2015年01月11日

Freedom Writers ......Their Story, Their Words, Their Future

入院中の暇に任せてお見舞いに来てくれた友人が貸してくれたDVDを見ている。
これまでに「ホテルルワンダ」「パッション」「レミゼラブル」「ダウト」を見た。さらに今日見たのは「Freedom Writers ......Their Story, Their Words, Their Future」だった。なかなかよかった。おもしろかった。

ストーリーである。

【ストーリー】

◆銃の替わりにペンを持ったとき、未来は僕らのものになった
ロス暴動から2年後の1994年、ロサンゼルス郡ロングビーチ。

さまざまな人種が通うウィルソン高校では、登校も下校も命がけだ。カリフォルニアの青い空など、見上げている余裕はない。「ロングビーチでは肌の色がすべて。浅黒いか、黄色か、黒か。一歩外に出たら戦場なの」 学校に着いても問題は同じ。みな肌の色ごとに徒党を組み、人種間の憎しみをむき出しにする。バッグには銃かナイフ。誰もが18歳まで生きられれば、十分だと思っていた。

そんな203教室に理想に燃えた国語教師がやって来る。彼女の名はエリン・グルーウェル、23歳。弁護士になるはずが、「法廷で子供を弁護するのでは遅過ぎる。教室で子供を救うべきだ」と教師になった変り種だ。しかし、支配階級である白人の女教師など、生徒たちには別世界の住人でしかない。彼らの拒絶にショックを受けつつも、エリンは夫スコット(パトリック・デンプシー)に支えられ、詩の教材にラップを取り入れるなど努力を重ねていく。ある日の授業中、ラティーノのティコ(ガブリエル・チャヴァリア)が黒人のジャマル(ディーンス・ワイアット)を馬鹿にした絵を描いた。「こんな絵を博物館で見たことがあるわ。黒人とユダヤ人は下等だとね」 ─ エリンは、第二次大戦のホロコーストがこうした差別から生まれたことを説明する。だが、驚いたことに、生徒たちは、ホロコーストも「アンネの日記」のことも知らなかった。銃で狙われた経験はあるというのに……。教育の大切さを改めて実感したエリンは、教材として「アンネの日記」を読ませようとするが、キャンベル教科長(イメルダ・スタウントン)に予算の無駄だと拒絶されてしまう。「あの子たちに知的興味を持たせるなんて無理よ」

次の授業で203教室に配られたのは、日記帳だった。「今思うこと、未来のこと、過去のこと。何でもいいから毎日書いて。そして読んでほしいときは棚に入れて」 ─ 最初に日記を書いたのは、おとなしいブランディーだった。徐々に、生徒たちは日記帳に本音を綴るようになってくる。「16歳で葬儀屋より多くの死体を見た」「難民キャンプで父は人が変わった。母や私を傷つけるようになった」「俺のダチはストリートの兵士だ」「銃を突きつけられると体が震える」 ─ 生々しい言葉の数々。兄は服役中で、母からも見放されているマーカス。カンボジア移民のシンディ。誰もが出口のない日々を送っていた。彼らの言葉に心揺さぶられたエリンは、本を買ってあげたい、とデパートでパートを始め、さらに週末はホテルでも働き始める。

数週間後、エリンはパートで貯めたお金で生徒全員をホロコースト博物館へと連れていく。父スティーブ(スコット・グレン)も渋々ながら運転手役を務めてくれた。ホロコーストの生存者に対面した生徒たちは、生への、そして知への欲求を高めていく。「彼らのことを忘れない。すべてミスGのおかげだ」

夏休みが明け、全員がなんとか2年生に進級。目立たなかったミゲル(アントニオ・ガルシア)が、日記を朗読する。貧しいミゲル母子はアパートから追い出されていた。「家もお金もないのに、なぜ学校へ行くのか? 服もボロボロで笑われると思ったけど、クラスのみんながいると気づいた。そして、グルーウェル先生が希望を与えてくれた。ここが僕の家なんだ」 203教室がひとつになった瞬間だった。だが、エリンの熱意が高じるにつれ、キャンベル先生ら学校側との対立が深まり、スコットとも距離が生じていく。さらには、コンビニ銃撃事件で、エバが目撃者となり黒人生徒のグラントが逮捕されてしまう。だが、服役中の父親の言いつけで、エバは仲間をかばっていた。「重荷は全部私が背負うの……?」 逆風が吹く中、203教室の生徒たちとエリンは、無事卒業の日を迎えることができるのだろうか。


いかにもアメリカの教育実践の話だと思った。こういうことができたのはすばらしい。教育にはこういうことができるのだと希望を持たせてくれた。でもこれはこうやってみろといわれてもなかなかできるものではないとすぐに考えてしまうのは教員の悲しい性か。
そのなかにクラスが変わるきっかけをつくった事件があった。人種的な偏見を元に描いた似顔絵がそのきっかけになった。
そして次にラインゲーム。「この歌を知っている人はラインまで進んで」「この本を読んだことのある人」という質問から初めて、「最後は銃で狙われたことのある人」「友人が銃で殺された人」という質問までして該当する生徒はラインまで進む。みんな無言のうちにそれを進める。
その後にみんなに「日記帳」が配られた。「何でも思うこと感じることを書いて。私に読んでもらいたい人は戸棚に入れておいて。後で読むから」。この日記帳が生徒たちを変えていくのである。

日本にも「綴り方運動」や「やまびこ学園」みたいな実践があるが、これはもっとすさまじい。
書くこと、表現すること、自分の言葉で語ることって、すごい教育力を持つものだと感心した。

この話は1994年に実際に起こった事件の時に、生徒たちが書いた「Freedom Writers Diaru」が原作となってつくられた。これは教員に見てほしい映画である。

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わが、骨折、入院、手術、松葉杖、リハビリ体験記

2014年12月29日に亀甲山の坂を駆け下りようとして、ぬれたマンホールのふたに足を取られ滑って転んでしまいました。結果は足首脱臼骨折。

実は骨折事故を起こしたときに駆け込んだのは近くの病院でした。でもそこでは手術ができなかったために、そこでギブスをしてもらい、松葉杖のかんたんな講習を受けて家に帰されました。ベッドルームが2階にあるために2階に上るのが大変でした、後ろ向きに階段に座り、腕と右足を使って一段ずついざり上がっていくことで大変な思いをして階段を上がりました。

松葉杖を借りました。松葉杖を使用するにあたり、注意を受けたことが2つありました。それは体重を支えるのは両腕であり、脇で支えてはいけないということと、けっして骨折した左足に荷重を加えてはいけないということでした。
実際使ってみるとそれはよくわかります。脇で支えることなんてできるわけがありません。

近所のその病院では手術ができないというので、手術のできる病院を紹介してもらいました。ところが年末、大きな病院はすでに休みに入っていました。やっと今いる病院がみつかりました。ここは30日午前中の受信が可能だということでさっそく30日の朝弟に頼んで車で送ってもらい、受診しました。

前の日にはめられた仮のギブスをとって、レントゲン写真を見ながら整形外科医のドクターはわたしの足首をさわったあといきなり「えい!」とばかりに足首をねじります。あまりの痛さに「ぎえーっ、イテテテテ−」と悲鳴を上げてしまいましたが、それを何度か繰り返し、そのたびに悲鳴を上げながら、だいぶたって「これでよし」といってすぐに今度は前よりも堅く固定してギブスを巻き始めました。
骨折した部分がうまく接合しないうちに固定してしまうとまずいので、できるだけ折れた部分が前の状態のように接合した上で固定する必要があるわけです。
レントゲン写真をみてそのドクター「よし、うまく固定できた」と満足そうでした。

でも「手術は年明けの6日までできないので、それまで入院してもらいます」ということで正月を病院でむかえることとなりました。昨日も痛くてあまりねむれなかったけれど、この日も同じような痛さです。でも耐えられないほどではなかった。
基本的には移動は2本の松葉杖です。最初はなれずにあぶなっかしかったものも、だんだん慣れてきました。

さて運命の手術の日です。何でも金属製のプレートを折れた部分にビス留めして固定する手術なんだそうです。
下半身麻酔で行うということでしたが、意識がはっきりしているというのもなんだしというので意識がもうろうとする薬を処方してもらいました。
手術は1時半から、麻酔医と整形外科医、看護師が二人という態勢の手術でした。
麻酔は背中から脊椎へ注射するのだそうですがその前に痛み止めの注射をするのですが、「この痛み止めの注射がいちばんいたいんだな」と看護師殿がもらしていましたが、笑うに笑えず。
気がついたら3時半頃、手術は終わっていました。
でも下半身は麻酔がきいていて感覚もなく、動かすこともできません。

問題は10時頃。麻酔が切れてくるとともに痛みがこみ上げてきます。それがじんわりじんわり、じんじんじんじんとくるのです。波状的だったらまだしもずーっと同じ痛みが果てしなく続く感じです。これはつらいです。何度も寝返りを打って少しでも楽な姿勢をとおもうのですが、どこも同じです。
ついに堪え切れずにナースコール。痛み止めの
座薬をうってもらいました。

私は前に「尿路結石」で苦しんだことがあります。あのときも痛かった。あれは文字通り七転八倒です。でもあの痛みは波状的でした。あちらの方が痛かったような気もします。実際あのときは耐えられずに救急車を頼みました。しかも救急車が待ちきれず外に出てもだえながら救急車が来るのを待っていたくらいです。「患者はどこですか?」「わたしです。わたしです。う〜」
救急士だったらこれは結石だなってわかったのでしょうね。受け入れ先の病院を探しましたが、結局すぐ近くの病院に運ばれました。ものの1分とたたない搬送でした。
翌日見舞いにきた友人は「世界でいちばん短い距離を救急車に乗った人」とか「七転八倒したらつく距離」とかいわれました。

あれが七転八倒なら今回のは輾転反側、これは必ずしも痛みの表現ではなく、悩みや不安で寝られずに何度も寝返りを打つ様のことを言います。でもやはりこんな感じです。
今回は座薬がきいてきたのかなというそのとき思いつきました。そうだこの痛さを Facebook で発信してみようと。少しは痛さを忘れるかもしれないし、みんなの哀れみを乞うのも悪くないような気がしたのです。
スマホで何とか入力はできました。きました。きました。次から次へと励ましのコメントがつきました。これについては実際の Facebook の方をチェックしてみてください。結局50以上のコメントがついたような気がします。
私は一人一人のコメントに応答するのはしませんでしたが、痛みが治まってきたとかいう途中経過はメッセージとして書きました。
Facebook にはこういう使い方があるんですね。

結局ほとんどまんじりともしないうちに夜が明けました。生涯で一番長い夜だったかもしれません。Facebook のおかげですこしその長さを忘れさせてくれたような気がします。


でも朝になってだいぶ痛みが和らいできました。
朝すぐに9時頃、リハビリの担当が呼びに来てリハビリがはじまりました。

初日(7日)のリハビリは松葉杖の使い方でした。左足に荷重をかけずに両腕で体重支えるというこれまでやってきたことのおさらいでした。実はこれが一番大変だったんですね。

8日は、左足に少し荷重をかける練習をしました。それぞれの足を2台の体重計にのせて左足にどれくらい体重をかけられるのかをはかりました。この日は20kgでした。そのくらいを左足に体重をかけて歩いてご覧と言われて、やりだしました。まず松葉杖と左足を同時に前に出して少し進めます。次に右足を左足の横に持っていきます。また杖を2本そろえて、左足を20センチ前に進めます。

9日(3日目)はまず体重計に乗って左の足に荷重をかけます。今日は40キロまで力をかけても平気でした。
そうしたら、右松葉杖1本でするようにいわれました。まず左足と右松葉杖を同時に前に出します。そのあと右足を左足の横まで持っていきます。そしてまた右松葉杖と左足を同時に出します。思ったよりずっと簡単でした。
次は階段の上り下りに挑戦です。これはおっかなそうです。
「けんけんで片足上がりや片足下りをするのはまだこわいです」
と言ったら
「これもそう難しくはありません。まず上がるところからやってみましょう。
両手に杖を抱えて足と杖を揃えます。まず右足だけを一段上にあげ、その力と杖の力で左足と杖をいちだんあげて右足の横に持っていきます。こうすれば左足にそんなに荷重がかからない。また右足をいちだんうえにあげて同じことを繰り返します。
次ぎに下りです。まず杖と足を揃えて準備です。まず左足と杖を下の段に動かします。次に右足を下の段にもっていき、左足の横に並べます。次に杖と左足を一段下へ動かし、繰り返します。
ほらそんなに難しくないでしょう。上がり下りともに左足と杖を一緒に動かすのです。
最初は緩やかな傾きの階段で始め次に少し傾斜を急にしていきましょう。」
なるほど、なるほど。わりと簡単にしかもみるみるうちに上達してできるようになっていくのがうれしい。
「では病室まで右の杖だけで帰りましょう。ゆっくりでいいですからね。ドクターの了解がとれたら今日から杖1本で歩いてください。」
部屋まで着いたら
「実はもう杖なしでも歩けます。ベッドまでつえなしで歩いてみましょう。ほらできるでしょう。でもまだこれはしないでくださいね。また明日。じゃ、これで。」

自分でもこんなに回復が早いとは思っていなかった。もし一人でこれをするとなるととうていできない。たぶん、一つは失敗するのがこわいからだろう。うまくいかずに倒れ込んだりしたら、またあの痛い目に遭わねばならないからとおもうと行動は慎重にならざるを得ない。「羮に懲りて膾を吹く膾を吹く」である。
これが回復を遅らせる重要な理由の一つだ。
もう一つある。リハビリのための正しい指導法、何ができて何ができないかを知った上で次にするべきことを一つ一つできるようになるまで教えていく。これである。普通はこれがわからない。作業療法士の存在が不可欠なのである。
これはリハビリに限らないだろう。教育にしても介護にしても全く同じことがいえるのではないか。
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2014年11月19日

つるし柿にしました。

わが家の柿の木に実がたくさんなったというのは前にお知らせしましたが、それを秦野の妹のところにいって、一緒に皮をむき、紐に結わえてつるし柿にしました。
全部で12本100個あまりありました。
渋が抜けるのに1か月以上かかりそうなのでしんぼう強く待つことにしましょう。寒暖の温度差が大きいほど甘くなるそうです。

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セミナー「Facebook で福音を伝える」のご案内

SIGNIS Japan では第20回「教会とインターネット」セミナーを下記のような要領で開催します。

  日 時  12月18日【土)2時〜6時
  会 場  聖パウロ会修道会若葉町修道院ホール
       (四谷駅下車徒歩10分)
  テーマ  インターネットが拓く新・福音宣教\
         −Facebook で福音を伝える

 このセミナーは、インターネットで福音宣教を考えるために年2回ほど行っています。前回台19回は今年2月神戸で、イエズス会の片柳神父に基調講演をお願いしました。
 今回はさらに具体的実践的に踏み込んで、Facebook を使って「福音を伝える」というテーマにしました。Facebook というこれまでになかった福音的なメディアの使い方に焦点を絞って考えていきます。
 タイムスケジュールは以下のようになっております。

 13:30 開場 受け付け開始
 14:00 開会の祈り
 14:15 SIGNIS Japan からの発題
 14:45 レポート「私の Facebook の使い方」
 15:45 休憩
 16:00 3つのワークグループによるワークショップ
      ●これから使う方のために
      ●もっと上手に使うために
      ●福音を伝えるための使い方
 17:15 全体会議
 17:45 閉会
 18:00 懇親会

 今回は、後半の部は3つのグループに分かれて行います。
 グループ1は、Facebook をこれから使いたいという方のために、アカウントの取得から発信、コメント、いいねなどの使い方を手ほどきします。
 グループ2は、Facebook を使っているけれど、もっと上手に使いたいという方のためのグループです。お互いにこんな使い方をしているということを自分の Facebook を紹介しながら報告します。
 グループ3は、「福音を伝える」ことを意識して使いたいまたは使っている方を対象にして、それぞれの企画提案について分かち合います。

 ご興味をお持ちの方はぜひご参加ください。
 申込みは以下のチラシの申込みページをファックスするか、またはメールで申込用紙の内容を記載してお申し込みください。

 女子パウロ会  SIGNIS Japanセミナー係(担当清水)
  Tel 03-3479-3941 Fax 03-3479-3844
E-mail info@signis-japan.org

20回セミナー表

20回裏

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2014年10月28日

柿の実と紅葉とオーシャンブルー

わが家の柿の木が今年は豊作です。
去年は5個くらいしか実をつけなかったのですが、今年は60個くらい実をつけました。
ほかの家の柿の木もたわわに実をつけているところが多いので、今年は柿の実の当たり年なのでしょうか。

これは人のうちの柿の実です。じつにたわわです。
kakinomi

わが家の柿の実はこの程度です。実はこの柿の実は渋柿なので、こんなにたくさん収穫はしたものの、どうしようかと思案に暮れています。今年はつるし柿かな。皮をむく時間が作れるかどうか。
kakinomi2

紅葉した下記の葉っぱをスキャンしてみました。これも美しいです。
kakinoha141028

ついでにわがやのオーシャンブルーの朝顔も今ごろたくさんの花をつけています。今年は屋上で太陽光パネルの設置工事をしたときに朝顔を2階部分から上をカットしてしまいました。それだからここにこんなにたくさん花をつけている。
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2014年09月05日

わが家が発電所になった日

ついにわが家が発電所になりました。
今日9月4日、東電の方がやってきて、分電盤を50アンペアに切り換えて、ブレイカーを ON にしました。
発電を開始しています。今日はくもりなので、発電量はたいしたことがありません。

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屋上には27枚のパネルが設置され、最大出力は5.4KW/hなのだそうです。

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毎日、このモニターを見るのが楽しみです。
これで大手を振って原発に反対できるという感じです。

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2014年06月25日

ドレミの「ド」は Dominus(主イエス・キリスト)の「ド」

Facebook の「教文館出版部」からの Good News をシェアします。
前に「トランプのキング、クイーン、ジャックの絵柄はモデルがいる」という情報を載せましたが、それと同じくらいのトリビアな情報です。

『聖ヨハネの日』

 今日6月24日は聖ヨハネの日です。プロテスタントではあまり耳にしない日ですが、洗礼者ヨハネがイエス・キリストの半年前に生まれたということで、クリスマスの半年前、つまり6月24日が誕生日と定められました。
 この日に歌われていた中世の賛歌「聖ヨハネ賛歌(聖ヨハネの夕べの祈り)」はイタリア式階名「ドレミ」の元となっていることで知られています。ですから6月24日は「ドレミの日」でもあるのです。
 イタリアの修道士で音楽教師でもあったグィード・ダレッツォが「聖ヨハネ賛歌」のドからラまでにあたる部分の1節の歌詞から、Ut、Re、Mi、Fa、Sol、Laを取り出して階名にしたということですが、最初のUtは歌いにくいことから「Dominus」(主)からDoをとって置き換え、ラの次のシは「Sancte Johannes」の頭文字から SJ=Siとしたとのことです。
 つまり「ド」は主イエス・キリストの「ド」というわけです。主音と呼ぶのに相応しい語源ですね。ちなみにフランスの階名ではDoではなくUtを使っているようです。


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2014年06月14日

ホワイトボードにキットパスビューがオススメ

毎週金曜日に清泉女子大学に行って「宗教科教育法」をおしえにいく。受講している学生はわずか2名であるが、この時間がとても楽しい。
昨日それを学生に打ち明けた。
「毎週ここに来るのがとても楽しみなんだ。それは君たちと会えるから」といったら、学生たちはとても喜んでいた。

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 ところで、昨年の秋からこの大学のホワイトボードは「キットパスビュー」というペンを使っている。
 ふつう、ホワイトボードマーカーといえば揮発性のインクのフェルトペンであるが、これはすぐにインクがなくなってかすれてしまうし、なんか書き味がよくなくて字もうまく描けない。
 それに比べてこれはクレパスふうのタッチで、白墨に近い感じである。揮発してかすれるということもない。
 消すのはハンドタオルにおしぼりふうに水をしみこませたもの。これで拭くと消える。だがあまりきれいに消えないで、拭いた跡が残ってしまうのだ。
 最近ようやくこれをうまく使えるようになり、きれいに消せるようになった。コツはきれいに折りたたんで一面ずつ使うこと、ヨコ真一文字に拭き取ったら、タオルの新しい面を使ってまたヨコ真一文字に拭き取る。
 こうすればうまくきれいに消すことができる。

 これはまもなくホワイトボードマーカーの主流になると思う。清泉女子大学はなかなか目が早い。

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2014年05月22日

愛する妻清子さんの「天に召された日」

こんな歌を清子さんの訃報を知った友人が送ってきた。涙なしには読めない聞けない見られないそんな詩で歌でアニメだった。特に今の私には。
まさに今の私のために作られたんじゃないかと思った。



歌:JULEPS 作詞:秋元康 作曲:井上ヨシマサ

ある朝目覚めたら 神さまが待ってた
命に終りがくると そっと知らされた
どうして僕だけが 旅立つのか?
運命のさざ波に 声は届かない

一番近くの大事な人よ
しあわせだったか? それが気がかり

もしも僕がいなくなったら
最初の夜だけ泣いてくれ
君と僕が過ごした歳月を
思い出しながら見送って…

いつかは誰もみな 迎えが来ると
わかっていたはずなのに 他人事のようで…
夕陽がいつもより美しくて
知らぬ間に溢れ出す 感謝の気持ち

今まで一緒に歩いた人よ
残して行くこと 許して欲しい

君と会えて幸せだった
朝の空見上げ微笑んで
僕はきっと日差しになって
見守っているよ 君のこと

もしも僕がいなくなったら
最初の夜だけ泣いてくれ
君と僕が過ごした歳月を
思い出しながら見送って
思い出しながら見送って…


 愛する妻の清子さんが5月3日急逝した。
 前の日はまったく元気で「男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎」と「ラララミュージック マスネー『タイスの瞑想曲』」のビデオを見たあと、「もう寝よう」と言ってそれぞれの寝室に別れた。
 翌朝6時40分頃、「朝だよ!」って起こしにいったら清子さんの反応がない! すでに事切れていた。
 まったく「信じられない! 昨日はあんなに元気だったのに、こんなのうそだよ! 清子さん、起きて!」何度も呼べども返事がなかった。
 こんなことってあるのか。神さまが突然清子さんを連れていっちゃった。何の前触れもなく、別れの挨拶もしないうちに。
 「神さま、ひどい! むごい!」泣きながら神さまにくってかかったけれど、清子さんはもう戻ってこなかった。

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 5月6日に、カトリック鶴見教会で、お通夜。7日に葬儀ミサ、告別式。そしてそのまま火葬場へ。
 たくさんの方のご会葬があった。
 通夜の時には英隆一朗神父(イエズス会)告別式では晴佐久昌英神父(東京教区)の弔辞があった。

 あれから20日がすぎて、ようやくこのブログと Facebook で公表することにした。お知らせが遅くなってしまってもうしわけなく思っている。この「像の背中 −旅立つ日」を見て、ようやく発表する気になった。

 ともかく清子さんへの生前のご厚誼、ご厚情、本当にお世話になったこと、私たち夫婦を支えてくれたことに心から感謝を申し上げたい。ありがとう。
 おかげで私は清子さんとの、神さまに祝福された幸福な結婚生活をおくることができ、そして清子さんを神様のもとへお返しすることができた。本当にありがとう。

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2014年05月13日

試験の時に何を祈るか? 宗教科教育法3-2

「宗教科教育法」第3回目授業の「祈りをどう教えるか?」の続きです。「試験の前に何を祈るか?」という問いかけを生徒たちにしてみました。この問いかけは祈りとは何かを知る上にとても良い問いかけだと思っております。
 ちなみに「試験の前の祈り」というので検索したらここここにありました。これも一つの参考になると思います。
 このことについて、私は「心のともしび」で書いたことがありますので、それを転載します。本来ならば「心のともしび」のホームページにリンクを張るべきなのですが、残念ながら最近のリニューワルに伴い読めなくなってしまったので、ここに全文を掲載させていただきます。

「心のともしび」原稿「祈りの時」
テストの前の祈り
土屋 至  

 私が勤めていた学校では朝礼の時間に祈りと歌が全校放送される。決められたお祈りを唱えたあと。歌をはじめる前に1分くらいの短い沈黙の時間があり、それぞれが自分の祈りをすることになっている。
 あるとき、生徒に
「試験の日の朝礼の祈りの時に、どんなことをお祈りしている?」
と、聞いてみた。
「そんなの『いい点を取れますように』っていのるに決まっています。」
このこたえをかわきりにいろいろな答えが続いた。
「わたしは昨日勉強したところがでますようにってお祈りします。」
「私はこう祈ります。自分のしてきた勉強の成果があらわれて努力が報われますようにと」
「わたしはあまり勉強しないので、いつも試験の前には努力した以上の結果が出ますようにと祈っています。これってムシがよすぎるでしょうか?」
 生徒の質問の矛先が私の方に向けられてきたが、それには直接答えず、生徒に聞き返す。
「さあ、どうかな? みんなはどう思うかな?」
「神さまが喜ばれるお祈りというのがあると思います。あんまり自分勝手なムシのいい願いは神さまのご機嫌を損ねちゃいます。」
「神さまは寛大な方だから、たとえムシのよい願いだとしてもきっと聞いてくださいます。イエスさまもわたしの名のもとに祈ることはきっとかなえてくださるっていわれていま〜す」
「聞いてくださることは確かだけれど、その願いどおりになるわけではないですよね。たとえ試験で悪い点だったとしても、その人のことを考えてその人のためになるようにとりはからってくださっているはずです。よく『みこころが行われますように』というお祈りするけれど、それってこういう意味ですよね。先生」
 この生徒は私の言いたかったことをみんな言ってしまった。だから優等生は嫌いなんだ。

これを読んで何を考えますか?

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2014年05月10日

宗教科教育法3時間目「祈りについて」

 カトリック学校が生徒に与えることのできるもっともいいものは、きっと「祈り」だと思う.生徒たちが祈ることを身につけていたら、それによってどれだけ救われるか、「祈りが私を自由にする」「祈りの持つパワー」を体験出来ることの幸せをカトリック学校だけが教えられるじゃずである.ところが今の「宗教」の授業ではこれを知識ではなく体験としてどのくらい教えているのか、まったくもってもったいないと思っている。
 それで、これから3回くらい「祈りをどのように教えるのか」についてかんがえる。

 まず「日本人の祈り」について次のような問いかけをする。
 問1 日本人のもつ祈りのイメージは? 思いつくことばやイメージを自由にあげてみよう.

合掌 ぬかづく みずごり 滝に打たれる 念じる 願う 苦しいときの神頼み 念仏 お題目 お経 ロザリオ ひざまづく 黙祷 無心になる


  問2 日本人はどのようなときに祈る

初詣 墓参り 葬式のとき 病気のとき 神社やお寺で 除夜の鐘 建前のとき
合格祈願 安産 お祭り…………


 無宗教といいながら日本人は結構祈っています。
 さらにどちらかと言えば、初詣、お宮参り、結婚式などの始まりのおめでたいことは神社にいき、葬式や除夜の鐘、専属用などの終わりに関することで教示はお寺に行くことが多いのはなぜか?と問いかけたりします。

 問3 日本人は何を祈るのか?

家内安全 健康無事 商売繁盛 五穀豊穣 安産祈願 合格祈願 旅の安全 病気の回復…………


 「亡くなった人のためには何を祈るのか」「冥福を祈るというけれど、あれは何を意味するのかな?」とも問いかけます.
 この日本人の祈りには「世界の平和」や「災害の復興」「飢餓のこどもたちのために」みたいなのがないよねといいます。日本人の祈りは自分のご利益が多いのですね.こういうと反発する人が出るかもしれないけれど。

 問4 祈りの道具、スタイルなど

合掌 ロザリオ 数珠 お経 写経 座禅 ひざまづく ひれふす 絵馬 おまもり お百度参り 


 「ロザリオ」が出てきたときには、実際にロザリオを見せて「これを使ってどう祈るのかを誰か知っているか?」ときいて、ロザリオの祈り方を教えます。

 もう1つとてもおもしろい問いかけがあります。「定期試験の前に何を祈りますか?」という問いかけです.との問いかけはとてもおもしろい応えが出てきます。そしてそれは祈りの本質に触れるような応えが生まれるのですが、これについてはこの次に書くことにしましょう.
 今日はこの辺で。
 ごきげんよう!

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2014年04月30日

カジュ祭に行ってきました。感動的でした。

第9回「鎌倉路地フェスタ」「カジュ・アート・スペース」で開かれた「カジュ祭」に行きました。とても感動的なイベントでした。まちで行う「おとなの文化祭」という感じでした。



清子さんと私はここで
清見ミカンのジュースを飲み、マーマレードのために皮をたくさんもらい、
SANYO DIGITAL CAMERA
上勝晩茶を飲み、
ラスクを買って、
陶器のアクセサリーを2こ買い、
SANYO DIGITAL CAMERA
石焼きピザを食べ、
「かんたん工作・科学遊び教室」の「くりのき倶楽部」の代表の方と「おもしろ科学」について話し、
ここの主催者であるたなか牧子さんと「十二所黙想の家」について話し、
45期の吉澤さんとシェアハウスについて話しました。
ちなみにたなか牧子さんは私の勤めていた学校の美術の先生でした。

とても賑やかで活気があって、温かみに溢れていて、感動的で実り豊かな時間と空間でした。
こういう地域活動がこれからのまちを変えていくんだと思います。

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2014年04月25日

「道徳」「倫理」と「宗教」の授業の違い

今日(4月25日)の清泉女子大学の「宗教科教育法」の時間は「宗教の授業で何を教えるのか」というテーマで行いました.
今年の履修生は実は2名でした。この科目を担当して今年で6年目ですが、今回がもっとも少なかったです。1年目は5名、2年目は10名、3年目は14名、4年目は8名、昨年は6名でしたが、いまだ「宗教」を担当する教員になった人がまだでていないというのが現状です。
あまりに受講者が少なくはりあいがないので、できるだけブログと Facebook で公開することにしました.

まず、中学「道徳」と高校公民科「倫理」の「学習指導要領」を読み合わせました.
中学の「道徳」学習指導要領には、「内容」の3に

3.主として自然や崇高なものとの関わりに関すること。
⑴ 生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する。
⑵ 自然を愛護し、美しいものに感動する豊かな心を持ち、人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深める。
⑶ 人間に弱さや醜さを克服する強さや気高さがあることを信じて、人間として生きることに喜びを見出すようにつとめる。


というのがあります。この「人間の力を超えたものに対する畏敬の念」というのが「神様を賛美する」ことになるのだと説明をしました。

そのあと学生たちに問いかけてみました.そのやりとりを再現してみましょう。実際よりもよく書かれているのですが…………。

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「じゃあ、公立でする「道徳」「倫理」の授業とカトリック学校の「宗教」の授業の違いは何だろうか? 宗教系の中学校では「宗教」の授業を「道徳」の授業として扱うことが認められているけれど、やはり違いはある」
学生たちの応え、
「まず第一に、聖書を読むということ」
「神様の話が出てくる所」
「祈りを教えるところ」
「そうだね。この3つがもっとも大きなところだ。では内容的にはどうかな? この3つの特徴の故に教える内容にはどのような違いがあるかな? わからないかな?」
「そういえば『宗教』には学習指導要領がないね.教科書もないし」
「道徳では愛の大切さは教えるけれど、キリスト教ではアガペ(無償の愛)をとくところかな。」
「よくわかったね。他にはこういう違いはもっとたくさんあると思うけれど」
「道徳では『いのちがもっとも大切である』と教えるけれど『宗教』では『いのちよりも大切なもの』を教えます。星野富弘さんみたいに。」
「おお、それはいい所に気がついた。『永遠のいのち』の話はもっとも宗教的だと思う。」
「福音の逆説性というのもあるよね.『貧しい人は幸い」「泣く人は幸い」なんて道徳の授業で教えたら訴えられてしまうけれどね。それに『汝の敵を愛せよ』もそうだよね。常識的には考えられないことでも『宗教』の授業でなら『偏向』といわれずに教えられる」
「じゃ『道徳』の授業では教えられても『宗教』ではほとんど教えていないことがあるけれど、気がつくかな。教えている所もあるだろうけれど、きわめて少ないと思う.」
「なんだろう? わかんな〜い」
「『愛国心』だろうね。国を愛するよりもより普遍的な人類愛は教えるけれど.国家に体する忠誠心みたいなものは教えないよね.」
「そういわれると『道徳』では社会批判みたいなことも言わないよね.社会の矛盾とか社会が持つ構造的な悪みたいなことも教えないね。『宗教』の時間ではしっかりと教えるよ.」
「『道徳』というとやはり、国が教える教科なんだよね。どうしてもそこから抜け出すことができない。」
「じゃ、次の質問だ。いま文部省では『道徳の教科化』ということを画策しているけれど、『道徳』が『教科」になるとどこが違ってくるのだろう?」
「学習指導要領と検定教科書が出現する。これまでは道徳には副読本はあったけれどね。」
「評価が付く。つまりテストをするということかな?」
「教員免許状も必要になるよね.道徳を教えることがより専門的になる。これまでは教員免許を持っているものなら誰でも教えることができた。」
「つまり、道徳を○と×で教えるようになる.善と悪を峻別するようになる。本当は善と悪の灰色状態が問題なのだろうけれどね」
「なんか、授業がつまらなくなりそう。価値観の押しつけばかりが多くなってしまいそうだから。いろいろな意見が出て活発に話し合う所が面白かったのに、これではなかなかそういう『対話』は生まれそうにないね.」
「そういう対話の中で気がつくこと、教えられることが『道徳』の授業の場合とても大切なんだよね.」
「前に述べたような『宗教』の授業でしか教えられなかったことが教えられるなくなりそう。ということはミッションスクールの存在理由にも関わってくる大切な問題なんだ。カトリック学校にはこの危機感が薄いような気がすることも問題だ」


とまあ、こんな展開がありました。
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2014年04月23日

パンダのチョコレートボールのパッケージの奇抜さ

大井松田のブルックスで「パンダのチョコレートボール」というのを買った。パンダの表情がかわいかったからである。
これを食べてちょっとおどろいた。パッケージのなかには白いチョコボールが二つ入っていた。ということは表情豊かなパンダの姿は実はパッケージのほうに印刷されていて、中のチョコボールは白いままなのであった。
印刷されたパッケージは全部で11種類あって、どれも表情が違っていた。
さらにKALDI では「母の日のプレゼント」仕様で販売されていた。

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シェアハウスのはじまり、はじまり〜。

 私の家は、70坪ほどの借地に2軒の家が建っています。1軒は築25年ほどのヘーベルハウスで私たち夫婦が寝起きしています。もう1軒は築50年ほどの両親の家でしたが、両親ともに他界してしまい、住む人がいなくなりました。私たちは仕方なくそちらの家で食事をすることにしていましたが、食堂と台所以外の部屋はだんだんと物置となりつつあったのです。
 これではあまりにももったいないと思っていたので、一人の若者を居候させようと画策していたら、友人が自分の息子も居候させてほしいと懇願するので、ついに二人の若き男性を居候させることにしました。
 しかし、そのためには部屋をきれいにしなければなりません。物置となりつつあった「もの」の処分をしなければなりませんでした。父と母の遺品も多くありました。
 父の遺品はボランティア協議会事務局をしていたときの書類集、写真好きだった父のアルバム、数理パズル関係の本が多くありました。特にボランティアの書類は実に見事にファイルされていました。
 母の遺品は手芸教室をやっていた関係からの手芸の本、手芸の材料の端布、そして司馬遼太郎をはじめとする歴史小説が多くありました。
 それから私の「おもちゃコレクション」もたくさんありました。
 それらの処分の奮闘が始まりました。粗大ゴミは2回に分けて11点のほか、一般ゴミや紙ゴミの時に45リットルのゴミ袋を8つくらい出していきました。これ以上出すと持って行ってくれないだろうなというぎりぎりの量でした。
 父母の遺品を整理している中で見つけた多くの Good News はおいおい紹介していこうと思います。
 ともかく、二人の居候師にも手伝ってもらって、なんとか住めるようになりました。

 これは一つのシェアハウスなんだなと思っています。私たちと二人の若い居候男性たちとのシェアハウスなのですね。どういうライフスタイルにするか、どういう生活のルールをつくるかは、どれだけの「家賃」をいただいたらいいのかなど、これから話し合いながら、試行錯誤していきます。
 一人は「宗教」を教える教員をめざしています。一人はプロのギタリストです。それぞれの夢の実現をサポートできるシェアハウスにしようと思っています。
 私の場合には「宗教倫理教材集」「宗教倫理ワークブック」の作成や、 Good News データベースと科学おもちゃデータベースづくりなどを手伝ってもらおうと思っています。

 ともかくもこのシェアハウスのはじまり、はじまり〜。さてどうなることか。いつまでつづくか。

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2014年04月11日

ゾウの描く絵

Facebook に流れてきたものをシェアしています。
すごいですね。ホントに見とれます。




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台所でたまたま見つけたこんな現象

台所でドレッシングの瓶のラベルをはがそうとしてみずにつけようとしたところ、水が流れている水道の蛇口の下に入るとこんなローリング現象が起こりました.
これをどのように説明したらいいですかね? ベルヌーイの定理の現象かな?



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2014年03月23日

イタリアでウルスラ会のシスターが一夜にしてスターに

ここのところカトリック教会の関係する Facebook を賑わしているニュースがある。テレビ局の歌のオーディション番組でウルスラ会のシスターが登場し、圧倒的な人気を博したそうである。

 イタリアのオーディション番組「ザ・ボイス(The Voice)」に出演したクリスティーナ・スクッチャ(Christina Scuccia)さん(25)は、黒の修道衣と十字架のネックレスをつけ、アリシア・キーズ(Alicia Keys)の「ノー・ワン(No One)」を歌った。観客からは大きな歓声が起き、審査員4人は信じられないといった表情を見せた。
 ウルスラ会(Ursuline) の修道女のスクッチャさんは、「神から与えられた才能があるからここに来ました。その才能を分かち合えればと思って」と述べた。審査員の1人のラップ歌手、J-Axさんは、「感動して涙が出た」と語った。
 スクッチャさんは、修道院から「外に出て」神の御言葉を広めなさい、と言ったフランシスコ(Francis)法王に触発されて番組に出場することにしたという。
 別の審査員が、法王庁は彼女がオーディション番組に出たことをどう思うだろうかと尋ねると、スクッチャさんは「法王からの電話を待っています!」とジョークで返した。


どうやら教皇フランシスコに刺激を受けられたようである。



こういうのが生まれるのも、今のカトリック教会のおもしろさであろう。こういうシスター、日本にもけっこういますよ。

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2014年03月07日

自殺を予防するTALKの原則

カウンセラーの友人がFacdbook でシェアしたものを私もここでシェアします。
医者がつくる、医療と医学がわかる情報サイト「医知場」からシェアしました。


TALKとは、Tell、Ask、Listen、Keep safeの頭文字をとったものです。

T:あなたの様子をみていると、とても心配になるという点をはっきりと言葉に出して伝える。

A:自殺のことをうすうす感じているならば、はっきりとその点についてたずねる。真剣に対応するなら、それを話題にしても危険ではなく、むしろ自殺予防につながる。

L:傾聴する。励まそう、助言しよう、叱ろうなどと思ったり、気分転換のためにどこかに連れて行こうという気持ちがわき上がるかも知れないが、最初は、徹底的に聞き役に回り、相手の絶望的な気持ちを真剣に聴く。

K:危ないと思ったら、その人をけっしてひとりにしないで、安全を確保したうえで、必要な対処を行う。周りの人からの協力も得る。危険だと考えられる人、とくにはっきりと自殺を口にしたり、自分の体を傷つけたりした人は、確実に精神科医の診察を受けさせる必要がある。

自殺の危険が高い人は、周囲から手を差し伸べられても、それを拒絶して、孤立を深めていくケースが多い。

日本では、精神科を受診することに抵抗がある人が多い。

相手に自殺の危険を感じたら、TALKの原則で対応し、できるだけ早く、精神科の診察を受けさせるべきだ。


う〜ん。精神科の医師はこれにちゃんと対処できるのかな? という不安がありますが………。

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2014年03月03日

「スピリチュアル・ケア」ノート

「聖書におけるスピリチュアリティ・スピリチュアルケア」(キリスト教カウンセリング講座ブックレット6 大柴譲治、賀来周一著 キリスト新聞社 2011年刊)を読んだ。なかなか参考になることの多かった本であった。
以下、そういうところを抜粋して記そうと思う。おもに後半の賀来さんの書かれた第2部「スピリチュアルケア−臨床牧会の立場から」というところに興味を覚えた。

 スピリチュアリティとは、従来意味されてきたような特定の宗教に基づくというのではなく、また神秘主義的な傾向によるものでもなく、きわめて成熟した宗教性とでも言うべき者が求められるようになった。
 宗教という言葉からは特定宗教、既成宗教のイメージが連想されるところから、宗教性という用語を使用するに抵抗感を持つ向きもありますが、ひとは「生き死に」の根源に関わる究極性を概念的にではなく経験的に求めているという意味で健全かつ成熟した宗教性という意味をスピリチュアリティという用語に込めることは許されることではないでしょうか。(106ページ)

 死の看取り現場から見えてくるもの
 危機的実存的問いとスピリチュアルペイン
 「こうなったら生きていてもしょうがない」「なぜ私はこんな病気になったのか」「もう諦める以外に道はない」「何かの祟りではないのか」「これから先わたしはどうなるのか」「私の人生はこれでよかったのか」
 科学の知の限界
今まで科学の発展の背後に隠れて光を浴びることのなかった対極としてwの個別性、非合理性、主観性に実は人間の問題を解明する大きな応えが潜んでいる。(111ページ)

3種類のスピリチュアルペイン
1.存在論的問い「なぜ存在するのか」(いるだけでは怠け者、存在するだけでは意味がない、こうなったら死んだ方がまし。)
2.目的論的問い 「何のために存在するのか」(役に立たないなら無駄飯食いだ、早く死にたい。何のために生きているのか。今は死ぬに死ねない、まだし残したことがある、私の人生はこれでよかったのか)
3.不条理の問い 「なぜ、私にこんなことが」(なぜ、こんな不幸な目に遭うのか、なぜ今なのか、なぜ他の人ではないのか、何もわるいことはしていないのに、正直に生きてきたのに、神はいるのか)

スピリチュアルペインと聖書

1.存在論的問いと創造の出来事
 「何かをする」ということを重視する現代社会の価値観は、ただいるだけで何もしない人はだめで役立たずとしか見ないのです。この社会における人の営みは、好意と存在から成り立ちます。しかし、社会は、行為つまり「する」ことに価値の基準を置いて人間を見るのです。「いる(存在)だけでは意味がない、この価値観は現代社会に生きる私たちの中に染みついています。(117ページ)
 神学者バルト(1886〜1968)は、自殺する人に語りかける言葉は「生きなければならない」ではなく、「あなたは生きることが許されている」でなければならない、と言います。(120ページ)

2.目的論的問いと終末の出来事
 人は命の終わりにさしかかれば、必ず何もできなくなるにちがいありません。それこそ「いるだけ」の世界に身を横たえなければならなくなるはずです。(131ページ)
 スイス人医師のポール・トゥルニエ(1898〜1986)の著作「老いの意味」(邦訳ヨルダン社)に「老いるということは、未完了の仕事を受け入れていくプロセスである」とあります。(133ページ)
 明日死を迎えるとしても、なお先を望んで、今日を淡々と生きるためには、死のかなたに、死にゆく「私」のすべてを受け取られて、究極の完成へと導かれていく、と言う宗教的世界が提示されねばなりません。ここには終末論的な意味を持つ、スピリチュアルケアの重要性が問われるのです。信仰があれば大丈夫、死ねば天国に行くという安易な言葉ではくくることのできない、深刻な苦悩や悲しみの最中にあってもなおその向こう側に究極性や永遠性、絶対性を希求する人間の実存がかかっているのです。
(134ページ)

3.不条理の問いと十字架の出来事
 ドイツの女性神学者ドロシー・ゼレ(1929〜2003)は、その著「苦しみ」(邦訳、新教出版社)という本の中で一つのエピソードを紹介しています。
 第2次世界大戦のユダヤ人強制収容所の中である出来事が起こりました。過酷な状況に耐えきれず、脱走を図った子どもたちがいました。二度とことを起こさないように見せしめのために、収容所の中の子ども全員を集めて一列に並ばせ、五番目ごとに銃殺したのです。
 ゼレはこの出来事を紹介するにあたって、こんなことを言っています。このようなときに、愛なる神、全能なる神はどこにもいない。もし神が愛であり、全能であるなら、すぐにやってきて五番目ごとに並んでいただけで銃殺される子どもを助けにきてくれるはずだ。しかし、そのような神はどこにもいない。もし神がいるとすれば、銃殺される子どもと一緒に殺された神がいるだけだ。そういう神はともに苦しむ神であり、それが十字架のキリストに他ならないと言います。
 キリストは十字架上で果てられるとき、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」とさけばれたとあります。
 神の子が神から見捨てられたのです。これほどの不条理はありません。キリストは不条理の極みにご自身をおかれたのです。キリストご自身を不条理の極みに置かれることで、私たちが不条理の極みに立つとき、共にいてくださるお方だということを、十字架上のキリストを通して私たちを知ることができるのです。(127ページ)
 究極のカウンセリングは「共にいること」(WITHNESS)であるといわれます。苦難の中にいる人と共にいることは辛く難しいことです。しかし、共にいてくれる人がいれば、問いだけあって答えがないところでも、人はなお前に向かって生きることができます。(127ページ)
 


 引用ばかり長すぎてしまった。
あとは見出しだけですませることにしよう。本当はここがもっとも大切なところかもしれないけれど。

第4章 スピリチュアルペインに対するケア
1.存在論的問いに対するケア 存在の肯定と安心感の付与
2.目的論的問いに対するケア 究極の世界にゆだねる決断
3.不条理の問いに対するケア 意味のあるプロセスの共有者の存在

私の物語
 スピリチュアルケアの最終目標は、当事者がどれほど成熟した「私の物語」を作ることが課題となります。その物語の質はスピリチュアルペインの克服の程度によって決定されます。援助する側からみれば、その「私の物語」が慰めや希望をもつ物語となるように援助することが求められています。

 こんな「物語」が紹介されていた。

 手元に一冊の本があります。三児の母、そして49歳にして「がん」と向き合う日々を生きた一人の信仰者田坂祥子さんの死の看取りの記録です。この本は「安らかな死」と題して1994年に日本キリスト教出版局から上梓されました。
 1992年の5月9日の朝、祥子さんは愛する夫と32人の子どもたちに見守られ、自宅のベッドで召される時を迎えた。最期の言葉は「あなた、ありがとう」とのご主人への感謝であった。納棺の時には「みんなの席を天国で取っておくからね。椅子取りみたいに。いい席にハンカチを置いておくよ………」と数日前に彼女がユーモアたっぷりに言い残した言葉通り、棺の中にはハンカチをたくさん入れた。音楽の好きな祥子さんにとって、天国は音楽会だったからである。

 私もこんなすてきな物語を死ぬ間際につくれるだろうか。
 私は「死にたくな〜い。もっと生きていた〜い」と絶叫して息絶えるのではないか。その往生際がわるさに神さまもあきれるだろうが、「こんな絶叫する元気があるなら、もう少し生かしておくか」と神さまに思わせてしまうのがねらいの物語である。

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2014年02月21日

宝くじCMのコピーはどう考えたらいいのか?

電車とバスの中にあった「宝くじ」の広告ポスターが目についた。何とも不思議なコピーである。

「お金持ちが幸せとは限らない」とお金持ちになって実感してみたい。

だって。
これは駅のポスター。

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こちらはバスの中の広告。

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2014年02月13日

「ありがとうの児童画展」の43年前の子どもたちの絵

 私のSIGNISの友人の鈴木浩さんは、今から43年前の1969〜1970年に自転車で日本全国の小学校をまわり、子どもたちの絵を集めました。約125校から500点余の児童画を集めました。
 彼はそれを集めて東京で児童画展を開くのが夢でした。その夢は1970年10月に実現します。

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そしてそれは新聞記事にもなりました。

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 Facebook で少しずつ発表されてきましたが、ここで一挙に全作品がみられるウェブサイト児童画展「ありがとうの絵」が開催されるようになりました。
 どの作品もじつに生き生きとその時代を反映して描かれています。
 彼はこの絵を当時小学生だった作者に返却したいのだそうですが、返却するすべがありません。この絵を見て描いた方たちと連絡が取れたら幸いです。

 それにしても全国を自転車で回って、子どもの絵を集めたというのは、今では考えられないことですね。それをあつめた青年時代の鈴木さんと快く絵を提供してくださった学校と子どもたちに頭が下がる思いです。

こちらにもあります
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2014年02月09日

「シニアの霊性」体験プログラムの提案

 私の卒業した高校である栄光学園同窓会には「栄光同窓カトリックの会」という支部みたいなものがあります。カトリックの信者の卒業生の集まりです。私はここの13期生なのですが、私がもっとも若くて、古くは1期生からいます。
 このたび「栄光同窓カトリックの会」のメンバーのための黙想会を3月15日〜16日に鎌倉の十二所黙想の家で行うことになりました。
 ただし、今回は同窓会メンバーのための黙想会なので、参加のご希望をいただいてもお応えできませんが、いつか一般の方々の参加できる「黙想会」として企画できたらいいなというのが私の夢です。
 もしもこのプログラムに参加してみたいという方がおられたらコメントにお寄せください。そうしたら実現できるでしょう。
 その黙想会のために、黙想指導の神父さんに書いた提案書をこの私のブログで紹介します。黙想指導のプロである神父さんにこんな生意気な提案をすることの失礼は重々認識しておりますが、あえて提案させていただきました。

 このたびは「栄光同窓カトリックの会」の黙想会指導をお引き受けいただきありがとうございます。
 実は、私はこれには出席できないのですが、この同窓会幹事のひとりとしてこの「シニアの霊性」というテーマの黙想会を提案しました。
 黙想指導のプロである神父さまに、この黙想会に参加できない私が、こんな生意気なことを申し上げる失礼もおゆるしください。
 今度の黙想会は、ぜひ神父さまのやり方でおすすめください。
 でもどうしても神父さまにお聞きいただきたく、メールいたします。
 実はこの種の黙想会は、高齢化が進むいまの教会に必要なことだと思うのです。教会の中だけでなく、一般の人びとにも有効だと思うし、なによりも福音宣教の最も有効な手段となり得るとさえ思っています。信者でない一般の人たちにこのような「シニアの霊性」体験プログラムを提供できたら、きっと信者となる人が増えるでしょう。
 十二所の黙想の家は、これからそういうプログラムを体験できる場として、地域にそして一般の人びとに開かれていく場となるように提案したいと思っているので、今回の黙想会はそのテストケースになるかもしれません。

1,この黙想会のスタイルについて
 私は、東京で行われている「カトリック学校教員養成塾」のスタッフを務めて5年目になりますが、毎年年末に合宿を致します。そこで「自分の教員生活を振り返る」ということをします。
 たとえば「教員になったきっかけやその学校に勤めることになったきっかけ」「自分に影響を与えた先生たち」「生徒との交わりの中で得たこと」「同僚たちとの交わりの中で」「これから私のめざすこと」というテーマのもとに5つのセッションを行います。
 それぞれのセッションは、スタッフのひとりの自分の経験についての簡単なプレゼンテーション(15分程度)、1時間の個人の振り返りの時間、そして1時間の5〜6人グループでのわかちあいによって構成されています。
 1時間の振り返りの時間は沈黙でそれぞれの部屋や聖堂、あるいはその集会の部屋で行います。思いつくことをノートに書いていく人もいれば、書かないでひたすら黙想する人もいます。
 分かち合いは、その振り返りの時間で何を感じ、何に気づき、何を考えたのかということを分かち合います。先ず順番にひとり5分くらいの報告をしほかの人は聞き合います。それを一巡したら、ほかの人の分かち合いを聞いて感じたこと考えたことを今度は順番を決めずに第2ラウンドを行います。分かち合いなので、他の人の分かち合いを批判したり、注釈をくわえたり、説教をしたり、助言をしたりするのはすすめられません。
 グループのまとめをしたり、全体への発表や報告をしたりすることは必要ありません。
 じつは今度の黙想会もこのスタイルをとったらいいとおもって、スケジュールを作りました。
 スケジュールには1時間の講話、1時間の黙想、1時間の分かち合いとなっておりますが、講話に1時間必要ないと思われます。テーマの解説と具体的な作業の指示、その作業をしてみて神父様ご自身のケースについての話をしていただければいいと思います。これはあくまでも自分の振りかえりを助けるための「呼び水」みたいなものです。
 教会の黙想会の多くは、講話と黙想だけで構成されていることが多いのですが、ひどいときには「黙想会」といいながら講師の講話を聞くだけというのもあります。ここでは講話が中心というよりも、個人の振り返りが大事なのだと思います。講話はそれを助けるためのものであってほしいのです。

2.各セッションのテーマについて
 この黙想会の全体のテーマは「シニアの霊性」です。おそらく参加者の中でも私がもっとも若い世代となり、参加者の多くは70代となるはずです。いまふうにいうならば「終活」ですね。そんなシニアのためのテーマは次の三つになるのではないかと思うのです。
 ひとつは自分のライフストーリーを振り返る。人生の総決算とでも言えるかもしれません。
 他のひとつは「死の準備と永遠のいのち」ということでしょう。
 そして3つめは「残りの生をどう生きるか」
 黙想者はそれぞれのテーマについて、もっとも応えやすい問いかけを選んで、それについてあれこれと思い巡らしてみて、神さまと対話してみるというのが振り返りの時間です。思い浮かべたことや気がついたこと、感じたことなどをノートにメモしておくといいでしょう。

1)自分のライフストーリーを振り返る
自分に与えられた恵みと逃してしまった恵み
自分の人生のラッキーだったこととアンラッキーだったこと
私がこれまでにやってきたこと、やってこれなかったこと、あるいは成功と失敗をふりかえる
私の人生のターニングポイント、選択の歴史
クリスチャンとして信仰をもって生きてきて、損をしたと思うこと、得をしたと思うこと
どういう呼びかけにどう応えてきたのか、あるいは応えてこなかったのか?
人生を生きてきての誇りと悔い
自分の自慢、手柄、功績のリストづくり
自分の遺産のリスト 残しておきたいもの、何を遺産として残したいか、誰かに受け継いでほしいこと、自分の記念館を作るとしたら、何を展示し、自分の生涯をどう紹介するか。
自分の「ライフワーク」や自分史の目次づくり
もっとも愛する人へ、毎年命日になると配信される手紙を書く。
自分の人生の意味を考える。ライフストーリー、人生シナリオ。このストーリーやシナリオの作者である神さまは、主人公のあなたをとおして何をお伝えになりたかったのか?

2)死の準備と永遠のいのち
 私は個人的にこのテーマを黙想するのにもっともいいのは、デ・メロ神父の提唱する「臨終と葬式のエクササイズ」だと思っています。ご存知だと思いますが、これは「東洋の瞑想とキリスト者の祈り (アントニー・デ・メロ 著 裏辻 洋二 訳 女子パウロ会刊)に掲載されています。「幻想を用いて祈る」という章に紹介されている一連の黙想です。

●生命(いのち)その真価 
●視力を失う自分を想像する
●全身麻痺でベッドに横たわっている自分が、徐々に麻酔から覚めていく自分
●病院で入院中の自分
●体よ、さようなら
●あなたの葬式と埋葬

 私はこのエクササイズをCLCのなかまとともに過去に体験したことがあります。素晴らしいエクササイズでした。とくに「体よ、さようなら」でイエズスがそこにおられて「体の各部分に、至(注・私の名前)の手よ、至のためによく尽くして働いてくれた」と手に感謝している部分を想像したときに涙が止めもなく流れてきたのを思い出します。
 この黙想会では聖堂で実際にこれをガイドしてくださるのが一番いいのではないかと思っています。もっともこのエクササイズに抵抗して祈れない人も出てくるでしょうが、そこをうまくガイドしていただいて、このエクササイズをしたあとに分かち合うのは素晴らしい信仰体験になるはずです。
 ここに現代的でほんものの『霊操」のエッセンスが込められているような気がしますが、いかがでしょうか?

3)残りの生をどういきるのか?
 これも具体的なリストをつくる作業として行えばいいと思います。
●死ぬまでにやっておきたいことのリストづくり ともかく思いついたことを箇条書きにしてどんどんあげていきます。行きたいところ、会っておきたい人、体験しておきたいこと………などを思いつくままにあげていきます。できるだけたくさんリスとしたら、それを読みかえしてみます。そのなかで何を優先するのか、明日にでもすぐにできることは何か、何から手をつけていくか、順番をつけてみましょう。これは簡単にできそうということ、これはムズカシイということ、後まわしにしそうなことに印をつけてみてください。
●今からでもいや今だからこそできる、あるいは私だからこそできる「人のため社会のために今の自分にできること」をあげてみる。
●遺言として、信仰を子どもや孫たちにどう伝えるか

 ながながとお読みいただいたことを感謝いたします。これをお読みになって、お感じになられたこと、お考えになったことを伺えたら幸いです。
 黙想指導のプロである神父様にこんな生意気なことを申し上げる失礼をかさねがさねおわび申し上げます。
 今度の黙想会はどうぞ神父さまのお望みどおりにおすすめください。実りある黙想会になるようにお祈りしています。

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2014年02月08日

デ・メロの「臨終と葬式のエクササイズ」のオススメ

 インド人のイエズス会士アントニー・デ・メロ神父の著書に「東洋の瞑想とキリスト者の祈り (アントニー・デ・メロ 著 裏辻 洋二 訳 女子パウロ会刊)という本があります。そのなかの「幻想を用いて祈る」という章に紹介されている一連の黙想として「臨終と葬式のエクササイズ」があります。
 このエクササイズを私は20年近く前に体験したことがあります。これは別にクリスチャンでなくても体験できるエクササイズですが、やはり信仰をもって生きることのすばらしさも体験できるプログラムです。
 その一部を抜粋して紹介してみましょう。

●生命(いのち)その真価 

先日あなたは精密検査をうけました。今日その結果が出るのでそれを聴きに行きます。………待合室にいます。周りを見渡してみましょう。………診察室に入りました。ドクターと向き合いました。………ドクターは「検査の結果、あなたは不治の病におかされている、普通人としての活動だできるのはあと2か月でしょう」とわたしに告げました。
突然のこの宣告を受けて、あなたは何を感じますか? 胸の内に湧いてくる思いにしばらくとどまってください。………
外に出ました。この気持ちをどうしますか? 誰かにあって話したいですか?


●視力を失う自分を想像する
●全身麻痺でベッドに横たわっている自分が、徐々に麻酔から覚めていく自分
●病院で入院中の自分 夜も更け、ひとりぼっちでいると想像してください。

●体よ、さようなら

 息をひきとる前に、みなに別れを告げようとしていると想像してください。あなたに、1,2時間のいのちが残されているだけです。この最後の時を、あなたは自分自身と神のために使おうととっておいたのです………。
 では、自分に語りかけてください。体の一つ一つの部分に、手、足、心臓、脳、肺に語りかけます………。ひとつひとつにさようならと告げてください………。
 おそらくこのとき、生まれてこの方はじめて、まさに死なんとしているのだと意識するでしょう。
 体の一つ一つの部分をいつくしんでください。左手にそっと右の手をのせ、今まで自分のために骨身をおしまず、尽くしてくれたことを感謝しましょう………自分にとってじつに貴重な存在であったと話してください………今どれだけいつくしみを持ってこの右手をながめているかを話してください………ほどなくして塵に帰ってゆくこの右手に、心からの愛情と感謝をささげましょう………体の各部分、各器官についてひとつひとつ、そのようにします………終わりにあなたの体全体、この固有の姿、かたち、容貌、肌の色、上背、造作を持った体について同様にします………。
 イエズスが傍らにおいでになると想像してください。あなたの体の各部分が、あなたの生涯に尽くしたことに、イエズスが感謝の言葉を述べておられるのを聞いてください………イエズスがその愛と感謝で、あなたの体を満たしておられるのを見つめてください………。
 イエズスがあなたに語りかけられる、そのみ言葉に耳を傾けます。


●あなたの葬式と埋葬

 ………あなたの遺体をよく見てください………ことにその表情に注目しましょう………あなたの葬儀に参列している人をながめます………葬儀ミサの説教を聞いてください………この司祭はあなたについて何を語っていますか………それを聞いてあなたは何を感じますか?………
葬儀が終わりました………ひとりひとりが家路につきます………道すがらあなたについて話していることに耳を傾けてください………それを聞いて何を感じますか?………
葬儀が終わって、あなたの遺体が埋葬されたお墓の前に立っています。家族や友人があなたの墓の前で手を合わせて祈っています………あなたは家族や友人たちが墓の前から去っていくのを見送っています………何を感じますか………ここにたたずんで、あなたの生涯とさまざまの体験を振り返ってください………生きるに値した人生でしたか………?


 私はこのエクササイズをCLCのなかまとともに過去に体験したことがあります。素晴らしいエクササイズでした。とくに「体よ、さようなら」でイエズスがそこにおられて「体の各部分に、至(注 私の名前です)の手よ、至のためによく尽くして働いてくれた」と手に感謝している部分を想像したときに涙が止めもなく流れてきたのを思い出します。
 もっともこのエクササイズに抵抗して祈れない人も出てくるでしょうが、そこをうまくガイドしていただいて、このエクササイズをしたあとに分かち合うのは素晴らしい信仰体験になるはずです。
 ここに現代的でほんものの『イグナチオの霊操」のエッセンスが込められていると思います。

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2014年02月07日

若山牧水の歌の抒情

若山 牧水(わかやま ぼくすい、1885年(明治18年)8月24日 - 1928年(昭和3年)9月17日)は、戦前日本の歌人。宮崎県生まれ。
1920年より沼津に住む。沼津に若山牧水記念館がある。今度訪れてみよう。

旅を愛し、旅にあって各所で歌を詠み、日本各地に歌碑がある。大の酒好きで、一日一升程度の酒を呑んでいたといい、死の大きな要因となったのは肝硬変である。ちなみに、夏の暑い盛りに死亡したのにもかかわらず、死後しばらく経っても死体から腐臭がしなかったため、「生きたままアルコール漬けになったのでは」と、医師を驚嘆させた、との逸話がある。自然を愛し、特に終焉の地となった沼津では千本松原や富士山を愛し、千本松原保存運動を起こしたり富士の歌を多く残すなど、自然主義文学としての短歌を推進した。


代表作はなによりもこの三つであろう。

白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ
いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐ふるや
幾山河 越え去りゆかば 寂しさの 果てなん国ぞ けふも旅行く


これは作曲:古関裕而で藤山一郎が歌っていますが、YouTube に見つけましたが、これは歌詞が入っていない。

他にも鮫島有美子が歌っています。


上記の歌以外でもこんな歌がいいですね。

0903wakayama
 わが行くは海のなぎさの一すぢの白きみちなり尽くるを知らず
 山に来てほのかにおもふたそがれの街にのこせしわが靴の音
 はるばると一すぢ白き高原のみちを行きつつ夏の日を見る
 わがこころ静かなる時につねに見ゆ死といふもののなつかしきかな
 海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり
 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ
 終りたる旅を見かへるさびしさにさそはれてまた旅をしぞおもふ
 秋かぜや日本の国の稲の穂の酒のあぢはひ日にまさり来れ
 なすべきをなさざる故にこの如くさびしきものとなりしやわれは
 いつか見むいつか来むとてこがれ来しその青森は雪に埋れ居つ
 めいめいのこころそれぞれに向きてゆくこの友どちをとどめかねつも
 いまいちどあひておかねばならぬごときおもひは苦しいつ逢ふべしや
 それほどにうまきかと人のとひたらばなんと答へむこの酒の味
 酔ひぬればさめゆく時のさびしさに追はれ追はれてのめるならじか
 おだやかに妻にものいふやすらけきこころをわれの持たぬものかも
けふもまた こころの鉦を 打ち鳴らし 打ち鳴らしつつ あくがれて行く
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君
うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花
とほ山の峰越しの雲のかがやくや峰のこなたの山ざくら花


師の尾上柴舟は、牧水の死を悼んで、「そのかみの西行芭蕉良寛の列に誰置くわれ君を置く」と詠んだ。
さて、あなたはどの歌がお気に入りですか?

ちなみに若山牧水の歌はここにある。

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2014年02月06日

福島の子どもを描いたアニメ「アビタ」アニメ国際賞

 FBで知った短編アニメ「アビタ」です。



 この短編アニメはドイツに在住する日本人学生が作ったアニメだそうです。アニメのタイトルは「Abita(アビタ)」で、福島原発事故の放射能汚染で苦しむ子供が主人公になっています。
 いろいろなところでアニメの国際賞を受賞しているのだそうですが、不思議なことに日本ではほとんどそのことが報道されないし、知らされていないということです。

・Awards:
Best Animated Film, International Uranium Filmfestival, Rio de Janeiro, 2013
Special Mention, Back-up Filmfestival, Weimar, 2013
・Coming Competitions:
Eco-Filmtour, Potsdam, 2014 (nominated)
Winter Film Awards, New York City, 2014 (nominated)

 このアニメをみて感じたこと、考えたことを教えてください? 特に子どもたちがこれをみてどのように反応したかをお聞かせください。

 ちなみに、これを作った日本人学生とは、ドイツのルートヴィヒスブルク(Ludwigsburg)在住の Shoko Hara さんというかたで、1988年に岡山県で生まれ、1998年にドイツに移住しています。大学ではメディアデザイン研究科に在籍、2012年にバーデン・ヴュルテンベルク州立フィルムアカデミー、モーションデザイン学科で学びました。

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2014年01月19日

パスカルの「賭け」

パスカルの「パンセ」に』こういうくだりがある。有名な「パスカルの賭け」についてのくだりである。これは「はじめてのゲーム理論」(講談社ブルーバックズ 川越敏司著)に紹介されていた。この考え方が「ゲームの理論」の本に紹介されていたというところがおもしろい。

 それではこの点を検討して「神はあるか、またはないか」と言うことにしよう。だがわれわれはどちら側に傾いたらいいのだろう。理性はここでは何も決定できない。そこには、われわれを隔てる無限の混沌がある。この無限の距離の果てが賭けが行われ、表がでるか、裏がでるかなのだ。君はどちらに描けるのだ………さあ、考えてみよ………。選ばなければならないのだから、どちらのほうが君にとって利益が少ないかかんがえてみよう………神があるという方を表にとって,損得を計ってみよう。次の2つの場合を見積もってみよう。もし君が勝てば君は全部もうけられる。もし君が負けてもなにも損しない。それだから、ためらわずに神があると描けたまえ………ここでは無限に幸福な無限の生命がもうけられるのである。勝つ運がひとつであるのに対して負ける運は有限の数であり、君の賭けるものも有限なものである。これでは確率計算など全部いらなくなる………したがって無に等しいものを失うのと同じような可能性でもって起こりうる無限の利益のために、あえて生命を賭けないで、出し惜しみをするなど、理性を捨てないかぎり、とてもできないことである。


 このパスカルの考え方について「はじめてのゲーム理論」の著者川越敏司氏はこんな注釈をよせていました。

 これは「パスカルの賭け」と呼ばれている、神への信仰を合理的に正当化する有名な議論のひとつである。
 神が存在するか否か、どちらかに賭けるとしたら、存在する方に賭けた方が、存在しないという方に賭けるよりも期待値が大きいから、神が存在すると信じるべきだという論法です。
 これは非常にゲーム理論らしい考え方です。パスカルは何百年も前に、ゲーム理論の考え方を先取りしていたのかもしれません。


 この論法は、たとえば「死後の世界」が存在するかどうかについても当てはめられる。つまり「死後の世界」が存在するかどうか、人間には分からない。問題は「死後の世界」が存在する方に賭けるのか、存在しない方に賭けるのか「賭け」なのである。どちらに描けた方が利得があるのか。
 それは明白である。「存在する」ほうに賭けた方が希望を持って死ぬことができるからである。死んだらもうそれで終わりと考えるよりも、死んだら天国に行ける、死んだら先に死んだ自分の肉親や愛する人と再会できると考えた方がずっと希望と安心を持って死ぬことができるからである。
 この論法は他の問題にも当てはめることができるだろう。
 信仰というのはそういう問題なのかもしれない。
 というと、信仰は損得の問題ではないと反論する人がいるということも想像するに難くないが………。

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2014年01月01日

大晦日から元旦恒例、年賀状、お雑煮、お屠蘇、初詣

あけましておめでとうございます。

昨日の大晦日は、午後6時まで年賀状を書いていました。年賀状は今年は800枚書きました。大晦日の午後5時に投函したから、受け取りは1月4日でしょう。ここ5年間はほとんど毎年こんな具合です。最も多いときは900枚だったから、最盛期に比べるとすこし落ちました。最終的に私が受け取るのは500枚くらいかな。別に返事が来なくても出し続けるという方針をとっていたら増える一方でしたが。来年はさすがに少し減らすことを考えています。

それから買い物に行って、おせちを少しばかり作りました。というよりも買ってきたものを切って重箱に詰めたにすぎないのですが。

わが家の「おとそ」は、みりんに屠蘇散をつけ込むというのです。だからやたら甘ったるいのですが、子どものころからこれなので、これがないと正月のような気がしないのです。
とそさんはマツキヨで買いました。まだ売れ残っていました。
お屠蘇というのは「蘇という国を屠る」という所から転じて、病気や不幸のもとをやっつけるという意味なのですね。

わが家のお雑煮は関東風で、さといも、にんじん、だいこん、小松菜、鶏肉の醤油味です。
ところがトレッサにいったら、7時閉店の30分前だったので、小松菜は売り切れていました。しょうがない、ほうれん草で代用です。

清子さんの実家奥出雲町のお雑煮は独特です。今年も実家から丸餅を送ってきましたが、正月に入る前に全部食べ終わってしまいました。
お湯で煮たおもちに、なま海苔をお酒で伸ばしたものをひとつまみと鰹節をドサリ入れて、そこに醤油味のだし汁をかけるというシンプルなお雑煮です。磯の香りがぷ〜んと広がります。
このお雑煮の食べ方は、出雲地方の海に近いところでは残っていないそうで、山奥のこのあたりにだけ残っているそうです。
いつかテレビを見ていたら、このようなお雑煮が能登半島の先の方に残っているということを知りました。それを誰かに話したら、北海道の稚内地方もこういう食べ方をするといっていました。
日本海の北前船の寄港地に残っているのだそうです。
残念ながら全部食べちゃったので、写真はありません。

今日の1月1日は、朝お屠蘇で乾杯しお雑煮を食べて、教会のミサに行きました。ミサの賀詞交換会のあとに総持寺に初詣、つづいて鶴見神社へと回って初詣ツアーです。
毎年、元旦の新聞を書いためるという恒例にしていた行事は今年からやめました。新聞を買っても読み切れないからです。

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正門の掲示。いつも難しくて意味を考えてしまいます。

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煙を浴びて身を清めています。

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毎年もらう白字会の言葉です。

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鶴見神社も参拝客が並んでいました。



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2013年12月23日

日能研車内広告より横浜雙葉の入試問題

日能研のJR車内広告で、横浜雙葉の国語の中学入試問題が紹介されていました。

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こんな問題を出すなんてさすがカトリック学校です。

その問題は
あなたが「かけがえのない存在」として大切にされた体験を書きなさい。そしてその体験があなたの生き方にどのように活かされているかを書きなさい。
です。

あなたならどのようなことを書きますか?
私は………。私は書くことがたくさんあります。さて何について書こうか。

ところでこれをどのように評価するのでしょうか? どのように書いた子どもに高い評価を上げるのでしょうか? 思わずそこを聞いてみたくなります。

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2013年12月21日

スミレの生存戦略のけなげさと面白さ

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今ごろスミレが果実をつけているのを発見しました。中には果実の殻が裂けてタネがたくさんくっついているものや、タネを弾き飛ばしているものもあります。スミレって春に花が咲くのになぜ今ごろ実をつけるのかちょっと不思議に思って調べてみました。
するとありました。私の疑問に見事に応えてくれたサイトが。

それによると、スミレには春に花咲く開放花と秋に花はつけないけれど果実を結ぶ閉鎖花があるのだそうです。今頃実をつけるのは閉鎖花というわけです。花は開かないけれど自家受粉して実をつけ種を作るのだそうです。
その他にもスミレの生態についてたくさんの興味深いことをおしえてくれました。
花が咲き終わって身を作るプロセスもおもしろいし、カラが風力発電機みたく避けてから種を弾き飛ばすのも面白いです。中には3メートル先まで飛ばすのがあるとか。
さらに興味あるのはアリとの共存関係です。スミレの種にはエライオソームというアリの好物が付着していてアリたちはその種を何とか巣まで持ち帰ろうとするのですが、なかなか成功せずに途中で諦めてしまうことがおおいようです。スミレにとっては遠くまでタネを運んでもらってそこでまた咲き出すことができるというわけです。
なんて賢い花なんだと感動的です。あの可憐なスミレがこんな健気で大胆な生存戦略をもっているなんて。

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