2011年04月26日

なんでこんなに悲しいことが(その2)教皇の答え

前に「なんでこんなに悲しいことが」という日本人少女の質問に、教皇ベネディクト16世がお答えになったことを東京新聞の記事から紹介しましたが、この質疑の全文がヴァチカン放送のホームページに紹介されていました。
それをここでも紹介しましょう。

質問は全部で7つあり、教皇は一番最初に、日本の少女からの質問に答えられた。

この質問は、震災の大きな恐怖と悲しみを訴え、なぜこのような悲しい目に会わなければならないのか、と問うもので、教皇は苦しむ日本の人々に「神は皆さんを愛しておられます」と伝えながら、被災した日本のために祈りと連帯を改めて表明された。

日本の少女からの質問と、これに対する教皇の回答は次のようなものだった。


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2011年04月23日

なぜこんな悲しいことが………

教会の友人が東京新聞の4月23日のこんな記事を紹介してくれました。
「なぜこんな悲しいことが −7歳少女が法王に訴え」という記事です。

この記事によると東日本大震災で被災した日本人の7歳の少女が「なぜ子どもたちがこんなに悲しまなければならないのですか?」とローマ教皇に質問したのだそうである。
教皇ベネディクト16世は「答えはないかもしれませんが、大切なのは紙があなたがたのそばにいるということです」とお答えになったという。

私は現教皇のベネディクト16世はどうしても好きになれないカトリック信者だが、この教皇の発言はとてもいいと思う。すこし教皇を見直した。
奇しくも、私が前に紹介した「 Why Could God Let This Happen?」というときに対するイエズス会士の答えと一致している。

「それは神が人間に与えられた試練です」とか「それは人間の罪の結果です」とかいう答えをされなかったということはなぜかうれしかった。

これは22日の国営イタリア放送協会のカトリック教徒向けのテレビ番組で放映されたものだという。その日本人の少女はビデオレターで教皇に質問をしたらしい。
教皇にビデオレターで質問をしたというその日本人少女もたいしたものである。「サンタクロースはいるんでしょうか」とニューヨークサン新聞社に質問したバージニア・オハンロンみたいな少女である。
もっともこの背後には誰かこの日本人少女を唆した大人がいるんだろうと推測が生まれてくるだろうが、実際はどうだろうか。

この記事をご覧になりたい方はこちらへ

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2011年04月07日

Finding Faith amid Disaster(悲劇の中に信仰を見出す)

友人のカトリック学校の「宗教」の教員が同僚から「あなたはカトリックでしょう。神様は今回の大災害をどう考えているのか。」と、休憩室で唐突に聞かれたそうです。その時友人は答えに窮し、とっさにその答えを見つけられませんでした。

このような大災害も神様のみ摂理(みむね)なのですか? 
神様のご計画の内に含まれているのですか?
愛である神様がどうしてこんな不幸を人間に与えるのですか?

こういう疑問を持ってしまうのは当然です。わたしも神に向かって叫びたくなります。
それで、この前震災の前ですが、「心のともしび」の「死者を偲ぶ」というシリーズの「死後の楽しみ」の話しの中で次のように述べてしまいました。

(死んでからの)最大の楽しみはイエスにも神さまにも直接お会いすることができるということです。お会いしたら、まっさきに聞いてみたいことがあります。それは、 この世界に、貧困や差別、災害や戦争などの不幸な出来事がどうしてこんなにたくさん起きるのかということです。


あ、これ読んでみてください。けっこう気に入っています。

ところで、私はアメリカの Digital Catechesis というカトリックSNS のメンバーなので、ときどきそこからニュースが送られてきます。これについてはまたあらためて紹介することにしましょう。
そこをきっかけにしてネットサーフィンをしていたら、こんなサイトを見つけました。

「Finding Faith amid Disaster 悲劇の中に信仰を」というテーマの記事が書かれていました。

それは“How could God let this happen?”「なぜ神はこのような悲劇を起こさせたのか?」という問いかけにいろいろな宗教者たちがどう答えているのかをリストしています。

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2010年08月16日

ショートエクササイズ「カウントアップU」

一昨年の宗教教育ワークショップで得たものとして、カウントアップという簡単なエクササイズを紹介した。
今回はそのもう一つのバリエーションを教わった。こっちもなかなかおもしろい。オリジナルは演劇関係のエクササイズらしい。

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2010年06月28日

カトリック学校の「宗教」の授業

カトリック学校の教員養成塾のホームページに、今年の1月に私がレポートした「宗教の授業 −福音的価値観の授業」を掲載しました。
かなりボリュームのある力作となりました。

皆様にもぜひ読んでいただけたらと思います。この内容はけっして「カトリック学校」だけのものではなく、どなたが読んでもそれなりに感じること考えることが豊かにある内容となっていると思います。でもこういう授業が展開できるのはカトリック学校だけでしょうね。
このブログで紹介してきた内容も結構ありますが………。

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2009年08月17日

My Crayon という自己肯定感を高めるエクササイズ

 今年の「宗教倫理ワークショップ」でこんな模擬授業がありました。なかなかおもしろかったので紹介しましょう。
 題して「My Crayon」

 4人ひと組、机を囲んで輪になって座ります。 ひとりに一枚ずつ画用紙とクレヨン1本が渡されます。クレヨンはそれぞれ色が異なっています。
 3つのルールがあると説明されます。
 第1ルール 与えられたクレヨンが今日のあなたのカラーです。その自分のクレヨンで描くこと。
 第2ルール 1回2分で描いたあとに右隣の人にまわしていきます。右隣の人はその絵がよりよくなるようになにかを追加して描きます。このようにして2巡して最後に自分が書いて完成です。
 第3ルール この作業は無言で行います。絵の意味を書いた人に聞いてはいけません。
 「自分の大切にしているもの」というテーマが与えられました。

 さあスタートです。みんな黙々と絵を描いています。2分たつと「隣にまわしてください」という指図があります。
 次に書く人はその絵の意味を勝手に創造しながら、その絵をよりよくするためになにかを追加して描きます。
 最初に書いた人は3回、それ以外の人はひとつの絵に2回絵を追加して描き、それを自分を含めて4人分することになります。
 絵を描き終わって、それぞれの絵の意味を説明していきます。最初は何を描こうとしたのか、次々に加えられていくものを見て何を感じたのか、どういう意図でそれを描き加えたのか、ということが報告されます。


MyCrayon1 いくつかの例を出しましょう。
 灰色のクレヨンを持った人は、教会の建物を書きました。
 次のオレンジのクレヨンの人は「教会は建物ではない」と思い人びとを次々に加えていきました。
 ピンクのクレヨンを持った人は、教会の周りに花や小鳥を加えました。
 緑のクレヨンの人は、野山や教会に芝生を敷き詰めました。
 2巡目で灰色の人は、ルルドや鐘楼を付け加えました。
 オレンジの人は、車いすで来た人が教会には入れないという図を加えました。
 ピンクの人は鐘が鳴っていることを示すように音符を加えていきました。
 というわけで教会が完成したのです。


MyCrayon2 こちらの絵では黄色のクレヨンの人が最初でした。彼女にとって一番大事なものは薬だったのです。朝、昼、夜と分けて飲む薬とコップの水の絵を描きました。
 緑のクレヨンの人はその絵はきっと食事の場面を描いたのだろうと、いろいろな料理を加えました。
 茶色のクレヨンの人は、箸がなければ食べられないと箸を追加しました。
 青のクレヨンの人はコップの数が足りないと思ってコップを足しました。
 この絵をはじめに書いた黄色のクレヨンの人は困ってしまいました。そこで右上に人の絵を描きました。
 でもあとの人はその意味が分からずに、ますます食卓を豊かにしていきました。
 あとで黄色の人の説明があったときに爆笑でありました。

 この作業の目的は「自己肯定感を高める」というものでありました。つまり前に書いた人の絵をそのまま受け入れて書き足していくわけです。最初に絵を描いた人は皆から肯定されたのだと感じるのがこの目的だというのですが、実際はどうだったのでしょうか? 肯定感は高まったのでしょうか。
 目的はともかく、絵をこのようにして描くことはなかなかおもしろいものでした。
 
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2009年08月04日

「田舎暮らしの7か条」

 今日8月4日の朝日新聞夕刊の「ふるさと元気通信13」の「都会にこびず田舎をみがけ」という記事の中にこんなことが書いてあった。
 なづけて「田舎暮らしの7か条」。

1.嫁さんに覚悟はあるか
2.集落に協力者はいるか
3.村の共同作業を厭わない
4.プライバシーはないと思え
5.3年はがまん
6.農業だけでは食べていけない
7.現金は必要だ

 記事によると、田舎に移り住みたいという人にこの条件を突きつけその覚悟について問われると、都会人の大半は恐れをなして帰っていくのだそうである。「覚悟のない人はこっちから願い下げ。田舎をなめちゃダメ、ということです」京都府美山町の話しである。




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2006年08月11日

ワークショップの私の模擬授業から その3

 このワークショップが、いかにパワフルなものであるのか、その理由が前2回の記事であらかたわかってもらえたと思うが、その真髄は「模擬授業」にあると思う。
 そこで、その「模擬授業」の紹介である。

 模擬授業においては、参加者は生徒になりきらなければならない。最初に場面設定がおこなわれる。この授業は、たとえば「高2女子C」であるとする。とすると、対象は高2女子クラスである。お行儀の程度はC。つまりあまりいいほうではない。これを演ずるのである。
 はじめの挨拶も、その担当者の勤務校風におこなう。「ごきげんよう」というのは「白百合ファミリー」の共通の挨拶である。はじめも終わりもこれである。

 今回のワークショップでは6コマ分の模擬授業が行われた。
 私が担当したのは、その1時間目。50分の授業。その日のテーマは「深く強い望み」。対象は高1B女子。このワークショップに参加する教員は、なぜか、女子校に勤務する男子教員が多い。今回も参加者16人のうち女子はわずかに4人。
 通常の授業ふうにまず「5分くらいの瞑想」からはいる。

 そして問いかけ1「今、欲しいもの、いきたいところ、したいことを思いつくままにあげなさい」自分のノートに記入する。
 さらに問いかける「問いかけ2」。「それを通して何を得たいのか?」たとえば、ケイタイがほしいという答えがでた。
 さらに問いかけるのである。「ケイタイを手に入れて、それで何を得たいのか?」と。
 すると、友人とおしゃべりをしたい、メールをしたい」と応える。 
 さらに聞く「それで何を得たいのか?」「友人とのコミュニケーション」それを通して何を得たいのか? このあたりで応えにくくなる。「いつも一緒にいたいことの確認かな。」まだ「それで何を求めているのか?」
 最後は、「心の安らぎとか快さとか」に行き着くと、そこでそれ以上応えられなくなるであろう。
 こうやって、自分のあげたものについて「それで何を得たいのか」「何を求めているのか?」を繰り返し聞いていくと、どういう答えに行き着くかを考えてもらう。
 その答えを何人かの生徒に発表してもらい、黒板に書く。

 次の「問いかけ3」題して「憧れの歴史」。つまり自分のなりたかったものの歴史を思い起こしてもらう。小さい時、自分はスチュワーデスになりたかったとか、電車の運転手になりたかったとか。
それはかなり変わって来るであろう。あるいは「夢中になっていたこと」でもよい。
 これも自分のあげたリストをみて、「なぜそれになりたかったのか? その仕事の何にあこがれていたのか?」と問いかけて、何人かの生徒に応えてもらった。

 この種の問いかけに対する答えは、いくつかのパターンに行き着く。
 その一は、自分の心の安らぎを得るためとか、自分が好きだからとか、いう「自分に帰する」応え。
 その二は、他人から尊敬を得るために、注目されたいからとかいう応え。これもさらに聞くと「自分の心の安らぎ」の応えに行き着く。
 その三は、「世の中の役に立ちたい」「他人のために何かをしたい」とかいうたぐいの応えも出てくるであろう。
 その四は、「それが大切なことだから」「それには価値があることだから」「必要とされているから」というような答えである。「その三」と似ているかもしれない。
 この四つくらいに分類されるのではないだろうかと、まとめる。

 さて、次は「今度は私の話を聞いて」と頼む。「私が学校の教員になった時」の話しである。これについては以前このブログにても紹介したので、そちらをみてほしい。
 館単にいうと、私は小さな印刷会社に勤めていたのだが、その時今の同僚から学校に勤めないか」という誘いを受けた。そのころわたしはその会社を辞める気はなかったのだが、このことを友人たちに相談したら、友人たちはみなそれは転職したほうがいいという結論をだしてくれた。私の「心の奥深い望み」は教員になることを望んでいたのだが、「会社の同僚たちを裏切れない」とか「社長に悪い」とかいう理由で、その本当の望みとは別なことを求めてしまっていたのである。
 このように、私たちはしばしば「本当の望み」「心の奥深いところの望み」とは別のことを行ってしまうことがよくあるのではないか。
 何かモノがほしいという場合にも、「心の奥深い望み」はかならずしも「モノを手に入れること」にとどまるのではなく、さらにその奥に潜んでいるものである。
 その「本当の望み」「心の奥深いところの望み」をぜひ意識してほしいと生徒たちにすすめる。

 今、高一の生徒は「進路の選択」という課題に直面している。「理系に進むか、文系、あるいは芸術系に進むか」を決めなくてはいけない時期にさしかかっている。自分の将来の職業を考えなければならないであろう。その時にも自分の「心の奥深い望みとは何か?」ここを考えてほしいのである。「収入が安定しているから」とか「かっこいいから」とかいう理由だけで決めることのないようにしたいものであると説明する。

 最後に「参考としてこういう考え方もある」として説明することがある。そらは「Potes Quia Debes」という考え方である。この考え方も紹介する。これも以前このブログで紹介してきたので、詳細はそちらに譲ろう。
 つまり「自分のしたいこと、好きなこと」「自分のできること」とともに、「自分が必要とされていること、招かれていること、しなければならないこと、呼ばれていること」というファクターもとても大事なことであると紹介する。
 それが「Potes Quia Debes=You can because you ought」つまり「あなたはそれをしなければならないからあなたはそれをできる」という考え方である。キリスト教的には「神があなたにせよと命じたのだから、あなたには必ずそれをする力が与えられる」という考え方になる。
 「あなたはそれをできる力が与えられたのだから、あなたはそれをしなければならない」というのならわかりやすい。でもこの場合は逆である、とても逆説的な考え方であろう。

 この考え方を紹介したところで、授業の終わりのチャイムが鳴った。
 私の模擬授業はこういう内容であった。
 さてこれを呼んだ皆さんは、どういう感想を持つだろうか? そこをぜひ聞いてみたいと思っている。

 この私の模擬授業が、このワークショップでどのように評価されたのかは、また改めて書くことにしよう。

 

 
 
 

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