このワークショップが、いかにパワフルなものであるのか、その理由が前2回の記事であらかたわかってもらえたと思うが、その真髄は「模擬授業」にあると思う。
そこで、その「模擬授業」の紹介である。
模擬授業においては、参加者は生徒になりきらなければならない。最初に場面設定がおこなわれる。この授業は、たとえば「高2女子C」であるとする。とすると、対象は高2女子クラスである。お行儀の程度はC。つまりあまりいいほうではない。これを演ずるのである。
はじめの挨拶も、その担当者の勤務校風におこなう。「ごきげんよう」というのは「白百合ファミリー」の共通の挨拶である。はじめも終わりもこれである。
今回のワークショップでは6コマ分の模擬授業が行われた。
私が担当したのは、その1時間目。50分の授業。その日のテーマは「深く強い望み」。対象は高1B女子。このワークショップに参加する教員は、なぜか、女子校に勤務する男子教員が多い。今回も参加者16人のうち女子はわずかに4人。
通常の授業ふうにまず「5分くらいの瞑想」からはいる。
そして問いかけ1「今、欲しいもの、いきたいところ、したいことを思いつくままにあげなさい」自分のノートに記入する。
さらに問いかける「問いかけ2」。「それを通して何を得たいのか?」たとえば、ケイタイがほしいという答えがでた。
さらに問いかけるのである。「ケイタイを手に入れて、それで何を得たいのか?」と。
すると、友人とおしゃべりをしたい、メールをしたい」と応える。
さらに聞く「それで何を得たいのか?」「友人とのコミュニケーション」それを通して何を得たいのか? このあたりで応えにくくなる。「いつも一緒にいたいことの確認かな。」まだ「それで何を求めているのか?」
最後は、「心の安らぎとか快さとか」に行き着くと、そこでそれ以上応えられなくなるであろう。
こうやって、自分のあげたものについて「それで何を得たいのか」「何を求めているのか?」を繰り返し聞いていくと、どういう答えに行き着くかを考えてもらう。
その答えを何人かの生徒に発表してもらい、黒板に書く。
次の「問いかけ3」題して「憧れの歴史」。つまり自分のなりたかったものの歴史を思い起こしてもらう。小さい時、自分はスチュワーデスになりたかったとか、電車の運転手になりたかったとか。
それはかなり変わって来るであろう。あるいは「夢中になっていたこと」でもよい。
これも自分のあげたリストをみて、「なぜそれになりたかったのか? その仕事の何にあこがれていたのか?」と問いかけて、何人かの生徒に応えてもらった。
この種の問いかけに対する答えは、いくつかのパターンに行き着く。
その一は、自分の心の安らぎを得るためとか、自分が好きだからとか、いう「自分に帰する」応え。
その二は、他人から尊敬を得るために、注目されたいからとかいう応え。これもさらに聞くと「自分の心の安らぎ」の応えに行き着く。
その三は、「世の中の役に立ちたい」「他人のために何かをしたい」とかいうたぐいの応えも出てくるであろう。
その四は、「それが大切なことだから」「それには価値があることだから」「必要とされているから」というような答えである。「その三」と似ているかもしれない。
この四つくらいに分類されるのではないだろうかと、まとめる。
さて、次は「今度は私の話を聞いて」と頼む。「私が学校の教員になった時」の話しである。これについては以前このブログにても紹介したので、
そちらをみてほしい。
館単にいうと、私は小さな印刷会社に勤めていたのだが、その時今の同僚から学校に勤めないか」という誘いを受けた。そのころわたしはその会社を辞める気はなかったのだが、このことを友人たちに相談したら、友人たちはみなそれは転職したほうがいいという結論をだしてくれた。私の「心の奥深い望み」は教員になることを望んでいたのだが、「会社の同僚たちを裏切れない」とか「社長に悪い」とかいう理由で、その本当の望みとは別なことを求めてしまっていたのである。
このように、私たちはしばしば「本当の望み」「心の奥深いところの望み」とは別のことを行ってしまうことがよくあるのではないか。
何かモノがほしいという場合にも、「心の奥深い望み」はかならずしも「モノを手に入れること」にとどまるのではなく、さらにその奥に潜んでいるものである。
その「本当の望み」「心の奥深いところの望み」をぜひ意識してほしいと生徒たちにすすめる。
今、高一の生徒は「進路の選択」という課題に直面している。「理系に進むか、文系、あるいは芸術系に進むか」を決めなくてはいけない時期にさしかかっている。自分の将来の職業を考えなければならないであろう。その時にも自分の「心の奥深い望みとは何か?」ここを考えてほしいのである。「収入が安定しているから」とか「かっこいいから」とかいう理由だけで決めることのないようにしたいものであると説明する。
最後に「参考としてこういう考え方もある」として説明することがある。そらは
「Potes Quia Debes」という考え方である。この考え方も紹介する。これも以前このブログで紹介してきたので、詳細はそちらに譲ろう。
つまり「自分のしたいこと、好きなこと」「自分のできること」とともに、「自分が必要とされていること、招かれていること、しなければならないこと、呼ばれていること」というファクターもとても大事なことであると紹介する。
それが「Potes Quia Debes=You can because you ought」つまり「あなたはそれをしなければならないからあなたはそれをできる」という考え方である。キリスト教的には「神があなたにせよと命じたのだから、あなたには必ずそれをする力が与えられる」という考え方になる。
「あなたはそれをできる力が与えられたのだから、あなたはそれをしなければならない」というのならわかりやすい。でもこの場合は逆である、とても逆説的な考え方であろう。
この考え方を紹介したところで、授業の終わりのチャイムが鳴った。
私の模擬授業はこういう内容であった。
さてこれを呼んだ皆さんは、どういう感想を持つだろうか? そこをぜひ聞いてみたいと思っている。
この私の模擬授業が、このワークショップでどのように評価されたのかは、また改めて書くことにしよう。