2014年05月10日

宗教科教育法3時間目「祈りについて」

 カトリック学校が生徒に与えることのできるもっともいいものは、きっと「祈り」だと思う.生徒たちが祈ることを身につけていたら、それによってどれだけ救われるか、「祈りが私を自由にする」「祈りの持つパワー」を体験出来ることの幸せをカトリック学校だけが教えられるじゃずである.ところが今の「宗教」の授業ではこれを知識ではなく体験としてどのくらい教えているのか、まったくもってもったいないと思っている。
 それで、これから3回くらい「祈りをどのように教えるのか」についてかんがえる。

 まず「日本人の祈り」について次のような問いかけをする。
 問1 日本人のもつ祈りのイメージは? 思いつくことばやイメージを自由にあげてみよう.

合掌 ぬかづく みずごり 滝に打たれる 念じる 願う 苦しいときの神頼み 念仏 お題目 お経 ロザリオ ひざまづく 黙祷 無心になる


  問2 日本人はどのようなときに祈る

初詣 墓参り 葬式のとき 病気のとき 神社やお寺で 除夜の鐘 建前のとき
合格祈願 安産 お祭り…………


 無宗教といいながら日本人は結構祈っています。
 さらにどちらかと言えば、初詣、お宮参り、結婚式などの始まりのおめでたいことは神社にいき、葬式や除夜の鐘、専属用などの終わりに関することで教示はお寺に行くことが多いのはなぜか?と問いかけたりします。

 問3 日本人は何を祈るのか?

家内安全 健康無事 商売繁盛 五穀豊穣 安産祈願 合格祈願 旅の安全 病気の回復…………


 「亡くなった人のためには何を祈るのか」「冥福を祈るというけれど、あれは何を意味するのかな?」とも問いかけます.
 この日本人の祈りには「世界の平和」や「災害の復興」「飢餓のこどもたちのために」みたいなのがないよねといいます。日本人の祈りは自分のご利益が多いのですね.こういうと反発する人が出るかもしれないけれど。

 問4 祈りの道具、スタイルなど

合掌 ロザリオ 数珠 お経 写経 座禅 ひざまづく ひれふす 絵馬 おまもり お百度参り 


 「ロザリオ」が出てきたときには、実際にロザリオを見せて「これを使ってどう祈るのかを誰か知っているか?」ときいて、ロザリオの祈り方を教えます。

 もう1つとてもおもしろい問いかけがあります。「定期試験の前に何を祈りますか?」という問いかけです.との問いかけはとてもおもしろい応えが出てきます。そしてそれは祈りの本質に触れるような応えが生まれるのですが、これについてはこの次に書くことにしましょう.
 今日はこの辺で。
 ごきげんよう!

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2014年04月25日

「道徳」「倫理」と「宗教」の授業の違い

今日(4月25日)の清泉女子大学の「宗教科教育法」の時間は「宗教の授業で何を教えるのか」というテーマで行いました.
今年の履修生は実は2名でした。この科目を担当して今年で6年目ですが、今回がもっとも少なかったです。1年目は5名、2年目は10名、3年目は14名、4年目は8名、昨年は6名でしたが、いまだ「宗教」を担当する教員になった人がまだでていないというのが現状です。
あまりに受講者が少なくはりあいがないので、できるだけブログと Facebook で公開することにしました.

まず、中学「道徳」と高校公民科「倫理」の「学習指導要領」を読み合わせました.
中学の「道徳」学習指導要領には、「内容」の3に

3.主として自然や崇高なものとの関わりに関すること。
⑴ 生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する。
⑵ 自然を愛護し、美しいものに感動する豊かな心を持ち、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める。
⑶ 人間に弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて、人間として生きることに喜びを見出すようにつとめる。


というのがあります。この「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」というのが「神様を賛美する」ことになるのだと説明をしました。

そのあと学生たちに問いかけてみました.そのやりとりを再現してみましょう。実際よりもよく書かれているのですが…………。

ipp

「じゃあ、公立でする「道徳」「倫理」の授業とカトリック学校の「宗教」の授業の違いは何だろうか? 宗教系の中学校では「宗教」の授業を「道徳」の授業として扱うことが認められているけれど、やはり違いはある」
学生たちの応え、
「まず第一に、聖書を読むということ」
「神様の話が出てくる所」
「祈りを教えるところ」
「そうだね。この3つがもっとも大きなところだ。では内容的にはどうかな? この3つの特徴の故に教える内容にはどのような違いがあるかな? わからないかな?」
「そういえば『宗教』には学習指導要領がないね.教科書もないし」
「道徳では愛の大切さは教えるけれど、キリスト教ではアガペ(無償の愛)をとくところかな。」
「よくわかったね。他にはこういう違いはもっとたくさんあると思うけれど」
「道徳では『いのちがもっとも大切である』と教えるけれど『宗教』では『いのちよりも大切なもの』を教えます。星野富弘さんみたいに。」
「おお、それはいい所に気がついた。『永遠のいのち』の話はもっとも宗教的だと思う。」
「福音の逆説性というのもあるよね.『貧しい人は幸い」「泣く人は幸い」なんて道徳の授業で教えたら訴えられてしまうけれどね。それに『汝の敵を愛せよ』もそうだよね。常識的には考えられないことでも『宗教』の授業でなら『偏向』といわれずに教えられる」
「じゃ『道徳』の授業では教えられても『宗教』ではほとんど教えていないことがあるけれど、気がつくかな。教えている所もあるだろうけれど、きわめて少ないと思う.」
「なんだろう? わかんな〜い」
「『愛国心』だろうね。国を愛するよりもより普遍的な人類愛は教えるけれど.国家に体する忠誠心みたいなものは教えないよね.」
「そういわれると『道徳』では社会批判みたいなことも言わないよね.社会の矛盾とか社会が持つ構造的な悪みたいなことも教えないね。『宗教』の時間ではしっかりと教えるよ.」
「『道徳』というとやはり、国が教える教科なんだよね。どうしてもそこから抜け出すことができない。」
「じゃ、次の質問だ。いま文部省では『道徳の教科化』ということを画策しているけれど、『道徳』が『教科」になるとどこが違ってくるのだろう?」
「学習指導要領と検定教科書が出現する。これまでは道徳には副読本はあったけれどね。」
「評価が付く。つまりテストをするということかな?」
「教員免許状も必要になるよね.道徳を教えることがより専門的になる。これまでは教員免許を持っているものなら誰でも教えることができた。」
「つまり、道徳を○と×で教えるようになる.善と悪を峻別するようになる。本当は善と悪の灰色状態が問題なのだろうけれどね」
「なんか、授業がつまらなくなりそう。価値観の押しつけばかりが多くなってしまいそうだから。いろいろな意見が出て活発に話し合う所が面白かったのに、これではなかなかそういう『対話』は生まれそうにないね.」
「そういう対話の中で気がつくこと、教えられることが『道徳』の授業の場合とても大切なんだよね.」
「前に述べたような『宗教』の授業でしか教えられなかったことが教えられるなくなりそう。ということはミッションスクールの存在理由にも関わってくる大切な問題なんだ。カトリック学校にはこの危機感が薄いような気がすることも問題だ」


とまあ、こんな展開がありました。
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2014年01月19日

パスカルの「賭け」

パスカルの「パンセ」に』こういうくだりがある。有名な「パスカルの賭け」についてのくだりである。これは「はじめてのゲーム理論」(講談社ブルーバックズ 川越敏司著)に紹介されていた。この考え方が「ゲームの理論」の本に紹介されていたというところがおもしろい。

 それではこの点を検討して「神はあるか、またはないか」と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てが賭けが行われ、表がでるか、裏がでるかなのだ。君はどちらに描けるのだ………さあ、考えてみよ………。選ばなければならないのだから、どちらのほうが君にとって利益が少ないかかんがえてみよう………神があるという方を表にとって,損得を計ってみよう。次の2つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば君は全部もうけられる。もし君が負けてもなにも損しない。それだから、ためらわずに神があると描けたまえ………ここでは無限に幸福な無限の生命がもうけられるのである。勝つ運がひとつであるのに対して負ける運は有限の数であり、君の賭けるものも有限なものである。これでは確率計算など全部いらなくなる………したがって無に等しいものを失うのと同じような可能性でもって起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで、出し惜しみをするなど、理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。


 このパスカルの考え方について「はじめてのゲーム理論」の著者川越敏司氏はこんな注釈をよせていました。

 これは「パスカルの賭け」と呼ばれている、神への信仰を合理的に正当化する有名な議論のひとつである。
 神が存在するか否か、どちらかに賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が、存在しないという方に賭けるよりも期待値が大きいから、神が存在すると信じるべきだという論法です。
 これは非常にゲーム理論らしい考え方です。パスカルは何百年も前に、ゲーム理論の考え方を先取りしていたのかもしれません。


 この論法は、たとえば「死後の世界」が存在するかどうかについても当てはめられる。つまり「死後の世界」が存在するかどうか、人間には分からない。問題は「死後の世界」が存在する方に賭けるのか、存在しない方に賭けるのか「賭け」なのである。どちらに描けた方が利得があるのか。
 それは明白である。「存在する」ほうに賭けた方が希望を持って死ぬことができるからである。死んだらもうそれで終わりと考えるよりも、死んだら天国に行ける、死んだら先に死んだ自分の肉親や愛する人と再会できると考えた方がずっと希望と安心を持って死ぬことができるからである。
 この論法は他の問題にも当てはめることができるだろう。
 信仰というのはそういう問題なのかもしれない。
 というと、信仰は損得の問題ではないと反論する人がいるということも想像するに難くないが………。

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2013年12月23日

日能研車内広告より横浜雙葉の入試問題

日能研のJR車内広告で、横浜雙葉の国語の中学入試問題が紹介されていました。

poster_ko

こんな問題を出すなんてさすがカトリック学校です。

その問題は
あなたが「かけがえのない存在」として大切にされた体験を書きなさい。そしてその体験があなたの生き方にどのように活かされているかを書きなさい。
です。

あなたならどのようなことを書きますか?
私は………。私は書くことがたくさんあります。さて何について書こうか。

ところでこれをどのように評価するのでしょうか? どのように書いた子どもに高い評価を上げるのでしょうか? 思わずそこを聞いてみたくなります。

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2013年11月02日

いろいろな刺激を識別できる特別な能力

 私の友人(女性)はとても感覚的に鋭敏な方で、こういう方がおられることにとても感動しました。
 鳥の音や時計のチクタクや味や匂いをとても良く聞き分ける特別な能力をもっておられるのです。本人はそれを特別な能力だと思ってはおられないようで、「えっ! みんなそうでないの?」とおどろかれるところがまたまた不思議です。
 尾籠な話で恐縮ですが、こんな話をしておられました。
「トイレに入って、前の人の匂いが残っているときに、その人が何を食べたのかをかぎ分けることができるんです。普通の人はその匂いは不快だから嗅ごうとしないだけのことでよく匂いを嗅いでみるとわかるんです。一番よく分かるのはしいたけですね。自分のにおいでももちろんよく分かりますけれど、ひとのほうがよく分かるような気がします。」
 人がいい匂いには敏感だけど、不快な匂いは嗅ごうとしないからわからないのだということになるほどと思いました。

 日本酒の品質を判定したり、その銘柄名をあてたりするのを「利き酒」といいます。この「利」という字が気になりました。「利益」「便利」とかいう意味のほかに「鋭利」つまり鋭いという意味もあります。この漢字の旁の部分は「りっとう」つまり「刀」ですから、「鋭い」という言葉がもともとの意味で、「よく切れる」→「便利」→「利益」というように意味が発展していったものと思われます。
 そういうふうに、感覚的に研ぎ澄まして、区別できることを「識別」といいます。これに「利き酒」の「利く」という漢字が当てはめら、それがたぶん音で「聴く」というのと同じような音の響きを持つことがとても興味深いです。
 そしてその聞き分ける力(識別能力)というのは、訓練するとかなり上達します。鋭敏に研ぎ澄まされていくのでしょう。

 キリスト教では、神の声を聞き分ける力が必要とされます。祈りとは神にお願いを述べ立てることよりも、神の声を聴くことです。もちろん直接物理的な音として聞こえることはほとんどないでしょう。でも私たちの日常的な現実の些細なことをとおして、人との叫びをとおして、あるいは世界の出来事をとおして、神の声を聞き分けることが必要です。
 ときにその「匂い」は不快なものかもしれないけれど、そらさずに匂いを嗅いでみるとその神の声が聞こえてくるということもあるような気がします。
 すみません。神の声をトイレの匂いにたとえてしまった不謹慎さをおゆるしください。
 「メアクルパ! メアクルパ! メアマクシマクルパ!」(これは昔のラテン語の「告白」の時の祈りの言葉です。これは胸をたたきながら唱えました)

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2013年05月08日

「Men for Others 〜仕えるために」六甲学院の歌です。

私の母校とおなじイエズス会の学校六甲学院の創立65周年記念歌だそうです。ゴスペルシンガーのこいずみゆりさんが歌っています。なかなかステキな歌です。



ところで、この歌を六甲の生徒たちは大声で歌うのでしょうか? その歌いごえを聴いてみたいです。

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2013年04月08日

今日は灌仏会「おシャカになる」日

 4月8日はお釈迦さまの誕生を祝う灌仏会。誕生会ともいう。お寺では、釈迦誕生を祝して、寺で釈迦像の上から参詣人が甘茶を注ぐ行事「花祭り」が行われる。

 ところで、ものを作り損なって失敗することを「おシャカになる」というけれども、これは一説に釈迦の誕生日4月8日にかけて「しがつようて(火が強くて)」金物づくりに失敗したからという。
 「ほんとかな!」というようなだじゃれブリだが、こういう言葉遊びを愉しむのは日本人ということか。

 ちなみに、お釈迦様を祝う祭りは3つあって、三仏会とよばれている。
   灌仏会 お釈迦さま誕生を祝う 4月8日
   成道会 お釈迦さまが菩提樹の下で悟りを開かれた記念 12月8日
   涅槃会 お釈迦さまの入滅を記念した 2月15日

 この話の情報源は、今日の毎日新聞「週刊漢字」2013年4月8日でした。

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2012年12月12日

「死後どうなるか」という問いへのステキな応え

「臨床宗教師」講座の記事中の、亀田総合病院のチャプレンの松田卓牧師の話である。(毎日新聞2012.11.20)

「死後どうなるのか』と聞かれると松田さんは病院から見える海を進む船を見ながら「船は水平線に消えて見えなくなりますが、その先でまだ動いているのですよ。」と話し、間接的に死がすべての終わりではないと伝える。


これは、とても宗派教派をこえたステキな伝え方ではないかと思った。

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2012年12月10日

臨床宗教師の養成講座

鍼灸学校の社会学の「生と死を考える」という授業の中で11月20日の毎日新聞、朝日新聞に掲載されていた記事を使って「臨床宗教師」を紹介しました。

朝日の記事の見出しは「現場に生かす祈りの力」「心のケアできる専門家■信仰押しつけず」「宗教者の人財育成始まる」
東日本大震災を契機に悲しみを分かち合い、心を静める「祈りの力」が見直された。しかし、病院や仮設住宅では一般的に「宗教者お断り」。宗教者が社会貢献するために、医師のように専門職として認められるにはどうしたらいいのか。悩みながら養成が始まっている。

毎日の見出しは「宗教者死に直面する人支え」「あの世否定せず傾聴」「被災地病院での活動養成」リード文は次のようである。
東日本大震災では、多くの宗教者が被災地に入り支援活動に取り組んできた。hしに向き合う人たちの心のケアに、宗教者の存在が認められている。仮設住宅や病院など公共の場で活動できる宗教者養成の試みも始まった。


この「臨床宗教師養成講座」は東北大学のなかに、仏教、キリスト教など教派宗派を越えて、寄付口座として開設され、宗教民族学の鈴木岩弓教授が代表をしている。

この養成講研修は8日間で、ほかに被災地への行脚や追悼、「悲嘆ケア」「精神保健と医療」「放射能」などの講義を受けたとのこと。

私も参加してみたくなった。

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2012年06月01日

念力は存在するか、実験をしてみました。

 今、聖心女子大学にいって「キリスト教学」の講義を担当している。正規の講師の先生が産休をとっていて、その代用として5回の講義を担当することになった。
 正規の「キリスト教学」では、「宗教と音楽」というテーマでグレゴリアンやバッハからテゼーの音楽までを聞かせながら講義をするというスタイルであったのだが、私にはそれはできないので「宗教音楽」とは切っても切れない関係にある「祈りとミサ」というテーマで行うことにした。

 1回目の講義(5月18日)は、日本人の祈りを考えながら「祈りとは何か」ということを考えた。
 「日本人はどういうときに祈るか?」という問いに始まり、「日本人は何を祈るのか」「祈りのスタイルとツール」を受講している学生たちに次々に応えを出してもらった。
 そして最後に「祈りの方法と種類」をあげて終わった。

 2回目の講義(5月25日)では、「祈りの実習」と称して、いくつかの祈りのエクササイズをした。
 その1として行ったのが、これから紹介する「念力サイコロのエクササイズ」である。
 その2も「念力パワーのエクササイズ」
 その3は「1分間エクササイズ」
 その4は「瞑想とawareness exercise」
 学生たちはけっこう楽しんでいたようである。

 さてその「念力サイコロのエクササイズ」である。
 この授業のために先ずサイコロを人数分そろえた。受講生は70人だからその数のサイコロをそろえた。幸い100円ショップで4個入ったものが見つかったが、それでも数をそろえられなかったので、いくつかの100円ショップを探し回った。
 それから記入用紙を作った。
 その記入用紙とサイコロを配って、こう説明した。
「1が出るように念じながらサイコロを100回ふって出た目を記入用紙に記入してください。その記入用紙は回収して統計を取ります。はたして念力パワーは存在するのか、これは実験です」

 さて、その結果は次の通りになった。この実験に参加した人は全部で64人だったので、サイコロを振った合計は6400回ということになる。
   1のでた回数(%) 1140(17.81%)
   2のでた回数(%) 1070(16.72%)
   3のでた回数(%) 1058(16.53%)
   4のでた回数(%) 1016(15.88%)
   5のでた回数(%) 1028(16.06%)
   6のでた回数(%) 1075(16.8%)
 う〜ん、微妙な結果になった。たしかに1のでる率は他のものに比べると高い。けれどこれは有意差をもっているのかどうか、微妙である。
 もっと回数を多くして精度を高める必要があろう。

 もっとも出現率が高かった生徒は、100回のうち26回を出した学生がいた。「あなたはひょっとすると念力パワーを持っているかもしれないから、もっとサイコロを振って試してご覧。1万回ぐらいやって有意差がはっきりと表れたら、確実だから」といっておいた。さてその学生は実際に試したかどうか?

 私は、この念力実験の結果がどうあれ、「1がでるように」と念じるこころが「祈り」に通じるものがあるのではないかという解説を加えておきました。

 明日の講義で、この結果を発表する。学生たちはなんと判断するだろうか。
 私の友人のつくば大学教授(哲学、倫理学)に話したら、「それがほんとのサイコロジーだ」としゃれていた。

 この実験は、高校の化学の先生がこんなことを言っていたことから、いつか試してみたいものだと思っていたことで、やっと実現した。
「君たち、念力の存在を信じるかね。サイコロをある数がでるように念じながらふるとどうなるか。100回や1000回ではだめだな、少なくても1万回以上ふってみると、結果が表れるよ。ウソだと思ったら自分で試してみるといい。」
 あの学校のことだから、実際に試してやってみた生徒がいたはずだと思うけれど、その結果は聞かなかったことがいまさらのように悔やまれる。


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2012年03月13日

谷崎神父の教会黙想会は歌もよかった

3月11日、鶴見教会で恒例の黙想会があった。だいたいどこの教会もクリスマス前の待降節とイースター前の四旬節に黙想会を行う。
だいたいが指導する司祭を招き講話を聴くというスタイルで、今回はコンベンツアルのフランシスコ修道会の谷崎新一郎神父さんが指導司祭であった。
第一講話では、ヨハネ15章1~10節「私はぶどうの木、あなた方はその枝である」という箇所を解説しながら、鶴見教会の年間テーマ「私たちの教会」の姿をめいめいが描けるように導かれた。
第2講話では、十字架の下にいるマリアをイメージするためにフランシスコの「祝福された乙女マリアのあいさつ」という祈りを紹介され、マリアを教会の母とする「新しい家族」のあり方について話された。
講話もよかったのだが、特によかったのは講話の最初と最後に歌われたギター弾き語りの歌であった。全部で4曲紹介されたが、いずれもシンプルでとても歌いやすく覚えやすく、いい歌であった。
なかでも「アシジのフランシスコの思いに乗せて」という副題の「あなたは愛」は最高の曲であると思った。これはあの塩田泉神父作曲の「キリストのひかり」にも並ぶ傑作だと思う。
同じメロディを言葉をすこし変えるだけで何度もくりかえして歌うことのできる歌いやすさ、輪唱風にわかれて歌えることがとてもいい。
谷崎神父が歌ってくれた後半の2曲はビデオにとったので、許可を得て近いうちにYouTube にアップできるが、一番最初のこの歌は残念ながらとりはぐれたので、音符画像を添付することにする。

谷崎神父さんにCDを出していませんかと聞いたら、残念ながら出していないとのこと、どなたかプロデュースしませんか?

ちなみにこの谷崎神父さんは、歌の作曲、ギターの弾き語り、そして、声のよさだけではなく、イラストも文章もとてもお上手です。本人は若い時に総合芸術家になりたかったと言われるくらいですから。現在は「聖母の騎士」という雑誌の編集をされております。中学や高校の女子校にもおすすめです。

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2012年02月23日

泣ける感動ムービー 「僕を支えた 母の言葉」

Facebook で「宗教倫理教育担当者ネットワーク」のグループ(Good News FB) を作りました。
さっそくそこで流れた感動のムービーを一つ紹介しましょう。
ただ文字とBGだけのムービーですが、やはり涙なしでは見られない感動ものです。



いかがですか?
「宗教」「倫理」の先生たちは、このムービーを見てきっと「神さまの愛しかた」に似ていると教えるでしょうね。私もそうすると思います。
すぐれた映像教材だと思いました。

こういうのを発見したらすぐに共有することができるというのは、インターネットの BLOG や Favebook などのいわゆる SNS の特長でしょう。

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2012年01月19日

Virtual Choir(バーチャル聖歌隊)を見つけました

1月23日から26日までの Interactive Connection 2012 に参加するので、アメリカのカトリックSNS の Digital Catechesis をみていたら、Virtual Choir(バーチャル聖歌隊)なるものが YouTube 上にあることが紹介されていたので、さっそく見てみた。



 12カ国から135人が参加して243トラックを使用して作られたという。指揮者兼コンポーザーは、Eric Whitacre なるかたである。
 こういうものができることを想像するのは簡単だが、実際にするとなると大変であろう。
こういうことの可能性を探るのも今回の参加の目的である。

 ちなみに今回のIC2012 のテーマは Incarnating the Gospel in the Digital World! である。日本語にすると「ディジタル世界に福音を受肉する」というようになる。 Incarnation というとキリスト教用語では「託身」とか「受肉」とか訳し「神が人となってこの世界に生まれる」ということを意味する言葉である。

 さてどんな出会いと発見が待っているか、ワクワクしながら22日に成田を発つ。

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2012年01月03日

スヌーピーの小さな幸せ探し展 Happiness is ......

横浜そごうで「スヌーピーの小さな幸せ探し展 Happiness is SNOOPY」なる展示会を行っていたので、いってみた。けっこう親子連れで賑わっていた。
そこには「 Happiness is ......」という「小さな幸せ」の数々がスヌーピーのイラストと共に紹介されていた。
snoopy1
案内のチラシにはその趣旨についてこう書かれている。

本展は、チャールズ・M・シュルツさんの世界的ベストセラー「Happiness is a warm puppy」を五感で味わっていただけるように造り上げたものです。ユーモアを含んだ真実の言葉と、生き生きとした絵の組あわせでつくられたカラフルな絵本の森を迷子になりながら探検すると、知らず知らずのうちに、かれらの仲間になっていることに気づかれるでしょう。どうぞ、会場で小さな幸せをたくさん見つけてお持ち帰りください。
      監修:大月ヒロ子(ミュージアム・エデュケーション・プランナー)


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「Happiness is ...... 」つまり「幸せとは…………………」についての答えのいくつかがパネルとして紹介されている。
たとえば
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Happiness is a thumb and blanket.
Happiness is a warm puppy.
Happiness is gathering witrh your friends over a great meal.
Happiness is sailing with your friends.
Happiness is getting a little dress-up.
Happiness is having a favorite song with your loved one.
Happiness is a stack of books.
Happiness is a fuzzy sweater.
Happiness is having someone to watch your favorite TV show with.
Happiness is your first kiss in the rain.
Happiness is an umbrella and a new raincoat.
Happiness is getting together with your friends.


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私はこれを見ながら考えた。
私だったら、どの「幸せ》がもっともステキであるかの参加者の人気投票をする。
「Happiness is .....」についての来場者の答えを書いてもらう。けっこういい定義が生まれるのではないか。できたらイラストも添えられたらいいし、それも来場者の人気投票に加えたらいい。
この展示会の本当の狙いは、ひとりひとりが自分の身の回りに「小さな幸せ」をつくりだしてほしいという願いにあると思うとしたら、ただ見るだけの受け身の参加ではなく、能動的に幸せを見つけ出し、つくりだすところにこそあるのではないか。

ところで、私が「幸福とは…………」を考えるとしたら、次のようなことが思いついた。



幸福とは、助けを求めているひとに助けを与えられて感謝されたとき
幸福とは、決してひとりだけでは味わえないもの
幸福とは、まわりに不幸な人がいるときに、それを共に悲しむこと
幸福とは、冷蔵庫に残っているものだけを使っておいしい料理ができたとき
幸福とは、自分が心配している人の笑顔を見たとき
幸福とは、自分に与えられた喜びをできるだけ多くの人と分かち合えるとき
幸福とは、どうしようもない深みにはまってぬけられなかったときに手を差し伸べて助けられたとき
幸福とは、どうしようもない深みにはまって抜けられなかった人に手を差し伸べて助けられたとき
幸福とは、自分よりもっと恵まれない境遇にあるひとから、励まされたとき
幸福とは、自分の大好きな人から好きですと打ち明けられたとき
幸福とは、自分の嫌いな人から好きですと打ち明けられたとき
幸福とは、笑顔がステキと言われること
幸福とは、悲しむ顔もステキと言われること
幸福とは、自分の軽蔑している人から誉められ感謝されたとき
幸福とは、自分を軽蔑している人から誉められ感謝されたとき
………(まだまだでてきそう)


みなさんも皆さんの「幸福とは………」の答えを探してほしい。きっと幸福で満ち足りた気分をあじわうにちがいない。
これを考えていたら橘曙覧の「独楽吟」を思い出した。

たのしみはまれに魚煮て子ら皆がうましうましといひてくふとき
たのしみはそぞろ読みゆく書(ふみ)の中に我とひとしき人を見しとき
たのしみは心をおかぬ友どちと笑ひかたりて腹をよるとき
たのしみはとぼしきままに人集め酒飲め物を食へといふとき
たのしみは小豆の飯の冷えたるを茶漬けてふ物になしてくふとき


こちらにもあります




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2011年11月22日

「いのちが大切」よりも「あなたが大切」

AC 公共広告機構なるところのTVCM や新聞広告がめだっている。
ちょっとうさんくさいところもあるが、このTVCM のメッセージは秀逸であると思う。




いのちはたいせつだ
いのちをたいせつに
そんなことを何千何万いわれるより
あなたがたいせつだ
だれかがこういってくれたら
それだけでいきていける

明日のために今はじめよう公共広告機構です


このメッセージは自殺防止のキャンペーンのためにつくられたものであるらしいのですが、どうでしょうか。それに有効な力を持つメッセージなのでしょうか?

ところで「いのちが大切」「あなたが大切」という言葉で検索してさがしていたら、こんな映像に出くわしました。「野原ひろしの名言集」という YouTube 映像です。映像と言っても文字だけですが………。

このなかの

いいか、しんのすけ。
正義の反対は悪なんかじゃないんだ。
正義の反対は「また別の正義」なんだよ。


このメッセージはどこかで聞いたことがあるが、誰の言葉だったかを忘れた。
このメッセージも聞いたことがあるが、どこで聞いたかを忘れた。

一日だけ幸せでいたいならば、床屋にいけ。
一週間だけ幸せでいたいなら、車を買え。
一ヶ月だけ幸せでいたいなら、結婚をしろ。
一年だけ幸せでいたいなら、家を買え。
一生幸せでいたいなら、正直でいることだ。


いずれも「くれよんしんちゃん」のおとうさんが言ったことなのだろうか?

こちらも映像付きです
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2011年10月14日

「私は何のために生まれたのか」ランベルト・ノーマン

「カトリック生活」2011年11月号を読んでいたら、美しい写真とともに次のような詩がのっていた。
ただ写真は美しいのだが、この詩の背景としてはどうなのかなと思ったが、この詩はとてもいいと思う。
クリスマスの詩だから、星が輝く夜空のもとの馬小屋の写真とかをそえて、12月号に出せばいいのに、クリスマスまで待てなかったのだろうか?
かくいう私も、クリスマスの時に紹介したらいいのかもしれないのだけれど、それまで待てないので今紹介しよう。

私は何のために生まれたのか

神は言われる。
わたしは裸で生まれた
  あなたが自我を脱ぎ捨てるために。
わたしは貧者に生まれた
  あなたがわたしを唯一の富と見なすために
わたしは馬小屋で生まれた
  あなたがどんな場所をも聖とするために

神は言われる
わたしは弱者に生まれた
  あなたがわたしを怖がらないように
わたしは愛のために生まれた
  あなたがわたしの愛を疑わないように
わたしは夜中に生まれた
  わたしがどんな現実でも照らせることを
  あなたに知ってもらうために

神は言われる
わたしは人間として生まれた
  あなたが神の子となるために
わたしは被害者に生まれた
  あなたが困難を受け入れるために
わたしは質素な者に生まれた
  あなたが装飾を捨てるために
わたしはあなたの中に生まれた
  あなたをとおしあなたと共に
  すべての人を父の家に連れていくために。


この詩がいつ頃どういう背景のもとに書かれて、この作者ランベルト・ノーベンとはどういう人物なのか、ちょっと調べてみたのだが、見つからなかった。
この詩はもともと「心は心に語る」(ドンボスコ社 石川康輔編)に掲載されているらしいので、早速その本を図書館に予約した。

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2011年09月15日

どうか私が話さないでいることを聴いてくれ

教会で行っているキリスト教入門講座で、「聴くこと」というテーマの日につぎのような詩を読む。
グリフィン神父のテキストにあった詩で原作者は不明であるが、 「内なる子どもを癒す−アダルトチルドレンの発見と回復 」(チャールズ・L. ウィットフィールド (著), Charles L. Whitfield (原著), 斎藤 学 (翻訳), 鈴木 美保子 (翻訳) )という本にも引用されていた。以下の訳はこちらの書によるものである。



「どうかわたしが言っていないことを聞いて」

 私に騙されないで。
 私がつくろう顔に騙されないで。
 私は仮面を、千の仮面を被っているから、それを外すのは怖くて、
 どれひとつとして私じゃない。
 うわべを飾るのは、第二の習性となった技巧、
 でも騙されないで、
 お願いだから騙されないで。
 あなたに、私は大丈夫という印象を与える、
 すべては順調で、私の内も外も静かに落ち着いているという、
 自信が私の名前で、クールなのが払のゲームといった、
 水面は穏やかで、私は指揮権を握っているといった、

 私は誰も必要としないといった。 でも私を信じないで。
 表面は穏やかに見えても、表面は私の仮面、
 つねに変化し、つねに姿を隠す仮面。
 その下に安心の字はない。
 その下には混乱と恐れと孤独が居座っている。
 でも私はそれを隠す。誰にも知られたくない。
 
 私の弱みや恐れがむき出しにされると考えるだけで、私はうろたえる。
 だから私は血迷ったように隠れ蓑を付ける、
 何気ないふうな、洗練された見せかけの仮面を、
 うわべを飾る手助けをしてくれる、
 見抜いているといった眼差しから私を守ってくれる仮面を。
 でも、そんな眼差しこそが私の救済。
 私の知る唯一の希望。
 つまり、もしその後に私が受け入れられるのであれぱ、
 もしその後に愛があるのであれば。
 
 それは、私を私自身から解放してくれる唯一のもの、
 私の自分で築き上げた牢獄の壁から、
 私があんなにも丹精込めて作った砦から。
 それこそが、私が自分自身に確証できないものを、
 確証してくれる唯一のもの、
 私にもじつのところ何らかの価値があるのだと。
 でも私は、このことをあなたに言わない。
 あえて言わない。怖いから。
 私はあなたの眼差しの後に受け入れが、
 その後に愛が伴わないのではと恐れる。
 あなたが私を劣っていると思うのでは、あなたが笑うのではと恐れる、
 あなたの嘲笑は私を殺すのだから。
 私は、結局のところ何者でもなく、ただ駄目な人間であることを恐れる、
 あなたがそれに気づいて、私を拒否することを恐れる。

 だから私は私のゲームをプレイする、命がけの、扮装ゲーム、
 表に確信のうわべをつくろい、
 内なる子どもは震えている。
 そうしてきらびやかな、けれど空虚な仮面のパレードが始まる、
 私の人生は前線となる。
 私は無為に、ロあたりのよいうわべだけのおしゃべりをする。
 本当のところどうでもいいことは、全部あなたに話す。
 本当に大切なこと、私のなかで泣いているものについては、
 何ひとつ話さない。
 だから私が私の決まりきった私を演ずるとき、
 私の言っていることに騙されないで。
 どうか注意深く聞いて、私が言っていないことを聞いて、
 私が言ってみたいことを、生き延びるために言わなくちゃならないのに、
 私が言えないでいることを聞いて。私は隠れたくない。
 うわべだけのいんちきゲームはしたくない。
 そんなゲームはやめてしまいたい。
 私は本物で、自然で、私でありたい、

 でもあなたが助けてくれなくちゃ。
 あなたの手を差し伸べてくれなくちゃ、
 たとえそれが、私が一番嫌うことのように見えても、
 私の目から生ける屍のうつろな凝視を拭えるのは
 あなただけ。
 私を生に呼び戻せるのは、あなただけ。
 あなたが親切で寛容で励ましてくれる時いつも、
 あなたが本当の気遣いから理解しようとしてくれる時いつも、
 私のこころに翼が生え始める、
 とっても小さな翼、
 とってもかよわい翼、
 でもそれは翼
 私の感情にふれるあなたのパワーで、
 あなたは私に命を吹き込める。
 あなたにそのことを知って欲しい。

 あなたが私にとってどんなに大切か、知って欲しい、
 あなたは私という人間の創造者、
 そう、真面目な話、創造者になりうることを、
 もしあなたがそうしたいのならぱ。
 あなただけが、私がその後ろで震えている壁を取り崩せる、
 あなただけが、私の仮面を取り払える、
 あなただけが、うろたえと半信半疑の私の影の世界から、
 私の孤独な牢獄から、私を解放できる、
 もしあなたがそうしたいのならば。
 どうかそうして。私をやり過ごさないで。
 あなたにとってやさしいことではないはず。

 自分は役立たすとの久しい確信は、強大な壁を築く。
 あなたが私に近づくほど私はより盲目的にはね返すかもしれない。
 それは不合理なこと、だけど本に書かれている人間とは違って、
 しばしば私は不合理。
 私は欲しくてたまらないまさにそのものに対して闘いを挑む。
 でも愛は強大な壁よりも強いと人は言う、
 そしてそこに私の希望はある。
 どうかその壁を打ち壊して、
 堅固な手で、
 でも優しい手で、
 子どもはとても敏感だから。

 私は誰、とあなたはいぶかるかもしれない?
 私はあなたがよく知っている人。
 私はあなたが出会うあらゆる男だち、
 あなたが出会うすべての女たちなのだから。 


この詩を読んで何を感じるであろうか?
くどくど続くグチにつきあわされるような感じで読んでいる人もいるかもしれない。そういう「暗さ」がついている詩であるが、言っていることは実はとても深いのではないだろうか。

私はいくつもの仮面をかぶっている。でもその下にある本当の私をみてほしい。その声を聴いてほしい。
私は本当に言いたいことを言っていない。でもあなたにはその裏に隠れている本当の自分の声を聴いてほしいんだ。

私はこの詩を読んで「そういうことってけっこうあるのではないだろうか。「聴く」ということはそういうことなのだろう」と思うようになった。これを意識すると人の話の聞き方が大きく変わって来るようになったと思う。

ちなみにグリフィン神父訳はこちらにある。
読み比べてほしい。

こちらもどうぞご覧ください
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2011年07月21日

シンパシーとエンパシー

毎日新聞6月1日の「シリーズ対談…大震災のあとで」で瀬名秀明氏と苅部直氏が対談していた。
その対談の中で瀬名氏がシンパシーとエンパシーについて述べていた。両方とも共感とか思いやりを示す表現であるが、この違いはなかなか意味があるように思った。

瀬名さん 私は人への思いやりを、シンパシーとエンパシーに区別しています。シンパシーは相手の気持ちに同調した状態で、エンパシーは能動的に相手の心に入り込んで想像する行為。今回、広範囲でシンパシーが表れました。
多額の義援金が集まる一方、同情しすぎてストレスになったり、情報が錯綜する原発問題に過剰に不安になったり。
苅部さん 共感にまとわりついてくる危険性をどう回避するか。政治哲学者のハンナ・アレントがそれを論じていますね。
他者との一体感を過剰に思い込む心情が、フランスとロシアの革命では、人びとを同質化する暴力をもたらした。そうではなく、他者の苦難がそれぞれ個別であることを理解しながら、手を差し伸べるような連帯の形が望ましいと。


この説明ではまだ分からなかったので、ちょっと調べてみた。
シンパシーは「感情移入」と訳し、エンパシーは「自己移入」と訳すらしい。両方ともに「共感」という訳語がある。これでもまだよくわからない。

「対話流−未来を生みだすコミュニケーション」(作者: 清宮普美代,北川達夫)という本に書かれていたことによると



シンパシーとエンパシーの違いは微妙なものですが、最大の違いは発想の前提にあって、相手のことがわかるという前提で考えるのがシンパシー、相手のことがわからないという前提で考えるのがエンパシーです。

シンパシーは「感情移入」、エンパシーは「自己移入」と訳します。エンパシーを「共感」と訳すことがありますが、これだとシンパシーと混同しやすいですね。

国語の問題でいうと、「その時、主人公はどんな気持ちでしたか?」と問えばシンパシー型、「あなたが主人公と同じ立場に置かれたら、どんな気持ちになると思いますか?」と問えばエンパシー型です。シンパシー型だと「主人公の気持ちになって考えましょう」ということ。一方、エンパシー型では「主人公の気持ちは本人にしかわからない」ということで、自分自身に置き換えて考えます。


これで分かりましたか?
まだ分からない人はここをどうぞ。
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2011年06月20日

「怒り」について

私が教会で行っている『キリスト教入門講座』にこの春から一組の夫婦がやってきた。
すでに洗礼を受けて、まだ卒業していない男性2名と全部で4名受講者がいる。

この入門講座は、3つのステージからなっていて
第1ステージ 自分との出会い
第2ステージ イエスとの出会い 聖書を読む
第3ステージ 教会との出会い
という構成である。

この第1ステージの構成は次のようである。

そのなかの「怒り」というのがある。これが結構盛り上がるのである。


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2011年05月06日

驚きのハレルヤコーラスを見つけた

SIGNIS の友人から教わった YouTube 映像である。いかにもアメリカ、すばらしい!というかうらやましい!というか。ちょっと季節外れではありますが………。



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posted by mrgoodnews at 17:48| Comment(0) | 宗教教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする