが吉利支丹じゃろうか?幕府のキリシタン弾圧と藩の圧政に3万7千人の老若男女は島原の小さな城に立て篭もった。時に寛永14年11月。それに対して幕府連合軍は総勢12万5千。城の内と外で繰り広げられるハライソ=天国とインヘルノ=地獄。


島原の乱を舞台とする小説には「出星前夜」(飯嶋和一著 小学館刊)がある。この小説にも描かれていたが、「海鳴りの底から」にも同じようなテーマが浮かび上がる。つまり「地獄の中に天国がたちあがる」である。このテーマは、「災害ユートピア」で紹介した。

この小説の中で私が興味を持ったのはいくつかあるのですが、その中の一つは農民たちがなぜこの反乱をおこしたのかということを語るところです。

二ノ丸指揮者である山善右衛門は、まことにじっとしていられないふうで、しばしば軍奉行のかねての命に反して二の丸の持ち場持ち場へ出張っていき
「ほい、敵は大日本じゃ。おいたちはここにかとりかのれぷぶりかをおしたてるじゃぞぉ」
かとりかのれぷぶりかとはなんのことじゃ、ととわれれば、
「かとりかと申すは、世間は広いという意味で、れぷぶりかと申すは、国ということじゃ。国と言うてもな、天地同根、万物一体、一切衆生貴賎を撰ばずちゅう国柄のことじゃ。」ときれいさっぱり、応えていた。

申し分があるなら言えということであるから申し上げるが、今回、われわれが下々として一揆に立ち上がったのは、なにも国郡などを望んでのことではない。われらの宗門について自由が許されるならば、そのほかに存念とてはないのである。


次に興味を持ったのは、原城の陣中旗のことである。これを描いたのはこの小説の主人公の一人である絵師山田右衛門作である。かれはリーダーでありながら、敵がたに内通し、原城の戦いで唯一生き残ったリーダーであった。
この小説の初めの方に山田右衛門作がこの陣中旗を描くシーンがある。

一揆衆の中心になるものは何か、十字架の立つ聖餅と聖体秘蹟盃、つまりはぜずす・きりしとそのものを授かるという聖体の秘蹟、この二つ以外はありえない。それが羅馬公教会の中信思想である。聖杯には淡黄色をほどこし、銅板画の手法を用いて滑筆による陰影をつけた。この聖盃に侍して拝する二天使は、蘆筆を用いて飛翔の力感がでるように素描のあとをあらわにのこし、暗部は綾描によった。彩具は膠画用のものを使った。
描き終わって、上部に LOUVAD SELAO SANTISSIM SACRAMENT(いととうとき聖体の秘蹟は賛美せられさせたまえ」とのポルトガル語の賛をいれた。


この時代、司祭はいないのでミサは上げられない。だから聖体の秘跡には預かれないのである。なぜこのような絵になったのか、とても唐突な感じがするのだが、このしょうせつではそこはときあかされない。

もうひとつある。それはこの小説の中にしばしば「こんてむつすむん地」が読まれる場面が出てくる。

「こんてむつすむん地というのは、むずかしく言えば、すべて世俗の虚栄を蔑視する、ということじゃ。むんぢというのは、この世の中ということ、世界ということじゃから、地の字をしまいにあてた。その本は知ってのようにぜずす・きりしとにならうためのもの。初めから読んでみてくれ。」
和作は、火にこの木活字による、ほとんどが平仮名ばかりの活字本をあらためてかざした。
「御あるじのたまはく、われをしたふものはやみ(闇)をゆかず、ただ命のひかりをもつべしと……。」
右衛門作は、和作が読み下していく文章を耳にききながら、旨に誇らしい気持ちが湧いてくるのをおさえかねた。七面倒な漢文などではなくて、平仮名で見事な国語が連ねられている。慶長8年に長崎で印行されたものであった。その平俗な日本語にこめられている情と熱の深さに高さにはいつ耳にしても右衛門作はうたれた。仏教経典のあのわけのわからなさにくらべれば、よくもこんなにやさしくて耳に入りやすく、しかも美しい日本語に外国の経文がなったものだ、と感心した。
それは第1章、De Imitatione Christi et Comtemptu Omnium Vanitatum Mundi  という章名を「世界の実もなきことをいとひ、ぜずすきりしとを学び奉ること」と、素直に訳していた。この素直で情け深い国語の書き手として、細川ガラシャおたまの方、あるいはガラシャ夫人周辺の人々を彼は空想裡に描いている。西海の果てから伝わって来た経文が、美しい日本語を生む機縁になったということが、右衛門作にはえもいわず面白く感じられた。それはおのれ自身の画業にも通じてくる何ものかをもっているはずである。


この「こんてむつすむん地」はトマス・ア・ケンピス著の「イミタチオ・クリステ(キリストにならいて)」という書で私も昔読んだ本である。
そんなに美しい日本語なのか、あらためて読んでみなければならないなと思われた。

こちらは画像付きです


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2011年05月18日

「かるさん屋敷」井伏鱒二作を読んだ

井伏鱒二がキリシタン小説を書いているところが意外である。しかもそれは殉教の時代ではない。信長が溌剌と活躍していたときの安土のセミナリオが舞台である。九州有馬に作られたセミナリオとこの安土に作られたセミナリオの特徴をよく描いている。安土セミナリオの日常生活は興味深い。

本の裏表紙にある紹介文である

「かるさん」はポルトガル語の軽袗です。モンペの一種です。戦国のころ、ポルトガル人によって将来されました。当時の絵図で見るとモンペよりも仕立てがふっくらとしてなんとなく典雅です。……近江の安土城下に所在した学問所の門前にあった屋敷には、いつも軽袗をはいた人たちがいて、それで「かるさん屋敷」と呼ばれていた。


帯にはこんな風にこの本の紹介がある。

井伏氏の豊かな詩情のうちにユーモアとペーソスをたたえた独自の作風はすでに定評のあるところで「かるさん屋敷」は戦国時代安土城下のセミナリオに材をとり、当時信長が全国から集めたキリシタン学とのはつらつたる姿を描き、恋と夢と冒険にみちた青春物語です。


安土セミナリオにいた人々は、オルガンチノ神父、イルマンロレンソ了斉、漢文の教師碌々軒、国語の先生ビセンテ桐院、そして学生としては後の26聖人のひとりとなるパウロ三木、そして伊東マンショの兄伊東ジェロニモ義勝などが登場する。

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2011年01月08日

石田三成の大一大万大吉の旗印

NHKの歴史秘話ヒストリアなる番組を見ていたら、関ヶ原の時の石田三成の旗印についての解説がありました。
私もあの変わった旗印は何を意味しているのだろうかと疑問に思っていて、その解説に感銘を受け、あらためて石田三成を評価するようになりました。

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2010年06月26日

お茶とティ

お茶の原産地は中国である。
ところが世界の言語には「お茶」のことを「茶」と読ませる地域と「ティー」と読む2つの読み方があると言う。

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2009年02月21日

明治期に来日した外国人が見た日本人2題

 2月9日の毎日新聞「余録」にこんな記事があった。

「いきなり話しの要点に入るのはとっても不作法/交渉は日がな一日あわてずに/『すぐに』が1週間のことをさす、独特の/のんびり、のんきな日本流/時間の動きはてんでバラバラ/報時の響きはそろわない」
 明治に来日した米国人が書いた「おおざっぱな時間の国」という詩である。今ではちょっと耳を疑うが、西本郁子さんの「時間意識の近代」(法政大学出版局)によると、幕末や明治の日本人はのんびりと時間にこだわらぬ人びとだったらしい。


 こののんきな日本人が、世界有数のせっかちで時間にうるさい国民に変身していく過程をこの本は描いているという。余録子はこのあと国連安保理の議長国になった日本が各理事国にセイコーの電波時計を贈って時間厳守を呼びかけたという話につなげていく。
 「余録」はよくこんな話の展開をする。私はなかなかみごとな展開だといつも感心して読む。今起こりつつある出来事を何かの故事と結びつけていくその手法がみごとである。何よりもその博学さに舌を巻く。

 こちらは朝日新聞2月14日の「磯田道史の歴史ごよみ」にはこんなことが書かれていた。

 お金をかけずに人生を楽しむ極意がある。好奇心だ。明治期の来日外国人は、日本人が存分に人生を楽しんでいると気づき、その秘訣は好奇心にあると見抜いている。
 ドイツの医師ベルツは「日本人は陽気で快活、人生を楽しむすべを知っており、金には目もくれない。(『ベルツ日本文化論集』)、ロシアのメーチニコフは「日本には見物というどうにも翻訳不可能な言葉がある」といった(『回想の明治維新』)。
 日本人は見世物の天才。江戸時代からテーマパークを楽しんだ。特に大阪は自由。度肝をぬく見世物が表れた。


 そういえば、平賀源内が最初の見本市を開いたのは大阪でした。
 この日本人の「好奇心」べつなことばでいうと「物見高さ」はやはり特異だったんだ。

 この二つの明治期の日本人像は、とても新鮮でういういしい。
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2008年06月07日

日本史で「仮説実験授業」

 昨日「仮説実験授業」の紹介をしましたが、板倉氏の話によると、このような授業は歴史でも展開できるといわれます。
 たとえば、こんな例が「日曜喫茶室」で紹介されていました。

 江戸時代の日本の人口はおおよそ3000万人で安定していました。現在は1億2000万人ですから、この150年で4倍に増えたことになります。
 ところで、人口が急速に増加に転じたのは、いつの時代であったか?これが問題です。

 1.明治維新のころ
 2.日清・日露の戦争
 3.日本が産業革命に入った時代
 4.第2次世界大戦後

 この問題について、先ず議論をします。
 人口増は戦争と結びついているから「日清・日露」の時代ではないか、という考え。
 いや、産業構造の変化と関連するのではないか、つまり「産業革命のころ」
 やはり、戦後のベビーブームだよ。なんといっても。
 いろいろな「仮説」が立てられて議論を呼び起こします。

 答は「1.明治維新」なのですね。
 これは歴史の専門家でも正しい答が出ないそうです。むしろ、歴史の知識が邪魔をする。
 なぜそうなのか、いろいろと解釈があるようですが、そこは「日本史再発見」(板倉聖宣著)に詳しく書かれているようです。

 歴史の場合には、「実験」をするわけにはいかないのですが、「答え」としての「事実」は存在するわけです。
 このような、「仮説実験」の問題となるような意外な歴史的事実を探すところがミソとなるのでしょう。

 「日本史再発見」「歴史の見方考え方」(板倉聖宣著)を図書館で予約して読んでみようと思います。理系的な視点から歴史を見るとどうなるのか、読んだらまた報告することにしましょう。 
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2007年11月27日

ローマ人の死生観

「ローマ人の物語6」にこんなことも紹介されていた。

 ローマ人の死生観は、死生観などという大仰な文字で表すのがはばかられるほど。非宗教的で非哲学的で、ということはすこぶる健全な死生観であったとわたしは思う。死を忌み嫌ったりはしなかった。「人間」というところを「死すべきもの」という言い方をするのが普通の民族だったのである。

 墓も死者だけを集めて生者の生きる場所から隔離した墓地を作るということはしなかった。校外の一戸建てのヴィラの庭の一面に葬る人もいたが、庭に恵まれたヴィラの持ち主でもわざわざ、墓所は街道沿いに立てる方を好んだ。………アッピア街道でもフラミニア街道でも。ローマ式の街道ということになれば都市をでたとたんに、街道の両脇はさまざまな社会階層に属する人びとの墓が並び立つのが通常の景観であったのだ。街道とは生者が行き交うところである。それで死んだあとも、なるべく生者に近いところにいたいからだった。

 とくに、行き交う生者の数がどこよりも多い都市に近い街道沿いは、両側に並び立つ墓の間を歩いていくようなものだった。これらの墓所は、各種各様のデザインを競った造りであり、墓碑に刻まれた文の中にも愉快なものが少なくなく、ローマ人の健全な死生観を表してあまりある。
「おお、そこを通り過ぎていくあなた、ここに来て一休みしていかないか。頭を横に振っている。なに休みたくない? と言ったって、いずれはあなたもここに入る身ですよ」
「幸運の女神は、すべての人にすべてを約束する。と言って、約束が守られたためしはない。だから一日一日を生きることだ。一時間一時間を生きることだ。何ごとも永遠でない生者の世界では。」
「これを読む人に告ぐ。健康で人を愛して生きよ。あなたがここにはいるまでのすべての日々を。」


 日本の「なになに家累代の墓」とかいうあじけないものではない。しかも人の通らない奥まったところにあるのでもない。
 明るく楽しく生きてきたことへのあかしを多くの人に見てもらいたいというローマ人の現実的で健全な死生観ということになるであろうか。
 惜しむらくは、それらの墓碑銘の写真がほしかった。
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皇帝アウグストゥスの現実主義

 塩野七生著「ローマ人の物語6」を読み終えた。共和制から帝政へと移行するときの初代皇帝の話しである。でも4巻や5巻のカエサルのときのようには、ここに紹介する話しが多くない。
 せめてと思って、この書の最後に紹介されていたアウグストゥスのエピソードを一つ紹介しよう。

 死の少し前のアウグストゥスが、ナポリ湾の周遊中に立ち寄ったポッツォーリでの出来事である。
 エジプトのアレクサンドリアから着いたばかりの商船の乗客や船乗りたちが、近くに錨を降ろしている船の上で休んでいた老皇帝を認めたのだった。戦場から人びとは、まるで合唱でもするかのように、声をそろえて皇帝に向かって叫んだ。
「あなたのおかげです。われわれの生活が成り立つのも。
 あなたのおかげです。私たちが安全に旅をできるのも。
 あなたのおかげです。われわれが自由に平和に生きていけるのも」
 予期しなかった人びとから捧げられたこの讃辞は、老いたアウグストゥスを心の底から幸福にした。彼の指示で、その人びと全員に、金貨10枚ずつが贈られた。ただし、金貨の使い道に条件が付いていた。エジプトの物産を購入して他の地で売ること、である。老いてもなおアウグストゥスは、現実的な男であり続けたのである。物産が自由に流通してこそ、帝国全体の経済力も向上し、生活水準も向上するのである。そしてそれを可能にするのが「平和(Pax)」なのであった。


 いかにもアウグストゥスらしいエピソードである。かれはいくさこそうまくなかったが、産業を興し、経済を活発にすることが「ローマの平和(Pax Romana」の現実的な礎であることをよく知っていたということである。
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2007年11月25日

「メセナ」の語源はマエケナス

 企業が文化・芸術などを支援することによって社会貢献の活動をすることを「メセナ」というが、この言葉はフランス語の mecenat から来ている。
 さらにこのフランス語の語源をたどっていくと、ローマ帝政最初の皇帝アウグストゥスの片腕となって活躍したマエケナスに由来するというと塩野七生著「ローマ人の物語Y」に書かれていた。

 マエケナスは、アウグストゥスによって、今でいうなら文化・広報担当の役を与えられた。彼はこの役について、私財を投じて文化の助成に費やした。彼の周囲には多くの文化人が集まった。中でも詩人が多く。ヴェルギリウスとホラティウスの二人は有名である。

 ヴェルギリウスは、ダンテの「神曲」において、地獄と煉獄まわりの案内者とされたことでも知られている。

 一方の詩人ホラティウスは、解放奴隷の子で財産もない貧しい詩人であったが、マエケナスは最初、アウグストゥスのもとで官吏の仕事を紹介するが、彼はそれを断る。それならとマエケナスは、ホラティウスに、24室もの部屋を持つ山荘の管理人とした。当時山荘を送るということは,住まいと仕事場と生活の糧を送ると同じことであった。

 イタリアのルネッサンス時代にも「マエケナスする」人がいた。フィレンツェのメディチ家の当主コシモである。彫刻家のドナテッロ、ミケランジェロなどはいずれも、コシモ・デ・メディチの世話になった芸術家である。

 その語源がこんな所にあると知って少々驚きであった。
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2007年11月21日

カエサルの「寛容(クレメンティア)」

 カエサルの魅力の一つとして、彼がかなり徹底した「寛容」の精神の持ち主であることがあげられる。
 かれが政敵との抗争に勝利して樹立した新秩序のモットーはこの「寛容(クレメンティア)」であった。凱旋式挙行を記念してつくられた記念銀貨にはこの「クレメンティア」の文字が彫り込まれていた。

 カエサルの政敵との戦いは、できる限り血を流さないやり方で成し遂げようとした。同胞同士が血を流し合う内戦の悲惨さを可能な限り回避しようとしたのである。
 また彼は自分と立場をともにしない人びとは抹殺されてしかるべきだとは考えなかった。殺そうと思えば殺すことのできた捕虜や投降してきた敵兵に対しても「勝利者の権利」を行使せずに釈放した。その人が再び彼に敵対するであろうことも充分に予測しながらも放免したのである。
「わたしが自由にした人びとが再びわたしに剣を向けることになるとしても、そのようなことには心を煩わせたくない。何ものにもましてわたしが自分自身に課しているのは、自分の考えに忠実に生きることである。だから他の人もそうあって当然と思っている」
 これは人権宣言にも等しい。個人の人権を尊重する考えは、後代の啓蒙主義の専売特許ではないのである。


 この時代は、戦争で負けて捕虜になったり、降服してきた兵や住民は、殺されるか、あるいは奴隷として売り飛ばされたり、略奪されるのが「勝利者の権利」として当然のこととされていた時代である。
 カエサルはその「勝利者の権利」を行使しなかった。
 そのもっともよい例は、政敵であることを貫き通したキケロとの関係であっただろう。カエサルとキケロについてはまた改めて書きたいと思っている。
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「禿で女たらし」のカエサルの魅力

 塩野七生著「ローマ人の物語」を5巻まで読み終えた。4巻と5巻はカエサルの物語である。これがまたおもしろかった。
 カエサルという人物が話しが面白く、文章もうまく、政治家としても軍略家としても天才的な能力を持っているということが、実によく描かれている。
 カエサルが殺されたときは、だから悲しかった。こういう気持ちは司馬遼太郎の「龍馬がいく」で坂本龍馬が暗殺されたとき、吉川英治の「三国志」で孔明が死んでしまったときに味わったものと同じであろう。

 カエサルは女性にもてた。彼と対立していた元老院派のなかで妻を寝取られたのが実に3分の1もいたとかいう。

 カエサルがポンペイウスとの戦いで凱旋したときの軍団兵の行進で、彼らは一斉に大声で、その日のためにと決めておいたシュプレヒコールを唱和した。それは「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」というものであった。
 それではあんまりではないかと、カエサルは抗議したのだが、カエサルと12年間も苦楽をともにしてきたベテラン兵たちは、敬愛する最高司令官の抗議でも聞き入れなかった。凱旋式に何を唱和しようとも、それは軍団兵の権利だというのである。確かにそうでいい気になりがちの凱旋将軍の威光に水をかけるシュプレヒコールは、神々が凱旋将軍に嫉妬しないようにとの理由で、ローマの凱旋式の伝統でもあった。人並み以上にユーモアのあるカエサルだけに、このときの抗議も、いつものヒューマン・コメディの一例であったかと思われる、ただし、禿、というのだけは気にかかったらしい。このころには額の後退のとどまるところを知らなかったカエサルの、唯一の泣き所であったからだった。元老院は、カエサルの10年間の独裁官就任を可決した際に、カエサルだけは特別に、凱旋式以外の場所でも月桂冠をつけることを許している、これはカエサルが大変に喜んで受けた栄誉だった。月桂冠をつけていれば後退いちじるしい額も隠すことができたからである。


 こんなにもてたカエサルでも、女に関するもめ事がなく、訴えられたこともないところが不思議である。
 なぜそんなにもてたのだろうか。
 この書によると、先ず彼の女性へのプレゼントが実にうまく女心をとらえたのだそうである。
 そして会話が実にうまかった。ユーモアに溢れ、機知に富み……とある。
 そんなにハンサムでもなかった。禿げてもいた。ハンサムといえば少年時代のアウグストスは実に美少年だった。それがカエサルがオクタビアヌスを養子にした理由の一つだったともいわれている。カエサルが持っていなかったものを持っていたこの少年に対するあこがれを物語っていたのであろう。  
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2007年10月28日

カエサルの魅力 その1

 塩野七生作「ローマ人の物語」を第4巻まで読み通してきた。案の定この本のおもしろさに引き込まれてほかの本が読めなくなった。第2巻のハンニバルも面白かったが、4巻、5巻のカエサルも実に面白い人物である。

 こんな話しが紹介されていた。

 カエサルが27歳の時、留学のためにロードス島に行く海上で、乗っていた船が海賊船に襲われ捕虜にされてしまったのだった。

 獰猛なことでも有名な海賊たちは捕獲した船の船客ひとりひとりに身代金の値をつけていく中で、カエサルには20タレントという値を言い渡したのである。……。20タレントは4千3百の兵を集められるほどの金額になる。
 ところが、自分の値がそれと聴いた若者は、大笑いしたあとで言った。「おまえたちは誰を手中にしているのか知らないのだ」そして自分のほうから身代金を、50タレントに値上げしたのである。従者たちを金策に送り出したあとの彼自身は、一人の友と2人の従者とともに海賊たちの間に残った。
 
 捕虜としてとらえられている間のカエサルは、おずおずするどころか、高慢に振る舞った。彼が眠りたいと思っているときに海賊たちが騒いでいると、従者をやって静かにするようにと命じさえした。それでいて海賊たちの武術訓練や娯楽には参加した。……。海賊たちを、書きためた詩や演説の聞き役にも使った。彼らの誰かが脇を向いていたりすると、知性に欠ける野蛮人だと叱った。そのようなときのカエサルは海賊に囲まれた人質にはとても見えず、ボディ・ガードに囲まれた重要人物でもあるかのようだった。しばしばこの人質は海賊たちに向かって、いずれは縛り首にしてやると言って脅かした。しかし海賊たちは、そのようなことを言われても若者の冗談と受け取って笑い合うだけだった。

 身代金を持った従者が戻ってきて、カエサルは自由の身になった。海賊たちから解放されたとたんに彼は近くのミレトスの町に急行し、船を借り、人を集め、それを率いて海賊征伐に出発する。ミレトスの近くの入り江に停泊中の海賊船を急襲し、全員を捕虜にすることに成功した。海賊たちの財宝も分捕ったから、50タレント分はもちろんお返し願ったのに違いない。
 以前とは立場が逆転して捕囚になってしまった海賊たちを、カエサルは、先ず牢の中に入れておき,小アジア属州総督に報告に行った。だが、総督の注意はカエサルが没収した海賊の財宝に目が向けられていて、海賊の処置は、勝利者の権利ということでカエサルに一任される。戻ってきたカエサルは彼らを牢屋から引き出し、全員を絞首刑に処した。海賊たちは冗談と思っていたことが冗談でなかったことを知らされたのであった。その後、何ごともなかったかのようにロードス島に到着したカエサルは知性を深める学生生活を始めたのである。


 引用が長くなったが、カエサルとはこういう人物であった。その他にもこういうエピソードがたくさんある。
 彼は貴族の出身とはいえ、実は家が貧しく、彼の活動資金は借金でまかなわれていたということも紹介されている。
 カエサルについてはまだまだ紹介したいことがある。
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2007年10月05日

ギリシャ人とローマ人とユダヤ人

「ローマ人の物語」〔塩野七生著 新潮社刊)を学校図書館から借り出して読み出した。全1?巻もあるので、しばらくはその他の本が読めなくなりそうである。予想どおり面白い。この BLOG にて紹介したくなる事柄がたくさん載っている。少しずつ紹介しよう。

 先ずこんな文章に出くわした。

人間の行動原則の正し手を
 宗教に求めたユダヤ人
 哲学に求めたギリシャ人
 法律に求めたローマ人
この一事だけでも、これら三民族の特質が浮かび上がってくるぐらいである。


 ギリシャ・ローマに代表される多神教と、ユダヤ・キリスト教を典型とする一神教とのちがいは、次の一事につきると思う。多神教では、人間の行いや倫理道徳をただす役割を神に求めない。一方、一神教では、それこそが神の専売特許なのである。多神教の神々はギリシャ神話に見られるように、人間並みの欠点を持つ。道徳倫理の正し手ではないのだから、欠点を持っていてもいっこうにさしつかえない。一神教の神になると、完全無欠でなければならなかった。放っておけば手に負えなくなる人間を正すのが、神の役割であったからである。

 では、自分たちの道徳原理を正すことを求めなかった神々に、ローマ人は何を求めたのか? 
《守り神》である。守護を求めたのだ。首都ローマを守るのは最高神ユピテルを初めとする神々であり………。

《守り神》の愉快な例がヴィリブラカ女神だ。夫婦喧嘩の守護神とされていた。
 夫と妻の間に、どこかの国では犬も食わないといわれる口論が始まる。双方とも理は自分にあると思っているので、それを主張するのに声量もついついエスカレートし………つい手がでる、となりそうなところをそうしないで、二人して女神ヴィリブラスカをまつる祠に出向くのである。…………女神を前にしてのきまりとは、女神に向かって訴えるのは一時にひとりと限る、であった。
 こうすれば、やむをえずとはいえ、一方が訴えている間は他の一方は黙って聞くことになる。黙って聞きさえすれば、相手の言い分に理がないわけではないことに気づいてくる。これを双方で繰り返しているうちに、興奮していた声の調子も少しずつ落ち着いてきて、ついには仲良く二人して祠をあとにする、ことにもなりかねないのである。

 カトリック教会における、守り神的な役割は、聖者たちの受け持ちとしたのである。こちらのほうも、書き始めたらきりがない。なにしろ、寝取られ男にまで守り神がいたのだから。キリスト教では守護神とするわけにはいかなかったので、守護聖人といった。………とはいえ、夫婦喧嘩担当の守護聖人までは、折衷の才豊かなキリスト教でも配慮が及ばなかったようである。


 こんな文章がたくさん出てくるのが「ローマ人の物語」である。読み進めていくに従って、ますます先が読みたくなる本である。
 ところで「寝取られ男」の「守護聖人」というのは誰のことだろうか?
 
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2007年10月02日

自民党派閥、相撲部屋、銀行の系譜のわかりにくさ 

 わたしの隣でいつも一緒にお弁当を食べている社会科の先生はやたら系図に強い。

 まず最近の自民党の派閥がわからないので聞いてみた。津島派とか伊吹派とかいう最近の自民党の派閥はどういう流れなのか聞いてみたら、いろいろと説明してくれた。
 田中派とか福田派とか中曽根派とか三木派とかいったいわゆる「三角大中」とか「角福戦争」とかいう時代は少しはわかっていたが、その後がとんと見えなくなっていた。そこからの流れを説明してくれただけでなく、次の日には自民党の派閥の離合集散図を書いたものをコピーしてもらうことができた。

 そういえば、最近の系譜にはわからなくなったものが多い。次に話題に上ったのは相撲部屋である。どこの相撲部屋はどこの部屋から独立して、その親方は現役時代の何という力士であったかというのをすぐに説明してくれた。栃錦が春日野部屋で若乃花が花籠部屋で柏戸は伊勢が浜部屋、大鵬が二所関部屋であるくらいまでは何とかわかったがその後はほとんど見えてこない。こちらは分離独立していくばかりで統合されていくというのはないようなので、ますますわかりにくくなりそうで、自民党の派閥よりも複雑そうである。

 もうひとつわかりにくいものがあげられた。それは銀行である。昔の都銀(富士、第一、勧銀、興銀、大和、三和、三井、住友、協和、三菱、東京)の時代のなじみの銀行名が消えて、みずほ銀行やUFJ銀行、さくら銀行、あさひ銀行(いまはないか)が昔の銀行の何と何が合併したのかがわからない。東京三菱とか三井住友とかいうのはわかりやすいのだが、まあこちらはむかしよりも銀行が統合されて少なくなったので、自民党の派閥や相撲部屋よりはわかりやすいのだろうが……………。

 まだ系譜がわかりにくくなったものがありそうである。

 

 
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2007年05月20日

信州松代藩恩田木工の知恵

 「面白いほどよくわかるマキャベリの君主論」(金森誠也監修 日本文芸社刊)という本を読んだ。この本はマキャベリの「君主論」の一節を引用し、これに関係する歴史の断面を紹介している興味深い書である。その歴史には日本史あり、中国史あり、世界史ありで古今東西の歴史の断片が引き合いに出されている。
 ただ「人間と組織の本質を説く権謀術数の書」と副題があるように、Good News と思われることが少なくてこのブログで紹介するにははばかられることが多かったのだが、この話はGood News であると思われたので、ここに紹介しよう。

 この章のタイトルは「味方よりもかつての敵のほうが有益になることは多い」というものである。
 信州松代藩の家老恩田木工は、大赤字にあえいでいた真田藩の財政をわずか5年で立て直したことで知られている。
 木工が財政建て直しをするに当たって、まず行ったことは領民との対話であった。藩の収入の大部分は領民の納める年貢である。年貢を遅滞なく納めさせるには領民との信頼関係を結ぶのが大切と考えたのである。
 ところがその対話で、領民たちから悪い役人にいじめられているという話しが続出した。そこで木工はそのような役人のリストを作った。
 そのリストを見た藩主は激怒し「ただちに断罪せよ」と言ったが、おどろいたことに木工はこう応えたのである。
「このような悪事をやるには知恵と才能がいる。その才能を断罪して捨ててしまうのはもったいない。むしろ私の相談役として取り立てたいと思います」
 リストに載った役人たちは「死罪になるのか」と怖れた。ところが木工に取り立てられ、相談役に重用された。彼らがはりきらないはずはない。
 彼らはさすがに金のことには詳しくたとえば金の捻出のしかた、処理の方法、細かいコスト計算など、実にうまいものであった。彼らの協力があったからこそ、信州松代藩はわずか5年で財政再建を果たしたというわけである。

 悪事をはたらくには才能がいる。その才能をこのように役立てた恩田木工の知恵に敬服する。

 

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2006年05月30日

宮城家系図


系図1 私のは母方の青地家には家系図が残されている。青地家、宮城家系図である。今から10年くらい前にこういう系図が残っていると紹介され、それをつぶさに読みとって、叔母の納骨のために、菩提寺の京都黒谷の金戒光明寺の永運院を訪れた時に紹介した。


系図3 なかなか由緒ある家系図なのである。
 それによると、第50代天皇平城天皇にさかのぼった大江氏宮城家系譜とある。家紋は「丸に揚羽蝶」。
 その系譜にはいろいろな歴史上の人物が現れる。
 まず、万葉歌人の大江音人。その兄弟に在原業平、行平の兄弟がいる。
 音人の子大江千里は「月見ればちぢにものこそおもわれね我が身一つの春にはあらねど」と歌った古今集の歌人である。
 大江家の系譜からは、大江匡衡(道長の信篤かった文章家)大江匡房、さらには頼朝の侍所別当であった大江広元がいる。さらにここからは戦国大名の毛利の系譜が始まる。
 この大江広元のときに奥州の地頭となったあたりから宮木の姓が表れ、さらに宮城家が起こる。宮城家の3代目宮城賢輔は信長秀吉に仕える。


系図2 7代目の宮城豊盛が興味深い。系譜でもこの人について書かれた部分がとても多いのである。この人物は戦国大名辞典によるとけっこう面白い生き方をした人物である。
 秀吉に仕え、播州三木城の攻防戦で手柄を立て、小田原攻めや朝鮮出兵に出陣。対馬に領地5000石を得る。朝鮮の役後、講和使節として渡海。また京都黒谷の金戒光明寺の本堂再建の時に奉行となる。関ヶ原においては西軍に参戦するも、戦後本領安堵をされ、家康にも仕える。西軍に加わりながらも戦後本領安堵をされているということは、関ヶ原で寝返ったということだろうか。

系図3 この系図を読みとると、豊盛の妹は鯰江貞勝にとつぎ、その子の宮城和甫は東軍に加わっている。さらにこの親戚に家康の政商であった尾張の商人茶屋四郎次郎がいたのである。
 豊盛が朝鮮通であったことも重視される理由であったことが予想される。
 黒谷の金戒光明寺は、法然ゆかりの浄土宗の大本山であり、幕末の京都守護職であった会津藩主松平容保がここを本拠として活動したことで有名である。

 江戸期になって宮城家は御三家の一つである尾張松平家に仕えていた。

 この家系図は、江戸から東京に変わった頃書かれてあったようである。

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